「ドーダ」とは自慢げな様子で鹿島の最近の見地。その代表として小林秀雄を分析。難解な文章がどうして一世を風靡したのかを探っている
小林のエッセイに「その作品が優れているかどうかよりも、その作品が素晴らしいといっている社会があるというのが現実だ」というのが印象に残っている。これを鹿島は小林について「『花』の美しさ」(観念主義)を客観している(つもり)が(実は)「美しい『花』」(現場即応主義、帰納主義)の主観があるという鮮やかな分析をしている。
不真面目に見える内容だが、ユニークで楽しめる。知見を整理すると
①ユースバルジ(人口学)
・家庭環境(準母子家庭、真正Mの泰子との同棲)、社会状況、人口要員から「ドーダ」は決まる→東大の仏文科の隆盛
・若人人口の急増世代は、「人生砥断家」、「性急な絶対糾問者」のランボーを求める「過渡期」→バブルのサブカルチャーで崩壊
②SMからの男女経験分析
・泰子は真正Mだが、小林はSになりきれなかった、互いに相手を誤解→小林の女性体験は貧弱なのに「女」を知ったと思い込む
・ヒモの「殴り営業」は娼婦の願望をかなえる→ここまでできなかった
③ヤンキー度
・齊藤環「世界が土曜の夢なら」の「ヤンキー度テスト」11種類のヤンキー特性にほぼ該当
・文章はマクシム(箴言)であり論理性がない
・翻訳もコンスタティブ(内容)でなくパフォーマティブ(訳文の文体や息遣い)は「誤解力」→ランボーの「私は私の頭に浮かぶような言葉で表現したくない」言語的ドツボを小林が勝手にランボーの詩人廃業人生と換骨奪胎
・過剰な「ドーダ」で人生をおくるが、バブル時代に埋没
笑えて面白いが難解、小林秀雄が難解なのは「ドーダ」だったからだと理解した。この威力で、わからないけどすごいと思わせたのがすごい(表現が小林秀雄的になってきた)