マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

井戸野町八幡神社正月飾り

2011年01月21日 07時46分37秒 | 大和郡山市へ
神社の松飾りや注連縄を調えるのは28日と決まっている処が多い。

その翌日は29日。

苦がついているからその前日だという。

大和郡山市井戸野町も同じ考えで八幡神社にそれらを準備していく。

その役目を担っているのは自治会の役員たち。

今から13年も前は違っていた。

神社にはオオモリ家とフクイ家のと2軒の家が宮守を勤めていた。

勤めができなくなり、祭礼ごとの一切を自治会に預けた。

ただ宮座は継承されている。

宮座である本座と平座に十人組。

十人組は平座から分かれたものの元は仲間であったそうだ。

その名残は祭りのオワタリに見られる。

座衆も今日のような宮さんの支度には現れない。

行事祭典を支えているのは自治会の神社係なのだ。

お寺係りもあるという自治会は珍しい形態だと思われる。

鳥居や拝殿、コミヤと呼ばれている末社にも砂を盛って松飾りを調える。

スサノオや住吉さんの社、オオモリさん、コンピラさん、水天宮など数は多い。

左がオン松で右がメン松に決まっているという。

オン松は先が白っぽい、メンは茶色だから見分けがつくという。

本殿脇には大きな杉の木があった。

朽ちてしまったことからやむを得ず伐りだした。

そこから新芽が伸びだし若者のように成長してきた。

いずれは先代と同じようになるのであろうが何代もあとのことだと話す。

そこには句が刻まれている。

「産土神(うぶすな)の さ庭にそびえし 大杉の 齢(よわい)目出度く 永遠(とは)に 鎮(しず)めむ」 昭和54年に1月の建立された句碑には当時を物語る大杉の様相を感動的な言葉で讃えられている。



鳥居と拝殿には長さが4メートルほどにもなる大注連縄を取り付けられた。

隣にある常福寺の山門にも掲げた。

この大注連縄は春日大社の神田を耕されているO氏だ。

注連縄を作るには丸1日もかかる。

材料集めもたいへんだが一人作業では何日もかかる。

これではいかんと数人の住民も作業を手伝いだした。

数年前から始めたというもう一人のOさんが話す。

一年経ったら作り方を忘れてしまったと笑う。

神社の正月飾りを終えたあと、2人は東に向かった。



Iさんの屋敷内にある稲荷社だ。

社は囲ってある。

古くからあるという社はヤクマルさんと呼んでいる。

それは京都伏見の稲荷神社から分けてもらったお稲荷さん。

ヤクマル講(薬丸講であろう)と呼ばれた集団があった。

初午のときに伏見まで行ってお参りしていた。

20人ほどいたが現在は数軒になったそうだ。

家のなかに祀っているというMさんはお米を毎日供えているという。

(H22.12.28 EOS40D撮影)

サンタの灯り

2011年01月20日 07時26分44秒 | だんらん
今夜は町のニュースにジングルが目まぐるしい。

どこもかしこも映し出される映像はツリーやケーキ。

近年流行ってきたイルミネーションも花盛りだ。

当家ではミニケーキを買ってきた。

風情だけでも味わおうということだ。

テーブルに灯りがほしい。

ずっと使っていなかったささやかな道具を持ち出した。

それは小さなサンタがなかで笑っているローソクだ。

香りといえばちょっと違う。

アロマテラピーっぽい香りのように感じた。

ちょびっとだけの時間を楽しんだ。

最後まで燃え尽きてサンタが登場するのは何年後になるだろうか。

(H22.12.24 SB932SH撮影)

