何時、どの時点で知ったのか覚えていない榛原桧牧の神さんごと行事。
インターネットであったかも知れない。
謎を解くには現地に行く、ということだ。
キーワードは大日堂。
その名から寺院を想定するが、場所が判らない。
書いてあった記事に「道路向かい側の大日堂でお仮屋作り」がある。
神さんごとの在り方である。
大日堂は寺院だが、お仮屋は神さんの仮住まい処。
県内事例の数々を拝見してきた。
お仮屋は樹木の葉を覆っていると思われるのだ。
お仮屋はどこに立てるのだろうか。
その記事に書いてあった神さんは熊野十二権現である。
寺院、神社名は判るがネットで調べても明確な答えは返ってこない。
おそらく神社庁に登録されていない村の小社では、と思った。
大日堂も無住寺であろう。
11月半ばの日曜日。
祭の日は祝日に移行されたと考えてこの日を選んで宇陀市榛原の大字檜牧(ひのまき)を目指す。
内牧川に沿って走る県道。
心当たりがある神社を目指す。
道路沿いにあるのですぐに判る。
ここだろうと思って停車したら違っていた。
御井(みい)神社だった。
参道は落ち葉があるものの綺麗に整備されている。
本殿造りはあまり見かけない様式である。
気になった御井神社の拝殿。
思ったとおりに造営事業の際に納められた大きな弓矢があった。
平成8年のことだ。
それから20年後は来年の平成28年。
もしかとすれば造営事業があるかもしれないが、付近には人影が見当たらない。
熊野十二権現はここではなかった。
ここより下って三叉路信号に向きを替える。
民家、一軒、一軒を尋ねるわけにはいかない。
神さんごとの行事が判るのは酒屋さんである。
なぜかといえば、お神酒である。
店主が知っているかもしれないと思って尋ねる。
奥から現われたのは若奥さんだ。
場所や行事のことを伝えたら店を出ていった。
知っている人を探しにいったようだ。
数分もまたないうちに年長の男性がやってきた。
どうやら店主のようだ。
それならすぐ近くにある真光寺を目指せという。
そこは三叉路。右折れに曲がって山の方を目指していけば右手に大日堂。
道路を挟んだ向かい側に向かって村の道を歩けば大きな杉の木がある。
そこが熊野神社になるという。
お仮屋は見たことがあるという店主の話しに手がかりを得た。
たしかにあった熊野十二権現に立て看板があった。
訪ねてくる人のために立てたと思われる案内看板だ。
それによれば・・・・。
看板にあった説明文は「石造りの社屋を石神殿と称している。三神殿のうち左殿の正面軒出東には承応二年(1653)<※癸巳八月吉日>と、石祠正面楕円形くりぬき部左右に正応三年(1290)<※四月廿口日>の刻名があり、痕跡をとどめていた。これは鎌倉期造立の層塔基部を江戸期に石祠に転用したものと見られる。なお、中殿に文中四年(1375)、右殿に明和四年(1767)の陰刻銘がある」であった。
ちなみに撮った正応三年(1290)に建之した石祠はこれだ。
円形くりぬき部に榊幣を残していた。
神事をされていた証しが見つかった。
真新しい榊幣があったことから集落に建つ家を訪ねてみる。
ここで間違いないと思うがひとっ子一人もいない。
この日は雨天。
外に出ている人はいないのだ。
反対側に建つ大日堂を思われる建物も拝見したが扉は閉まっている。
辺りに数軒の民家がある。
2軒ほど訪ねたが門を開けることもなく返答もない。
仕方がないと思ってここより数十メートル登った処の民家に立ち寄った。
門をくぐって玄関辺りで声をかける。
扉を開けて出てこられた婦人が話すお仮屋。
小さなヤカタは神さん。
それに近くに生えているヒノキの葉を伐採してヤカタの屋根を覆う。
ここら辺りは年寄りばかり。
年齢、体力的にヒノキ伐採が難しくなった。
たいそうになって2年前にヒノキ葉葺きをやめて、ヤカタは祭ることもしなくなった。
これまでは造ったお仮屋は大日堂の前に置いていたというのだ。
甘酒ドーヤの制度もあった。
トウヤが接待する甘酒は村人みんなで飲んで味わったという。
ヤカタは組み立て式。
柱、軒などの材の棒は大日堂に残しているそうだ。
かつては安寿さんがいた大日堂。
そのころかどうか判らないが参っていたようだ。
ここら辺りは寺院が多かった。
婦人が住む地区よりもさらに山の上の方はダイカンジの呼び名がある。
小字か垣内であるかもしてない。
ダイカンジを充てる漢字は知らないという婦人は平坦橿原の生まれ。
嫁入りしたころすでに無住寺だったようだ。
先代から聞いている話しによれば安寿さんが法要する十夜や会式があったそうだ。
2年前まではしていた1月15日朝のトンド焼きもしなくなった西谷垣内。
その日だと思われる日待ちも大日堂でしていた。
年に数辺は会所としても利用しているという。
春の月並祭や秋の月並祭は今でもしている西谷垣内。
酒屋さんがいうには昔は20戸の集落。
村を出る家もあって今では数軒。
訪ねた婦人がいうには垣内は7軒。
訳があって祭りごとは6軒でしているようだ。
ちなみに熊野権現の祭りは11月ではなく10月。
昔は10月19日に行っていたが、今は近い休日に移行したようだ。
神職は御井神社の宮司が務めるらしいと聞いて点が線に繋がった。
(H27.11.15 SB932SH撮影)
