虹色教室通信

遊びや工作を通して 子どもを伸ばす方法を紹介します。

最近の子ども向けアニメのストーリー展開 と 笑いのツボ が 気に入らない? 1

2014-02-25 13:23:44 | 息子とおしゃべり(ときどき娘)

わたしは娘とも息子ともよくしゃべります。

娘とのおしゃべりは、人間関係のことが主なので

相手方のプライバシーの問題もあって記事にできないのが残念ですが、

たくさん話をすることで、娘の生きている世界、世界を眺める視線、葛藤、心の軌跡が

手に取るように伝わってきます。

 

息子とわたしは、お互い直観のアンテナに引っかかったものを言葉にするのが

好きなので、ちょっと気になるものがあると何にでも首を突っ込んで、

食事の間中、しゃべり通していることがあります(行儀が悪いことこの上ないのですが、

わたしは片手にペンを持って、メモを取りながらしゃべっています)。

 

娘との会話も息子との会話も、冗談混じりに思いついたことをポンポン言い合っている

だけなんですが、その背景には常に、

「今、この時代を、この社会で、どう生きるのか」というテーマが透けているように

感じます。

おそらく若いふたりには「これからどう生きていくか、社会とどう関わっていくか」が、

わたしにとっては、「中年期の課題を充実したものにしたい」が、

常に旬の話題だからなんでしょうね。

  

夕食時のこと。

わたしが、「ごくたまにだけど、最近の子ども向けのアニメって

どんなストーリー展開をしているのかなっと思って見ることがあるんだけど、

どうも腑に落ちない……というか、

やたら明るくて安全な世界が描かれているのに、

ちょっと気持ちが暗くなるものが多いのよね。ドラえもんも今風になってたわ。

 

お母さんの子どもの頃のアニメは、子ども向けとは思えないドロドロしたストーリー

設定や残酷なシーンもあったけど、子どもの心の真実には忠実だった気がするのよ。

 

その点、最近のアニメは、

大勢でするポケモンを民主主義モードに固定してゴールまで行っちゃおうって方法に

何だか似てるのよ。

大多数の子の思いを体現しようとしているのに、

たったひとりの子の心の真実も、ちゃんと生きさせてあげないって感じがするのよね。

すべて見たわけじゃないから、どのアニメもそうなのかわからないけど」と言うと、

 

息子が、「何か言えるほど見たわけじゃないけど……」と前置きしてから、

「この間、いくつか見て、同じようなことを感じたよ。

昔のアニメの主人公は、悪いことをするとき、それが社会的に見て悪いことでも、

その子自身にとったら悪くない……というか、つまり、

自分が正しいと信じているものや自分の中の善を真剣に追いかけてるようなところが

あったよね。外に向かって嘘をついている場合も、自分には正直だった。

 

でも、この頃のアニメは、本人が明らかにそれが悪いことだとわかった上で、

ちょっとくらいいいよねっと

周囲に妥協して許してもらおうと甘えながら、悪いことをしているって感じだったな。

笑いの取り方も、誰かがミスしたときやお決まりのルール違反をしてしまったときで、

それを子どもが面白いと感じているのか、

面白いと感じさせられているのかわかんないな。

 

だいたい、子どもがストーリーのどこにワクワクするのかといえば、予定調和が崩れて、

これをしたらダメなんじゃないかな、こんなことしてもいいのかな、

と思うようなことに手を染めざるえないような状況になってさ。

それをきっかけに自由や冒険やスリルを味わったり、

罪悪感や起こしたことの責任を取るために苦しんだりしたあとで、

その子としての心の解決にまで行きつくことじゃないかな?」

 

わたし 「心の解決? そうそう。子ども自身が自分で納得しないと、面白くない

わよね。外の圧力に納得させられるんじゃなくて、自分でする体験で納得したいはず。

それが、アニメの主人公に自分を重ねてするような想像上の体験にしたって」

 

息子 「どこまでも予定調和でいくストーリー展開を見ていて、イラッとするのは、

最終的に解決さえあれば、議論を放棄してもいい、ってスタイルが当たり前になって

いるからかな?自分の内面での議論も含めてだけど。

 

その思考に至るまで、主人公が、いったん間違った考えを抱いたとして、

なぜ間違ったのか、その問題と自分なりに折り合いをつけていくプロセスがなくて、

主人公が一般論や偏見に言いくるめられるようにして、

結果オーライになっているところがいい気がしないんだ」

 

わたし 「子ども向けの短い素朴なアニメにしろ、童話にしろ、

きちんと子どもの心の現実に添ってるものは、子どもが主人公に自分を重ねるうちに、

 自分だけの答えを見つけられるように作られているわ。

そう言えば、押入れの中にお母さんがずっと大事にしている本があったはず……。

ちょっと待ってて。」

 

わたしはそう言って2階から、『おそうじをおぼえたがらないリスのゲルランゲ』

という童話を探し出してくると、

最初の数ページと最後のページを読むように勧めました。

「最後のページのゲルランゲの言葉と行動の変化は、

★(息子)の言う子どもの心の解決をきちんと描いているわよね」と言いながら……。

 

ゲルランゲの話は、わたしが五つか六つの頃に、繰り返し読んでいた童話です。

 

こんな話です。

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むかしブナの木に11ぴきのリスのきょうだいがおばあさんリスといっしょに

すんでいました。

いちばん小さな子リスはゲルランゲ。すこしなまけもので、

たいへんごうじょうでしたが、とても元気で、ひょうきんで、すばしこく、おまけに、

かわいい、ぬけめのない顔つきをしていましたから、だれでも、すきにならずには

いられませんでした。


子リスたちは、夕ごはんの後のおさらのかたづけとそうじをするのがきまりでしたが、

ゲルランゲはおさらをかたづけることは気もちよくしたけれど、

おそうじがすきではありませんでした。

ある日、どうしてもおそうじをおぼえたくなかったゲルランデは、ブナの木のいえを

出ていきます。「ぼく、ごはんなんかいらない。野宿したっていい。オオカミにたべられ

たっていい。でも、ぼく、おそうじはおぼえたくないんや」とへりくつをいいながら。

 

そうして、ゲルランゲはオオカミにたべられそうになったり、キツネやアナグマにあって

こわい目にあったり、フクロウにちえをもらったりしたあとで、

ようやくブナの木に帰ってきます

 

 