一年間ご愛読に感謝

2011年01月19日 09時20分02秒 | 民俗の掲載・著作
平成22年1月6日からはじまった「やまと彩祭」は12月29日をもって終了した。

シリーズに掲載した行事地の数は56にもなるが、毎週の水曜日の連載で48回になった。

数が合わないのは一つの記事で複数の行事地を紹介したからだ。

企画段階ではモノクロ写真だったが、掲載段階でカラー写真が採用された。

大きな誌面に大きな映像はあっと驚く。

小さなサブ写真にも引き寄せられる。

毎回の見出しやキャプション付けが嬉しい。

作品のタイトルにもなるであろう見出しの言葉。

上手いことつけるもんだと毎回のように感心した。産経新聞社奈良支局に感謝する。

最初の記事がでたときのことだ。

山添の切幡でオコナイの取材していた。

お堂に集まった住民の一人が新聞記事を持ってきていたのだ。

「あんたの書いた記事でっしゃろ」と見せてくれる。

切幡は過去にも取材しているが持ってきた記事は同村の菅生の山の神。

「あの人も、この人も知っている」とそっちに話題が移ったことを思い出す。

行事をされている親しい人のお顔が登場すれば親近感を覚える。

秋祭りに行ったときには「全編切り抜きをしているのですよ」と伝えてくれた人も居た。

全編切り抜きしている人の声を耳にすることは多くある。

ありがたいことだ。

面白いのは他社の新聞記者が見ていることだ。

「拝見して勉強していますよ」の声も多い。

毎週、毎週の記事はたいへんだった。

掲載される時期に合わせて各地域の行事を紹介する。

はじめるにあたって年間計画を立てた。

それはある地域に集中せずに分散したかったからだ。

できうる限り奈良の全域に亘って紹介したかったのだ。

そのようにしたつもりでもやはり集中した市町村がある。

地区が異なるので良しとしたが、いたしかたがない。

ちなみにトップの5件は天理市と山添村に奈良市の中央平坦部だ。

4件が橿原市と奈良市の都祁地域。

3件は葛城市、大和郡山市、桜井市の山間部に奈良市の山東部。

こうしてみると取材地がそこに集中していることがわかる。

2件の地域は多い。

安堵町、川西町、桜井市平坦部、高取町に天理市の山間、宇陀市の室生地域となる。

1件ずつとなった地域は香芝市、五條市、御所市、曽爾村、十津川村、東吉野村、平群町、三宅町、吉野町となる。

紹介できなかった市町村はまだまだある。

そちら方面の方には申し訳ないと思う気持ちでいっぱいだ。

記事の文の予定稿は地域の方に事前確認をとったことが多い。

取材当日の聞き取りに誤りがある場合があるからだ。

誤記が見つかったケースもあるし、追加の情報を得られた場合もある。

できうる限り反映したかったが記事文はおよそ800文字。

多めに書いて新聞社で無駄分を削り取ってもらった。

これもありがたいことだった。

しかしだ。

記事が発行されてから間違いだと指摘されたケースがある。

東安堵のナナトコ参りの曲名が間違っていた。

シンバンドーをシンパンドーと書いていたのだ。

濁る字が正しい。

事前確認をしてもらっていたがそのときも気がつかなかった。

お詫びを申しあげたところ「それはわかっていたが、そんなんかまへん」と。

「そんなことより紹介してくれたんがうれしいんや」と話す。

染野の八朔法要では藩主の名前を間違った。

本多正勝でなく本多政勝が正しい。

恥ずかしいことがときおり発生してしまった。

この場をお借りしてお詫び申しあげる次第だ。

愛読者や地域の人から「奈良大和路の年中行事のような本はいつ出るんや」と言われることが多々ある。

「来年も続くんだろう」とも言われる。

それは「今のところはない」と返答している。

その件についてはどなたか心ある編集者の登場を待たなければならない。

掲載日      見出し             行事地域・名称 
 1月 6日 ドウドウ・・・綱担ぎ走る     山添村菅生の山の神
 1月13日 戦の神様守る宮座五人衆   川西町下永八幡神社のヨロイ吊り
 1月20日 アカゴハンで狐に施し      奈良市北椿尾町の寒施行
 1月27日 年頭に宮座の結束固める   香芝市下田鹿島神社の結鎮祭礼
