虹色教室通信

遊びや工作を通して 子どもを伸ばす方法を紹介します。

調べ学習にチャレンジ♪ と 「会話」の話

2018-08-12 22:06:24 | 息子とおしゃべり(ときどき娘)

わが子が小学生だった頃、もっとも大切にしていたのは、

ワークをさせることより、何かを教えるよりも、まずよく「会話をする」ことでした。

 

マンガを読んだり、テレビゲームをしたり……

子供たちは自由に過すことが多かったので、していることの質はどうか…?

というと実に怪しい時もありました。

 

しかし、子どもが、「どうかなぁ…」と思う遊びに傾倒しているときも、

その内容について親子で深い部分まで掘り下げて討論するようにすると、

それはそれで、子どもにとって、いい成長をもたらしてくれたように思います。

 

小学校中学年頃、娘の場合、きちんと机に向かうことも多かったのですが、

息子はとにかくゲームをすることが好きで、

今日のところは勉強には目をつむっておこう……という日も よくありました。

そこで、ワークをさせるかわりに、息子の大好きなゲームについて語り合ったり、

調べたりしました。

当時、私は、娘や息子の言葉をできるだけそのまま記録して残しておきたいという

思いがありました。そこで、日々の出来事や家族会議の様子を会話を中心に

書き残していました。(原稿用紙にして何百枚……。)

その頃は、あまり深く考えずしていたのですが、

今になると,その時期その時期の 心や知能の成長の記録として大切な宝物に

なっています。(乳幼児を育てている方も、写真だけでなく、おしゃべりも

記録しておいてあげてくださいね。)

 

それで、この調べ学習というのも、息子と私が、ひとつの疑問について会話を

膨らませていった過程の記録が中心になっています。

 

息子が小4の時の家族の会話です。家族でゲームをしているとき、

息子が、どうして将棋ばんは、9×9マスなのか?ということに疑問を持ちました。

 

息子 「チェスもオセロも8×8マスなのに、どうして…

将棋はなんで…9なんて2つに割れない中途半端なマス目をしているんだろう?

戦うとしたら、領土がきちんと半分ずつ分かれた方がいいんじゃないかな?

不思議だ。」

 

母「もしかして他の国の領土に侵入していくような戦い方をする人々と、

決闘場をもうけて戦ったとか?将棋がどうやって生まれたか知りたいわ。」

 

父「奇数っていうのは、覚えやすいからだよ。きっと。」

 

息子「覚えやすいって?」

 

父「将棋のこまの位置を暗記して、頭で動かすとき、偶数より奇数の方が

ごちゃごちゃになりにくいと思うよ。」

 

数日後 なにやらひらめいた息子。

 

息子「9は3で割り切れる数でしょ。自分の陣地、相手の陣地、中心の戦いの場が、

まったく同じになるんだよ。それから、オセロが64マスなのは、

こうじゃないかと思うんだ。

オセロは黒と白の多さで決着するから、マスは偶数でなくちゃいけない。

でも100マスでは多すぎる。

次に小さいマス(でちょうど良いのは…)は8×8の64なんだ。」

 

父「それは、おもしろいアイデアだ。」

 

母「本当によく思いついたね。うちの家族は、推測したり仮説を立てたりするのは

好きだけど……。そう、実験するのもすきだよね。

でも、きちんと理由をたしかめて、くわしく調べることはめったになかったでしょ。

今度、図書館を使った「調べる」学習賞コンクールっていうのがあるらしいから、

納得がいくまで調べてみない?」

 

息子「ぼくは、ずっと前からさいころがなぜ6までなのか、

トランプがどうして52枚なのかと不思議に思ってきたし、ゲームと数の秘密について、

もっと知りたくなった。チャレンジしてみるよ。」

 

…という会話からスタートした、調べ学習でした。

で、調べる段になって

息子「ぼくの考えは仮説だから、本当のことをしらべてみなくちゃってお母さんは

言うけど、本にのってることも仮説の場合があるんでしょ。

いろんな人が、いろんな別の仮説を立てている場合とか…。

大昔のことなんて実際見た人いないんだもん。」

 

母「でも、思いつきの仮説とたくさんの事実にもとづく仮説は、別物よ。」

 

息子「ぼくさ、さいころってだれがつくったか不明だと思うよ。

昔の人が、石ころころがして表とか裏とかしていて、自然にさいころになったのかも。

だから、本当に作った人とかいるのかな?」

つづく。

こんな風に、小学校時代は、勉強させるより、

いっしょに会話を楽しむことが多かったです♪今になると、

かなりプラスになっている気がします。

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調べ学習のヒントになるかと思うので、少し続きを書きますね。

息子といっしょに調べ学習をする時、私たちは、本を見て表にまとめるのではなくて、

最初に「表の枠」を作って、あとから本を調べながら整理していきました。

そうすると、表に空白ができて、きれいに仕上げることは、できません。

いくら調べても、資料がないことも多いからです。

しかし、その空白が好奇心を刺激し、たくさんの本に接する機会を作ってくれました。

もしこれが、すぐれた資料をただ整理し、要約する形でまとめていたら、

調べが、わくわくする体験にならなかったのではないでしょうか?

はじめに、インドの象棋(しょう棋は、インドで生まれたそう。

ただ、日本では象に乗って戦う習慣がないので当て字の将がつかわれたのだとか。)

チェス

中国象棋

日本の将棋

のマスの数、図、ルール、ルーツ、特徴について、表にまとめました。

そこで、息子が驚いたのは、9×9マスは、

日本人が考えたとばかり思っていたのに、

子ども用の中国象棋で7×9マスの写真を見つけたことでした。

息子との会話の中で、

東洋的な考え方から、マスに奇数のアイデアがもたらされたのではないか?

という新しい仮説が生まれました。東洋の過去の「家」制度からいっても、

チェスのように女王が戦場に出てくるゲームは受け入れられなかったのでしょうか?

つまり、チェスのようなゲームから、女王が除かれて 奇数になったのか……??

そう考えるうち、何時代に将棋や囲碁が日本に入ってきて、

どのように遊ばれていたかを調べないと、こんがらがってきました。

そこで、息子は、はじめて「歴史年表作り」にチャレンジしました。

そうして進んだ調べ学習は、さいころのなぞに取りかかり始めたとき

最高にわくわくするものになりました。


当時の息子の作文です。
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「さいころのすごいなぞ」 4年○組○○○○
図書館でとりよせてもらった本は大人向けの専門の本だった。
けれどびっくりするような写真がいっぱい載っていて、ぼくは夢中になった。
一番驚いたのは、紀元前8世紀のアッシリアのさいころ。
他の資料では、ずっと、後になっても、
ぼうの形や動物の骨のさいころを使っているのに、
なぜかこんな昔に立方体のさいころが。
おまけに絵のさいころじゃなくて、今とおなじ玉の数を
あらわしている。写真をじっと見ていたら、横の面に大きな穴のようなものが見える。
なんだろう。
「この数なんだろう。」とお母さんが言ったので、
ぼくは急いで自分のさいころを持ってきて、
面と面をくらべてみた。
4のはずだ。
でも、穴はひとつみたいだけど。
「昔のサイコロは、今とおなじ玉の位置とは限らないよ。」と
お姉ちゃんが言った。
ぼくは、さいころのなぞを考えるのが、おもしろくておもしろくて、
こういうことを調べる学者さんになりたい、
と思ったくらいだった。
でも前からなりたかったゲームをつくる人になる夢も捨てがたい
ので、「将来はゲームをつくる人になって、参考のために、
そのなぞを調べたりする人になりたい。」と言った。
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うちの息子は、何をするにも、たらたらぐずぐすする性格で、
宿題に取りかかるのも、明日の準備をするのも、とにかくあとまわし…。
ねころがってゲームの攻略本を何時間も眺めていたり、
休みになると食事に帰るのも忘れて遊びほうけていたりしました。
1つくらいは習い事をさせたいと思っていたのですが、小学校の6年間、
頑固に拒絶して、何もせず……。
それでも、こうした作業をいっしょにしてみると、
そうした子の中に広がるイマジネーション溢れる世界に触れたような
心地がしました。
それぞれの子に、それぞれの個性……わが子もその通りです。
 

 

教育と自由  息子とおしゃべり 続き

2018-05-01 22:38:03 | 息子とおしゃべり(ときどき娘)

