高取町下土佐の神農薬祖神祭では神農図を拝見することはなかった。
消化不良の境地だ。
久しぶりに拝見したくなった神農図。
掲げているお家は元往診医師家。
住まいは大和郡山市の額田部南町だ。
自宅で往診医師を勤めていた先代は61歳で亡くなった。
戦前は大阪・上六の日赤病院の内科医勤務だった。
戦時中は軍医。母国に戻って自宅開業した。
当初は、雇った人力車夫が引っ張る人力車に乗って往診していた。
その後は自転車に跨って行くようになったという夫妻。
離れの門屋に畳を敷いた処に車夫を住まわせていたという。
かつてはカンピョウ干しをしていた同家。
ご主人曰く、「カッシャ(滑車)」装置で揚げていたという。
カンピョウを栽培していた畑は現大和中央道にあったそうだ。
婦人が云うには、「畑をしてくれはる人がおった。男の人もおれば女の人もいた」だった。
畑は西名阪高速道の処だったというからニカ所にあったのだろう。
そこらあたりは額田部の桃畑。
戦時下は空襲に見舞われたと話していた。
初めて元往診医師家の神農図を拝見したのは平成23年12月3日だった。
その日は額田部町・融通念仏宗融通寺の十夜であった。
その場に居られた婦人が自宅に神農図を掲げているから是非来てくださいと云われて訪問した。
そのときの衝撃は忘れもしない。
眼光鋭く睨みを利かせる神農さんは、角を生やしてなんらかの葉付きの草木の枝を口に銜えている。
銜えているのか、それとも舐めているのか・・・。
左手に、これもまた判別がつかない葉っぱを持っている。
薬草であるのかどうか見分けている医薬の神さん姿とされる神農さんが着る衣装も葉っぱで覆われている。
まるで襟付きボアのような上着に見えた。
その神農図。
ご主人が子供のころ、角が生えているし、白髪で髭もある神農像が怖くて見られなかったと話す。
神農図には裏書きはない。
装丁も古くはないが、作者名があった。
「龍岳斎寫」だ。
小さな落款が二つ。
やや大きめの落款は「□女庄田」。
詠みは判らない。
家人が云うには、先代が大阪・道修町の少彦名神社で買ったのではないかと話す。
元往診医師家の神農さんは特別な日を設けるわけでもなく、ローソクも立てず、お供えもしない。
同家は融通念仏宗派。
如来さんが終わった翌日の11月1日に神農図を床の間に掲げる。
掲げる期間は11月いっぱい。
毎年、そうしているという。
一方、市内城下町の雑穀町に住む元藩医家は特定日の12月22日に掲げる。
その日は冬至の日だ。
寛政時代(1789~)の古図にも載っている同家は神農さんの日にお頭つきの魚、ナンキン・ダイコン・ニンジンに二杯の洗い米を供える。
神農さんを祭る行事に神社行事がある。
大阪市中央区道修町の少名彦神社や大阪府堺市堺区戎町の菅原神社末社の堺薬祖神社、奈良県高取町の土佐恵比寿神社は神農社である。
少名彦神社は11月22日、23日。
堺薬祖神社は11月23日。
土佐の神農社は11月22日。
新暦、旧暦の違いであるのかどうか判らないが、22日、若しくは23日のようだ。
他府県はどうなのであろうか。
ネットで調べてみた。
愛媛県生涯学習センターがインターネットで公開している『えひめの記憶-ふるさと愛媛学-』のなかに「神農さんをお祀りする」記事がある。
その記事の一節に、漢方医家では冬至の日に神農神を祭る風習があり、旧暦にあたる11月22、23日を神農神の祭日としているところが多いとあった。
『うち(芝道子)は薬屋ですから、床の間には薬の神様の神農(しんのう)さんの像を置き、神農さんの掛軸を掛けていました。神農さんは、昔は真ちゅう製だったように思うんですが、戦時中に供出してからは陶器製のものを飾りよりました。それもいつやら割ってしまって、今は掛軸だけになっています。うちでは、1月8日にお鏡開きをします。ぜんざいを作って、それにお鏡を切って入れて神農さんにお供えするんです。なんで8日にするのかというと、8日が神農さんの祭りだというだけで、根拠とかは知らんのです。』などの聞取り書きもある。
1月8日に鏡開きの餅は神農さんにお供えをするという愛媛県の風習である。
1月8日の事例は新潟県長岡市城下の神農講にも見られる。
