マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

新庄町鉾立神社神さんが通る砂の道

2013年03月11日 07時37分39秒 | 大和郡山市へ
今年の秋祭りに聞いていた神さんが通る砂の道。

年番にあたる当屋家が行っている砂の道である。

今では数少なくなった氏神さんを迎える砂撒きが現存している新庄町の鉾立神社。

かつては神社から集落に繋げる道に一本の砂を撒いていた。

砂の道は拝殿前で直角にする。

拝殿の前まで撒く神さんが通る標である。



後日に聞いた話では午前中に仕上げたそうだ。

当屋の都合に合わせた時間帯に撒かれる砂の道をよくよく見れば一本の線がある。

下書きした模様の線である。

それを目安に撒いたから真っすぐな砂。

まさに一直線で描かれた神さんが通る道である。

(H24.12.31 EOS40D撮影)

田中町甲斐神社伊勢海老の簾注連縄飾り

2013年03月10日 08時38分43秒 | 大和郡山市へ
田中町の甲斐神社の注連縄に生の伊勢海老があることを知ったのは今年の1月3日だった。

簾型の注連縄飾りを調査していたときに見た海老の姿に驚いたのである。

郡山市内で神社の正月飾りに海老が奉られているのは野垣内町の若宮社だけだったと思っていたのだ。

若宮社は茹での海老だが甲斐神社は生きた海老である。

簾型の注連縄は30日に結う。

今年は雨が降るやもしれないからと前日の29日にされた。

生きた海老はその日でなく31日の大晦日に取り付ける。

宮守から連絡を受けてやってきた甲斐神社。

朝から神社周りの清掃や正月迎えの飾り付けを手分け作業の最中にはお参りをする人も来る。

マツリの際に拝見した甲斐神社の絵馬は数々ある。



なかでも興味をもったのは牛を描かれた2枚の絵馬だ。

いずれも明治四年の奉納年代のようである。

前回は文字が判読できなかった絵馬に「氏子牛講中」とある。

田中町には「牛講」の存在があったようだ。



黒牛と赤牛が境内に放牧されているような姿に見惚れる。

簾型の注連縄は葉付きの竹と稲藁で結う。

両端に籾を付けた根付きの稲穂を取り付ける。

注連縄は拝殿の中央だ。

生きた伊勢海老は髭がピクピクと動いている。

白い板に括りつけて注連縄の間に納める。



そこにはウラジロ、ユズリハ、吊るし柿にダイダイ、昆布。

半紙で包んだ炭は紅白の水引きで括る。

ダイダイは代々が栄えるように、昆布は氏子の喜びで炭は町内の浄化(活性化とも)を意味するという。



その後も宮守たちの正月飾りの作業が続く。

編んだ〆縄は拝殿、舞殿、毘沙門天堂、鳥居、狛犬、燈籠、井戸、石碑に公民館も。

〆縄は左結い。

上に揚げるように結えば運が上がるという。

(H24.12.31 EOS40D撮影)

大晦日の買出し

2013年03月09日 09時32分14秒 | だんらん(大晦日買い出し編)
大晦日の買出しは県中央卸売市場。

朝一番に出かけた。

売り場商店はさまざま。

どの店で買うかは迷ってしまう。

昨年に買った店へまっしぐら。

何が目当てかといえばブリ。

とても美味しかったのでやってきた「都水産」。

半身で2475円。

奇麗にさばいてくれる。

造りにするのは腹の部分。

背はブリの照り焼きにする。

アラも食べられるので煮つけにする。

造りで食べるのは正月に入ってからなので皮はそのまま。

その日に皮剥ぎをする。

待っている間に気がついた売り子さん。

どこかでお見かけしたような。

おそるおそる尋ねてみれば山田町の人だった。

私のことも覚えていてくれた。

一品だけでは寂しいから2500円の貝柱も買ってしまった。



マグロは昨年の店が思い出せなくて「法魚」の店にした。

こいつは美味そうだと値段を聞けば4500円。

見利きがいいねぇと云われる。

見た目からして違うマグロは上もの。



これも美味いよと云われてかったマグロの尾が1500円。

奇麗にスジを取ってくれた。

ついでに買ったパックのマグロは500円。

安すぎる。



もう1軒は玉子焼きの「ビッグウエーブ」。

大きな玉子焼が270円。



これが美味いんだなぁ。

パクパクと食べてしまうので2個も買ってしまった。

(H24.12.31 SB932SH撮影)