適度な「しばり」が生む学ぶ意欲と喜び と 数学について  息子とおしゃべり 

の続きです。「しばり」の話が途中でどこかへ行ってしまったので、タイトルからどけました。

 

息子 「教育は自由にあるべきだって話でいえば。

小学生の頃、学校の先生に立方体の体積の説明を受けていた時、先生の説明だと納得がいかなくて、

自分なりの考えを言うと、間違っていると決めつけられて、書いた説明にバツまでつけられたことがあってさ。

大学に入って、今考えると、やはり自分の持っていたイメージは間違いではなかったし、

今ならそれが正しい理由を説明することもできるよ」

 

わたし 「立方体の体積の求め方の説明って、どういうこと?」

 

息子  「立方体の求め方について、当時の先生はブロックを積み上げるイメージで説明していたんだ。

ぼくは、高さについて、引き伸ばしたり、縮めたりするイメージで考えていた。

点が0次元なら、線は1次元、平面は2次元だよね。上下、前後と左右のある立体となると3次元。

そうして2次元から3次元に高さのイメージを加えるとしたら、それは縦方向に

引き伸ばされたり、縮められたりするイメージで表現できるんじゃないかと思ったんだ。

といっても、ブロックを積み上げてイメージすることが間違っているわけじゃないし、

実際にそうしたものが教科書や参考書なんかの説明として載っている場合もある。

問題なのは、小学生用の算数では、たとえ教科書の定義であっても、多少はしょって

説明してあるのは仕方がないことで、その説明には穴があること、語弊があることを

教える側は理解していなくちゃならないってことさ。

それを念頭に置かずに、教科書に載っていることだけが正しくて、それ以外の意見を

全て間違いとしてしまうのは、おかしいよ」

 

わたし 「そうよね。でも、お母さんもブロックで説明したりするけど、いいのかな?

まず、子どもに具体的なイメージをつかんでもらいたくて」

 

息子 「お母さんの説明はいいと思うよ。それに、子どもに

わかりやすく説明するという教育の部分をほっぽりだして、

数学の定義として正しいかどうかばかり議論するのはどうかとは思ってるんだ。

ただ、子どもが先生の説明とは異なるイメージを持った時に、

安易にバツをつけるのではなく、それが物事を考えるきっかけになるよう

教えるのが大事だと思ったんだよ」

 

わたし 「そうよね。お母さんは、たいした教える力はないけど、

教室の子らが、数の世界と自分の頭で考えることに愛情を持てるように、

そうした場作りを心掛けているわ」

 

息子 「確かに、工作をすることで、抽象化された世界を扱う空想イメージが広がるよね。

数学って、数を抽象化したものだってことを理解すると、急に易しくなるものでもあるんだ。

子どもの頃に、ねんどとか水とか砂とかブロックとか、さまざまな素材と触れ合って、

抽象化に必要なイメージの豊かさを養うことは、すごく重要だと思うよ」

 

 


適度な「しばり」が生む学ぶ意欲と喜び と 数学について  息子とおしゃべり

2018-04-30 18:06:19 | 息子とおしゃべり(ときどき娘)

(写真は、どんなおもちゃよりハサミとセロテープが好きな3歳4か月のAくん。

ビー玉コースターを作っています)

 

ゴールデンウィーク中で家にいる大学院生の息子と、教育についてのこんな話題で盛り上がりました。

最近の息子は、ゼミでの研究以外に競技プログラミングと数学を趣味とする仲間で作っている研究会

での活動に明け暮れています。

 

わたしが、「子どものやることを決めてしまったり、必要以上に干渉するのはよくないけど、

何から何まで子どもの望み通り自由にさせるのも、やる気や楽しみを奪うのよね。

適度なしばりは、あった方がいい場合も多いわ」と言うと、

 

息子が、「ああ、わかるわかる。ぼくも小学生の頃、お母さんが時々、

今の時間はボードゲームはしてもいいけど、テレビゲームはだめ、とかちょっとした

しばりを作ってたこと、今、振り返るとよかったと思うよ」と答えた。

 

わたし 「そうよね。でも、大人の考えで、テレビゲーム禁止とまでしたらだめだと

思ったのよ。

誕生日には、自分がほしいって言ったものを、言葉通りにもらってたでしょ。

テレビゲームのソフトを買って

よく遊んでたよ。そんな風に、放任して自由にさせる部分と、

ちょっとしばりがある部分の両方が必要だと

思ったのよ。お母さんは小学生の頃、すごくマンガ好きだったけど、

自由に読ませてもらってた面と、

思う存分とまではいかないしばりの面があったわ。

それで、物語を欲する子どものエネルギーで、手あたり次第に本を読んでいて、

読むうちにマンガより本の方に

面白さを感じるようになっていったわ。

しばりといっても、あくまでも、スポーツやゲームにルールがあるように、

今、始まりと終わりがある枠内で

のちょっとしたしばりのことで、完全に管理してしまったら、その良さが失われるとも思う」

 

息子 「小学生の頃は、テレビゲームとボードゲームの違いがわからなかったけど、

考える部分がちがうから、そうしたしばりがあったからこそ得た考えるプロセスの面白さや

思考を発展させられた面があると思う。

遊びが、完全なお客さん状態で、娯楽として楽しむだけのものになったらつまらないからさ」

 

わたし 「そうよね」

 

息子 「ただただ受け取る側じゃなくて、作ってみる、ないならないで創造してみるって

ことが可能なくらいのしばりはいると思うよ」

 

わたし 「がんばって学んだら、ごほうびに何かをあげる、テレビゲームのような好きな

遊びをやらせてあげるというかかわりは、子どもによったら必要な場合もあるし、

全面的に反対というわけじゃないけど、

学びからも、遊びからも、そこに潜んでいるより興味深いものに気づく

機会を奪ってしまうと思うわ」

 

息子 「どういう部分に価値を感じて消費物中の奥深い世界までの価値観に気づくかは、

それぞれの子どもの個性にもよりけりだろうけど」

 

わたし「虹色教室は、あくまでも算数を中心にした教室ってしているのは、

算数そのものの中に子どもを

わくわくさせる要素がたっぷりあるからなのよ。

子どもがパン屋さんごっこをするために、10個パンを並べて遊んでいる時に、そのまんま

パンの個数を数えたら、1,2,3,4……10と数えるわけだけど、同じものを前にして、

ひとつが10円だとしたら?と考えると、たちまちそれが100円になるし、

100円だったら?と考えると、1000円になる。

3個買うごとに1個おまけすると考えて遊ぶと、6個注文すると、いくつパンがもらえるのか

と考えるのかしらと

ドキドキするし、パンごとに値段がちがうとしたら、ちょうど500円になるように買い物するには

どうすればいいのか

と考えて買い物もできるの。同じパンを前にして、

こんなにも複雑に奥深くいろいろなことを考える

楽しみが味わえるのは算数ならではだから」

 

息子 「ああ、それはわかるよ。日曜数学会(「日曜数学」というのは、

趣味でやる数学研究のこと。

研究成果を5分で発表する会が開催されている。息子は毎週、この放送を楽しみに見ています)で、

別に数学にこだわるわけじゃないけど、

なんで化学や物理なんかじゃなくて、

数学なのか、っていうと、基本的にどんな分野に行っても、数学っていうのは必ず入ってて、

話が科学や物理の話になったり、古典の話になることもあったりする。

あらゆるもののなかに潜んでいる数学なら、

数学を通して、いろんな話ができるってことを話してたよ」

 

わたし 「そうそう、ボードゲームしてても、絵本読んでても、カレンダー見てても、

そこに算数があって、算数を通してそれを眺めると、手品を見るような、あっという驚きとか、

好奇心をそそられる部分とかがあるから、

子どもたちとそれを共有していきたいのよ」

 

息子 「数学は、答えがある爽快さがいいものだけど、あくまでも論理立てて

考えていった末たどり着いた仮定のもとに成り立っていることを忘れてはだめでさ。

平行な線をふたつ引いた時、永遠に交わらないか、宇宙の果てまで行くと交わるのか、

どちらとも言えない。

でも数学を使って、どちらが正しいのかを競いあうのではなくて、こうだって言えるよね、と

自分の主張を整理することはできる。

数学を出来不出来で測られるものとして、テストの点数と直結すうものとしてとらえるの

はいやだな。自分を賢く見せるための道具にしようとする人は、数学が常にひとつの答え

と直結していると

考えるのだろうけど、数学にできるのは、やはり、自分の思考を整理していくことと、

自分の中の何かを呼び覚ますことなのかも。

答えがない数学の世界を鑑賞して楽しむようになると、以前、耳にした時はよく理解することが

できなかった『数学は自由だ』という言葉の意味が腑に落ちたよ」

 

