神農さんの掛図を掲げる「家」の行事を取材したことがある。
取材地は大和郡山市内在住の元藩医家や元往診内科医師家だった。
角を生やせて薬になるかどうかを確かめる草を口に銜えている神農さんのお姿を初めて拝見したときは感動したものだ。
同じように神農図を掲げる神社行事があるのか、ないのか・・。
それを確かめたくて高取町の下土佐に向かった。
話しを聞かせてくださった男性は高取町の元観光協会会長。
高取町に住む知人が紹介してくださった。
話しの内容は薬の町始まりだった。
昭和50年前後に高取町観光協会・高取製薬工業組合が連名で発行した「高取町の名所旧跡のしおり」がある。
当時、組合だった製薬会社の数は28社だった。
製薬製造会社はGMP、つまり厚生省基準発令によって衛生面の考え方を取りいれた製造基準の見直しがあった。
薬の製造は辞めたが、許可した別の会社に委託製造をすることになった。
その場合においても許可は取り直しをしなければならない。
製造しなくなった製造会社名は使えない。
薬の商品名は替わっていなくとも成分・分量は同じ。
試料を厚生省に提出して許可を得る。
卸し業者として転換した会社もある。
製造を辞めて販売会社として継承した会社もある。
5年に一度は許可を得なければならない。
その都度において基準が高くなる。
やむを得ず、事業を辞める会社が続出して11社になった。
町を離れた会社もあるが、製薬工業組合の一員として存続した会社を入れたら12社になるなど、諸事情、経緯について話してくださった。
歴史は判然としないが、推古天皇の時代に薬猟をしたのが始まりだという下土佐の薬製造。
猟場は高取町の大字羽内(ほうち)の地。
波多甕井(はたみかい)神社の周辺、612年に推古天皇が薬狩りをしたと日本書紀に書いてあるという元観光協会会長の話しである。
前年の611年。宇陀にも薬狩りをした。
薬草採取であるが、「狩り」の文字があることから薬になる動物狩りであったと考える。
鹿のツノや熊のキモ、ガマガエルのセンソ、などなど。イノシシも狩っていたのだろう。
鹿のツノは若い生えかけのツノである。
奈良公園で行われている鹿の角切りは古い角。
それではなく、生えたての若い角が薬になる。
牛の胆のう石はゴオウ。
抽出して乾燥する。
これを粉末状にして薬になる。
江戸時代、役行者は全国を行脚した。
天川村・洞川に陀羅尼助の名をもつ薬がある。
キハダ(オオバク:黄柏)をドロドロに溶かして乾かし薬化する。
古来より作られ、販売されてきた陀羅尼助丸(だらにすけがん)は役行者が立役者になって配置薬を始めたとか・・・諸々を長々と話される。
明治維新、刀を下ろした武士が薬を作り始めたと思うという元観光協会会長(現在は顧問)。
全国に売り歩いて産業が発達した高取町。
大正、昭和の時代を経て現在に至る。
天誅組・土佐の吉村寅太郎と関係があった高取町。
関係と云うのは町を襲ったことだ。
五條を襲った勢いで、京都・大和行幸を旗印として大義名分を得て五條の代官所を襲った寅太郎は高取城を乗っ取り、町を襲った。
その当時の古戦場は高取町役場付近。
「鳥が峰」の名が残った処だという。
そういう関係で天誅組顕彰会の副会長を務めていたという。
下土佐の神農さんは土佐街道沿い。
恵比寿神社境内にある小社がそうだ。
神農薬祖神祭の行事日は11月22日であった。
いつしか祭日の23日に移行した。
ところが、町は高取城まつりを23日に行うことにした。
祭りの日程は重なった。
これを避けるには他の日にしなければならない。
ということで、神農薬祖神祭は基本的に23日直前の平日とした。
ところがだ。
23日が祝日の月曜日になれば、日曜、土曜を外した前週の金曜日になる。
23日が祝日の火曜日であれば前日の22日に行う。
実にややこしい日程決めである。
その日が本日だった。
高取町は製薬会社や配置薬会社が軒を連ねる。
薬に関係する会社の代表者が参集して神農薬祖神祭が行われる。
が、である。
「くすり資料館」がある高取町観光案内所「夢創舘」で話し込んで行事が始まる時間を失念してしまった。
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大慌てで恵比寿神社へ駆けつけたが間に合わなかった。
下土佐の神農薬祖神祭はいつごろから始められたのか。
参拝されていた薬関係者に尋ねる。
恵比寿神社の境内社になる神農社は明治40年、桜井市三輪の大神神社末社にある磐座神社(神農社)から分霊を遷して祀っていたと伝わるが、それがどこだったかは不明のようだ。
下土佐の神農社はその後の昭和44年に建之したと聞いたが、そうでもないようだ。
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割拝殿に掲げていた幕がある。
染め抜いた紋は「薬」の文字。
「昭和五年四月吉日 高取薬業會」とあるので創建年と一致しない。
さらに、である。
恵比寿神社ともども神農社は平成24年10月に改築した。
玉垣なども替えてすっかり新しくなった。