矢田町正月のモチ搗き

2013年03月08日 06時51分11秒 | 大和郡山市へ
9臼もモチを搗くと話していた矢田町住民のⅠ家。

東明寺下の中村の地は急坂を登った山麓地。

雪が降り積もった日には車も通ることが難な道。

登ることも下ることもできなくなると話す。

モチを搗くのは家の外。

雨が降り続けるこの日もモチを搗く。

蒸すモチ米は3升ずつ。

熱々のモチ米を臼に入れて杵で搗く。

石臼よりも木の臼のほうが肌理が細かくなる。

本来ならそうとしたいが昔から使っている石臼で搗く。

搗いたモチはサイトウに運ぶ。



モチ粉は絶えず補充してモチをこねる。

鏡餅、コモチにコゴミとも呼ぶドヤモチを作っていく。

モチ搗きは体力が要る。

家族総出のモチ搗きは主に息子さんが行う。

コゴミはコゴメ。

ランク下の不出来なB級品の米の呼称である。

それを半分混ぜて搗いたモチはドヤモチと呼ぶ。

つぶつぶ感の歯触りが美味しいのである。

そのドヤモチをボロモチと呼んでいたのは私の母親。

大阪南河内の滝谷不動の出身だ。

それはともかくモチ搗きはまだまだある。

後半はコモチ、ドヤモチ、エビモチ、アオノリモチである。



搗き手は息子から替って孫息子に孫娘も。

交替しながら搗いていく。

毎年搗いているというから慣れたものだ。

腰つきが力強い。

馬司町の奈良県中央卸売市場で買ってきた干しエビやアオノリは大量に使う。

手掴みで何度も投入するエビやアオノリ。

塩も多めに入れて搗くモチ。

そのほうがモチに味がついて美味いという。

混ぜて返して中へ包み込むようにモチを返す。

ぺったん、ぺったん。

中から溢れそうになるが返しも上手くできていい具合。

搗いた出来立てのモチを手で握ってモチトリをするのは送迎しているⅠさんの役目。

いつもそうしていると話を聞いて訪れた家である。



出来立てのモチは焼いて食べる。

オロシダイコンに醤油かポン酢を掛けてモチを食べる。

これをゲンペイモチと呼んでいるⅠさん。



ほのかに香るアオノリのモチも美味しいゲンペイモチの名前の由来は判らないと話す。

搗いた鏡餅は田中町と同じように神棚などへ31日に供えるそうだ。

Ⅰ家ではカンノモチも搗く。

カンノモチは寒の入りから寒の内ころにカンノミズ(寒の水)で搗く。

搗いたモチは一旦は乾かしておく。

ほどよくなったモチを包丁で切って天井に吊るした竹にぶら下げる。

それがカキモチだそうだ。

(H24.12.30 EOS40D撮影)

田中町正月のモチ搗き

2013年03月07日 06時53分11秒 | 大和郡山市へ
正月のモチを搗くのは毎年のことと話すのは大和郡山市の田中町のM家。

三升二臼のモチ搗きは今でも杵で搗く。

主には神棚や仏さん、伊勢さんなどそれぞれに供える鏡餅は2段。

台所の火や水の神さんも供える。

「正月は搗いたらあかん」と近所の人から云われていたコゴメのモチ。

粳米を半分混ぜた、いわゆるドヤモチである。

この年は併せて1升のコゴメモチも搗いたドヤモチが美味しいと話す家人。

当主は村の鎮守の甲斐神社の宮守さん。

神社のお役目が多い。

この日は神社の注連縄作りであったが急遽に昨日となった。

そのおかげで家のモチ搗きができたと笑顔で話す。

神社のモチは買ってくる(かつては当番の家でモチ米3升搗いた)が家のモチは杵で搗く。

昔からある家の石臼で2臼。



家族3人となった現在はそれぐらいで丁度良いといって手でこねる。

(H24.12.30 EOS40D撮影)