わたし 「数学は自由だって、どういう意味?」

 

息子 「よく話されている言葉だよ。数学は何らか答えがあって、

それを覚えていく学問じゃない、という

ことかな。もちろん、1たす1はいつも2じゃないか、と思うかもしれないけど、1たす1が2なのは、

そういう系統立てた論理上の正解であって、1たす1は本当に2なのか、と疑問を持つ自由はあるんだ。

たとえば、法律のように、はっきり定まった答えがあるものだと、

そこにある事実に疑問を持つことは、何も生まないからね。

もっとも、数学が自由だと言っている人は、本当は数学は

自由であるべきだといいたいのかもしれないけど。

自由でないのかもしれない、でも自由であるべきだと」

 

わたし「そうね。それを言うなら、教育も自由であるべきだと思うわ」

 

息子 「そうだな、確かにそうだ」

 

 


お金について思うこと  息子とおしゃべり 1

2017-03-06 23:11:37 | 息子とおしゃべり(ときどき娘)

家族で雑談していた時のこと、息子が、

「最近、思ったんだけど、ひたすらお金を儲けることに必死になると、食に向かいやすいな~って」と、

妙なことを言いました。

「どういう意味?」とたずねると、

「お金に執着する人は、お金を使ったら、金額に見合う価値が得られたか、

コスパがいいか気になるだろうけど、実際には、お金だけで相応の幸福感が

感じられるものって、そうないんだよね。

 

物やゲームも十分な時間とかそれを使いこなす力なんかがないと、好きなだけ買えるお金があったって、

使ったお金につりあう満足は得られないし。

結果が出るまで時間がかかったものは、本当に支払った費用とその結果が直結していたのかわからないしね。

その点、食べ物は、わかりやすい満足を得やすいから」

という答え。


 ……もしかして、お金を儲けることに必死になっている息子ら世代の話題?

と思いながら聞いているうちに、

ふと、数日前に息子と交わした仮想通貨についての話が思い浮かびました。

「ネット上の小さいコミュニティー内でやり取りできる仮想通貨がほしいんだけど、

これこれこんな感じに作ることって可能かな?」とたずねたところ、

目的や使い方について細かい質問がかえってきたので、

「あくまでもお店屋さんごっこの延長線上で使いたいのよ。

子どもたちの学校外の学びを支えようという思いを共有する場で、

子どもが起業したり、お店屋さんごっこをしたり、アルバイトをしたりして

やり取りする仮想のお金が作りたいの。★(息子)も小学生の頃、会社や映画を作って

遊んでいたし、

お母さんがしている教室でもおもちゃのお札を出してきて売り買いを体験させると

算数の勉強でもすごく盛り上がるから。」と答えると、

「ネット上で使える仮想通貨を作ることはできると思うよ。

でも、仮想通貨で盛り上がるのは、お母さんの子どもたちにそういうことをさせて

楽しい気持ちにさせる能力に依っているところがあって、

子どもにしたら、仮想通貨だけで面白いってもんじゃないんじゃない?」と返ってきました。

 

息子の「お金だけで相応の幸福感が感じられるものって、そうない」という言葉と

「子どもにしたら、仮想通貨だけで面白いってもんじゃない」という言葉が、

心に引っかかったまま、教室の子らと過ごすうち、「お金だけ」じゃない部分が浮き彫りになってきました。

 

教室内でおもちゃのお金を使ったごっこ遊びに興じる時、子どもの顔が輝くのは、

お金というポイントがたまるからでも使えるからでもなくて、

自分の売り物にものすごい高い値段をつけて、大胆なことをやった感じに浸れるからだったり、

お得なサービスをつけて品物を完売させて、知恵を使って、成功を成し遂げた気分に浸れるからだったり

するのです。

要は子どもを喜ばせているのは、自分の想像力を使う楽しさであって、知恵を絞る爽快さなのです。

他の子らに「すごいな」と思われることだったり、注目を引き付けることだったり、

言葉で交渉して、相手を乗り気にさせることだったり、

団結して何か成し遂げることだったり、現実世界を自分がどう観察しているのか披露できることだったり

するのです。

 

結局、心がわくわくする面白さは、子ども自身が、

自分の頭と感情と身体をフルで使わないと生まれてこないのです。

大人がいくら大人の知恵を総動員して子どもが喜びそうな世界を作っても、

受動的な楽しさは、真のワクワク感にはつながりません。

 

そして、子どもが、自分の頭と感情と身体をフルで使えるようにするには、

いろいろな物事がかっちり決まっておらず、子どものアイデアを即座に現実化することが可能で、

子どもの想像力がどこにでも入り込めるような緩さや柔軟さが必要なのです。

 

だから、仮想通貨はどうするのか、どうしたいのか、というと、

「それがコミュニティー内で使えるようにすること」を超える知恵がいるな~と

難題を前にちょっとワクワクしています。

 


教育と学習方法について考えること (息子とおしゃべり)おわりです

2016-10-31 10:17:12 | 息子とおしゃべり(ときどき娘)

ゆとり教育世代の息子。

自分が受けた教育の質うんぬんより、教育の形がより良いものに洗練されていくのでなくその時々で、まるでファッションの世界の流行と衰退のように大きく揺れていくことに、疑問を抱き続けていたようです。

 

息子 「自分自身で学ぶ内面のプロセスに関する情報っていうのは、教える側にも、今の何十倍も必要だと思うよ。

だって、教師になる人は、例えれば箱の中にある青いボールについてすでに知っている側、わかっている側の思考プロセスで教えようとするけれど、教わる生徒は、箱の中に何色のボールがあるのかわからない側。

場合によっちゃ、ボールが入っているのかどうかさえつかめていない状態で学んでいるんだから。

そこで、青いボールについてどう説明するかとか、青いボールの次に何色のボールについて教え、その理解度をどうやってテストするかってこと以外に、

箱の中に何が入っているかわからない状態から、そこにボールがあり、その形と色を認識するために必要な思考のプロセスはどのようなものか、

わからないという状態にはどのようなわかる側からは理解しがたい盲点が潜んでいるのか、情報として把握しておく必要があると思うんだよ。」

 

 小学生の頃、ボードゲームやパズルを手作りするたびに、姉の友だちから、

「お前には初心者向けっちゅう発想がないんかーい」という突っ込みを入れられていた息子。

初心者側の視点に立つこと、学ぶ側、生徒側の理解度に配慮することの大切さについて、よく考えるようになっているようです。

教育問題については、次のような感想も言っていました。

 

「教育問題が議論されているとき、一番問題に感じるのは、小学校、中学校、高校のそれぞれの教員の立場、大学の研究所の立場、

企業の立場、臨床の立場、予備校や塾の立場、メディアの立場、子育て中の親の立場と、それぞれ別の切り口で論点の優先順位が目まぐるしく変化していて、会話がちぐはぐになっているよね。

ぼくは教育の世界を語りあうためには、その前提として、あらゆるマイノリティー側の意見も拾って、数学的な平等さで体系化された相関図のようなものと、

それらをどの立場にも偏らない視点から網羅してある百科事典のような情報が必要だと思うな」

 

母  「確かにそういうものがあると、教える際の立ち位置や自分の向かっていく方向がわかりやすいわね」

 

息子 「何のためにそうした情報が必要かっていえばさ。

身近な例でいくと、○○式といった体系学習と、お母さんが子どもに教えるときの教え方の優劣は、測れない種類のものだよね。

でも、多くの人はそうは思わないはずだよ。

メディアで成功しているか、有名であるかということが、まるで教育の質の良し悪しを測ることができるように錯覚するからね。

 

過去の時代に価値を持っていた教育観も平等に評価しなおして、子どもの生きている形について、できるだけ正確にバランスよく教育という面から捉えて体系化すれば、それぞれ教える側の人が、時代の流行に飲み込まれずに、個人としてかしこくなれるよね。

自分はどのように教えるのか、その子どもにはどのような教え方が適しているのか、一番いい方法が探りやすくなると思うよ。

それと、まず教育について議論するときに迷走しないですむよね」

外食ついでに教育と学習方法についていろいろと話しあった後で、まだ話し足りなくて、結局、翌日も翌々日もその続きをあれこれ言いあっていました。

 

息子 「算数オリンピックとか数学オリンピックのいいところってさ、自らアウトプットするってところにあるのかな?