話しによれば、改築するまでの神農社は街道沿い近くの恵比寿神社境内にあった。
正確にいえば現在の鳥居の左側である。
その付近に手水鉢があった。
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目を凝らしてみれば人物名の刻印があった。
「奉納 安政五午(1858)十二月吉日 米商人中 世話人東山村喜三□ 阿部山村利右ヱ□ 土佐町甚太郎 岡村弥兵ヱ 松山村伊右ヱ門 稲淵村五兵ヱ」である。
薬業者曰く、これらはここ土佐の高取町や明日香村の人たちであろうといいう。
薬業は明日香村もある。
この日の参拝も明日香製薬工業組合が参集されていた。
刻印から推定するに寄進者は米商人中とあることから恵比寿神社に対してであろう。
高取・明日香製薬工業組合の人たちが参拝する神農薬祖神祭。
およそ30人にもなる参拝者のなかには奈良県庁の薬関係職員も居るそうだ。
平日開催の理由はここにあった。
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祭りの賑わいにエビスさんの福笹吊りと同じような笹がある。
エビスさんは縁起物の福笹であるが、神農薬祖神祭の笹吊りは薬や配置薬の箱である。
神社玉垣内の両端に立てた2本の笹には数多くの薬箱が見られる。
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玉垣には「薬」の文字をあしらった紋に白抜き染めの「神農祭 高取薬業連合会」旗もある。
ちなみに鴨都波神社内の少名彦神社に神農さんを祀る神社がある。
その名も神農神社。
祭神は神農薬祖神こと少名毘古那神だ。
神農さんの祭りは11月20日のようだ。
祭りは終わっていたが、お供えがどういうものであったのか、片づける前に拝見させてもらった。
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神饌は二段の鏡餅にレンコン、ハクサイ、ダイコン、サツマイモに果物。
これらは一般的だが薬業の高取町に相応しい薬箱が大量にあった。
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懐かしい配置薬に懐かしい紙風船もある。
30歳まで住んでいた大阪住之江の実家に配置薬の箱があった。
箱の中にある薬は高取町製。
そのなかに紙風船もあった。
配置薬をもってきた男性が子どもさんにはこれをと云ってもらったもの。
当時の情景を思いだす。
お供えはもう一つある。
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親しみを込めて神農さんと呼ばれている大阪市中央区道修町に鎮座する少彦名神社で賜った、というか、代金を支払って分けてもらった張子の虎の「神虎」である。
文政五年(1822)、大阪でコレラが流行った。
道修町の薬業者が疫病除けに「虎頭殺鬼雄黄圓(ことうさっきうおうえん)」丸薬を作り、併せてお守りの「神虎」を捧げて祈願し、無料で配布したのが始まり・由来とされる。
道修町・少彦名神社の神農祭は11月22日、23日の両日。
薬関係者の参拝でいっぱいになるそうだ。
高取町の製薬工業組合の人たちはこのお供えを「ササドラ(笹虎)」祭りと呼んでいる。
大量に分けてもらった「ササドラ」は一般参拝者に配られる。
待ち望んでいた人たちがやってきて参拝。
祭りの役員が手渡しして配られる。
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町内に住む女性が手にした「ササドラ」を撮らせてもらったが、顔出しは厳禁ということだ。
ところで、神農さんに「農」の文字があるが、決して農業を意味する文字でもない。
神農さんは農業の神さんではなく、古来、中国から伝わる薬祖神の「炎帝神農氏」に由来するものである。
結局のところ、下土佐の神農薬祖神祭には神農図が見られなかった。
その件については高取町の薬業に詳しい観光協会顧問に聞いてみた。
昔から神農図は見たことがないという。
もしかとすれば、高取町製薬工業の事務所にあるかもしれないという。
あくまで、かも、であるが、祭りの日でなく、年中において掲げているかもしれないという。
観光協会顧問の現業は薬製造業者。
同社では掲げていないようだ。
ところで土佐街道沿いに並ぶ建物に杉の葉を飾っているのはご存じだろうか。
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家の軒先、というか屋根瓦とトユの間に挿し込んだ葉付きの杉の小枝だ。
それには「高取土佐時代行列保存会」や「たかとり城まつり」の文字を書いた短冊でぶら下げていた。
数日後の23日に開催される高取城まつりを知らせる飾り物だ。
春には同じく葉付きの杉の小枝が再び登場するが、そのときは「町家の雛めぐり」になる。
民俗的要素かと思ったが、観光客を歓迎する印であった。