柏木町素盞嗚神社の正月飾り

2013年03月06日 06時51分02秒 | 大和郡山市へ
柏木町のマツリは10月17日と18日。

とんどは2月1日と決まっていると話すO氏。

氏神さん付近を中心にした10数軒の旧村集落。

北側はインキョと呼ぶ分家が建ち並ぶ。

Oさんが知る限りでも15軒の旧村は新興住宅が増えて氏子入り。

今では27軒になるという。

2年前から新町の人もトーヤ入りした。

そのトーヤが飾る素盞嗚神社の門松飾り。

前日辺りに立てたそうだ。

前年には砂盛りした上に松竹梅の門松を立てていた。

今年はロープで縛った箱の台。

松はオンとメンマツ。

3段の枝をもつ松が基本だというがトーヤによってはそれを知らずに立てているようだ。

かつてのトーヤは農家だけであった。

稲を育てていた時代は神社の神田があった。

神社行事の初行事は1月17日の祈年祭。

終わりが12月の第一日曜日に行われる新嘗祭で一年を終える。

こうして終えた村の正月迎えが門松立て、砂モチと思われる砂盛りや砂の道であった。

農家であったトーヤのときの注連縄はゴンボであった。

この年も細長いゴンボの注連縄ではあるが、もう一つの注連縄もある。

それはどう見ても市販のようにかっしりとした製品だと思った。

昨年に訪れたときの神社は鬱蒼としていた。

この日は風通し、見通しもすっきりとした境内になっていた。

話によれば十津川村から専門の植木師に来てもらって伐採したという。

奇麗な砂はバケツで佐保川から掬って神社に運んだ。

1杯は神社の砂盛り。

もう1杯は家に運んで玄関に砂を撒いて隣近所の家々を繋いでいた砂の道。

佐保川土木の要請もあって中断した砂運び。

それと同時に砂の道が消えたという。

かつてのとんどは境内でしていた。

それから神社下の四ツ辻に移ったが危ないからといって貸してくれた田んぼの空き地になった。

とんどの櫓や火点けは役員が行う。

昔は朝の7時だった。

今では時間をずらして朝8時。

前回は使わなくなった太鼓台も一緒に燃やした。

太鼓台は昭和10年に村の婦人たち4人が寄進したもの。

作ったが担ぐことはまったくなかった。

その後も少子化の時代を経たが村の人数は増えなかった。

今後も担ぐことはないだろうと無用の太鼓台を燃やしたというのだ。

今年の1月31日に拝見した太鼓台は写真に残された。

Oさんは浄土宗光明寺の檀家役員。

寺住職が亡くなったあとを継いだのは娘さん。

2年間の修行の身であるという。

寺行事に正月の初祈祷、11月にはアズキガユが出される十夜もあるという。

(H24.12.28 EOS40D撮影)