8日といえば、薬師さんの縁日。
売薬さんと呼ばれる置き薬販売業者が多く見られる富山県では1月8日に神農さんの掛図や置物を床の間に飾る神農祭(薬師祭とも)がある。
1月8日は初薬師だと思うが、神農さんとの繋がりは判然としない。
昔の漢方医の家では冬至の日に神農神を祭る風習があり、今も11月22、23日(旧暦の冬至)を神農神の祭日としているところが多い。
したがってここで「なぜ8日なのか」については不詳であるが、関西では旧暦の12月8日を「こと八日」とよんでコトハジメの日としていたことや、万病を癒してくれる仏として広く信仰されているお薬師さん(薬師如来)の縁日が8日であることなどとの関連が考えられるかもしれない。
神農さんについて取材させていただいたK家の座敷に六斎鉦とおぼしき伏し鉦があった。
これもまたご家族のお許しをいただいて現物を拝見する。
裏を返せば刻印があった。
「室町住出羽大掾宗味作」である。
大きさは外径が21cmで内径は17cmだった。
同家は融通念仏宗派。
大阪平野の大念仏から如来さんがやってくる。
同町から北町。
そして融通寺までを駆け巡る如来さんのご回在を拝見したことがある。
平成23年10月31日のことだ。
早朝に到着した一行はここら辺りから回在し始めた。
時間帯は7時半前だった。
待っていた家から鉦を打つ人を先頭に如来さんや僧侶が続いて門屋を潜る。
どうやら同家はご一統さんのように思えた。
ご夫妻が話すにかつては同家でカンピョウ干しをしていたそうだ。
カンピョウを栽培していた畑は現大和中央道辺り。
3坪もあった畑で栽培していたカンピョウは刃付きの道具で皮を剥いでいた。
その内側が白い肌のカンピョウ。
長く切ったカンピョウを滑車で上げる棒に垂らして干した。
大量に作るのでご夫妻だけでなく、雇いの人も。男女それぞれの何人かを雇っていた。
畑にいたときだと思うような話しがある。
あるときに空襲があった。
今では名阪高速道になっている付近にあった桃畑に爆弾が落ちたと話す。
(H27.11.22 EOS40D撮影)
消化不良の境地だ。
久しぶりに拝見したくなった神農図。
掲げているお家は元往診医師家。
住まいは大和郡山市の額田部南町だ。
自宅で往診医師を勤めていた先代は61歳で亡くなった。
戦前は大阪・上六の日赤病院の内科医勤務だった。
戦時中は軍医。母国に戻って自宅開業した。
当初は、雇った人力車夫が引っ張る人力車に乗って往診していた。
その後は自転車に跨って行くようになったという夫妻。
離れの門屋に畳を敷いた処に車夫を住まわせていたという。
かつてはカンピョウ干しをしていた同家。
ご主人曰く、「カッシャ(滑車)」装置で揚げていたという。
カンピョウを栽培していた畑は現大和中央道にあったそうだ。
婦人が云うには、「畑をしてくれはる人がおった。男の人もおれば女の人もいた」だった。
畑は西名阪高速道の処だったというからニカ所にあったのだろう。
そこらあたりは額田部の桃畑。
戦時下は空襲に見舞われたと話していた。
初めて元往診医師家の神農図を拝見したのは平成23年12月3日だった。
その日は額田部町・融通念仏宗融通寺の十夜であった。
その場に居られた婦人が自宅に神農図を掲げているから是非来てくださいと云われて訪問した。
そのときの衝撃は忘れもしない。
眼光鋭く睨みを利かせる神農さんは、角を生やしてなんらかの葉付きの草木の枝を口に銜えている。
銜えているのか、それとも舐めているのか・・・。
左手に、これもまた判別がつかない葉っぱを持っている。
薬草であるのかどうか見分けている医薬の神さん姿とされる神農さんが着る衣装も葉っぱで覆われている。
まるで襟付きボアのような上着に見えた。
その神農図。
ご主人が子供のころ、角が生えているし、白髪で髭もある神農像が怖くて見られなかったと話す。
神農図には裏書きはない。
装丁も古くはないが、作者名があった。
「龍岳斎寫」だ。
小さな落款が二つ。
やや大きめの落款は「□女庄田」。
詠みは判らない。
家人が云うには、先代が大阪・道修町の少彦名神社で買ったのではないかと話す。