<ゲルランデがブナの木にもどってきた場面です>

子リスたちは、おとうとがかえってきたので、とてもうれしくなって、十ぴきみんなで

ゲルランゲのまわりをとびまわりました。

「わかっただろ、ゲルランゲ?」と、にいさんたちは、いいました。

「意地っぱりだと、こういうことになるんだよ」

「だけど、ぼくがどうなったっていうの?」ゲルランゲは、木の枝のはしっこで、

ぶらんぶらんしながらこたえました。

「オオカミは、ぼくをたべなかった。ぼく、ごはんにもありついたし、

野宿もしなかった。ぼく、ひとりぼっちでおどりもしなかったし、それにおそうじを

おぼえてもこなかったよ」

けれども、ゲルランゲは、しんは、気だてのよい子リスでしたし、

おばあさんをよろこばせたいともおもいましたので、この冒険のあと、ともかく、

おそうじをおぼえました。

        『おそうじを おぼえたがらない リスのゲルランゲ』

         J・ロッシュ=マゾン作/山口智子訳 福音館書店

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内田樹氏の「コミュニケーション能力とは何か?」について、親子でおしゃべり 4

2013-12-31 21:43:00 | 息子とおしゃべり(ときどき娘)

今年もブログを読んでくださりありがとうございます。

いいお年を♪

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前回の会話の続きです。

 

わたし 「つまり、コミュニュケーションを不調に追い込むのも、回復を阻むのも、

うまく人と関われなかったり会話下手だったりすることよりも、

コミュニケーションには想像力が必要だということが忘れられてしまったから……ということ?

 

確かに、誰かとコミュニケーションを取るということは、ただ言葉だけを文字通りに受け取って

返せばいいものじゃないわよね。自分ではない誰かが発した言葉は、その人がどんな立場に

あるのか、どのような経緯で、どういう思いで、どんな目的でその言葉を使っているのかという

言葉の背後のあるものへの想像力が必要よね。

 

でも、もし今の社会が、★が言うように、コミュニケーションにおいて、仮想の設定で

考えてみることに価値を置いていないとしたら、コミュニケーション能力って言葉が

いくら幅を利かせていても、おかしな話だわ。

能力の高低を語る前に、コミュニケーションって、

異なる過去と思考と目的を持った自分と他者、誰かと誰かの間で交わされるものだから。

 

内田先生が書いておられたマニュアルの蔓延は、

コミュニケーションの性質上、相手への想像力とか仮想の設定で考えてみたり、表現したりすることが

当然必要だろうと思う感性をマヒさせてしまうのかもね。」

 

息子 「そうだろうな。実際、ぼくがコミュニケーションがうまく成り立たない状態を脱するには、

いったんそれまでの文脈から離れて説明する能力なんかが役に立つな。

たとえを使ってみるとか。

お互いの目標を確認してみるとか。

全体像を俯瞰して、話してみるとかさ。

相手の生活とか趣味とかを意識しながら

たとえ話をすると、会話能力を上げる以上に、自分の言いたいことが伝わりやすくなるし、

考えを共有しやすいよ。」

 

そういえば、以前、言葉でのコミュニケーションについて、今回とは異なる視点で、息子とは

話をしたことがあります。 記事の一部をコピーしますね、(時間のない方は読み飛ばしてください)

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息子 「ぼくは言語には欠陥があって、

その欠陥に無自覚なままで言語主体の話合いを続ければ、

いろいろな誤解が生じてくるのは仕方がないように思うよ。

 

言語の欠陥を補うために、数学的な考え方や数学の世界の言語を

議論に取り入れるといいように思うんだ。」

 

母  「言語の欠陥って?」

 

息子 「言語というのは、物と物と比較する上で勘違いを起こしやすいからね。

たとえば、ある政治家がひとこと言い間違いを犯して、

メディアや国民からいっせいに非難を浴びるとするよね。

で、そのひとことの重さというのは、その政策全体の価値に対して

どれくらいの汚点にあたるのか、

言語はそうした数値的な比較を背景に遠のかせて、

人々の関心や感情やメディアのその時期の注目度によって

その価値を調整していくじゃんか。

 

数学の世界で名著と言われているものの場合、

それを理解して良し悪しを決定するのは

数学について、ある一定の理解の基準を満たしている人々になるから、

名著と評されているものが正しく名著である確率は高くなる。

 

でも、国語の世界は母国語であれば

よくわかっていなくても、わかった風なことを言ったり、評価する立場になることは

可能だよね。

場合によっちゃ、正しく理解している人が2割、わかっていない人が8割

なんて状態で、

物の良し悪しが決められることだってあるんだから。」

 

母 「言語は、錯覚や勘違いを含みやすいから、数学の世界の言葉を議論に取り入れるってどういうこと?」

 

息子は紙に一部が重なっている2つの円を描きました。

 

息子 「お母さんが、今、仕事上での考えている上での立ち位置っていうのは、集合のべん図で表すと

この重なっている部分にあたるんだよね。

それか、もうひとつ円を加えて、この3つ目のCの円を含む3つの円が重なる部分を除く

最初のAとBの円が重なっている部分ってことのなるのかもしれない。

つまり、数学の世界の図で描くと、それは当然過ぎるくらい当たり前の

ある部分なんだ。

 

でも、それが言語主体の話合いだけで進めていると、

A派に属することが、そのままB派と重ならないことを意味するような

関係しかないように受け取られがちなんだ。

 

数学は同時にいくつかの関係を表現できるけれど、

言語はその都度、ひとつを選んで、表現するものだからね。

 

数学の世界ではAの方程式とBの方程式が存在するときに、

 問題によりけり、条件によりけりで、この場合はAで解くべきか、Bで解くべきか、

AB両方を複合させて解くべきか、AでもBでもダメなのか、

AとBをベースにして全く新しいメタな解決法を必要としているの

かっていう選択が、ごく当たり前の前提として存在している。

 

そこには流行も人の感情も、時代の空気も、その評価に参加する

人々の能力のばらつきというものにも振り回されず客観的に

物を考えていく道具としての数学の長所が生かせるんだ。

 

もちろんそうして全体を把握した上で思考するのも

決断するのも人間なんだけど、

議論の途中で言語の持っている欠陥によって

問題の解決がうやむやになるなんてことはあまり起こらない。

 

ぼくが物を考えるときに、頭の中にマインドマップのようなものを思い浮かべるけれど、

よくあるマインドマップのように中心があって、

それから枝葉を広げていくようなものではなくて、

相関図のようにたくさんの中心があって、それらのどれが主体となるわけではなく

矢印によって関係が示されてイメージなんだ。

 

そうしてまず、全てを平等に価値のある概念として

イメージ上に配置した上で、それらがどのような関係を創り出しているのか、

矢印を行き来させて、考えていくんだよ。

社会学や世界情勢についてや、教育の問題なんかについて考えるときも、

そうしや相関図やグラフや表やベん図や線分図なんかで

いったん感情を入れずに全ての情報を洗い出してみてから、

ファジーさや柔軟さを残した状態で、どのように感じて、どのように思うのか、

考えを練っていくんだ」

 


内田樹氏の「コミュニケーション能力とは何か?」について、親子でおしゃべり 3

2013-12-31 11:03:27 | 息子とおしゃべり(ときどき娘)

息子 「ぼくは今の時代、コミュニケーション能力についてしょっちゅう取りざたされたり、

コミュニケーション不全といった状態が問題を起こしているのは、

個人の能力の高低というより、

今の時代に不足している物語……というか虚構かな……

もしも、こうだったらという仮想の設定に自分を置いたり語ったりする意味を

見失ったことによるところが大きいと思うよ。」

 

わたし 「物語?仮想の設定?