学校の授業は一方通行にインプットされるばかりだし、定期テストはアウトプットとしては、価値が怪しいしね。

前から定期テストのために勉強するのってどうなのかなって思ってたんだけどさ。

そもそもテストってそういうものじゃなくて、勉強した成果がテストの成績であらわれるってのはわかるけど、その逆はちょっとさ……続けていれば必ず学習動機を見失うよ。

話しが戻るけど、アウトプットってとても大事だと思うよ」

 

母 「でも、アウトプットが大人たち……つまり親や教師の成果比べのために使われることもあるから、どうなのかと思うときもあるわ。

インプットの良い面、悪い面、アウトプットの良い面、悪い面を押さえておく必要があるのかもね」

 

息子 「確かに、コンピューター内って、誰もが気楽にできるアウトプットのスペースになっているけど、そこに問題がないといったら嘘になるしね。

アウトプットばかりだと、他人の意見を聞かずに自分側から好き勝手なことを言うだけになりがちだな」

 

母 「教育現場ではいい形で実現しにくいのかもしれないけど、インプットにもアウトプットにも偏りすぎないやっぱり相互交流という形の学びっていると思うのよ」

 

息子 「そうだな。相互コミュニケーションをしているときは、思考が断片化されないってメリットが大きいもんね。

最近、思うんだけど、テレビを見ていると頭が悪くなるってよく言われるのは、番組が低俗だからとか、脳内物質がアンバランスになるからなんてことより、思考が断片化されてくからじゃないかなって思うんだ。

あくまでもぼくが自分でテレビを見てて感じることで、何の根拠もないんだけどさ。

テレビの画面を目で追っていると、最初に自分の頭にあったことが、次には何の脈絡もない話題に切り替わるようなことがしょっちゅうあるんじゃん。

そのせいでテレビがついていると、理由もなく疲れていることがあるよ」

 

母 「断片化? あまり考えたことがなかったけどそうよね。

その断片化って、いろんなところで起こってきているように思うわ。教育現場なんかでも」

 

息子 「確かに、学校の授業は思考を断片化しがちだよね。

集団で学んでいるから仕方がない面もあるけれど、はい、次、はい、次……って、生徒の理解の度合いに関わらず進行していくからね。

どうりでどの受験向けの参考書にも学校の授業を聞かずに内職をすることを勧めているわけだな。

断片化しないようにきちんと思考をするには、いろいろ考えた後で、それをひとつに統合して、蓋をするって作業がいるんだろうけど、

ぼくは自分で勉強するときには、その都度、そうしたけじめをつけていくんだけど、学校ではそういうことを大事にしないよね。

断片化のメリットは、生徒の進み具合が明確にわかることだろうから、どれだけ進んでいるか、どこまで進んでいるかを教師や親が把握することが優先され過ぎて、むしろ思考を断片化していくことを良しとする風潮さえあるよ」


教育と学習方法について考えること(息子とおしゃべり)つづき

2016-10-29 08:16:27 | 息子とおしゃべり(ときどき娘)

わたしの話を聞いていた息子は、次のように言いました。

 

息子 「ぼくは言語には欠陥があって、その欠陥に無自覚なままで言語主体の話合いを続ければ、いろいろな誤解が生じてくるのは仕方がないように思うよ。

言語の欠陥を補うために、数学的な考え方や数学の世界の言語を議論に取り入れるといいように思うんだ。」

 

母  「言語の欠陥って?」

 

息子 「言語というのは、物と物と比較する上で勘違いを起こしやすいからね。

たとえば、ある政治家がひとこと言い間違いを犯して、メディアや国民からいっせいに非難を浴びるとするよね。

で、そのひとことの重さというのは、その政策全体の価値に対してどれくらいの汚点にあたるのか、言語はそうした数値的な比較を背景に遠のかせて、人々の関心や感情やメディアのその時期の注目度によってその価値を調整していくじゃんか。

数学の世界で名著と言われているものの場合、それを理解して良し悪しを決定するのは数学について、ある一定の理解の基準を満たしている人々になるから、名著と評されているものが正しく名著である確率は高くなる。

 

でも、国語の世界は母国語であれば、よくわかっていなくても、わかった風なことを言ったり、評価する立場になることは可能だよね。

場合によっちゃ、正しく理解している人が2割、わかっていない人が8割なんて状態で、物の良し悪しが決められることだってあるんだから。」

 

母 「言語は、錯覚や勘違いを含みやすいから、数学の世界の言葉を議論に取り入れるってどういうこと?」

 

息子は紙に一部が重なっている2つの円を描きました。

 

息子 「お母さんが、今、仕事上での考えている上での立ち位置っていうのは、集合のべん図で表すとこの重なっている部分にあたるんだよね。

それか、もうひとつ円を加えて、この3つ目のCの円を含む3つの円が重なる部分を除く、最初のAとBの円が重なっている部分ってことのなるのかもしれない。

つまり、数学の世界の図で描くと、それは当然過ぎるくらい当たり前のある部分なんだ。

 

でも、それが言語主体の話合いだけで進めていると、A派に属することが、そのままB派と重ならないことを意味するような関係しかないように受け取られがちなんだ。

 

数学は同時にいくつかの関係を表現できるけれど、言語はその都度、ひとつを選んで、表現するものだからね。

 

数学の世界ではAの方程式とBの方程式が存在するときに、問題によりけり、条件によりけりで、この場合はAで解くべきか、Bで解くべきか、

AB両方を複合させて解くべきか、AでもBでもダメなのか、AとBをベースにして全く新しいメタな解決法を必要としているのかっていう選択が、ごく当たり前の前提として存在している。

 

そこには流行も人の感情も、時代の空気も、その評価に参加する人々の能力のばらつきというものにも振り回されず客観的に物を考えていく道具としての数学の長所が生かせるんだ。

もちろんそうして全体を把握した上で思考するのも決断するのも人間なんだけど、議論の途中で言語の持っている欠陥によって問題の解決がうやむやになるなんてことはあまり起こらない。

 

ぼくが物を考えるときに、頭の中にマインドマップのようなものを思い浮かべるけれど、よくあるマインドマップのように中心があって、

それから枝葉を広げていくようなものではなくて、相関図のようにたくさんの中心があって、それらのどれが主体となるわけではなく矢印によって関係が示されてイメージなんだ。

そうしてまず、全てを平等に価値のある概念として、イメージ上に配置した上で、それらがどのような関係を創り出しているのか、矢印を行き来させて、考えていくんだよ。

社会学や世界情勢についてや、教育の問題なんかについて考えるときも、そうしや相関図やグラフや表やベん図や線分図なんかで、いったん感情を入れずに全ての情報を洗い出してみてから、

ファジーさや柔軟さを残した状態で、どのように感じて、どのように思うのか、考えを練っていくんだ」

 

夕食を取りながら、わたしは次のような思いを息子にこぼしました。

 

母 「教室で年上の子と年下の子が混ざっているグループを作ると、年下の子たちの親御さんは喜ぶけれど、年上の子の親御さんが不安になって、クラス替えを希望してくることが時々起こるのよ。

レッスンは、多くて4,5人という少人数制なので、学習内容は完全にそれぞれの子の個別の能力に対応しているし、それぞれの子の能力が最大限に伸びるように対応しているのに、それでも不安になる姿を見るとね……。

何でもお金で買える消費の時代になると、自分好みのお金で買うって経験ばかりが増えて、経験の幅が狭まるように思うわ。

 

たとえばね。教室で兄弟姉妹でレッスンに別々に来ている子を見ると、工作をしていると、上の子は誰に何を言われるでなく、上手にできたから妹や弟の分も作ってやりたいからもう一セット材料がほしいといったことを言うの。

それで、その子の妹や弟が来て工作作品を作ったときに、「上手にできたね~。お家でお姉ちゃんが貸してほしいなって言ったらどうしよう?」ってたずねると、口をとんがらせて、嫌だな~貸すの嫌~!と言うのよね。