 2月 3日 激しく響く枝を打つ音      天理市苣原町のダンジョ
 2月10日 かみさんと共に飲食       川西町北吐田の荘厳
 2月17日 久しぶりのお米集め       山添村勝原の子供涅槃
 2月24日 オヤ叩き一歩大人へ      山添村勝原の子供涅槃
 3月 3日 住吉大社から毎年の使い   橿原市大谷町畝火山口神社の埴土取り神事
 3月17日 「せんごくー」で宮座入り    奈良市中山町八幡神社の荘厳
 3月24日 日本で唯一残る「語り芸」   奈良市茗荷町天満神社の田原の祭文
 3月31日 シンコモチで豊作祈願     奈良市山町八坂神社の神武祭
 4月 7日 天空の神地で豊作祈る     高取町丹生谷船倉弁天神社の御田祭
 4月14日 成長願う変わらぬ祈り     天理市東井戸堂町のハツオサン
 4月21日 桜の下集い はずむ会話   曽爾村小長尾の岳のぼり
 4月28日 細く長く・・・守り続ける     橿原市古川町の農神祭
 5月 5日 子供の成長、五穀豊穣願う  天理市新泉町素盞鳴神社の新泉の野神祭り
 5月12日 自家製甘茶でおもてなし    桜井市高田の花まつり
 5月19日 水の神さんに豊作を祈る    奈良市都祁南之庄町都介野岳龍王神社の毛掛籠
 5月26日 存続危機にもがんばる     奈良市三条添川町・紀寺町のノガミサン
 6月 2日 ありがとう命の水         東吉野村小宗社丹生川上神社の水神祭
 6月 9日 感謝の祈り 3日間       桜井市瀧倉の豊作のヨロコビ
 6月16日 農作業も中休み         天理市岩室町観音堂の十八夜
 6月23日 田畑で味わう郷土料理     奈良市茗荷町ホウの葉弁当
                           ・都祁南之庄町のカシワメシ
 7月 7日 短冊鮮やか 静寂の森     葛城市太田棚機神社のタナバタサン
 7月14日 茅の輪迎える夏祭り       桜井市初瀬素盞雄神社のゴッテラサン
 7月21日 元禄から続く神事        葛城市當麻・菅原神社の天神講
 7月28日 蚊取り線香ズラリの日     奈良市西大寺芝町芝八幡神社住吉さんのお祭り
 8月 4日 心清める水            平群町鳴川千光寺の滝祭り
 8月11日 シンバンドーの鉦の音     安堵町東安堵安土墓地のナナトコ参り・先祖法要
 8月18日 稲の豊作祈って        桜井市修理枝八王子神社
                         ・奈良市上深川町八柱神社の風祈祷
 8月25日 闇夜に浮かぶ灯り帯      五條市東阿田町八幡神社の八朔スズキ提灯
 9月 1日 水守った先人に感謝を     葛城市染野傘堂の大池の八朔法要
 9月 8日 女性だけの食事会       奈良市都祁相河町の薬師ごもり
 9月15日 厳かに儀式引き継ぐ      天理市杣之内町木堂の八王子の秋の彼岸講
 9月29日 「オヤ」と「コ」力あわせて   天理市南六条町北方三十八神社
                          ・滝本町桃尾の滝の頭家渡し
10月 6日 振り上げ神事静々と      三宅町石見の祭祀講
10月13日 ジャラジャラあおぎ奉納    山添村北野天神社の神事芸能
10月20日 簡略化も伝統形式残す    桜井市脇本春日神社の頭屋遷し
10月27日 直径3メートル厄除け願う   吉野町小名 小名牟遅・春日神社の花笠まつり
11月10日 紅葉背景にお渡り行列     十津川村上野地国王神社の河津の大祭
11月17日 火おとし 感謝の1日      宇陀市室生染田のフイゴ祭り
11月24日 一つ一つ感謝を込め      宇陀市室生下笠間の亥の子モチ
12月 1日 たたいて回して          高取町佐田・森のイノコ
12月 8日 「おろおろ-」と小豆飯     御所市鴨神の申講山の神
12月15日 かつては男の子だけで     天理市福住町別所の申祭り
12月22日 師走の夜に響く音        橿原市古川町の太鼓打ち夜警
12月29日 大みそか氏神導く        大和郡山市野垣内町・白土町
                          ・観音寺町の神さんが通る砂の道

(H22.12.23 SB932SH撮影)