どういう意味?」

 

息子 「コミュニケーションでは、自分には当たり前でも相手は知らないという事柄を

わかる言葉で伝えなくちゃならないよね。

それには柔軟性や試行錯誤もいるけど、まず、

もし自分が相手の立場だったら……という仮想の設定を

してみる必要があると思うんだ。

 

内田樹先生のフランスのレジの店員とのやりとりがちぐはぐになったって

たとえ話があったよね。

それはコミュニケーションが不調に陥った時にそれを修正して回復させていく能力が

店員に不足していたというのも、その通りだと思う。

 

でも、同時に、能力という言葉で表わされるような言い方とか対応の仕方が適切じゃなかったとしても、

もし自分がその人だったら……とか、自分が外国で買い物をするとしたら……いう視点に立つことを大事にしていたら、

上手下手なんてあまり関係なく

コミュニケーションが円滑に進んでいた可能性が高いんじゃないかな」

 

もう少し続きます。


内田樹氏の「コミュニケーション能力とは何か?」について、親子でおしゃべり 2

2013-12-30 17:04:14 | 息子とおしゃべり(ときどき娘)

息子に、「コミュニケーション能力って何だと思う?」とたずねた結果、

返ってきた答えというのは、こんなものでした。

 

息子「ぼくは、お互いの最終目標を意識しない形でする

コミュニケーションは、間違っていると思うな。

無理矢理、同じひとつの意見にすり合わせていく必要もないけど、

相手が何を目的として、それを言っているのかや最終的に何を目指しているのかも

理解しないで、自分の主張を押し通す態度はコミュニケーション能力の問題と

言えるんじゃない?

 

ほら、よく学校や塾で先生に文句を言う親と親に文句を言う先生との間で

揉めることってあるよね。

お互いに相手に自分の目的を伝える気もなければ、

相手の目的を知って、できる範囲で達成してあげようという気もないまま話合うんじゃ、

いつまでたっても、かみあわないはずだよ。

 

相手の最終目標を理解するといっても、

コミュニケーション能力が、

相手をなだめたり、言葉の扱いに注意したりして、

トラブルを起こさなかったり、感情を静めたりする能力ってわけでもないだろうし、

相手の意見に迎合することでもないとは思うよ。

 

でもコミュニケーションするからには、

自分以外の人の考えが行きつく先とか、

ひとつひとつの意見の全体像のようなものを意識しないで

自分の世界観でやりとりを完結させようとするのは、

コミュニケーション能力の問題と言えるんじゃないかな。」

 

わたしは息子の言葉を聞いて、

これまでいろいろな話題で息子とおしゃべりを続けてきたけれど、

その都度、知らず知らずのうちに、

親のわたし自身が教室で直面している課題への答えを発見していた

ことを思いあたりました。

こちらは、少しも意識していなかったけれど、

息子の側は、そうした雑談の間にも

わたしが最終的に目的としている事柄を探る努力をしていたのかもしれません。

 

次回に続きます。

 

 


内田樹氏の「コミュニケーション能力とは何か?」について、親子でおしゃべり 1

2013-12-30 13:01:44 | 息子とおしゃべり(ときどき娘)

知人のフェイスブックに紹介されていた

内田樹の研究室の

「コミュニケーション能力とは何か?」という文を読みました。

 

興味深い内容だったので、朝食を食べていた息子に読むように勧めると、

さっと目を通してから、

「確かに、コミュニケーション能力なんて……

まるで数値化して比べられるもののように扱っているわりに、

コミュニケーションという言葉の意味をきちんと突き詰めて考えていないよね。

使っている人同士が同じイメージで語っているのかとか、

それを能力として高い低いで語れるとしたら、その具体的な基準はどんなものかとか。」と

つぶやきました。

 

そこで、「★(息子)は、コミュニケーション能力って何だと思う?」とたずねてみました。

すると、「コミュニケーション能力」という意味を息子はどう捉えているのか、

わたしにはない発想が返ってきて、

くわしく説明を求めるうちに、

朝の忙しい時間帯を、親子ともども30分ほどおしゃべりに浪費してしまいました。

 

 『内田樹の研究室』の文章について、親子で交わした会話は、過去にもこんな記事にしたことがあります。

「若者たちはなぜ、社会に対して何かを訴えたり行動したりしないのか」という内田樹氏への質問 1

「若者たちはなぜ、社会に対して何かを訴えたり行動したりしないのか」という内田樹氏への質問 2

「若者たちはなぜ、社会に対して何かを訴えたり行動したりしないのか」という内田樹氏への質問 3

「若者たちはなぜ、社会に対して何かを訴えたり行動したりしないのか」という内田樹氏への質問 4

「若者たちはなぜ、社会に対して何かを訴えたり行動したりしないのか」という内田樹氏への質問 5

「若者たちはなぜ、社会に対して何かを訴えたり行動したりしないのか」という内田樹氏への質問 6

「若者たちはなぜ、社会に対して何かを訴えたり行動したりしないのか」という内田樹氏への質問 7

「若者たちはなぜ、社会に対して何かを訴えたり行動したりしないのか」という内田樹氏への質問 8

「若者たちはなぜ、社会に対して何かを訴えたり行動したりしないのか」という内田樹氏への質問 9

 

 

「コミュニケーション能力とは何か?」をめぐってしたおしゃべりの続きは、

今晩か明日にでも書かせていただきますね。

 


子の夢 親の夢 子の人生 親の人生

2013-10-18 07:34:32 | 息子とおしゃべり(ときどき娘)

(過去記事です)

わが子が幼い頃や小学生時代、いっしょに交わす会話が面白くてよく記録に取ったものでした。
それが子どもが成長するにつれ、学校、通学、趣味、友だちとのつきあい、バイト……と親より慌ただしい生活をするようになって、
顔を合わせて話をする時間が激減していました。

それが、受験生になった息子が学校が休みの日も 遊びに行かずに家で勉強するようになって、勉強に疲れると気分転換に家族としゃべる機会が増えて……。

そうするうちに、自分の中にむくむくと「子どもとの会話を記録しておきたい」という思いが復活してきました。
「なぜ?」と問われたら困るのですが、カメラ好きの方が わが子の姿を写真に残しておこうとするのと近いものだと思います。

