マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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我が家の正月

2013年03月21日 06時51分32秒 | だんらん(正月編)
大晦日の民俗取材は除夜の鐘を聞くこともなく山添村に居た。

大塩のKさんは八柱神社で元旦を迎える行事をしているから寄っていけばと云われたが翌朝の正月行事の取材もあって断念した。

神社へ登る階段一つ一つに竹で作った灯りをしている。

幽玄な正月迎えの行事は数年前から始まった。

振る舞いの雑煮もあると仰ってたが断念せざるを得なかった。

帰宅したのは正月の1時半。

就寝時間は短い。

お日さんが昇る前には活動する。

こうして一年間に亘る民俗取材が始まった。

「いったい何時になったら我が家の正月が始まるの?」と云われていた。

ようやく戻った我が家は私の帰還を待って始まった。

「おめでとうさん」の挨拶で正月を感じる。

ここ数年前からは我が家の正月の膳はパック詰め料理。

昨年までは「井の上」だった。

そろそろ飽いた料理。

年末ともなればテレビや新聞広告で紹介されるお節料理。

豪華なものは憧れ。

我が家にフイットしそうなものは多くない。

お節料理はラジオでも販売しているが中身は見えない。

どこかのチラシに載っていたお節料理を頼んでいたかーさん。

小さなテーブルに広げた三段のお重。

小品ごとに区切りがある。

量的にはそれぐらいで丁度良い。

大晦日に戻ってきた長男に大阪からやってきたおふくろとともに迎えた我が家の正月。

年末にいただいた黒豆も並べる。

この黒豆は特に美味しい。

小林町に住むSさんが育てて炊いた丹波の黒豆だ。



傍には先ほどいただいた椎木の正月の座で差し出されたアオマメのオニギリも添えた。

お節料理は注文料理になったが雑煮は変わらない。



ダイコン、ニンジンのお餅を入れる。

我が家の雑煮は昔から白味噌仕立て。

花カツオを振り掛けて食べる。

たまの正月にと思って買っておいたにごり酒。



これは美味かった。

おふくろも飲む。

こんな飲みやすいお酒は、と驚くおふくろの声に誘われてかーさんも飲んだ。

心地よい元日の時間が過ぎていく。

穏やかな年を迎えたこの日の初詣はやっぱり登弥神社である。

(H25. 1. 1 SB932SH撮影)

山田町杵築神社元旦祭

2013年03月20日 06時53分03秒 | 大和郡山市へ
大晦日に設えた門松。

大きく砂を盛って挿した松竹梅。

松はオン松、メン松と決まっている。

左側にオン松で右がメン松とこれもまた決まっている。

竹はモウソウチク。

そこには縁起が良いナンテンも添える。

昔は朝の5時に正月参拝をしていたという山田町杵築神社の元旦祭。

暗い時間帯に参集した。

当時は一老、二老が仕切っていて鯛や鏡餅の御供上げをしていた。



現在は総代と4人の当家が仕切るようになったが、御供は今でも一老、二老の心配りで捧げられる。

仕切り役は代わっても伝統を守る姿は変わりないと話す総代。

元旦祭の参拝は境内に上がって一同揃って手を合わす。

新しい年を迎えた正月を祝う儀式である。

下げた神饌は白酒。



コンブとスルメのアタリメを肴に正月の談笑時間を過ごす。

境内では「でんでらこ」ではないが、とんどの火焚き。

身体も温もって年頭の幸せを願う参拝者を迎える氏子たち。

顔を合わす言葉は当然ながら「おめでとうございます」である。

正月初めの会話をしている神社の門構えに牛の彫り物がある。



珍しいと思って尋ねた結果は神社に由来する。

杵築神社は明治以前まで牛頭天王社と呼ばれていた。

明暦二年(1656)八月吉日に寄進された石燈籠に牛頭天王の刻印がある。

「奉寄進 山田邑 牛頭天王御前」は素戔嗚尊を祭神として祀られている証しである。

もう一つの石燈籠は「牛頭天王 山田村中 宝暦五年(1754)」である。

牛頭天王を象徴する牛の彫り物であったのだ。

氏子の話によれば牛が田んぼを耕す風景を描いた絵馬があったそうだ。

昭和50年代にはあった絵馬。

昭和57年に宮さんを遷宮した際に所在が判らなくなったと云う。

(H25. 1. 1 EOS40D撮影)