(H27.11.20 EOS40D撮影)
取材地は大和郡山市内在住の元藩医家や元往診内科医師家だった。
角を生やせて薬になるかどうかを確かめる草を口に銜えている神農さんのお姿を初めて拝見したときは感動したものだ。
同じように神農図を掲げる神社行事があるのか、ないのか・・。
それを確かめたくて高取町の下土佐に向かった。
話しを聞かせてくださった男性は高取町の元観光協会会長。
高取町に住む知人が紹介してくださった。
話しの内容は薬の町始まりだった。
昭和50年前後に高取町観光協会・高取製薬工業組合が連名で発行した「高取町の名所旧跡のしおり」がある。
当時、組合だった製薬会社の数は28社だった。
製薬製造会社はGMP、つまり厚生省基準発令によって衛生面の考え方を取りいれた製造基準の見直しがあった。
薬の製造は辞めたが、許可した別の会社に委託製造をすることになった。
その場合においても許可は取り直しをしなければならない。
製造しなくなった製造会社名は使えない。
薬の商品名は替わっていなくとも成分・分量は同じ。
試料を厚生省に提出して許可を得る。
卸し業者として転換した会社もある。
製造を辞めて販売会社として継承した会社もある。
5年に一度は許可を得なければならない。
その都度において基準が高くなる。
やむを得ず、事業を辞める会社が続出して11社になった。
町を離れた会社もあるが、製薬工業組合の一員として存続した会社を入れたら12社になるなど、諸事情、経緯について話してくださった。
歴史は判然としないが、推古天皇の時代に薬猟をしたのが始まりだという下土佐の薬製造。
猟場は高取町の大字羽内(ほうち)の地。
波多甕井(はたみかい)神社の周辺、612年に推古天皇が薬狩りをしたと日本書紀に書いてあるという元観光協会会長の話しである。
前年の611年。宇陀にも薬狩りをした。
薬草採取であるが、「狩り」の文字があることから薬になる動物狩りであったと考える。
鹿のツノや熊のキモ、ガマガエルのセンソ、などなど。イノシシも狩っていたのだろう。
鹿のツノは若い生えかけのツノである。
奈良公園で行われている鹿の角切りは古い角。
それではなく、生えたての若い角が薬になる。
牛の胆のう石はゴオウ。
抽出して乾燥する。
これを粉末状にして薬になる。
江戸時代、役行者は全国を行脚した。
天川村・洞川に陀羅尼助の名をもつ薬がある。
キハダ(オオバク:黄柏)をドロドロに溶かして乾かし薬化する。
古来より作られ、販売されてきた陀羅尼助丸(だらにすけがん)は役行者が立役者になって配置薬を始めたとか・・・諸々を長々と話される。
明治維新、刀を下ろした武士が薬を作り始めたと思うという元観光協会会長(現在は顧問)。
全国に売り歩いて産業が発達した高取町。
大正、昭和の時代を経て現在に至る。
天誅組・土佐の吉村寅太郎と関係があった高取町。
関係と云うのは町を襲ったことだ。
五條を襲った勢いで、京都・大和行幸を旗印として大義名分を得て五條の代官所を襲った寅太郎は高取城を乗っ取り、町を襲った。
その当時の古戦場は高取町役場付近。
「鳥が峰」の名が残った処だという。
そういう関係で天誅組顕彰会の副会長を務めていたという。
下土佐の神農さんは土佐街道沿い。
恵比寿神社境内にある小社がそうだ。
神農薬祖神祭の行事日は11月22日であった。
いつしか祭日の23日に移行した。
ところが、町は高取城まつりを23日に行うことにした。
祭りの日程は重なった。
これを避けるには他の日にしなければならない。
ということで、神農薬祖神祭は基本的に23日直前の平日とした。
ところがだ。
23日が祝日の月曜日になれば、日曜、土曜を外した前週の金曜日になる。
23日が祝日の火曜日であれば前日の22日に行う。
実にややこしい日程決めである。
その日が本日だった。
高取町は製薬会社や配置薬会社が軒を連ねる。
薬に関係する会社の代表者が参集して神農薬祖神祭が行われる。
が、である。
「くすり資料館」がある高取町観光案内所「夢創舘」で話し込んで行事が始まる時間を失念してしまった。
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大慌てで恵比寿神社へ駆けつけたが間に合わなかった。
下土佐の神農薬祖神祭はいつごろから始められたのか。
参拝されていた薬関係者に尋ねる。
恵比寿神社の境内社になる神農社は明治40年、桜井市三輪の大神神社末社にある磐座神社(神農社)から分霊を遷して祀っていたと伝わるが、それがどこだったかは不明のようだ。
下土佐の神農社はその後の昭和44年に建之したと聞いたが、そうでもないようだ。
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割拝殿に掲げていた幕がある。
染め抜いた紋は「薬」の文字。
「昭和五年四月吉日 高取薬業會」とあるので創建年と一致しない。
さらに、である。
恵比寿神社ともども神農社は平成24年10月に改築した。
玉垣なども替えてすっかり新しくなった。