野遊び忘年会でアジゴハン

2011年01月18日 07時35分51秒 | 食事が主な周辺をお散歩
今年もやまちゃん先生宅で野遊び忘年会。

総勢20数名が参集した。

座敷で鍋、鍋が並ぶ。少し送れて到着すれば既に酔い回りの集団となっていた。

エルモさん家族は欠席だがまたはちさん親子が初参加。

こどもたちも同席して賑わいの宴になった。

もう一つの席にはこちらも初参加のtosshy夫妻。

カニ鍋に大きな焼きエビ。お手製料理の鳥の蒸し焼きもある。

なにから手を、じゃない口をつけていいのやら。

のどごし3杯のビールが先にいった。

民博の企画展でお世話になっている造り酒屋のN会長も来られた。

うれしい土産物はしぼりたて生原酒にプレミアム焼酎の「穎(えい)」までも。

縁を結ぶ宴はどっぷりと日が暮れるまで。

ご飯と言えば宇陀の言葉でアジゴハンと呼ばれている大和のかやく飯。

牛肉、ゴボウ、ニンジン、シイタケなど入れて炊く。

カテメシとも呼ぶのだとやまちゃん先生は言った。

カテを充てる漢字は糧。

貧しい家は量を増やす。

野菜や芋も入れて増やしたのが糧飯と呼ぶそうだ。

hanasuki先生は九州福岡育ち。

当地でもアジゴハンと呼ばれているという。

吉野町や大淀町、天理市はイロゴハン。

大和郡山市堺町に住むYさんもイロゴハン。

奈良市中畑でもそうだというtosshyさん。

イロゴハンと呼んでいる地域は広範囲に亘っている。

(H22.12.23 EOS40D撮影)

別所のカンマツリなど

2011年01月17日 08時45分46秒 | 天理市へ
うちではもう作ったと話す長老が手にしているのはカンマツリ。

モチワラを数本束ねる。その先っぽを折って鍵状にした。

五本の手の形をしているように見える。

くずれないように藁紐で2箇所を締める。

そこには紫色のテープを巻いた。

どういう意味があるのか判らないと話す作り手のUさん。

同様に家に置いてあるという昭和2年生まれのNさんも思い出せない。

注連縄作りに没頭していた際ふと閃いた。



それはカンマツリだ」という。

杓子のような形をしたカンマツリ。

12月31日の夕方ぐらいに家の玄関脇に吊す。

その受け口には2個のモチと干し柿2個。

コウジミカンは1個載せる。

このようなことをしているのは3軒ぐらいだろうと話す別所は22軒。

ほとんどの人は始めて知ったそうだ。

福住から山田を経て山を越えれば奈良市長谷町。

いずれも山間の地だ。

このカンマツリは長谷の住民も作っているらしい

この辺りの特有のものなのだろうか。

それはともかく別所には年中行事が多いという。

1月は初祈祷、2月は地蔵講、6月は日待ち、9月7日は会式、12月がさる祭りでもう一つの地蔵講もある。

8月末には風祈祷。これは氷室神社での行事だ。

本殿から手水までお百度参りのようにぐるぐる33回も回る。

数を数えるのは竹の札だ。

年中行事を支えるのはニンニョさん。

3軒両隣の人で組まれる当番の人たち。

イロゴハンを炊くときは一人加わって4人となる。

家の順で回ってくるというからほぼ一年の間に一回はやってくるそうだ。

また、十九夜講もあるらしい。

毎月はしないが19日以前の休みの日。

公民館でお経を唱えているという。

お寺内には綺麗になった祠のなかで如意輪観音の石仏が微笑んでいる。

(H22.12.23 EOS40D撮影)