椎木町杵築神社正月の座

2013年03月19日 08時42分39秒 | 大和郡山市へ
正月元旦の朝に参拝する椎木町の宮座中。

座中は和装姿に下駄を履いて参集された。

杵築神社の正月行事の神事を終えれば正月の座の営みに移る。

座の膳はゴボウ、クロマメ、ゴマメの三種盛りの肴とアオマメのオニギリがつく。

上座に座る長老が述べる挨拶を経て登場する二人の当屋。

前年にタネオクリ(種送り)されたアオマメを育ててきた当屋である。

植えた種豆は立派に育って11月に収穫した。

一粒、一粒を選別して奇麗なアオマメを選び出した正月の膳に配られるオニギリに使う量は四合のアオマメ。

四升のモチゴメと一緒に炊く。

アオマメは擦らずにそのままの形で入れるという。

育てたアオマメは枯れることがないように気を配ってきた。

アオマメを選別して黒い豆を取り除く。

何日もかけて選別したという選りすぐりのアオマメは奇麗な豆。

次の当屋に継がれる。

それをタネオクリと呼んでいる。

代々継いできたタネは大切な正月の座の膳にさし出されるのである。

アオマメを入れてご飯を焚くのは大晦日の晩。

ひと晩かけてアオマメ入りモチゴメをオニギリにする。

平成3年10月に地域が発刊した『椎木の歴史と民俗』によればアオマメのオニギリは蒸した「キヨノメシ」であったと記されている。

「キヨノメシ」はおそらく「キヨウのメシ」であろう。

漢字を充てれば座の饗にだされる蒸し飯と考えられ「饗の飯」が「キヨノメシ」と呼ぶようになったと考えられる。

蒸した飯がどのような形であったのだろうか。

県内各地の事例から推定するに枡か椀に飯を詰めた形であったと思われる。



三種盛りとアオマメのオニギリはパックに詰めて座中の席に配られた。

白酒を入れた湯とうで座の人たちに注ぐアニ当屋とオトウト当屋。

受ける酒杯は素焼きのカワラケである。

こうして新年を迎えた椎木の座中は元日のひとときを過ごす。

(H25. 1. 1 EOS40D撮影)


山添村大塩の正月の祝い膳

2013年03月18日 07時49分20秒 | 山添村へ
氏神さんの方角に向いて座る。

家族揃って頭の上にあげて「ちょうじゃどん ちょうじゃどん」と3回唱えるという山添村大塩の住民K氏。

正月祝いのモチは5枚。

キンコウジミカンも乗せる正月迎えの祝いの膳にはウラジロを敷いてコンブ、クリ、クシガキにトコロイモも。

「なか睦まじくにこにこ」の10個がクシガキの謂れ。

トコロイモは髭(根)がある。

一番長い髭があるのは当主の膳である。

祝いの膳にはお年玉のぽち袋が置かれた。

それは奥さんと子供の膳である。

膳にあるヒシモチは広げて焼くが雑煮には入れないそうだ。

ツキノモチは12個。

一年の月の数であるが閏の年は13個となる。

大晦日に準備した祝いの膳を拝見したK家。

トシトクジン(歳徳神)のモチは上に少し捻るという。

神さんのモチ、仏さんのモチ、エビスさんのモチも30日に搗いた。



エビスさんは5枚のコバンモチ、サンポウ(三方)さんのモチは三枚重ねだそうだ。

(H24.12.31 EOS40D撮影)

山添村大塩のフクマル

2013年03月17日 08時49分34秒 | 山添村へ
12月31日の大晦日の晩。

年越え参りが行われる山添村大塩。

村の若い人たちが作った竹灯りを八柱神社の階段に灯す。

かがり火を焚いて参拝する人を迎える竹灯りは石の階段一つ一つに置く灯りの標である。

設営作業があるからと云って早めに家を出たK氏の息子さんだ。

その日の晩はフクマルさんを行っているK氏。

除夜の鐘が鳴る前の時間帯である。

今年一年のお礼と来年も福が来ますようにと祈るフクマルさんは一束の藁を持って家を出る。

坂道を下った辻に置く。

ウラジロを広げて1個のニギリメシを供える。

東に向かって手を合わす。



その際に唱える詞は「フクマルコッコー」。

これを3回繰り返す。

真っ暗な辻で行うフクマルさんの風習である。

暗い道を戻るには火が要る。

マメギの束に火を点けて戻ってくる。

マメギはタイマツとも呼ぶ灯りであるがこの年は収穫できなかった。

フクマルさんの灯りは家に戻って竃の火にする。

正月の雑煮を炊く火である。

正月の雑煮はカシライモの雑煮にキナコを塗して食べるキナコ雑煮。

奈良県内各地で食べられているキナコ浸けの雑煮の作法である。

(H24.12.31 EOS40D撮影)