小林町杵築神社簾注連縄掛け

2013年03月05日 08時49分09秒 | 大和郡山市へ
度々訪れる大和郡山市小林町では年末の28日に左座、右座のトーヤが注連縄を作って杵築神社に掛ける。

旦那は仕事や身体が不自由やいうて両座とも婦人が注連縄を作っていく。

簾型の注連縄もトーヤが作るのではあるが作り方が判らないからと頼まれたH夫妻が支援する。

Hさんは農業を営む。

作業小屋はいつも賑やかな顔ぶれが集まる。

この日もほとんど同じ顔ぶれだ。



七、五、三の注連縄は15本。

ウラジロとユズリハを括りつけてできあがる。

一方の長い注連縄。

葉付きの笹竹を水平に立ててひと房ずつの縄を結わえる。

葉の方から順繰りに結わえる。

堅く縛ってその上に次のひと房。

この作業を繰り返す。

重ねた縄束をひと房ずつ手渡す。

次から次へと重ねていく。

長さが整えば端っこを括る。

こうして外れないようにした簾型の注連縄は2本。

3mもある長い方は一の鳥居に掛ける。

もう1本の注連縄は1m80cm。

これは本殿前の鳥居に掛ける。

房の数は46本と36本であった。

縄結いの藁はモチワラだ。

間隔は詰めるほどもなく開きすぎることなく適当な距離。

できあがれば中央にウラジロ、ユズリハを括る。

ユズリハは内に折れ曲がるようにしておく。

ダイダイも付けてできあがればはみ出た縄を挟みで奇麗に揃える。

昨年はSさんの倉庫だった。

そのときも支援したのがHさん。

40年間も支援しているというベテランの話にキツネさんの御供があったそうだ。

オッパンを割り箸で摘まんでアゲサンと共に地蔵さんに供えた。

そうしておくとキツネが食べに来ると話す。

昨年に聞いた家の正月のあり方。

門屋に飾った注連縄のユズリハにおっぱんを供える。

それはカンマツリとは云わなんだと話す。

それはともかく出来あがった注連縄は杵築神社の飾りもの。



本社、狛犬、燈籠に参籠所、地蔵さん、お寺、蔵などに飾る。

簾型の注連縄には名前なんぞなかったと云う。

右座のNさんの孫も応援にやって来た。

中学3年生の孫は逞しい。



高い鳥居に取り付けるには梯子が要る。

若者は難なく上に登って取り付け作業。

後継者は逞しく育っている。

そのような様子を拝見したいと仕事納めの日に民俗博物館の学芸員もやってきた。

来年の1月6日にはお祓いがある。

造営される本社、参籠所などを解体するお祓いである。



注連縄作りの最中に出てきた民俗文化の話題。

「なるかならんか」と言ってカキの木をナタで削る真似をする。

姉弟の二人でしていたと話すSさんは宇陀市菟田野が出里。

佐倉の地だそうだ。

実家のH家で行っていた「なるかならんか」の記憶。

クリの木もしていたそうだ。

クリの木も成り木。

いずれも実成りの木である。

その日は七草粥も炊いて食べていたそうだ。

作業の合間にぽっと出る大和弁。

トッキョリ、オマハン、ホテカラ或いはホンデナの言葉を連発するH婦人。

懐かしい言葉に思わず反応してしまった。

そんな話題は注連縄掛けを終えても連発する。



賑わいはもてなしのご馳走で満腹になった。

(H24.12.28 EOS40D撮影)

小泉神社奉納砂モチ

2013年03月04日 07時52分47秒 | 大和郡山市へ
バケツ一杯の砂を小泉神社に持ち寄った。

それを砂盛りにした。

神社境内の砂は参った折り、知らず知らずの間に持ち帰ってしまう。

年に一度はその砂を返しにくる。

年末のころである。

富雄川から掬った砂を持ってきた。

奇麗な川の砂だったがいつしか汚れてしまった。

今では氏子の商店かじ安の人が奉納してくれる砂盛り。

その数は持ってきた量で変化する。

今年も奉納してくれた砂盛り。

それは砂モチの風習だと話す宮司。

その件は送迎している小泉の婦人も話していた。

1軒、1軒が持ちこんでいた砂盛りだったと話す。

いつしか砂モチの風習はしなくなったが、心ある氏子が盛ってくれる砂は年によって量が異なる。

富雄川の奇麗な砂も消えて今は買ってきた砂。

一年間に参る人たちが知らず知らずのうちに靴底にくっつけて持ち帰ってしまうのである。

そのようなわけで境内の砂が少なくなってしまう。

だから砂を盛り込むということだ。



この砂は2月11日に行われる御田植祭の砂掛けに用いられる。

それまでは砂を盛った状態にしておくと話す宮司。



地元のある家の方から無用になったことで神社に預けられた馬の絵馬を拝見する。

何のための絵馬であるのか判らず悩む二人。

神社でなく家にあったという絵馬だ。

腹ボテの馬から考えればお産を無事にあげたいという願掛けであるかも知れない。

ところで砂モチの風習を調べてみれば全国的な傾向にあるようだ。

大和郡山市内の柏木町でもその風習があったそうだが、佐保川を管理する県土木からの注意があって止めたという。

その昔の柏木町では川の奇麗な砂をバケツで2杯汲んでいた。

1杯は神社の砂モチに使って、もう1杯を家の前の道に砂を撒いていたという。

それは神さんが通る砂の道だと話す。

市内の4か所に現存する砂の道と同じ風習だったようだが、小泉町にはその伝承はなかった。

(H24.12.27 SB932SH撮影)
(H24.12.28 EOS40D撮影)