別所下之坊さる祭り

2011年01月16日 07時00分52秒 | 天理市へ
天理市福住町といえば寒冷地。盆地部よりは数度も低く雪が舞う日も度々ある。

金剛山で雪が積もったときは同期したかのように降るらしい。

同町の北部にあたるのが別所の地区。

つづら折りの「七曲りの道」が格好のハイキングコースになっているがこんな寒い日にはハイカーの姿は見かけない。

この日は市指定の「さる祭り」が行われている。

早朝から永照寺下之坊の境内に集まってきた地区の人は注連縄を編んでいく。

子供の姿も見られる注連縄作りは持ってきたモチワラで編んでいく。

たき火を焚いて暖をとりながら作業は1時間ほど続いた。

婆羅門杉と呼ばれている二本の大杉を通り抜けるほど長い注連縄だ。

長老らは「デンボ」と呼ばれる太い注連縄を2本作り。

僧侶は御幣を2本こしらえる。

それらが出来上がれば東向かい側の杜山にある「モリサン」に出かける。

注連縄はぐるぐる巻きにして一束にした7本程度の葉付きのススダケに通した。

本数に決まりはないそうだ。



出発間際にコメのとぎ汁を注連縄に注いだ。

清めの儀式なのであろうか。

デンボを持つ子供とその親は先頭に立った。



「えんざい まんざい どーくよっ あかめしくいたい はらへった」と唱和しながら山に向かっていった。

後方には巻いた注連縄を担ぐ人が続く。

囃子言葉は休むことなく発声される。



集落を離れ急坂の山道を登っていく。

崩れた岩の場所で一旦は休憩。

一気に登りたいところだがそうはいかない。山のモリサンはまだ先だ。

一行が到着するとデンボを置く。

担いできたススダケは立てた。



そうして始まった注連縄巻き。

昨年までの注連縄は残っている。

そこをぐるぐる巻きにする子供と親。

何重にも巻いていった結果は昨年同様に13巻きになった。

いつものように木にそれを書き記す。

ここには祠があったそうだ。

それはモリサンと関係があったかどうかは判らない。

五穀豊穣を祈るとはいえ供え物もない。

不思議な行事であるさる祭りが行われる聖地だ。



「天狗がでてくるどー」と掛け声がかかった。

その声を聞いた子供の足は早い。

転げるように山を下っていった。

かつてのさる祭りは子供たちだけで行われていた。

少なくなってからは長寿会が中心となって行事を継承してきた。

これからもそうであろう。

嬉しいことにこの年に参加した子供に三男が生まれた。

兄ちゃんが卒業するころにはあとを継いでいることだろう。

山を下りたら公民館の座敷で暖をとる。

ストーブの前で座布団が置かれた。



5、6人ぐらいが座った中央にはショウユメシがいっぱい入ったお櫃が運ばれた。

朝から作っていたのはこの日の当番のニンニョウさん。縮まってニンニョとも呼ばれる。

小皿や漬け物も席に配られた。

別所の人たちは円座になってショウユメシをよばれる。

これも縮まってショメシと呼ばれた。

イロゴハンとも呼ばれるショメシは、その昔にセキハンと呼んでいたそうだ。

これが唱和に出てくるアカメシのことなのであろう。

そういえばなんとなくそのような色に見えてくる。

ゴボウ、ニンジン、コンニャク、アゲ、チクワ、カマボコ、シイタケまでが入っているショメシの味は濃い。

ふだんなら3升だが今回は4升も炊いたそうだ。

出汁は入れているものの味付けは名前がついている通りの醤油だ。



「一人で食べていたら一杯しか入らんが、皆でわいわい言いながらよばれると2杯、3杯になってしまう」と笑みがこぼれる年配者。

昔は漬け物も家から持ってきたそうだ。

今では支援している大人たちで食べているが、昔は子供だけだった。

大勢の子供が会食するのはお寺の坊。

学校を終えた年長者も加わって夜なべまで遊んだそうだ。

それもこれも男性ばかり。

女性の姿は見られない。

(H22.12.23 EOS40D撮影)

長谷町十九夜講

2011年01月15日 06時33分44秒 | 奈良市(東部)へ
奈良市の東山中、田原や月ヶ瀬、山添村にかけて婦人たちによって営まれる十九夜講がある。

そのほとんどが如意輪観音の前に座って十九夜和讃を唱えているそうだ。

長谷町もその一角にある山麓地。

夕食を済ませた婦人たちが当番の家に集まってきた。

一同が揃うと座敷に座り和讃を唱える。

灯明に火を点けるが導師もなく自然に始まった。

鉦もないので拍子は取りにくいだろうと思えるが調子は合っている。



「きみょうちょうらい十九やの ゆらいをくわしくた(ず)ねれば にょいりんぼさつのせいぐわんに あめのふるよもふらぬよも いかなるしんのくらきよも いとわずたがわずけたいなき 十九やみどうへまいるべし とらの2月29日 十九やねんぶつはじまりて 十九やねんぶつ申すなり 南無阿弥陀佛 南無阿弥陀佛 南無阿弥陀佛」の一番に続いて二番を唱えていった。