いつも下の子の立場で可愛がられたり、もらったりする側しか体験したことがないから、自分が損をしてでも、自分以外の人の気持ちに配慮するなんて思いもよらないのよ。

 

一昔前なら、次々、自分より下のきょうだいは生まれるし、近所に年下の子がいるしで、年下の子と過ごす体験なんてどこにでも当たり前にあったんだけど……。

最近では、ひとりっ子や下の子として生まれたら、大きくなるまで、一度も年下の子たちと接する中で、年長者としての責任感に目覚めてリーダーシップを取ったり、年下の子に配慮したりする経験がないままで過ごす子も増えてきているのよ。

いろんな立場を体験するってね、時々、公園で年下の子と交流するときがあるといった程度では意味がないのよ。

さまざまな役割を体験するなかで、自分の義務や責任や誇りに目覚めてくるのに、今は、経験が買えるだけに、どの子も同年代の子と、自分が~!自分が~!と自分の得になるよう主張することしか体験できないのよね。

それでは、表面的な知能は伸びたように見えても、自分を律していく意欲が育たないわ。

そういうことが最終的には、学力が伸びない原因にもつながってくるはずよ」

そんなわたしの愚痴を聞いて、息子がこんなことを言いました。

 

息子 「うーん、お母さんのしている教室は特殊で、習い事というよりも大学とかの少人数のゼミとか研究室のようなところとか……といってぼくはまだ大学に通ったことがないから、ゼミがどんなものかちゃんと知らないんだけど、そんな特殊な場だからさ。

弓道部とか、美術部みたいな個人個人で能力を磨いていきつつ、集まっているクラブのような場でもあるじゃん。

でも、ごく当たり前の感覚として教室と名のつくところのイメージで、下の年齢の子たちと同じクラスで学ぶことに不安や不満を持つのは当然といえば当然の気持ちなんだと思う。

きっとそこには、学校の行き過ぎた平等主義が背景にあるんじゃないかな?

それが行き過ぎると、上から下に教える経験はあっても、上のものが下のものから学ぶ経験があるなんて想像もつかなくなるはずだよ。

お母さんの教室では、小グループで年上の立場を体験することで、リーダーシップを取ることや、尊敬を集めること、自己肯定感を高めること、

自分の立場を普段とは別の位置に置いて視野を広げること、自己コントロール力をつけること、

責任感に目覚めること、我慢や他者への配慮を学ぶことなんかが、その体験を通して得られるように工夫して、同時に個人的な能力は可能な限り伸びるようにしているんだよね。

その効果に対する実感をお母さんがいくら持っていたとしても、それを他の人に伝えるのは難しいように思うな。

だって、世の中にある教室と名つく場所が、学校のシステムに倣い過ぎていて、それ以外のイメージを想像しようもないところがあるから。

学校では、決まりきった形式を逸脱できないから、それぞれの能力に差がある子たちが集まっていたとしても、その場にいる子らに平等に同じ知識や課題を与えようとするよね。

生徒本位じゃないんだ。

だから、1回の講義で、ここからここまで学ぶと決まっているとすれば、それぞれの子がわかっていてもわかっていなくてもその内容はそれ以上にもならないし、それ以下にもならないよ。

そうした平等が、どこの世界にも浸透しているから、水泳教室のような子供向けの習い事にしても、輪切りにされて集められたクラスで、

もし自分より能力が下の子たちのクラスに入れば、やっぱり損をこうむることになるのは事実だし、リーダーシップの取り方や責任感を学べるわけでもないじゃん」

 

母 「そうね。そうしてどこもかしこも名目は違っても人としては同じような心の体験しかできない場ばかりになっているのは気になるけど……

でも、不安になる気持ちはきちんと理解しないとね」

 

息子 「教育って受けている側の立場から言うとさ、理想の子ども像や自分たちのあり方ってものが、その都度、流行や、メディアの報道や、

その時期の政治のあり方や考え方や事件や、その時期その時期の大人たちの気分のようなもので変わりすぎるからさ……

ほら、やんちゃでガキ大将のような子で冒険好きで面倒見のいい子をよしとしたかと思うと、

翌年には、物静かで読書好きで聞き分けのいい子をよしとして、次には創造力があって自由な発想ができるのがいいんだってしたりね。

そういう大人が子どもに求める像の変化を感じとりながらも、子どもが見ているものって、実際、生きている大人たちの姿でさ。

 

大人になれば勉強が必要ないって思って暮らしている大人が、いくら子どものときにしっかり勉強しないと将来、損をするからと脅したところで、

そこにある矛盾や大人の嘘くらいはどの子も、すぐに見抜いてしまうもんだよ。

大人にとって必要がない勉強が、子どもの自分たちにだけ必要だなんておかしすぎるってさ」


調べ学習にチャレンジ♪ と 「会話」の話

2016-04-09 22:56:16 | 息子とおしゃべり(ときどき娘)

わが子が小学生だった頃、もっとも大切にしていたのは、

ワークをさせることより、何かを教えるよりも、まずよく「会話をする」ことでした。

 

マンガを読んだり、テレビゲームをしたり……

子供たちは自由に過すことが多かったので、していることの質はどうか…?

というと実に怪しい時もありました。

 

しかし、子どもが、「どうかなぁ…」と思う遊びに傾倒しているときも、

その内容について親子で深い部分まで掘り下げて討論するようにすると、

それはそれで、子どもにとって、いい成長をもたらしてくれたように思います。

 

小学校中学年頃、娘の場合、きちんと机に向かうことも多かったのですが、

息子はとにかくゲームをすることが好きで、

今日のところは勉強には目をつむっておこう……という日も よくありました。

そこで、ワークをさせるかわりに、息子の大好きなゲームについて語り合ったり、

調べたりしました。

当時、私は、娘や息子の言葉をできるだけそのまま記録して残しておきたいという

思いがありました。そこで、日々の出来事や家族会議の様子を会話を中心に

書き残していました。(原稿用紙にして何百枚……。)

その頃は、あまり深く考えずしていたのですが、

今になると,その時期その時期の 心や知能の成長の記録として大切な宝物に

なっています。(乳幼児を育てている方も、写真だけでなく、おしゃべりも

記録しておいてあげてくださいね。)

 

それで、この調べ学習というのも、息子と私が、ひとつの疑問について会話を

膨らませていった過程の記録が中心になっています。

 

息子が小4の時の家族の会話です。家族でゲームをしているとき、

息子が、どうして将棋ばんは、9×9マスなのか?ということに疑問を持ちました。

 

息子 「チェスもオセロも8×8マスなのに、どうして…

将棋はなんで…9なんて2つに割れない中途半端なマス目をしているんだろう?

戦うとしたら、領土がきちんと半分ずつ分かれた方がいいんじゃないかな?

不思議だ。」

 

母「もしかして他の国の領土に侵入していくような戦い方をする人々と、

決闘場をもうけて戦ったとか?将棋がどうやって生まれたか知りたいわ。」

 

父「奇数っていうのは、覚えやすいからだよ。きっと。」

 

息子「覚えやすいって?」

 

父「将棋のこまの位置を暗記して、頭で動かすとき、偶数より奇数の方が

ごちゃごちゃになりにくいと思うよ。」

 

数日後 なにやらひらめいた息子。

 

息子「9は3で割り切れる数でしょ。自分の陣地、相手の陣地、中心の戦いの場が、

まったく同じになるんだよ。それから、オセロが64マスなのは、

こうじゃないかと思うんだ。

オセロは黒と白の多さで決着するから、マスは偶数でなくちゃいけない。

でも100マスでは多すぎる。

次に小さいマス(でちょうど良いのは…)は8×8の64なんだ。」

 

父「それは、おもしろいアイデアだ。」

 

母「本当によく思いついたね。うちの家族は、推測したり仮説を立てたりするのは

好きだけど……。そう、実験するのもすきだよね。

でも、きちんと理由をたしかめて、くわしく調べることはめったになかったでしょ。

今度、図書館を使った「調べる」学習賞コンクールっていうのがあるらしいから、

納得がいくまで調べてみない?」

 

息子「ぼくは、ずっと前からさいころがなぜ6までなのか、

トランプがどうして52枚なのかと不思議に思ってきたし、ゲームと数の秘密について、

もっと知りたくなった。チャレンジしてみるよ。」

 