鴨神申講の山の神

2013年03月03日 22時19分48秒 | 御所市へ
かのえ(庚)の申の日は山の神参り。

御所市鴨神の申講(さるごう)の行事である。

申講は7軒の営み。

11月になったときもあったそうだが基本は12月初めの庚申の日。

申の日が2回ある年は月初め。

3回あるときは中日に行っている。

昼に集まって集めた御供を大釜で炊いている。

セキハンとも呼んでいるアズキメシだ。

御供は子供たちが米や小豆を集落を巡っていただいてきた。

大西垣内は20戸ほど。

巡る時間は1時間もかかるという。

本来は山の神参りをする前週の日曜日であるが、庚申の日の関係で12月初めの日曜日になったと話す講中。

今年の冬はよく降る雪の日。

これまでに3回も積もったというから寒い年だ。

今月初めに行われた西佐味水野の隣垣内になる鴨神大西垣内はそれほど遠くない。



百メートルも離れてない垣内であるが、山の神さんに向かう道中では「やーまのかーみの、おろおろー」と唱和する鴨神申講の山の神。

ミニチュア農具のクワ、スキ、マングワ、カラスキに山仕事の道具のカマ、ナタ、オノに片足の藁草鞋などは水引きで括り付けた笹御幣。



それを持つ当家を先頭に申講の人たちが向う先は山の神。

山の神さんが奉られている地はクロバラ。

小字の名である。

ヤマノカミと云う地ではなくクロバラである。

小字ヤマガミは大西集落のもっと上のほうだったと話す。

葛城川の最上流。

その下流に架けた木橋を跨ぐ。



上流はかつて御所ナガレと呼ばれる大規模な土砂崩れがあったそうだ。

F氏の元屋敷はナガレに合わなかったものの、危険な地だと判断されて西に移したという。

そこがカワハラだったという。

「やーまのかーみの、おろおろー」の2番手は2時間もかけて大釜で焚いたアズキメシ(セキハンとも)を桶に入れて抱えていく。

洗い米、塩、生サバなどの神饌持ちも続く行列。かつては子供もついていたそうだ。



山の神には3年前に奉ったスキ、クワ、カマにナタが残っていた。

幣や竹の神酒筒は朽ちていたが農具山具は奇麗な姿で残っていたのだ。

昨年に奉ったマングワもある。

手の込んだ組立型の農具である。

カーブが難しかったというカマもある。

年番の当家さんが作る山の神の仕事道具個数に決まりはないと話す講中は7軒。

かつての藁草履は両足の一足だった。

大きさは今の倍ほどもあった長さ20cm。

藁草履の鼻緒は締めない。

山の神さんはあわてん坊だから中途半端にしておくと云う。

御供を供えて灯明に火を灯す。



山の神の祠の前で山の仕事の安全や豊作に感謝する祈りを捧げて「身潔祓詞(みそぎはらへのことば)」を唱える。

参ったあとはその場で直会。



供えたアズキメシ手で受けて口にする。

手御供(てごく)と呼ぶ作法である。

作業場に戻れば村の人たちが重箱や鍋を持ってきてアズキメシを詰める。

山の神さんのありがたいメシである。



今では作業場であるが、7、8年前までは当家の家だったそうだ。

講中の一人は上頭講(じょうとうこう)の一員でもある。

昔は20軒もあった上頭講も今では7軒。

秋祭りには「ごへいがまいるぞー おへー」と鴨神に鎮座する高鴨神社に向けて出発する際に唱和する。

鴨神は佐味郷と呼ばれ東佐味・西佐味・鴨神下・鴨神上の4カ大字からなる地域。

それぞれに講中がある。

平成19年に取材させていただいた講中は鴨神上の戌亥講。

唱和は「よろこびの よろこびの ごへいがまいる うわーはーはい」であった。

唱和は道中の所々の辻でもするそうだ。

かつては一番を勤めたという上頭講。

「ごへいがまいるぞー おへー」の唱和に続いて「もうひとつや もうひとつや おへー」と返す台詞もあるという。

昼はトーヤの家でヨバレ。

酒をどっぷり飲んでから出発するらしい。

(H24.12.25 EOS40D撮影)