長谷町の垣内組の十九夜講は10人。

今夜は7人が和讃を唱えた。

床の間に掛けた掛け軸は「木花開耶姫命(コノハナサクヤヒメ)」だった。

明治16年に寄進されたとする記銘が記されている。

廃仏毀釈の関係なのだろうか「木花開耶姫命」を祀るのは珍しい。

如意輪菩薩と同じように安産を願い婦人たちを守ることには変わりはないのだろう。

10年も前は食事の膳はイロゴハンが炊かれていた。

オアゲにチクワ、ニンジン、ゴボウを醤油、味醂で味付けして炒めた。

それをご飯に入れて炊いた。それがイロゴハンだった。

自宅で漬けた漬け物は欠かせなかった。

女性だけに色どりはそうとう考えたという。

2月、9月と12月の19日に営む十九夜講は親しみを込めてじゅうくや(十九夜)さんとも呼ばれている。

以前は6月だったが農繁期が落ち着く9月に移したそうだ。

「木花開耶姫命」の前には季節のお花を添えて樒を供える。

塩、洗い米とお菓子も置かれている。

和讃を終えるとお菓子を摘んでお茶にする。

経費と手間を省いてそうしているという。

話題はさまざま。年末に近くなったことで正月飾りやイタダキサン、十二月のモチなどが・・。

「うちの家ではこんなんしているけどあんたとこは違うんや」と微妙な違いに気付かれた。

家の作法にはそれぞれの作法があるようだ。

ある家ではフクマンをしているそうだ。

正月の0時を過ぎたころ、表に出て松のジンに火を点ける。

クリの木を持って田んぼに向かう。そこでクリの木を挿す。

その間はありとあらゆる家の戸を開ける。

フクを迎える風習のようだ。

このとき「フクマルさん フクマルさん ここにおわす どこにおわす」の台詞を言いながら田んぼに向かうという。

フクを迎えた主人が帰るまで家人は待つ。

帰ってきたらそこで「よーこそ よーこそ」と言って戸を閉める。

話の内容からすればどうやら歳神さんを招くような作法のようだ。

フクマンはおそらくフクマルさんが短くなって訛ったものと推測される。

東山中で語られる福丸さんの様相がここに一つある。

正月迎えの話題にはもう一つあった。

藁で編んだ棒の先っぽを90度折る。

それは杓子のような、それとも手のような形状だという。

2日の日にはそこにモチを入れる。

特別な名称はなくシメナワだという。

それをしているのは1軒。

もう1軒あったが今はしていないという。

あまり見かけない形状だけに興味をそそる。

正月の話題は旦那の話へと転回した。

実は十九夜講が営まれる同月には男性が集まる伊勢講がある。

伊勢講は16日。

その日には「次はどこどこで炊くんやな」と言えば3日後の十九夜講のこと。

講の回りは異なるが旦那衆の家が当番の家。

婦人が集まる座敷には旦那は顔をださないように、伊勢講のときも逆に婦人は顔を見せない。

それぞれの営みなのであろう。

当番の家では「炊く」と表現するようだ。

その伊勢講にはごちそうが出る。

スキ焼きがメインでキズシがつく。

お刺身も2品あるそうだ。

近年には2月を廃止した。

それに合わそうかと相談する婦人たち。



嫁入りして姑さんの後を継いできた十九夜講。

「若い人はここにはおらへんしこの先はどうなるやろ」と湿っぽい話題なのに笑い顔が絶えない明るい婦人たちに元気印が沸いてくる。

(H22.12.19 EOS40D撮影)