そのため虹色教室の日誌代わりに続けてきたこのブログは、
以前より私的なものに変化しつつあります。自分にために書いているやたら長ったらしい記事も増えましたが、面倒な方はどうか飛ばし読みしてくださいね~。

今後も教室でのレッスン風景や教え方の記事も、
書いていきます♪ どうぞよろしくお願いします。

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先日、進路について悩む息子から相談を受けました。
進路といっても、大学や学部選びはもう自分の中で決まっているようで、
迷っているのは将来の仕事に向けて 
これから何を学んでいくべきか、
就職する会社はどのような職種から選んでいけばいいのか
といったことでした。

途中で現われたダンナが、
「先のこと考えて御託並べてないで、まずしっかり勉強しろ!」
と雷を落とし、
息子が「受験勉強はしてるさ。でも闇雲に勉強するだけでは、大学卒業時にそこから4,5年かかる勉強をスタートすることになって、出遅れるよ。ビル・ゲイツが成功したような まだネット社会が未完成だった時代じゃないんだからさ」と言い返すシーンもありました。

夕食後に3時間近く話しあって、
最後には、「話をしてみてよかったよ。おかげで行きたい方向がはっきり見えてきた」と言われて胸が熱くなりました。
息子の進路について相談に乗っているつもりが、
私自身の進路というか……これから自分が歩んでいく方向性のようなものを考えるきっかけにもなった会話でした。

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息子 「最近、ただIT関連の仕事がしたいと漠然と考えて、
大学で情報工学を学ぶだけじゃ、
本当にやりたい仕事からずれていくような気がしてさ。
ITといったって、今はひとつひとつの分野が専門的に進化しているから、
それぞれの先端じゃ互換性はないはずだよ。

だからといって念のためにと あれこれつまみ食いするように学ぶんじゃ
1しっかり学べるところを、2分の1、3分の1ずつしか学べなくなってしまう。
今、一番迷っているのは、ソフトを作る力を蓄えるか、ハード面で強くなっておくかということなんだ。
もしこれまでのネットのあり方を根源から変えるようなものを作りたいとすれば、大学を卒業しても、そこから研究生活に入ってく形になる。
それがぼくが本当にやりたいことなのか、自分にあっていることなのか迷っているんだ」

私 「今後、ネットの世界は飽和状態に向かうと考えているんでしょ。
ただプログラミングを学ぶだけでは、いずれ、どんなに質の良いものを作り出しても、競争の中で消えていくだけかもしれないわ。
だったら、時間や手間がかかってもハードそのものを扱う勉強をした方がいいんじゃないの?」

息子 「勉強や研究が嫌なわけじゃないんだ。」

私 「早く働きたいの?」

息子 「それもあるけど、それより自分が本当に創りだしたいものは何なのか、そう考えていくと、今 立ち止まってじっくり考えておかないと、
何となくそっちの方が良さそうだという気分に流されるうちに、自分自身を見失いそうな気がしているんだ。
それで、ぼくの、ぼくだけの特技ってなんだろう? 
将来の仕事の決め手になるような他のみんなより誇れるところって何だろうって煮詰めていくとね、
『みんながみんな左に向かっているときにも、右に向かうことができる』
ってところだって思い当たってさ。
じゃあ、そんな自分が活かせる仕事、いきいきと働き続けることができる仕事は何だろう
……それとぼくが創りたいものの本質は何だろうって考えていたんだ」

「『みんながみんな左に向かっているときにも、右に向かうことができる』能力って、単にひねくれ者ってわけじゃなくて、
多くの人がいっせいに左に向かっているときって、
その時点で もう本来の左に進むべき目的が見失われているときがあって、
みんな薄々、それには気づいてるんだけど、
動きが取れなくなっていることがあるよね。

そんなときにぼくは
潜在的にそこにある大切そうなものを汲み取って、
ひとりだけでも右に方向転換することができるってことだよ。

そういう能力が将来、活かせるかもしれないって気づいたのは、
プログラミングを自分で学んでいたときなんだ。

学べば学ぶほど、より優れた技術、より精巧な動きっていうのを、
無意識に求める気持ちに呑まれていくんだけど、
一方で、より面白く、よりすごいものを作ってくって
技術面だけにこだわってていいのか? って考えたんだ。

もちろん、技術の向上が大切なのはわかっている。
でもね、もし技術ばかりがひとり歩きして、こんなものが欲しいという人の欲望みたいなものから離れてしまったら、
それは死んだ作品じゃないだろうかって。

ほら、3Dテレビって今どんどん進化しているじゃん。
100年前の時代だったら、
3Dテレビを作り出すために一生かけてもいい、
3Dテレビをどんな苦労してもひと目見たいって、願った人もいると思う。
で、今、3Dテレビがそれほど求められているのかっていうと、
100年前と比べると、それに対して人々が抱いているロマンのようなものが変質したと思うんだよ。
それでも技術革新は必要なんだろうけど、
同時にどうしたら生きた作品を生み出せるのかって考えるときが
来たんじゃないかな?

それで、ぼくは技術を身につけて、自分で制作に入りたくはあるけど、
その一方で、『プランナー』といった面を持っている仕事も
自分にあってるんじゃないかと思いだしたんだ」

私 「生きている作品ってどんな感じのものなの?」

息子 「感情を揺さぶるライブ的要素も持った作品かな?

今の世の中がこんなにも『うつ』っぽくなっちゃった理由は、
何でもかんでも、そうしてはならないものまで、
品物化していった結果だと思うんだ。

ほら、エンデの『モモ』って童話があるじゃん。
あれを子どもの頃に読んだとき、
みんな何日で読んだ~何ページも読んだ~
他の本と比べてどのレベルで面白かったかってことばかり話題にして、

どうして、自分自身の今の生活が、
時間泥棒に奪われているモモの世界の出来事と
同じことが起こっている事実について考えてみないんだろうって

不思議だったんだ。

みんなはどうして人間としての自分の感情を通して、
物と付き合わないんだろうっさ。

いろんなものを品物として見るって、
高級料理にしたって、勉強の授業のようなものにしたって、品物化されて、
数値化されてるよね。

友だちのようなものまで、
ネット内でボタンひとつで友だちかどうか選別したり、
グループ内で友だちを格付けしたり、友だちを数でコレクションしたりする
ようになってくる。
でも、本当は、そんな品物化した『友だち』を、誰も求めちゃいないはずだよ。
友だちを欲するのは、友だちという人を求めているというより、いっしょになって団結して何かしてみたり、
冒険したり、共感しあったり、
そこで動く感情を欲しているはずなんだから。