…という会話からスタートした、調べ学習でした。

で、調べる段になって

息子「ぼくの考えは仮説だから、本当のことをしらべてみなくちゃってお母さんは

言うけど、本にのってることも仮説の場合があるんでしょ。

いろんな人が、いろんな別の仮説を立てている場合とか…。

大昔のことなんて実際見た人いないんだもん。」

 

母「でも、思いつきの仮説とたくさんの事実にもとづく仮説は、別物よ。」

 

息子「ぼくさ、さいころってだれがつくったか不明だと思うよ。

昔の人が、石ころころがして表とか裏とかしていて、自然にさいころになったのかも。

だから、本当に作った人とかいるのかな?」

つづく。

こんな風に、小学校時代は、勉強させるより、

いっしょに会話を楽しむことが多かったです♪今になると、

かなりプラスになっている気がします。

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調べ学習のヒントになるかと思うので、少し続きを書きますね。

息子といっしょに調べ学習をする時、私たちは、本を見て表にまとめるのではなくて、

最初に「表の枠」を作って、あとから本を調べながら整理していきました。

そうすると、表に空白ができて、きれいに仕上げることは、できません。

いくら調べても、資料がないことも多いからです。

しかし、その空白が好奇心を刺激し、たくさんの本に接する機会を作ってくれました。

もしこれが、すぐれた資料をただ整理し、要約する形でまとめていたら、

調べが、わくわくする体験にならなかったのではないでしょうか?

はじめに、インドの象棋(しょう棋は、インドで生まれたそう。

ただ、日本では象に乗って戦う習慣がないので当て字の将がつかわれたのだとか。)

チェス

中国象棋

日本の将棋

のマスの数、図、ルール、ルーツ、特徴について、表にまとめました。

そこで、息子が驚いたのは、9×9マスは、

日本人が考えたとばかり思っていたのに、

子ども用の中国象棋で7×9マスの写真を見つけたことでした。

息子との会話の中で、

東洋的な考え方から、マスに奇数のアイデアがもたらされたのではないか?

という新しい仮説が生まれました。東洋の過去の「家」制度からいっても、

チェスのように女王が戦場に出てくるゲームは受け入れられなかったのでしょうか?

つまり、チェスのようなゲームから、女王が除かれて 奇数になったのか……??

そう考えるうち、何時代に将棋や囲碁が日本に入ってきて、

どのように遊ばれていたかを調べないと、こんがらがってきました。

そこで、息子は、はじめて「歴史年表作り」にチャレンジしました。

そうして進んだ調べ学習は、さいころのなぞに取りかかり始めたとき

最高にわくわくするものになりました。


当時の息子の作文です。
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「さいころのすごいなぞ」 4年○組○○○○
図書館でとりよせてもらった本は大人向けの専門の本だった。
けれどびっくりするような写真がいっぱい載っていて、ぼくは夢中になった。
一番驚いたのは、紀元前8世紀のアッシリアのさいころ。
他の資料では、ずっと、後になっても、
ぼうの形や動物の骨のさいころを使っているのに、
なぜかこんな昔に立方体のさいころが。
おまけに絵のさいころじゃなくて、今とおなじ玉の数を
あらわしている。写真をじっと見ていたら、横の面に大きな穴のようなものが見える。
なんだろう。
「この数なんだろう。」とお母さんが言ったので、
ぼくは急いで自分のさいころを持ってきて、
面と面をくらべてみた。
4のはずだ。
でも、穴はひとつみたいだけど。
「昔のサイコロは、今とおなじ玉の位置とは限らないよ。」と
お姉ちゃんが言った。
ぼくは、さいころのなぞを考えるのが、おもしろくておもしろくて、
こういうことを調べる学者さんになりたい、
と思ったくらいだった。
でも前からなりたかったゲームをつくる人になる夢も捨てがたい
ので、「将来はゲームをつくる人になって、参考のために、
そのなぞを調べたりする人になりたい。」と言った。
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うちの息子は、何をするにも、たらたらぐずぐすする性格で、
宿題に取りかかるのも、明日の準備をするのも、とにかくあとまわし…。
ねころがってゲームの攻略本を何時間も眺めていたり、
休みになると食事に帰るのも忘れて遊びほうけていたりしました。
1つくらいは習い事をさせたいと思っていたのですが、小学校の6年間、
頑固に拒絶して、何もせず……。
それでも、こうした作業をいっしょにしてみると、
そうした子の中に広がるイマジネーション溢れる世界に触れたような
心地がしました。
それぞれの子に、それぞれの個性……わが子もその通りです。
 

 

遊びが育むやる気 と 問題を乗り越える力

2015-02-21 13:09:55 | 息子とおしゃべり(ときどき娘)
この記事を探しているという方がいらっしゃったのでアップします。
 
 
『お母さん、火って何から出来ているの?』という
 6歳のタロウくん、2歳のハナちゃんの日々をつづったブログを
 いつも楽しく見させていただいています。
 このタロウくんとハナちゃんの思いつきや工作の仕方……言動もですが、
 うちの子たちの小さいころにすごく似ていて、
 読ませていただいているうちに思わずうちの子たちが小さいころに
 タイムスリップしています。
 失礼ですが、お母さんのふるまりさんのゆるい対応(ごめんなさい~)も、
 私の子育ての手抜きワザとそっくりで……世の中、似たような方法で
 子どもと付き合ってく方もいるもんだな~と
 ちょっとびっくりしたりもしています。
 そんなふるまりさんの
 ★タロウのプレゼン失敗と、本当の「問題解決能力」という記事に、
 次のような思いがつづってありました。
 
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タロウには(ゆくゆくはハナにも)、自分のやりたいことをやるために、
 
どんな状況であっても諦めずに努力する力、をつけていってもらいたいと
 
思っています。
 
そのためには、少々の困難(この場合はダンナのダメ出し)にもくじけず
 
「では、どうすれば良いのか」を考える力をつけていくのが大事なのかなと。

でも、そうやって、「問題を乗り越えていく力」というのは
 
なかなかエネルギーがいるもので、そのためには、その原動力となる、
 
「~したい」という強い思いがなくてはダメです。
 
子供であれば、遊びがその原動力となると思いますが、その遊びを通じて、
 
「~するためにはどうすれば良いのか」という対応能力を、
 
つけて行ってもらいたいなーと。
 
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 
読ませていただいて、
 
そうそう~うちの子たちのやる気と自発性と
 
何があってもめげずに問題を乗り越える力や、くじけなさは、
 
小学生時代に毎日、毎日、遊んで遊んで遊びつくしたあげく
 
作られていったものだな~と思い当たりました。
 
どちらかというと、うちの子たちは、飽きっぽかったり、人間関係で、
 
打たれ弱かったりする所があったのですが、
 
子ども同士わいわい群れてする遊びは自然に子どもをたくましくして
 
くれるな~と思います。

前にも書いたことがあるのですが、

娘が5、6年生、息子が2、3年生のとき、近所の子どもたちと一緒に、

息子を社長にして、「そそそ会社」という架空の会社を立ち上げていました。

娘と娘の友だちは、いつも息子をからかったり、

キツイ言葉をかけたりしているのですが、社長に祭り上げているあたり……

遊びを生み出す発想力に関しては息子のことを一目置いてたんでしょうね。

「この子の思いつくアイデアに乗ってたら、はずれがなく面白いはず」と。


娘と娘の友だちは、いつも社長より一段上の会長職か何か……のような

立ち位置にいて、陰の支配者のようにも見えました。


この会社、子どもたちの思いつくままにどんどん事業を広げて、

(よく思いつくもの……と呆れるうちに……)