東味間の御供つき

2011年01月14日 07時53分56秒 | 田原本町へ
田原本町の味間は六つの垣内がある。

東、西、南、北、中北、中南の六垣内。

なぜか東垣内だけは年中行事が多くあるという。

特に愛宕さんや地蔵盆、大神宮の行事がある7月、8月が忙しい。

それぞれには回り当番の宿(やど)とその両隣が協力しあって行事を支えている。

22軒であるから22年に一度の計算になるがそれぞれの行事の当番が互いに右回りと左回りにも回ってくるので重なるときもあるそうだ。

かつては宿(やど)の家に集まって会食をよばれていた。

それを解消するかのように昭和62年に公民館を建てたが葬式は3年ほど前まで自宅でしていたそうだ。

通夜、本葬、後かたづけもある3日間。

つきあいもたいへんやからと葬儀会場に移っていった。

この日の行事は「御供つき」。

一ヶ月ほど前に辻の掲示板に案内していた集合場所は公民館だった。

机を並べた席につく。

自治会長と宿(やど)のご主人は上席に座る。

挨拶を済ませて会計報告。

そうこうしているうちに神職が到着した。

由緒ある多坐弥志理都比古神社の宮司だ。

一同が揃えば御供をもって祭典場に向かう。

その場に小さな祠がある。

味間の須賀神社の分霊を祀っているという。

愛宕さん、庚申さん、天正年間に造られたとされる地蔵さんに大神宮まであるその場は神聖な地なのであろう。



そこを縦に横切るのは古来の幹道である中ツ道。

近世からは田原本町蔵堂から横大路までを橘街道と呼んでいた街道である。

古代には多くの人々が往来していたのであろうが今ではさまざまな車が往来する生活や輸送の道。

次々と通り抜ける。

そんな喧噪さも関係なく神事が始められた。

お供えはモチ2個のパックが数多く見られる。

神饌には味間の名物である大和野菜の味間芋もある。

一尾の丸サバなど、海の幸、里の幸、山の幸が神前に供えられる。

その横にはにごり酒もある。

この様相によればおそらく新穀感謝祭なのであろう。

修祓、祝詞奏上、玉串奉奠など厳かに行われた。

かつての「御供つき」は宿がたいへんだったという。

集まった垣内の人たちはそれぞれの役割で支度をしたそうだ。

切り身のサバは焼き魚。

どんぶりいっぱいの粕汁。

味間芋にダイコン、ニンジン、コンニャクを入れて炊いた。

それがごちそうだった。

この日は年末の決算日。

その昔、食糧飢饉の時代もあった。

実った稲は刈り取って、脱穀は宿の家でしていた。

稲藁は押し切りして細かくした。

来年も豊作になりますようにとそれを味間の田んぼに撒いた。

宿ではモチ米を杵と臼で搗いた。

婦人たちは料理をこしらえた。

今だから話せるがどぶろくも作っていたという。

それは遠い昔のこと。

いつしか簡略化されていって行事の名称が「御供つき」となって残った。

稲刈りを済ませて今年の豊作に感謝する。

それはモチにした。

畑の野菜は粕汁になった。

新穀で採れた新米酒はにごり酒。

あえて言うなら粕汁も酒だ。

これだけのものが揃えば新穀に感謝する新嘗祭だったのであろう。



公民館に戻って席に着けば宿(やど)がにごり酒を注いでいく。

宿(やど)の挨拶と乾杯の音頭で今年の収穫を祝った。

(H22.12.19 EOS40D撮影)