山添村広瀬のフクマイリ

2013年03月16日 09時36分31秒 | 山添村へ
平成22年4月に訪れた山添村の広瀬。

西迎寺で西国三十三番ご詠歌を唱えていた観音講の婦人たちに聞いていたフクマルサン。

山添村の各地区で行われていると聞いていたフクマルの風習である。

夕方近くになれば村の人が火を点けた竹の松明を手にしてやってくる。

その場は名張川の川堤だ。

フクマルの火点け場で松明の火を持ってきた一束の藁に移して燃やした。



持ってきた半紙に包んだ洗い米を土手に供えて東の方角に向かって拝む男性はYさん。

そこに現れたもう一人の男性はNさん。

同じように松明の火を藁に移して東と南の方角に向かって拝む。



Nさんは洗い米を竹筒に入れて供えた。

それぞれの家の作法が違うようだと顔を合わせて話す両人。

フクマルサンを終えて家に戻るときも火を点けた松明を持って帰る。

その際に唱えた「フクマイリ コッコー」。

「こんな感じや」と云ってNさんが唱えた「フクマイリ コッコー」は3回。

上の組と下(しも)の組の2か所両地区で行われている広瀬ではフクマルサンをフクマイリと呼んでいる。

家に戻れば開けていた蔵の戸を閉める。

「フク(福)」を蔵に納めたということである。

松明の火はオクドさんの火焚きに点けると話すNさん。

1月7日は山の神へ参るという。

まだ陽が昇らない時間帯の4時から5時頃。

カシまたはハゼの木を掛けてカギヒキをする。

その際には「エッサッサー」と掛け声を掛けるそうだ。

家の男の人数分の石を入れた藁の房とか、木で作ったナタも供える山の神を拝見するには難しい時間帯である。

(H24.12.31 EOS40D撮影)

上誓多林家の注連縄張り

2013年03月15日 07時59分35秒 | 奈良市(東部)へ
カラスドンノモチの風習を拝見して上流の上誓多林に向かった。

ここでは家のぐるりを囲むように長い注連縄を張っていた。

間隔をあけてウラジロとユズリハを取り付けていく。

交互に七、五、三の注連縄飾り。

例年の場合は午前中。

この年は夕方近い時間になったと話す。

大きな形のウラジロは先ほど採ってきたという旧柳生街道挟む2軒の家。

挨拶をすれば存知している両家であった。

両家とも家の端から端まで長い注連縄を張る。

長さは25mにもおよぶ。

かつてはもっと長くて家の周りまで張っていたそうだ。

今では2軒になったが昔は付近の家々がしていた注連縄張り。

街道沿いの家ではみなそうしていたという。

北側家屋のⅠ家の玄関にあった道具。



古そうに見えた道具を拝見した。

それには「安政五年(1858)平時五月龍集日 和州石切飯倉彌正次」の記銘があった。

木製の木箱のような道具は江戸時代の消防ポンプ。

「龍吐水(りゅうどすい)」と呼ぶ手押しの消防用具である。

日本における消防ポンプの始まりが龍吐水。

手押しポンプで放水する様子が龍の口から水を吐くように見えることからその名が付いたようだ。

一説によれば享保年間(1716)にオランダから渡来したとされる。

確か同じような龍吐水と思われる道具を山添村の切幡で見たことがあるような記憶がある。

探してみれば他の地域でも見つかるのではと思った道具である。

ちなみに下流の中誓多林ではそれほど長くない注連縄を掛けるがある家では前庭辺りの樹木に掛けている。



集落或いは家によってそれぞれの飾り方である。

(H24.12.31 EOS40D撮影)