(H27.11.15 EOS40D撮影)
インターネットであったかも知れない。
謎を解くには現地に行く、ということだ。
キーワードは大日堂。
その名から寺院を想定するが、場所が判らない。
書いてあった記事に「道路向かい側の大日堂でお仮屋作り」がある。
神さんごとの在り方である。
大日堂は寺院だが、お仮屋は神さんの仮住まい処。
県内事例の数々を拝見してきた。
お仮屋は樹木の葉を覆っていると思われるのだ。
お仮屋はどこに立てるのだろうか。
その記事に書いてあった神さんは熊野十二権現である。
寺院、神社名は判るがネットで調べても明確な答えは返ってこない。
おそらく神社庁に登録されていない村の小社では、と思った。
大日堂も無住寺であろう。
11月半ばの日曜日。
祭の日は祝日に移行されたと考えてこの日を選んで宇陀市榛原の大字檜牧(ひのまき)を目指す。
内牧川に沿って走る県道。
心当たりがある神社を目指す。
道路沿いにあるのですぐに判る。
ここだろうと思って停車したら違っていた。
御井(みい)神社だった。
参道は落ち葉があるものの綺麗に整備されている。
本殿造りはあまり見かけない様式である。
気になった御井神社の拝殿。
思ったとおりに造営事業の際に納められた大きな弓矢があった。
平成8年のことだ。
それから20年後は来年の平成28年。
もしかとすれば造営事業があるかもしれないが、付近には人影が見当たらない。
熊野十二権現はここではなかった。
ここより下って三叉路信号に向きを替える。
民家、一軒、一軒を尋ねるわけにはいかない。
神さんごとの行事が判るのは酒屋さんである。
なぜかといえば、お神酒である。
店主が知っているかもしれないと思って尋ねる。
奥から現われたのは若奥さんだ。
場所や行事のことを伝えたら店を出ていった。
知っている人を探しにいったようだ。
数分もまたないうちに年長の男性がやってきた。
どうやら店主のようだ。
それならすぐ近くにある真光寺を目指せという。
そこは三叉路。右折れに曲がって山の方を目指していけば右手に大日堂。
道路を挟んだ向かい側に向かって村の道を歩けば大きな杉の木がある。
そこが熊野神社になるという。
お仮屋は見たことがあるという店主の話しに手がかりを得た。
たしかにあった熊野十二権現に立て看板があった。
訪ねてくる人のために立てたと思われる案内看板だ。
それによれば・・・・。
看板にあった説明文は「石造りの社屋を石神殿と称している。三神殿のうち左殿の正面軒出東には承応二年(1653)<※癸巳八月吉日>と、石祠正面楕円形くりぬき部左右に正応三年(1290)<※四月廿口日>の刻名があり、痕跡をとどめていた。これは鎌倉期造立の層塔基部を江戸期に石祠に転用したものと見られる。なお、中殿に文中四年(1375)、右殿に明和四年(1767)の陰刻銘がある」であった。
ちなみに撮った正応三年(1290)に建之した石祠はこれだ。
円形くりぬき部に榊幣を残していた。
神事をされていた証しが見つかった。
真新しい榊幣があったことから集落に建つ家を訪ねてみる。
ここで間違いないと思うがひとっ子一人もいない。
この日は雨天。
外に出ている人はいないのだ。
反対側に建つ大日堂を思われる建物も拝見したが扉は閉まっている。
辺りに数軒の民家がある。
2軒ほど訪ねたが門を開けることもなく返答もない。
仕方がないと思ってここより数十メートル登った処の民家に立ち寄った。
門をくぐって玄関辺りで声をかける。
扉を開けて出てこられた婦人が話すお仮屋。
小さなヤカタは神さん。
それに近くに生えているヒノキの葉を伐採してヤカタの屋根を覆う。
ここら辺りは年寄りばかり。
年齢、体力的にヒノキ伐採が難しくなった。
たいそうになって2年前にヒノキ葉葺きをやめて、ヤカタは祭ることもしなくなった。
これまでは造ったお仮屋は大日堂の前に置いていたというのだ。
甘酒ドーヤの制度もあった。
トウヤが接待する甘酒は村人みんなで飲んで味わったという。
ヤカタは組み立て式。
柱、軒などの材の棒は大日堂に残しているそうだ。
かつては安寿さんがいた大日堂。
そのころかどうか判らないが参っていたようだ。
ここら辺りは寺院が多かった。
婦人が住む地区よりもさらに山の上の方はダイカンジの呼び名がある。
小字か垣内であるかもしてない。
ダイカンジを充てる漢字は知らないという婦人は平坦橿原の生まれ。
嫁入りしたころすでに無住寺だったようだ。
先代から聞いている話しによれば安寿さんが法要する十夜や会式があったそうだ。
2年前まではしていた1月15日朝のトンド焼きもしなくなった西谷垣内。
その日だと思われる日待ちも大日堂でしていた。
年に数辺は会所としても利用しているという。
春の月並祭や秋の月並祭は今でもしている西谷垣内。
酒屋さんがいうには昔は20戸の集落。
村を出る家もあって今では数軒。
訪ねた婦人がいうには垣内は7軒。
訳があって祭りごとは6軒でしているようだ。
ちなみに熊野権現の祭りは11月ではなく10月。
昔は10月19日に行っていたが、今は近い休日に移行したようだ。
神職は御井神社の宮司が務めるらしいと聞いて点が線に繋がった。
(H27.11.15 SB932SH撮影)
(H27.11.15 EOS40D撮影)