畑屋カンジョ

2011年01月13日 08時07分18秒 | 大淀町へ
本居宣長が江戸時代に書き記した畑屋の街道。

吉野の土田から大淀町の畑屋を抜けて高取の壺阪寺に向かったとあるそうだ。

往古を忍ばせる畑屋の細い道には年末にカンジョが掛けられる。

カンジョとは、勧請縄のことであろう。

集落から下ったその場所はカンジョと呼ばれている。

左右の崖に植生する樹木に縄を括り付け川から畑へ掛ける縄はとても長くおよそ60メートルにもあるという。

カンジョを作るのは山の頂に鎮座する天水分神社の宮座講の人たちだ。

宮座講は東の講と西の講に分かれている。

それぞれの講の地区に分かれてカンジョを作る。

東の講は5軒。西の講は6軒。

それぞれは8軒、9軒だった。

転居や継ぐ家長が居なくなりいつしか軒数も減っていったそうだ。

午前中の2時間もかかってカンジョをこしらえる。

モチ藁を撚って長くしたカンジョは30メートル。

川、道巾が広いのでそれでは足らない。

カンジョはそれぞれの地区が作って継ぎ合わせて60メートルにするのだ。

その縄には八つの房を取り付ける。

房は長く垂らした足が4本。

その間に杉の枝葉を4本通す。

一番下には幣がつけられる。

村を守っている八大龍王を祀るから房は8本だと話す東の長老。

その房はコカンジョと呼ばれている。小の字を充てるのであろう。

コカンジョを作るのは長老。

特に決まりはないが「不器用やから編むのはしっかりした人でないと」と話した。そう言うのは東の講も西の講も話すことに違いがない。

出来上がればカンジョをグルグル巻きにして中央にコカンジョを置く。

床の間の前に置いて洗い米、塩を供えて灯明に火を点ける。



ところが西の講はできあがると梯子に載せる。

ユニークな場所に置かれるが灯明やお供えはない。

東の講では村の安全を祈ってからパック詰め料理の会食をよばれる。

そこは年番のトーヤの家だ。

トーヤの漢字は当屋が充てられる。

毎年交替するトーヤ、東は5軒だから5年回り、西は6年回りだ。

軒数が少なくなってきたので回りが早くなったという。

平成11年に改正されるまでは会食は高膳だった。

コンニャクなどを炊いた煮染め料理もあったそうだ。

カンジョの日は1月5日だった。

それは改正されて、新年会が重なる年始を避けて集まりやすい年末になった。

会食を済ませた講衆。

同期をとるために東の講へ「西の講が出発する」と伝えてカンジョの場で落ち合う。



そのときには若い人たちも加わった。

崖に登って括り付けるのは力仕事。

電柱までよじ登らなければならない。

若い力が必要なカンジョ掛けなのだ。

樹木に端を括り付けて中央で拠って合わせる。

コカンジョはそれぞれ等間隔で括り付ける。

東は東、西は西のコカンジョを取り付ける。

その辺りで良いだろうと声が掛かれば一方の端を引っ張ってカンジョの縄が一直線になった。

日差しを浴びてコカンジョが風に揺らぐ。

村の共同作業は1時間ほどで終えた。



昔に疫病が流行った。カンジョを掛けたら畑屋の村だけは疫病が来なかったという伝説があるカンジョ掛け。

「若いもんがおらんようになったらやめようか」と思ってはいるものの、「止めたら何が起きるかわからん」から継承してきた。

これからの行く末が心配だと話す両講の長老も掛け終われば満足げな顔で自宅に戻っていった。

(H22.12.19 EOS40D撮影)

春日若宮おん祭の芝舞台

2011年01月12日 18時44分04秒 | 奈良市へ
祭りの中から生まれた日本の芸能は、神坐(いま)す祭りの中でこそ一段とその良さを発揮する。

春日の杜で繰り広げられる、まさに生きた芸能は人々を魅了する。

毎年のように悩まされる雨は降らなかったが冷却気温に足下が凍る。

舞楽は、飛鳥・白鳳から奈良時代にかけて古代朝鮮や中国大陸から伝えられ、わが国で大成した。

その伝来や特徴から左舞と右舞に分けられているそうだが、そのことなど芝舞台で演じられる舞楽については明快な答えを持ち合わせていない私だ。

篝火に照らされた大太鼓の音色が遠くまで聞こえる。

演舞は散手(さんじゅ)に入っていた。

林邑五破陣楽の一つの雄壮な武舞だそうだ。

赤い隆鼻黒髭の威厳のある面をつけ、鳥甲を被り毛べりの裲襠装束を見にまとって舞う。

太刀や鉾をもっての振り舞いは武将らしい。



隆鼻白髭の面顔が白っぽいので暗がりでも判りやすい貴徳(きとく)。

装束の色合いや飾りは異なるが、散手と同様に太刀、鉾をもって舞う。

散手と番舞(つがいまい)として「中門遷の舞楽」といわれるそうだ。

私がお気に入りの舞が抜頭(ばとう)。

猛獣を退治した孝子の物語を表わしたそうで、喜踊して降ってくる様を表している。

抜頭が繰り返す手がなんともいえない動きをみせる。

心地よいリズムを感じる。



最後に登場するのが落蹲(らくそん)。

納曽利の二人舞だ。

すべての演舞を終えるころ神官たちは芝舞台に付近に並ぶ。

その直前には松明でしょうか長倉から運び出されていった。

(H22.12.17 EOS40D撮影)