ドウゲの聞き覚書

2013年03月02日 09時37分44秒 | 楽しみにしておこうっと
大塩の年中行事に度々訪問した2年間。

今回引き継がれた二人のドウゲさんから随分と教わった。

お聞きした行事はさまざまで、話者が話した行事は私にとって重要な課題。

今後の取材のために覚書として記しておく。

10月30日は八柱神社の神送り。

その一か月後の11月30日に戻ってくる神さん。

両日とも籠りをするという。

かつては社守(宮守)だけが参籠して籠ったそうだが、今は年番のドウゲも加わる。

それも夫婦で籠るというのである。

珍しい形態である。

一方、社守といえば家族総出だ。

曾孫まで連れてくるというから相当なものだ。

11月17日に近い日曜日はテンノウのマツリ。

天王祭の呼称があるマツリは村中が夕刻に集まってくるそうだ。

八柱神社はかつて八王子社と呼ばれていた。

八王子社はスサノオノミコトを祀る社。

子供が8人いたかた八王子。

八柱神社の年中行事に含まれないテンノウのマツリであろう。

伊勢講の営みは4月と12月の16日。

現在はその日に近い日曜日で4組の講中が八柱神社に集まる村行事として行われている。

Fさんが話したシオセ講。

神野山の塩瀬にある地蔵さんを奉る講中である。

シオセ講は一年に2回のお参り。

4月と9月の23日に近い日曜日だそうだ。

12月31日の大晦日の晩。

年越え参りが行われる。

村の若い人たちが作った竹灯り。

本数は多い。

数年前から始まった年越えの灯り作りだ。

かがり火を焚いて参拝する人を迎える竹灯り。

石の階段一つ一つに置く灯りの標。

家族総出で参る人が多くなったそうだ。

その日の晩はフクマルさんを行っている。

除夜の鐘が鳴る前の時間帯。

今年一年のお礼と来年も福が来ますようにと祈るフクマルさん。

一束の藁を持って家を出る。

坂道を下った辻に置く。

ウラジロを広げて1個のニギリメシを供える。

東に向かって手を合わす。

その際に唱える詞が「フクマルコッコー」。

これを3回繰り返す。

真っ暗な辻で行うフクマルさんの風習だ。

暗い道を戻るには火が要る。

マメギの束に火を点けて戻ってくる。

マメギはタイマツとも呼ぶ灯りである。

フクマルさんの灯りは家に戻って竃の火にする。

正月の雑煮を炊く火である。

正月の雑煮はカシライモの雑煮にキナコを塗して食べるキナコ雑煮をしていると云う。

カシの木はヒバシにする。

それを「オンボサン」と呼ぶ。

落葉樹のシデの木の生木を囲炉裏に燃やすという具合で行っているKさんのフクマルさんは拝見したいものである。

年明けの夜。

昔は井戸の若水を汲んで正月の雑煮を作ったというKさん。

1月7日は山の神に参る

朝は早くて陽が昇る前の6時だ。

人に会わないように出かけるという。

大塩では各垣内の4か所で山の神参りがあるそうだが、K家がある垣内は4戸の集落。

藁を敷いて半紙を広げる。

そこに青竹を立てる。

中央に1本で周囲が4本。

四隅に立てる。

中央の竹は周囲より高くしてミカンを挿す。

ミカンはコウジミカンだ。

コウジミカンは山添村各地であったそうだが種類は3種類。

キンコウジ、ワセコウジ、ツチコウジの三種があったと云う。

敷いた半紙にクシガキ、クリ、トコロイモ、ヒシモチと山の神さんのモチ1個を供える。

そのモチは参ったのちに家へ持ち帰り七草粥に入れる。

七草粥を食べる前日は七草菜のナッパキリの作法があった。

当主の記憶ではまな板に置いたナズナを包丁で切る際に唱えていたのはおばあさん。

「・・・なんとかのトリ・・」の台詞があったそうだ。

それはともかく山の神の場でのカギヒキ。

カシの木はフクラソと呼ぶ樹木に引っかけてカギヒキをする。

フクラソの別名はフクラシだと話す。