テレビゲーム製作部門、おもちゃ製作部門、販売部門、映画制作部門、

販売部門、プレイパークの運営……あげくの果てには、学校経営にまで

手を出していました。

それで、近所の低学年を勧誘して、面接試験をし、社員研修まで

おこなっていました。

この試験とか、社員研修といったアイデアや内容は、ほとんど娘の友だちが

考えていました。

「将来はシナリオライター?」と思うほど、おもしろおかしい文章や

アイデアがつらつら出てくる子なんです。

二階で好き勝手に遊んでいるのですが、時々、聞いていると、

この「そそそ会社」の面接試験も、経営している学校の入学試験も、

世間の価値観の逆さまなのです。

「トイレに行ったあとで手を洗いますか?」といった質問には

「いいえ」と答えないと減点されて、試験に落とされたりするのです。

本気で試験に挑んでいた子が、泣きながら試験に落ちた~と

私のところに訴えてきたこともありました。

時折、バーッと外に出て行っていなくなったな~と思うと、

バタバタ駆け戻ってきて、

また遊びが再開するという繰り返し……でした。


子どもって、親が選ぶ「良いこと」だけでは育たないな~

子どもが大きくなるにつれて感じます。

子どもの気持ちを前向きでチャレンジャーにしてくれるのは、

失敗したってどうってことない、飽きたら次を考えれば済む~という

環境のゆるさだったりします。

「新しくこんなことしてみたい、自分の全力をこれに傾けてみたい」

ひらめいたとき、一瞬の迷いも、大人への遠慮も、罪悪感もなく、

自分をその中にどっぷり投入できる……。

それが子供だけでする自由な遊びのよさですよね。

思い通りにいかないことが多いこと、頭をしっかり使わないと

すぐ退屈すること、きょうだいも、友だちも、自分から働きかけて、

一生懸命、説得するなり、ぶつかりあうなりしないと、親や大人たちのように、

簡単に折れてくれないこと……。

とにかくジレンマを感じる場面に何度もぶつかるし、

考えてもみなかった事態に遭遇することもよくあります。

でも、それが、「どうしてもこれがやりたい!」という気持ちに駆り立てて

くれるし、退屈ついでの言い争いが、多少のことにくじけず、あきらめず、

どうすればいいのか考え続ける挑戦し続ける姿勢を作ってくれるのです。


私は毎日の子どもの生活に、退屈や無駄やけんかや、

大人から見ると「無意味で非効率的」なことがたくさんあるといいな~

と感じています。また、親の私が正しいと思う考えとは対極にあるものも

チラホラあるのがいいな~とも。

実際、子どもたちがかなり大きくなってみると、

私が価値をおいていなかったものが、

子どもたちを鍛え成長させてくれていたことがよくわかります。


ふるまりさんの記事にもうひとつリンクさせていただいて↓

★「輪ゴムをひっかけてあそぼう」オモチャ


タロウくんが地団駄を踏んで、「これがしたいんだ~」

「これじゃなきゃダメなんだ~」と訴えて、その熱意におされて、

しぶしぶ工作準備に手を貸す様子が描かれています。

これを読んで、そうそう~、もし最初から、

「お母さんはいつでもあなたの工作に手を貸しますよ、

スタンバイしてますよ」だったり、

「子どもに工作をしてほしいのは、

本人よりお母さんかもしれない」って状況だったり、

「工作教室で、きちっと材料が整っていて、今工作の時間ですよ」

だったりしたら、それほど工作に熱が入るのか……。

工作以外のことまで、貪欲にやりたいがんばりたいという気持ちが

起こるのか、疑問だな……と感じました。こうしたところに、

子どもをやる気にさせる、主体的にさせる原動力が生まれる

瞬間が潜んでいて、それは大人が「がんばって」作ろうとすると

すごく難しいことだなと感じるのです。

まず、本気で交渉すれば相手が動くという経験なり信頼感が

ベースにあって、それでいて、まあまあ手ごわかったり、

思い通りいかなかったりして、軽いジレンマや、必死に、あの手この手で

ぶつかる時間があって……

つまり、時間に追われていないことが大事で、

その後、人と人との間で自分の思いが達成できたという満足感が

残るという経験。

そうした繰り返しのなかでこそ、

自分の知力や、技術力や、体力や、精神力の限界が把握できるし、

自分が何がやりたいのか、内面から湧き上がってくるものを

実感できるのですよね。


2歳くらいの子でも、

新しいおもちゃを渡しても見向きもしなかったりするのに、

お友だちが持っていると欲しくなる、取り合うとさらに欲しくなって、

ものすごくやってみたくなる、

いつもならすぐに飽きてポイなのに、渡したくないからおもちゃに

熱中するという瞬間がありますよね。

そうやって人と人との間でジレンマを抱きながら、

自分の気持ちがワーっと湧いてくるから、

いろんなことに夢中になれるようになるのですよね。

もちろん勉強だって、大人の期待に応える形ではなく、

また級とか賞とか、プレゼントとか関係ないところで

「自分自身の心が強く強く何かを欲した経験」がベースになって、

がんばれるようになるのだと感じます。


うちの子たちの小学生時代のことを思い返すと、何が良かったのかって、

大人の価値観に真っ向から反抗して、好きなように無駄をやりつくして、

ひとつも「大人のため」が入っていない世界で、自分のしたいことをした、

やりたいことのエネルギーがいくらでも湧いてきたという

経験なのでしょうね。

そこで、すっきりとゼロの自分になって、

自分の人生にどんな計画を思い描こう、この人生に自分の知力、技術、体力、

精神力の全てを投入して何をやってやろう!

って力が湧いてきたのでしょう。

そして、今度は、一歩、現実の世界にも足を踏み入れて、

その力を勉強なり、人との関係の構築なり、使い出すのだと思います。


子どもに辞書的、図鑑的知識は必要?パソコン教育は必要? (息子とおしゃべり) 

2014-05-31 19:39:56 | 息子とおしゃべり(ときどき娘)

隙間の形がギザギザの星型になるように「覗き眼鏡」を作りました。

何段か、同じ組み方で重ねます。比較的安定したはずれにくい組み方です。

ペットボトルの底部分を輪ゴムで装着しています。

 

数日前に息子から、わざわざノイズ(CDの傷等によって生じるギーギー言う音)を

編集して取り入れることで、音に深みを出す工夫をこらした曲を紹介してもらい、

娘とは、画材がはがれた部分や本来は見えないはずの絵の下地の部分を利用して描かれた

現代美術の展示会に行ってきたため、わたしもブロックでそういう普段は見えない部分、

意識しない部分が意味を持つようなものを作ってみたいな、と思っていました。

ブロックの作品よりも、ブロックで囲まれてできる穴の方に注目がいくように

作っています。

 

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中学入試の動点の問題を解くための教具を作りました。 で、

算数の文章問題を解くのに必要なのは、

言葉から言葉に翻訳するような国語の読解力じゃない。

記号の解釈に時間をかけるんじゃなくて記号の元となる本来のものに触れさせることが

大事だと思う……と言う息子と、話し込むうちに、

「子どもに辞書的、図鑑的知識は必要か、パソコン教育は必要か?」という話題に

移りました。

 

息子 「子どもはまだ経験が浅いから言葉という記号の意味するイメージを

明確に持てないことが多いよね。

たとえば算数の図形問題なんかも、様々なものに触れて形を知っていないと難しい。

速度の問題にしてもミニカーやビー玉を転がしたり、

モノを投げたりした体験の蓄積がないと、実感がわかないはずでさ。

速度の問題が解けるようになるには、まず様々な速度に触れることが大事だよね。

 

学問って、抽象的なものを扱ってはいるけど、

抽象的なものを理解するには情報が必要なんじゃなくて、

まず、第一に、ベースとして感覚や実感といったものが必要だと思うんだ。

 

ぼくにしても、言葉を読んだとき、イメージや実感がないまま、ただ言葉として

わかっているってものがたくさんあってさ。

たとえば、カブトムシといった言葉にしても、その動き方まで具体的にイメージ

できるかっていうとあやふやだし。

それこそ植物にあんまり興味がないから、花の名前なんて、文中で「おじぎ草」なんて

名前を目にしても、言葉を記号としてスッと流してしまっていて、

ただ文字を目で追えているにすぎないって状態だよ。

 

記号の解釈に時間をかけるっていうのはさ、たとえば、

「遮る」という言葉を覚えるとき、

「遮る」の語源や辞書的意味を覚えて、間に隔てになるものを置いて、

向こうを見えなくするとか、進行・行動を邪魔してやめさせる。妨げる、

というふうに覚えてもすぐ忘れてしまう上に意味がないと思うんだよ。

 

遮るを理解するのに、本を使うのはあまり賢い手段じゃないよ。

 

実際に「遮っている」という状況を見たり体験したりすることで、

はじめて覚えることができるものだからね。

その場合に必要なのが情報ではなくて直感的なものだ。

 現実に起こったことをいつも説明して、あれは虹で光の反射から生まれて~なんて、

すぐに説明するのも良くないよ。

 

言葉で説明するというのは、現実に起こっていることを一つの解釈に閉じ込めると

いうことで、本来起こっている出来事から離れさせてしまうからね。

 

言葉で言い表せないような感情があるように、

現実の世界はもっと抽象的で人間に直接訴えかけてくるものをたくさん含んでいるよね。

子供を無理やり、言葉と記号の世界に閉じ込めたらいけないよ。」

 

 

私  「ネットでアフォーダンスについて書かれた文章を読んでいたら、

現在のコンピュータ教育って、UFOキャッチャーのようなもので、

目的は見えるけれど、実際に触れてないから、

つまり直観的にわかっているわけでないから、理解はつかめても、ただそれだけ。

視覚情報とボタンだけが、理解をつかむプロセスになってるから、

UFOキャッチャーの景品の特性から得る情報があるのか?単純すぎないか?