みんな感情を求めていて、それに気づいていないんだよ。
何でも品物化したあげく、これは品物にしようがないっていう感情でしか処理しようにない『死』を、偏愛する人も増えている。

もし、IT産業で何かを作っていくにしても、
そんな風に物を求める根底になる感情の流れを揺さぶる生きた作品を作ることを目指していきたいんだ」

 

息子 「ぼくはずっとゲームクリエイターになる夢を抱いてきたけど、
ゲーム好きの人たちと自分の間には、
かなり感性の違いがあるのはずっと感じてきて……
最近になって、本当にぼくはゲームが好きなんだろうか?
って思うことが増えてきたんだ。

ぼくがゲームに対して感じている面白さって何なんだろう
って突き詰めてみると、
さっきお母さんが京都の巨大鉄道ジオラマの話をしていたから
閃いたんだけど、

『仕事の遊び化』って部分に

惹かれているんじゃないかと思うよ。

ぼくがゲームを面白いって感じている基盤の部分に、
この『仕事の遊び化』を生み出したい気持ちがあると思ったんだ。

ジオラマ作りに参加した職人やアーティストは、
退屈で苦しいはずの作業の中に、わくわくする楽しい気持ちやフローの感覚を抱いていたはずだよ。

この『仕事の遊び化』って、昔から人が苦しいものを喜びに変えたり、
辛い作業から楽しみを抽出する知恵として
存在しているものだと思うんだ。
たとえば、プラモデルなんかも、設計の仕事から、
楽しい部分だけを抜き出したようなおもちゃだよね。

ぼくがゲーム作りをしたかった一番の理由は、
ゲームという媒体を使って、
人間の営みをいろんな視点から眺めたり、そのユニークな一面に光を当てる
のが楽しいからなんだって気づいたんだよ」

私 「『仕事の遊び化』……そうね。日本が豊かになって、
物ではうんざりするほど満たされた後に、
きっと人はそうしたものを求めだしているように感じるわ。

遊び化といっても、遊び半分という意味でなくて、プロフェッショナルとして、天職として仕事に関わるとき
そうしたものを感じることができるのよね。

人の営みの面白い面を再体験したいって思いから
ゲームは生まれたのかもしれないわね」

そう言いながら、私は息子が小学生のとき 
モノポリーが好きでたまらなかったことを思い出しました。
何度やっても、いつも息子の一人勝ち。

どんなに他のメンバーの情勢が良いように見えるときも、
なぜか最後には息子の戦略にまんまとはめられて、
お金をほとんど奪い取られてしまうのでした。
手作りモノポリーもたくさん作っていました。

モノポリーは投資のゲームですから、それもおそらく『仕事の遊び化』という一面で惹かれていたのでしょう。

息子 「現実に体を動かしてやった方が面白いものを、
ゲームにするのは好きじゃないんだ。
どんなにリアルさを追求しても、実体験には負けてしまうから。

でも、そこのゲームの世界も、より美しい画像で、より高い技術でってことを追いかけていくうちに、人間的な部分が置いてけぼりになっている気がしてさ。
人が何を面白く感じ、何に心が動かされるのか……って所を見失ったまま進化が進んでいるようだよ。

それで、そうした世界でぼくは本当にゲームが作りたいんだろうか?
面白いものが作れるんだろうか? って思いだしたんだ。

先々、ゲームを作るにしろ、作らないにしろ、
まずゲーム会社とは全く職種の違う世界で働いて、
そこでの仕事に熱中しながら、自分の作りたいものを捉えなおした方が
いいような気がしているんだ」

 

私 「どんな職種を考えているの?」

息子 「アプリケーションの制作会社とか、
それか、シンセサイザーなんかといっしょに新しい音響機材を作る会社なんかも考えている。

ゲームを作りたいから、
新しいエンターテイメントを生み出したいから、
ゲーム会社に入るというのは、ぼくにはあっていない気がするんだ。
そんなことを思いだしたのは、マンガを読んでいたときなんだけど。

今さ、たくさんマンガの勉強をしたんだろうな
という技術レベルの高いマンガ家がたくさんいるんだけど、
そりゃぁたくさんの人がマンガを描いているんだ……
でも、どれを読んでも面白くないんだよ。
生きている作品がないって感じ。

一方で、ある時期までマンガとは全く関係ない異分野の仕事をしていて、
途中でマンガ家になった人たちが描く職業マンガが、
けっこう面白くって、このごろ気に入ってるんだ。

単純に考えると、少しでも早い時期からマンガを描き始めて、
それだけに打ち込んだ方が、良いものができるに決まってるって思うじゃん。

でも、マンガの世界もある程度
成熟し終えた面があるから、
無意識のうちに すでにできあがった価値観の影響を受けながら、
その世界でよりすばらしくって技術を向上させるだけじゃ、
人の心が動くような作品は生まれにくいんだよ。
その点、異業種から遅れて参入してきた人の作品は、
多少いびつなところがあっても、
思いもかけない斜めからの視点があって
新鮮で読みたい気を起させるんだ。」

私 「そうね、ものづくりの現場でも
そうした異業種同士の連携が、
不況を超えるカギになっているようだものね。」

息子 「ぼくも、自分が抱いている面白さを追求する道を、
既存のイメージができあがっている世界ではなくて、
ストレートにそのまんまじゃない……
別の職種の枠の中で探求していく方がいい気がしてきててさ。

そう考えだしたのには、受験勉強の影響もあるんだ。

受験って、ランキングで格付けされて、合格の道筋がマニュアル化されて、
いかにも品物化が進んでいる分野でもあるけど、
でも勉強していると 意外なんだけど、どの勉強も人間的な性格的なものが
その底にあるんだなって気づかされることがよくあったんだ。

かしこさって、いかにもIQや頭の回転のよさだけで測られるように思うじゃん。
でも、国語を学ぶって、結局は、そこにあるのは人間の営みや生きていることへの理解を深めることに過ぎないんだって学ぶほどにわかってくる。
文章のすばらしさをただ公式を当てはめて、答えをはじきだす作業じゃなくて、
読む文章から生きていることの何かを受け取ることが国語なんだなって。

数学のように、人間的なものからかけ離れているように見えるものでも、
生きていることのすばらしさを放っておいて、存在しないんだよ。
数学がすばらしいのは、そこに
人間的な評価が潜んでいるからでもあるんだから。
それで勉強するうちに、自分が表現したいものは、この人間的なことや
生きる営み、人の感情を揺さぶることを抜きにして考えられないなって。
そうした本質的なものを含んだ作品は、小さな枠の中で近視眼的に
他人と技術を競うだけでは生まれてこないと思ったんだよ」

 