「ニシノクニノイトワタ ヒガシノクニノゼニトコメ アカウシニツンデ ウチノクラヘ エントヤー エントヤー」と云いながらカギを引く。

山の神に参る途中で藁のフクダワラを4本作る。

1本は山の神のカギに取り付ける。

3本は参ったあとに家へ持ち帰る。

男の数だというフクダワラには山で拾った小石を1個ずつ入れておく。

参ったあとは家に戻るが、その道中でカシの木を伐って持ち帰る。

その本数も男の人数分の3本である。

それをキリゾメ(伐る初め)と呼ぶ。

12月31日はカシの木のキリオサメ。

山の仕事納めの伐り納めだそうだ。

帰るまでに囲炉裏をホソの生葉を燃やしておく。

煙が立ち上がる。

その煙はビンボウ神だというが、行為は新しい福の神を迎える作法だそうだ。

伐りとって持って帰ったカシの木は家の前庭に立て掛ける。

こうして終えた7日の山の神参り。

その日の午後はシモゴエ。

溜まっている肥えを田んぼに捨てる風習があったそうだ。

1月14日(平成25年)はブトノクチ。

ブトノクチとも呼ぶ家の風習は夜ご飯を食べ終わったあとにしている。

ブトクスベは綿の肌着を藁で巻いて火を点ける。

夏の仕事をしているときに腰に挿して仕事をしていた。

日常の生活だったようだ。

ブトノクチはとんどの前日。

モチを千切って囲炉裏にくべる。

「ハチノハリ ムカデノクチ ハミノクチ サシタリカブレタリ ミナヤケヨ」と云いながらモチ片を焼く。

元々は小正月の15日に行っていたがハッピーマンデーとなった成人の日に合わせているブトノクチは家族が揃って行っているそうだ。

かつては「ナルカナランカ」の風習をしていたというKさん。

「ナルカナランカ ナタヘンカッタラ キッテシマウ」と云えば「ナリマス ナリマス」と相方が答える。

その風習は1月15日だった。

三又になっているカキの木にナタをあてて木肌の皮を剥く。

傷を付けるような感じだった。

姉さんがナタで伐って「ナルカナランカ」をすれば弟のKさんが「ナリマス」を勤めた。

5歳くらいの頃だったという光景は60年も前のこと。

「ナルカナランカ」のカキの木にはゼンザイのモチをくっつけた。

木肌に虫が入る行為だという。

そういった話をしてくれたK家。

1面に六百束。

4面あるから相当な量の萱を葺いた家があった。

平成14年までは萱葺き家だったK家。

建て替えた際に発見された棟木に文字があった「寛保元年(1741)酉歳(六月)」。

拝見した棟木に「奉修五大導秘法新宅長久子孫繁榮処」とある。

270年間も住んでいたという屋敷は40年に一度が葺き替え。

20年に一度は挿し替えをしていた。

40cmぐらいに一段ずつで26段に挿したという萱葺き家は県立民俗博物館の職員が頼みに来たという。

博物館が建設された当時というから昭和47、8年ぐらいの頃。

建て替える際には連絡してほしいと云われていたのでそうした。

ところが博物館の工事は進行していた。

そう民俗博物館に残されている民家群。

すでに移築工事が始まっていた。

時すでに遅しで話しは破談になった。

六八の間取りと呼ぶ家は六畳八間。

珍しかったそうだ。

当時の面影は写真に納めて残したと話す当主が続けて話す。

ドングリの実を採った木。

木の内部を刳り抜いて竹を挿し込んだ。

キセルのような形にしてタバコを吸った。

刳り抜き工具はヒゴノカミ(肥後守)。

懐かしい道具である。

同年代のご主人と話が合う子供の頃の作業は手刀だった。

目出度いときや不幸ごとの際に手伝いをするヨリキ制度がある。

ヨリキは与力の漢字であろうか。

5軒の分家筋のヨリキは祭礼の進行を采配する重要な役どころ。

大塩、月瀬、波多野(村)、岩屋、春日ではヨリキ制度があるが東山(村)に行けばそれは無いと云う。

(H24.12.23 EOS40D撮影)