という話を目にして、なるほど、と思ったわ。

 

パソコンのいいDVDも出ているけど、実体験に先だってパソコンで学んだり、

現実の体験量が少ないのに、パソコンから学ぶような教育が増えると問題なんだろうな

って感じたわ。」

 

息子 「パソコンは、ある程度、しっかり考えられるようになってから使った方が

いいだろうし、現実で実現可能なら極力そうした方がいいんだろうな。

 

でも、パソコンでの学びをUFOキャッチャーにたとえて、

プロセスが単純すぎて、対象の特性から得る情報があるのかどうか……と

考えていくのは、どうなんだろう?

パソコンでの教育を、

電卓みたいに「検索して即座に答えを得る」道具として使うか、

英単語を覚えたり、計算を訓練したりする単純作業をゲームの中に組み込んで、

楽しく学ぶための道具として使うかに限って捉えているように思うんだ。

 

パソコンが教育の場で本当の意味で力を発揮するとしたら、

実体験の限界を助けるというか、実体験の幅を大きく広げる場合なんじゃないかな。」

 

私 「どういうこと?」

 

息子 「たとえば……正二十面体を作って触ったり見たりするのは現実でもそんなに

難しいことじゃないけど、正八十面体を作ったり触ったり見たりしようと思ったら、

よほどの技術がない限り不可能だよね。

 

そういう実現不可能なものを、ぼくたちがイメージしようとすると、

どうしても現実から遠のいてしまう。

となると正八十面体の物体というのは、イメージ上でしか存在できない虚構の物体と

なってしまうよ。

でもパソコンを使えば、そうした虚構をより現実に近い形で表現することができる。

さらに数式や記号といったものが実際どのように使えるかも体験することもできるよ。

 

パソコンのそうした面は、具体的な操作する体験を与えてくれるレゴブロックに

近いものがあるんだ。」

 

私 「レゴブロックに?」

 

息子 「パソコンは、虚構といった現実には存在しないものに外観をつけて

自由にいじることができるようにしてくれるからね。

数学ってものを、レゴブロックのように自由に改造しながら、感じることができる面が、

パソコンが教育の場に貢献できる一番潜在力が大きい部分だと思うよ。

今は、そうした活用のされ方は、ごく限られた人にされているだけだろうけど。

でも、これからは、そこが重要になってくると思うよ」

 

私 「★(息子)は、そういう操作が可能で、遊び心があって

デザインが優れているものが作りたいって言ってたわよね。」

 

息子 「そうだよ。数学を実際触ることができるようなソフトがもっと広まればいいと

思っている。

勉強はそもそも虚構を扱うものだよね。それを教科書や参考書を読んで、

記号だけで本の中で解釈していこうとすると、それらが試験問題を解くためにだけ存在し

ているような薄っぺらな無味乾燥なものに感じられてくるはずだよ。

 

数学が、日常生活を便利にするために使われる道具だってことを実感するには、

虚構にいろいろ飾り付けをして、より現実的にイメージできるようにするのも

重要なんだよ。パソコンはそれが可能だからね。

 

パソコンをわからないことを問いかけて、すばやく答えが出てくるものしか認識して

いないとしたら、レゴブロックでいえば、自由に創造力を解放する道具として使わずに、

ただ設計図通りに組み立てる遊びとしてしか捉えていないってことと、

同じなんじゃないかな?

レゴのように実際に触れながら、その都度フィードバックを確かめながら遊べる

おもちゃの醍醐味は、自由に改造しながら、記号のもととなる本質的なものを

直に感じ取れるってことだよね。パソコンにしても、そんなふうに

直観的にわかる体験を作りだせる良さを教育の場で活かすべきなんだろうと思うよ。」

 

 

↑ 年中さんの女の子のパパさんが作ってくれた作品。

車を動かすとデュプロの車輪に巻きつけてあってひもが引っ張られて車輪が回り、

車輪が回るとかけていた輪ゴムの力で、もう一方の車輪も回り、

それが回ることで、黒い帽子用のゴムが動いて、ユーフォーキャッチャーとして

ぶらさげていたひもが動きます。

 


最近の子ども向けアニメのストーリー展開 と 笑いのツボ が 気に入らない? 2

2014-02-26 13:03:04 | 息子とおしゃべり(ときどき娘)

ゲルランゲがおそうじを覚えた理由は、

大人の言うとおりの恐ろしい体験をして懲りたからではありません。

また、次にも大人の言うことを聞かなかったために、

怖い目に合うのを恐れたからでもありません。

自分の考えは子どもっぽくて間違っていて、大人の言うことが正しいんだと悟った

からでも、自分の言動や性格について反省したからでもありません。

恐ろしい体験をして、言うことを聞かないゲルランゲが優等生のゲルランゲに変わった

わけでもありません。

 

それなら理由は何かというと、

ゲルランゲは、冒険と体験を通して、ゲルランゲという個性のまんま

成長したからなのでしょう。

 

強情っ張りのゲルランゲは強情っ張りの性格のまんま、

おそうじごときで意地を張らなくてもいいほど、

そして家族の深い愛情を理解するほど大人になったのでしょうし、

「おばあさんを喜ばせたい」という素直な感情が

ゲルランゲの心の変容の後押しをしたのでしょう。

 

そうしたゲルランゲの姿は、教室で見る子どもたちの姿と重なります。

子どもが本当の意味で成長するのは、その子の悪いところも含めて

しっかりとその子自身の個性で生きたあとだし、

それは待つことと見守ることを含めた愛情という土壌でだけ成り立つことなのです。

子どもの心は大人が与えたがる道徳教育とは別の筋道を通って

人としての資質を身につけていきますから。

 

息子は、ゲルランゲの童話を読んでから、面白そうに笑ってこんなことを言いました。

 

息子 「ゲルランゲは作家っていうすでに大人になっている人とは別の

ひとつの人格を持った子どもとして活躍しているね。

 

少し話が逸れるけど、

小説が作家の妄想であったとしても、キャラも妄想であっちゃいけない、

空想の世界で作家は主人公になっちゃいけない、って意見をどこかで読んだことが

あるんだ。人間って、100%自分がイメージできるものは、不思議と面白いと思わ

ないもんだよね。

 

物語のリアリティーは、作者がやりたいことをやるっていう願望充足とは別に

自動的に作りあげられていくところがあるよね。物語自体の持つ意志のようなものがさ。

それに添っているかどうかが、

子どもの心に忠実かどうかに対になっているように思うよ」

 

わたし  「物語自体が自動的に展開していくって話……同じようなことを、

ゲド戦記の作家のそんな言葉を目にしたことがあるわ。」

 

息子 「へぇ、そうなんだ。ぼくは、物語は、実験に近いような面があると思うんだ。

試してみてはじめて、何かを見つけたり、何かが生まれたり、次の展開につながったりするよう

な部分があるってことだけど。

 

お母さんが教室の子たちとティッシュ箱でする工作にしても、

一番初めに、自分の思いを完璧にイメージできてしまったら、

作る意味が半減するんじゃない?

なぜ作るのかといえば、そこにある実験的な要素のおかげで、

偶然、新しいものを発見することができるからだよね。

設計図を描くのにしても、

イメージしたものをわざわざ描く理由は、ただ頭の中にあるものを紙に写しだすため

だけじゃなくて、描くうちにイメージした時点では気づいていなかったものを発見する

からだし、描くうちに、自分の見え方そのものが変わっていくからじゃない?

 

子ども向けのアニメを作る上で、そうした偶発的に作る過程で起こることを

大事にしないで、最初に設定したテーマの中で、作り手の主張したいもののために

キャラクターたちを都合よく動かしてしまったら、

子どもの心から遠いものになるんじゃないかな?」