私 「さまざまな物や行為と『生きて存在していること』の関わりを考えていくのって、哲学の世界では大事にされていることよね。
哲学って難解なイメージがあるけど、実際には幼児が考える疑問のように……ごく基本の基本みたいなことを扱っているわよね」

息子 「うん、そうそう。哲学って、存在する全てのものを意味でつないでいるものだと思うよ。
それは勉強を極めていった選択肢の先っぽにあるんじゃなくて、
もっと身近な……人が手にするひとつひとつの物……えんぴつでも服でも何でもいいんだけど……や、
『生活の営み』全般の芯の部分にあたるんだろうな。

だから、特別にかしこまらずに、もっともっとみんな
普通に哲学に触れればいいのにって思っているよ。
自分の中に持っておくというか……。

哲学だとハードルが高いんなら、詩のようなものでもいいんだ。

哲学にしても詩にしても、
形容できないものを、文字の媒体で表そうとすることじゃん。

形容できないものを形容しようとする試みがなかったら、
『友だち』というのを数や格付けとイコールで結ぶようなもので、
人の行為は、
『名前を付けられた空のパッケージ』ばかりになってしまうよ。」

私は息子の口から詩という言葉が出たのでとても意外な気がしました。
詩を読んでいる姿を見たことがなかったので。成長すると、身近にいても親が知らない面がいろいろあるもんです。

息子 「詩なんていうと、デザートのように思っている人もいるだろうけど、
『生きる糧』のようなものじゃないかな?

そうした自分の内面の芯のようなものがないままに、
どんどん勉強して、どんどん知識や技術を吸収して何を得たとしても、
それは人としての『基盤の幸せ』を失うリスクを犯すことに
ならないのかな?

生きていくことの手段に過ぎないものを
全てであるように錯覚している人がたくさんいるから、
そこで暮らしている子どもたちにしても、
もう本来の『子ども』って存在じゃないように見えるよ。

他人の評価に依存するものに、
自分を全て明け渡して、
自分の中にある形容できない何かを、
まったく無いもののようにしているんだから。
じゃあ、もうそこには自分がないってことじゃないの?」

息子の言葉を聞いて、私は昔、自分が書いた詩のことを思い出しました。
それで詩画集を持ってきて、次のような詩のページを広げて
息子に差し出しました。「同じようなこと考えるもんでしょ。やっぱり親子よね」
そういえば、息子に自分の詩を見せるのは初めてでした。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
    ハーメルンの笛吹き

もしも君たちが   自分の言葉を裏切るなら
もしも君たちが   平気で夢を枯らすなら
もしも君たちが   太陽と風を忘れるなら
もしも君たちが   本当は誰も愛していないなら

ハーメルンの笛吹きがあらわれる   子どもを連れにあらわれる
遠ざかる笛の音をつかまえても    もうおそい

まちじゅうどこにも 子どもはいやしない
赤ん坊は赤ん坊じゃないんだ
子どもは子どもじゃないんだ
ちいさくたって同じ
のっぺりした顔の 大人ばかり

そののっぺりが 世界中を埋めつくしても
みんな平気の平左さ
だって ほら 世界中  もう大人しかいないからね

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
息子はえっ? と驚いた様子で、
「あっそうだ。お母さん、詩を書いてたんだったよね」と笑いながら読んで、ちょっと真剣な口調で、
「あ~わかる。いいな~。」と言ってから、
次のように付け加えました。
「親子だからどうって言えない面があるんだけど、
もし、これがお母さんの詩じゃなくて、目にしたとしたら、すごく好きになってた可能性があるな。」
と本当に感動している様子で言ってくれました。

「いつ書いたの?
詩集を作ってたのは見たことがあるから、その時?」

「絵はね。でも、詩はもっと前よ。★(息子)とそれほど変わらない年齢の時のものもあるわ。
ほら、これ。」
私はすっかり舞い上がって、別のページも
息子に見せました。

環状線 
という詩です。

「ほら、さっき★(息子)が言ってた……
何となくそっちの方が良さそうだという気分に流されるうちに、自分自身を見失うってあるじゃない。
褒められたり、期待されたりして、
ちょっといい気になってそれを続けるうちに、環状線に乗ってぐるぐる回り続けているってことがね。そのうち、本当はどこに行きたかったのか忘れちゃうってことが……。」

息子 「そうだよ。ほとんどの人が、人からえらいとか、目立ちたいとか思ってがんばっているうちに、気づかない間にその詩の環状線に乗っていると思うな。」

私はすっかりうれしくなって、
出逢い 
小さな友へ の詩も見せました。

すると、息子は笑いながらこう言いました。

「お母さんの詩、いい詩だよ。ぼくは好きだな。
お姉ちゃんが、いい詩が読みたいって探してたけど、意外に
お母さんの詩を読んでもいいんじゃないかな?」

私 「気に入ってもらってうれしいわ。
お母さんの詩が良い詩かどうかなんてわからないけど、
でも、今そうした詩を書こうと思っても、もう書けないから、お母さんにとっては貴重な詩なの。

だって、それはその時のお母さんの心の軌跡でもあるから。

環状線を書いたときは、
自分がいつのまにかそうした不安な状況に呑みこまれてて、降りたくてもどうやって降りたらよいのか見当がつかなかったのね。

それがきれいな詩を書くために、
過去を振り返りながら、上手に言葉を組み合わせるように書くんだったら、
お母さんにとってはあまり意味がないのよ。

その時、その時の心が抱く思いは、普遍的なところがあると思うの。
お母さんの心が感じる体験は、世界中のさまざまな人が同じように感じているだろうってこと。

出逢いの詩で書いたような心の体験が、人と真剣に出逢うときには
必然と言っていいほどあって、
たとえそれが苦しいものだったとしても、
そうした普遍的なものに触れて、
自分の目にどう映り、どう感じたのか……
『その時』を言葉にできたことが うれしいのよ。

評価されるかとか、認められるかなんてこととは別の問題でね。
どんな出来だって、作るのは楽しいものよ。

そしてこうやって、ちゃんとひとりでも読んでくれる人がいると
すごく感激するものだしね。
そうだ、★が11歳の時の姿をスケッチしたものと詩があったわ。
ほら、これよ」

11歳の孤独
息子は面白そうにそれを読んでから、懐かしそうに笑い出しました。
「ああ、この時のぼくは、ぼくで、今とはまったく違う心で、いろんなことを考えていたんだよな……今思い出すと面白いな」

私 「お母さんは子どもの頃からずっと児童文学の作家になりたいって夢みてきて、いまだに夢はずっと持ち続けているのに、遠回りばかりしているわ。

今の仕事が大好きだしね。
その時、その時、★が言ってたような『生きている』って実感を味わいながらきているから、
思い通りにいかないときも、それなりに満足しているの。
それに、自分を生きているとね、どの道を歩いていたとしても、やっぱり夢に近づいているように感じるわ」

 

息子 「ぼくがゲーム会社以外の異業種の会社に就職したいって
思いだした一番の理由は、
安定した力を手に入れたいって気持ちからなんだ。

ゲームのプログラミングならこれまでもしてきたし、
どうせ下積みで学ぶのなら、これまで学んだことのない新しいものを
学びたいからさ。

会社に入って意味のある能力を身につけて、
必要とされるような人間になりたいってのがあるからね。
いつ会社が合併したり、潰れたりするかわからない時代だからって、
手抜きして働いてしまうと、
かえって不安が募るだけじゃないのかな?