中誓多林テンノウサンのカラスドンノモチ

2013年03月14日 06時53分36秒 | 奈良市(東部)へ
誓多林町では大晦日に八阪神社へカラスドンノモチを供えるというN家の風習がある。

テンノウサンとも呼ばれる八阪神社に垂らす注連縄と共にツツジの木の枝にモチを付けて供える。

閏年のときは13個にするという。

テンノウサンと呼ぶ八阪神社は小社。

かつては牛頭天王社と呼ばれていたのであろう。

誓多林町は旧柳生街道沿いに連なる村々。

白砂川上流から上誓多林、中誓多林、下誓多林地区が東西に点在している。

カラスドンノモチを供えるN家は中誓多林だ。

ここの本社は永正11年(1514)に創建された八柱神社である。

八阪神社はそこより数十メートル離れた地に鎮座する。

家からは目と鼻の先だ。

前日に搗いた正月のモチ。

カガミモチはエベッサン、アマテラスに供える。

他にも一年の月数とするツキノカズノモチもある。

それは例年であるなら12個だが閏の年は13個だ。

オオバン、コバンの重ねモチはウラジロの葉を広げて載せる。

それらをお膳に乗せて前にお金を並べる。

不自由せんようにと、1円、5円、10円、50円、100円、500円、千円、5千円、一万円とそれぞれの貨幣を並べる。

「センマイ センマイ」と云いながら、頭の上にあげるお膳は正月の膳である。

奉る方角はアキの方角。

家人一人ずつ、順にその行為をする。

男性が先で次に女性の順だ。

床の間の「トクトクシン」に向かって「いただきしょうか」と云って始める正月の作法である。

それら正月のモチを搗いたときに残りの柔らかいモチをツツジに挿したカラスドンノモチ。



輪っかにしたウラジロの〆縄とともに持ってお参りをするご主人。

〆縄は小社の中に納めてカラスドンノモチは前に立てる。

手を合わせて拝むテンノウサン。

そうした風習をされているのは我が家だけのようだと話す。

しばらくすればカラスが飛んできた。

お参りしていたのをじっと見ていたのであろうか。

毎年のお参りに必ずといっていいほどやってくるカラスドンは人が去るのを待っているようだ。

こうした風習は奈良市長谷町の住民N家でもされていたが供えたのは前庭の樹木。

藁棒の内部にモチを詰め込んで樹木にぶら下げる。

山に住む野鳥が食べるというカラスノモチであった。

一方、天理市の藤井町でも行われている。

宮本六人衆の一人であるNさんの外庭で見られたカラスノモチである。

30日に搗いた正月のモチ。

その残りを小さくちぎって木の枝の先に挿す。

モチの数は12個だ。

四角い升に入れて庭に出る。

そして「カラコ カラコ モチやるわ ザクロ三つと替えことしょ」と言って枝に挿す。

閏の年はカラスドンノモチと同様に13個にする。

山の鳥獣らに施しをするモチは主にカラスが食べにくると云っていた。

供えたときの台詞にザクロがある。

何故にザクロを交換するのか意味は判らないと話していた。

奈良市都祁の小山戸で聞いたカラスノモチにも台詞がある。

クワの上にモチを12個入れて、クリの木かカキの木の下に置いた。

その際に唱えた台詞が「カラスコイ モチヤルゾ ジャクロミッツト カイコトショ」である。

正月用のモチを搗いたときにしていたそうだ。

「ジャクロ」はザクロ。

ここでも三つ交換する。

なにかのまじないではないだろうか。

カラスのモチは平坦盆地部においてもその風習があった。

天理市の楢町である。

『楢町史』によれば、昭和初期までは正月のモチに「カラスノモチ」があった。

13個作るというから閏年の月の数であろう。

「カラスノモチ」は「カラスこい、カラスこい」と云って、ゴンゲンさまの使いのカラスにモチをやっていようだ。

(H24.12.31 EOS40D撮影)

二条亀畑佐紀神社簾注連縄と砂モチ

2013年03月13日 06時57分18秒 | 奈良市へ
今年の節分の日に訪れた奈良市二条町。

亀畑佐紀神社で清掃をされていた年番さんの話によれば大晦日に簾型の注連縄を飾って境内に砂を撒くと云っていた。

その姿の形状を拝見したくてやってきた神社。

登る階段に砂が零れている。

なんだろうと思って境内に向かう。

本殿に飾られていた注連縄はまさに簾型。

実に美しい姿である。

さて、聞いていた砂撒きである。

階段を上がるときには気がつかなかったが境内にあるある。



砂盛りには違いないと思うがそれほど高くない。

それがそこらじゅうに点在している。

境内地の色と少し違う濃いめの砂盛り。

年番さんがおられなかったのでその手法は掴めなかったが、おそらく砂モチの一種ではないだろうか。

(H24.12.31 EOS40D撮影)

今市の田んぼの注連縄

2013年03月12日 08時22分28秒 | 奈良市へ
大晦日の日に飾られる田んぼの注連縄。

奈良市今市の住民がされていることは判っているがどなたか未だに存知できないでいる。

それゆえ飾る時間帯はまったく判らない。

見つけてから3年も経つ。

付近を歩く人の話によれば家の注連縄飾りとともに作った注連縄を苗代をする場に立てるという。

今年のGWに苗代をされていた家族に尋ねたことがある。

「うちではないです」と云われたことを覚えている。

ここでは2か所あることを確認していたが、この年はもう1か所にもあった。

(H24.12.31 EOS40D撮影)