話しによれば、改築するまでの神農社は街道沿い近くの恵比寿神社境内にあった。
正確にいえば現在の鳥居の左側である。
その付近に手水鉢があった。
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目を凝らしてみれば人物名の刻印があった。
「奉納 安政五午(1858)十二月吉日 米商人中 世話人東山村喜三□ 阿部山村利右ヱ□ 土佐町甚太郎 岡村弥兵ヱ 松山村伊右ヱ門 稲淵村五兵ヱ」である。
薬業者曰く、これらはここ土佐の高取町や明日香村の人たちであろうといいう。
薬業は明日香村もある。
この日の参拝も明日香製薬工業組合が参集されていた。
刻印から推定するに寄進者は米商人中とあることから恵比寿神社に対してであろう。
高取・明日香製薬工業組合の人たちが参拝する神農薬祖神祭。
およそ30人にもなる参拝者のなかには奈良県庁の薬関係職員も居るそうだ。
平日開催の理由はここにあった。
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祭りの賑わいにエビスさんの福笹吊りと同じような笹がある。
エビスさんは縁起物の福笹であるが、神農薬祖神祭の笹吊りは薬や配置薬の箱である。
神社玉垣内の両端に立てた2本の笹には数多くの薬箱が見られる。
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玉垣には「薬」の文字をあしらった紋に白抜き染めの「神農祭 高取薬業連合会」旗もある。
ちなみに鴨都波神社内の少名彦神社に神農さんを祀る神社がある。
その名も神農神社。
祭神は神農薬祖神こと少名毘古那神だ。
神農さんの祭りは11月20日のようだ。
祭りは終わっていたが、お供えがどういうものであったのか、片づける前に拝見させてもらった。
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神饌は二段の鏡餅にレンコン、ハクサイ、ダイコン、サツマイモに果物。
これらは一般的だが薬業の高取町に相応しい薬箱が大量にあった。
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懐かしい配置薬に懐かしい紙風船もある。
30歳まで住んでいた大阪住之江の実家に配置薬の箱があった。
箱の中にある薬は高取町製。
そのなかに紙風船もあった。
配置薬をもってきた男性が子どもさんにはこれをと云ってもらったもの。
当時の情景を思いだす。
お供えはもう一つある。
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親しみを込めて神農さんと呼ばれている大阪市中央区道修町に鎮座する少彦名神社で賜った、というか、代金を支払って分けてもらった張子の虎の「神虎」である。
文政五年(1822)、大阪でコレラが流行った。
道修町の薬業者が疫病除けに「虎頭殺鬼雄黄圓(ことうさっきうおうえん)」丸薬を作り、併せてお守りの「神虎」を捧げて祈願し、無料で配布したのが始まり・由来とされる。
道修町・少彦名神社の神農祭は11月22日、23日の両日。
薬関係者の参拝でいっぱいになるそうだ。
高取町の製薬工業組合の人たちはこのお供えを「ササドラ(笹虎)」祭りと呼んでいる。
大量に分けてもらった「ササドラ」は一般参拝者に配られる。
待ち望んでいた人たちがやってきて参拝。
祭りの役員が手渡しして配られる。
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町内に住む女性が手にした「ササドラ」を撮らせてもらったが、顔出しは厳禁ということだ。
ところで、神農さんに「農」の文字があるが、決して農業を意味する文字でもない。
神農さんは農業の神さんではなく、古来、中国から伝わる薬祖神の「炎帝神農氏」に由来するものである。
結局のところ、下土佐の神農薬祖神祭には神農図が見られなかった。
その件については高取町の薬業に詳しい観光協会顧問に聞いてみた。
昔から神農図は見たことがないという。
もしかとすれば、高取町製薬工業の事務所にあるかもしれないという。
あくまで、かも、であるが、祭りの日でなく、年中において掲げているかもしれないという。
観光協会顧問の現業は薬製造業者。
同社では掲げていないようだ。
ところで土佐街道沿いに並ぶ建物に杉の葉を飾っているのはご存じだろうか。
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家の軒先、というか屋根瓦とトユの間に挿し込んだ葉付きの杉の小枝だ。
それには「高取土佐時代行列保存会」や「たかとり城まつり」の文字を書いた短冊でぶら下げていた。
数日後の23日に開催される高取城まつりを知らせる飾り物だ。
春には同じく葉付きの杉の小枝が再び登場するが、そのときは「町家の雛めぐり」になる。
民俗的要素かと思ったが、観光客を歓迎する印であった。
(H27.11.20 EOS40D撮影)