今は不況だ不況だというけど、
会社が潰れても一人で儲けることができるくらいの力を蓄えておけば、
変化は超えられるはずだよ。
こんな考えを持ちはじめたきっかけは、○先生なんだ。(息子の学校の地理の先生)
あの先生なんて、40歳から先生になったわけだけど、そんな年齢でも見ている人間はいる、そのために面接はあるって言ってたからね。
自分に力さえつけておけば、後から転職することだってできると思ってさ。

社会がこんなに不安定な時代だから会社に入るのなんて無意味だって
いう人もいるけど、会社に入っていないと対人的な力がつきにくいんじゃないかな?
○先生があの年で就職できたのも、会社の履歴はなくても、
世界を旅行したり、いろんな職を体験したりして、
対人スキルを身につけていたからだと思うよ。」

私 「会社って、前に大企業は自分にはあわないって言ってたわよね。
大企業の子会社とかも嫌なの?」

息子「そんなことないよ。それに、大企業に入りたくないわけじゃないよ。
ぼくが選べる立場じゃないけど。
競争は好きじゃないといったって試験は好きだからね。京大受験にしたって面白いよ。
ぼくが中小企業もいいなと考えていた理由は、下積みの間もかなり本格的に実戦から学べそうなところだったんだけど、
でも現実には入社時に厳しい会社の方が、働きがいがある気もするな。だから大きいとこも狙ってみるつもりだよ。」

私 「下積みの間に、鍛錬しておけば、多少しんどい思いをしても
身につくものは大きいわよね。
お母さんは★が中高一貫校に行ったのも、朝は早いし帰りは遅いし、しんどい思いはしたけど、公立で安穏と過していたより、
ずいぶんたくましくなったって思っているのよ」

息子 「それは違うよ。しんどいっていうのとはずいぶん違って、楽っちゃ楽だからね。
ぼくが中高一貫に行って学んだことと言ったら、
騙されてさ、どんなに他人に、これをやったら成長するって言われたとしても、やっぱりそれは無意味だってことだけさ。

何が苦しいと言ったって、やっていることが全く役立たないとわかってて
それをずっとさせられるほど
気もちが萎えることはないからね。同じ漢字を何百回も書けとか、もうできている計算を何十回もしろとか。
学校がつまらないのは、ひとつの見方を10回言ってわからせようとする点だよ。
こうやってお母さんとしゃべっている場合でも、普通、生活の場で考えるなら、
1つのことを10の視点から見るわけじゃん。
前から見て、背後から見て、斜めから見てって、良い面と悪い面を押さえた上で、そうした後に、一番最適なものを選ぶわけで。


でも、学校はとにかく無駄なことをさせてでも、生徒に何かさせてなきゃ
安心しないから、勉強する時間がなくなっちゃうんだ。」

私 「授業は易しすぎたの?」

息子 「そんなことないよ。難しいものもあるけど、やり方がワンパターンなのが問題なんだ。
数学でも物理でも、全部、暗記していくんだから。
そんなステレオタイプな学び方じゃ、即効、忘れるよ。
でも、中高一貫校から、反面教師として学んだことはこれから役立つと思うよ。
勉強するのに、何かに依存してもしょうがなくて、
結局、学ぶのは自分自身だってこと。
いつかは気づかなきゃならないことだからね。

早めに失敗しておけば
次は良い手が打てる。
就職に関しては、会社に入る何年も前から、その会社の必要としているものを
手にしておくつもりだよ。
大学1年から準備していても遅くないはずだよ。
京大入試にしても、もっと早く赤本に目を通しておけば良かったって後悔しているんだ。学校が忙しすぎて、勉強らしい勉強ができなかったから残念だよ。
いっそ、高一か、もう少し前から目を通して準備しておけばよかった。
まぁ、その後悔があるから、就職は はりきるつもりだけどさ」

私 「就職して、何か学びたいんでしょ。でも下積みの間はいろんなことをさせられるんじゃないかな?
営業とか……」

息子 「営業もいいよ。人と会って話すのは好きだし。
ただ、人を騙して何か売り込むのは嫌だな」

私  「なら、海外に行くことになったら?」

息子はゲラゲラ笑いだして、次のように言いました。
「海外? 恐ろしいことに巻き込まれるのは困るけど、ぼくの場合、海外はぜひって感じに行ってみたいからね」

私 「★(息子)は、そのどこへ行っても平気なところが強みだものね。
海外のニュースを聞いて、ドキドキするのは私の方かもね。」

息子 「就職したい会社については、どんな人材が必要とされているか調べて、早いうちから何をすべきか明確にしておくつもりだよ。
会社の雰囲気もできる限り調べたいし、できれば中で働いている人と実際会って話がしたいな。
就職難とは言うけれど、その会社の求めているものを正確に理解して、
そこで自分が何をしていきたいのか示せたら、うまくいくところもあるんじゃないかな?
○先生だって、就職できたわけだしね」

息子と話をするうち、「ゲームクリエイターになりたい!」と夢見ていた息子がいつの間にか、さまざまな価値観を受け入れながら、成長していたことに
とても驚きました。
知らない間に、大人になっていくものですね。


トラブル……トラブル……トラブル続き! 知恵を絞って、かろうじて乗り越えました~ 2

2013-03-06 07:34:24 | 息子とおしゃべり(ときどき娘)

危うく今回の大惨事の犯人にされかけて電話を切ったダンナから

少しすると電話がかかってきました。

ネットで調べた鍵の修理屋にうちの電話番号を教えたから

じきに電話がかってくるとのこと。息子に事情を説明させろ、とのお達し。

 

その直後に電話をかけてきてくれた鍵の修理屋さんは、とても親切で知識も豊富な方で、

やはりドア全体を交換するしかないということがわかっても

親身になって相談に乗ってくださいました。

 

電話を終えた息子の話では、

鍵の品番が同じでも、サイズが違うものがあることを知って大いに期待したのだけど、

残念ながら、新しく購入したものはその品番の中で最も直径が小さいものだったそうなのです。

プロの方とじっくり話しあった結果、

これはドアを交換するしかなさそうだ、ということがはっきりしたそうです。

ついでに専門分野ではないだろうとは知りつつ

素人にも金属部分を切断したりけずったりすることができそうかたずねてみると、

くわしいことはわからないけれど、たぶん無理だろうという答えだったそうです。

 

それからは、ドアの取り換えをできるだけ安く抑えて、使い勝手がよいものにできないか

という方向で、ネットの情報を集めていきました。

 

すると、再度、ダンナから電話。

プロにたずねてみて、これは無理そうだとはっきりした……といったことを伝える息子に、

なかなか納得しないダンナ。

息子が、「金属部分を破壊する方法さえわかればなんとかなるんだけどな。

ライターの火であぶりながら、削ったら傷つくとかだったらいいんだけど」と冗談半分で

言うと、

向こうも、「ペンチで曲げるとか何とかできへんのか?」と

適当なことを返していました。

 

ペンチ……?