元往診医師家の神農さんは特別な日を設けるわけでもなく、ローソクも立てず、お供えもしない。
同家は融通念仏宗派。
如来さんが終わった翌日の11月1日に神農図を床の間に掲げる。
掲げる期間は11月いっぱい。
毎年、そうしているという。
一方、市内城下町の雑穀町に住む元藩医家は特定日の12月22日に掲げる。
その日は冬至の日だ。
寛政時代(1789~)の古図にも載っている同家は神農さんの日にお頭つきの魚、ナンキン・ダイコン・ニンジンに二杯の洗い米を供える。
神農さんを祭る行事に神社行事がある。
大阪市中央区道修町の少名彦神社や大阪府堺市堺区戎町の菅原神社末社の堺薬祖神社、奈良県高取町の土佐恵比寿神社は神農社である。
少名彦神社は11月22日、23日。
堺薬祖神社は11月23日。
土佐の神農社は11月22日。
新暦、旧暦の違いであるのかどうか判らないが、22日、若しくは23日のようだ。
他府県はどうなのであろうか。
ネットで調べてみた。
愛媛県生涯学習センターがインターネットで公開している『えひめの記憶-ふるさと愛媛学-』のなかに「神農さんをお祀りする」記事がある。
その記事の一節に、漢方医家では冬至の日に神農神を祭る風習があり、旧暦にあたる11月22、23日を神農神の祭日としているところが多いとあった。
『うち(芝道子)は薬屋ですから、床の間には薬の神様の神農(しんのう)さんの像を置き、神農さんの掛軸を掛けていました。神農さんは、昔は真ちゅう製だったように思うんですが、戦時中に供出してからは陶器製のものを飾りよりました。それもいつやら割ってしまって、今は掛軸だけになっています。うちでは、1月8日にお鏡開きをします。ぜんざいを作って、それにお鏡を切って入れて神農さんにお供えするんです。なんで8日にするのかというと、8日が神農さんの祭りだというだけで、根拠とかは知らんのです。』などの聞取り書きもある。
1月8日に鏡開きの餅は神農さんにお供えをするという愛媛県の風習である。
1月8日の事例は新潟県長岡市城下の神農講にも見られる。
8日といえば、薬師さんの縁日。
売薬さんと呼ばれる置き薬販売業者が多く見られる富山県では1月8日に神農さんの掛図や置物を床の間に飾る神農祭(薬師祭とも)がある。
1月8日は初薬師だと思うが、神農さんとの繋がりは判然としない。
昔の漢方医の家では冬至の日に神農神を祭る風習があり、今も11月22、23日(旧暦の冬至)を神農神の祭日としているところが多い。
したがってここで「なぜ8日なのか」については不詳であるが、関西では旧暦の12月8日を「こと八日」とよんでコトハジメの日としていたことや、万病を癒してくれる仏として広く信仰されているお薬師さん(薬師如来)の縁日が8日であることなどとの関連が考えられるかもしれない。
神農さんについて取材させていただいたK家の座敷に六斎鉦とおぼしき伏し鉦があった。
これもまたご家族のお許しをいただいて現物を拝見する。
裏を返せば刻印があった。
「室町住出羽大掾宗味作」である。
大きさは外径が21cmで内径は17cmだった。
同家は融通念仏宗派。
大阪平野の大念仏から如来さんがやってくる。
同町から北町。
そして融通寺までを駆け巡る如来さんのご回在を拝見したことがある。
平成23年10月31日のことだ。
早朝に到着した一行はここら辺りから回在し始めた。
時間帯は7時半前だった。
待っていた家から鉦を打つ人を先頭に如来さんや僧侶が続いて門屋を潜る。
どうやら同家はご一統さんのように思えた。
ご夫妻が話すにかつては同家でカンピョウ干しをしていたそうだ。
カンピョウを栽培していた畑は現大和中央道辺り。
3坪もあった畑で栽培していたカンピョウは刃付きの道具で皮を剥いでいた。
その内側が白い肌のカンピョウ。
長く切ったカンピョウを滑車で上げる棒に垂らして干した。
大量に作るのでご夫妻だけでなく、雇いの人も。男女それぞれの何人かを雇っていた。
畑にいたときだと思うような話しがある。
あるときに空襲があった。
今では名阪高速道になっている付近にあった桃畑に爆弾が落ちたと話す。
(H27.11.22 EOS40D撮影)