そういえば、わたしは金属用ののこぎりとか大型の電動のドリルとか金属用のやすりで

切断することばかり考えていて、

近所のホームセンターに購入しにいこうにも、店員さんに相談すれば

それは不可能ですよ、とアドバイスされるものと思いこんでいたのです。

でもペンチなら電子工作用に家に置いていますし、

「どれくらい不可能なのか」試すくらいやってみて

損はない……という気持ちになりました。

 

そしてさっそく鍵の縁と衝突する部分の金属にしるしをつけて、

ベンチで挟んでみました。

すると、いい手ごたえがありました。

力を込めれば、切れることは切れるのです。

少しずつ横にずらして切り込みを入れ続けると、

ひねって切りとることが可能になりました。

 

すっかり錠の取り換えは手慣れたものとなった息子に

新しい錠をつけかえてもらうと、ちゃんと鍵を閉めることができました。

 

ペンチで切断した金属部分は、子どもが触って怪我をしたら大変なので、

爪切りのやすり部分で磨くと、ちゃんとなめらかになっていきました。

これで怪我はなさそうです。

もっともこれは応急処置で、ちゃんとした金属のやすりと、白い金属用のペンキを買ってきて、

後から見栄えよく仕上げる予定です。

それにしても、もともと、古い家なので、素人考えのこんな無茶な家のいじり方をしても、

(周囲のボロサに隠れて)あまり目立つこともなく……

取りあえず、20~30万円を浮かせることに成功しました。

めでたし、めでたし。

 

「鍵をかけると、鍵が抜ける」という

そんな当たり前のことにいちいち感激。

息子いわく、「これ、パパのよく事情がわかってないのに適当なことばかり言う癖と

お母さんが普段から変な工作よくやってて、あれこれやってみるのに

慣れていたから上手くいったんじゃない?」とのこと。

 

そういえば、数ヶ月前にも廃水口のトラブル時にこんなことが……。

思いこみを捨ててチャレンジしてよかった~♪

 

この時と同じ反省をつぶやかせていただくと……

 

子どもたちには、「よく観察すること」「失敗を恐れず、とにかく手と頭を使ってやってみること」を教えている

のに、自分は思い込みにとらわれて、

安易に自分に限界を設けてしまってました。今度から気をつけなくては‥‥‥。

 


トラブル……トラブル……トラブル続き! 知恵を絞って、かろうじて乗り越えました~ 1

2013-03-05 21:41:14 | 息子とおしゃべり(ときどき娘)

 

午後から空き時間があったので、急遽、午前のレッスンに来ていた子たちと

下水道科学館に遠足に行くことになりました。

 

が、 いざ戸締りをして出かけるという段になって

鍵がかけられない、というトラブル発生。

外から鍵を閉めると、鍵がはずれなくなってしまうのです。

 

運良くうちの子たちが家にいたので、留守番を頼んでそのまま出かけました。

 

問題は、帰宅後。

 

今日中に鍵の修理屋さんに来ていただく心づもりで、

「出張で鍵を取り換えてもらったら、1万円くらいかかるよね」なんて

子どもたちと話しあっていました。

 

実は、取り換えるための錠はすでに家にあったのです。

どうしてそんなものが家にあるのかというと、こんなわたしのドジが理由です。

 

少し前に、家の鍵を入れたカバンを紛失したことがあったのです。

警察に紛失届を出しに行った足で

カギの修理屋さんにお願いしたところ、

錠の種類が特殊だったので、わざわざ買いに行っていただくことになりました。

 

それが修理屋さんが家に到着する前に、カバンが見つかったので、

結局、謝って、新しい錠だけを5000円で購入させていただいたのです。

 

そんなわけで交換用の鍵はあるとはいえ、錠の交換に来ていただいたら、かなり痛い出費です。

 

「自分で取り換えられないかな?取りあえずやってみて、無理ってことになったら、

修理屋さんに来てもらうっていうのはどうかな?」とつぶやいていたら、

息子がネットで錠の交換方法を調べてくれました。

必要な工具はプラスドライバーとニッパーだけ。

 

「取りあえずやってみるよ」と息子が引きうけてくれました。

もし難しそうだと思ったら、いつでも元に戻せるように

分解後のパーツに場所を書いた紙を添えていきました。

 

着々と作業が進んでいることに気をよくしたわたしは、

取り外した古い鍵穴の汚れをふき取りながら、

「これ、仕組みがよく見えて面白いよね。科学クラブの子たちに、箱にでも取りつけさせて

あげようかな?」なんて気楽なことを

言っていました。

 

すると、ひとつ目のトラブル! (遠足に行こうとしたら戸締りできなかった時点で、

すでにトラブルにカウントできるでしょうが……)

 

ドア部分に取りつける金属のプレートが、

錠の品番は同じなのに、少しだけリニューアルされてしっかりした作りに

なっていたため、ネジを取りつける位置がずれていたんです。

鍵穴の部分はしっかりおさまっているのに、取り付けられないのです。

 

それを見たわたしは、即座に降参。

 

「鍵の修理屋さんに電話するわ。

でも、その鍵、わざわざ買いにいってもらって、たった2つしかなかった、と

聞いたから、修理屋さんに頼んでもだめかもね、どうしよう……」と

弱音を吐きました。

 

うまくいかないとわかってからも、息子は、「うーん」と考え込みながら、

錠をカチャカチャいじって調べていて、

「今、考えられる案は、金属のプレートの部分だけ、

前の鍵のをつけてみるってことかな?」と言って、さっそく試しはじめました。

うまくいくのか……ドキドキしながら見守っていると、無事、取りつけることができていました。

 

ホッとしたのも束の間、第2のトラブル発生!

 

同じ錠の品番なのに、一部だけリニューアルしていたのは、プレート部分だけでは

なかったのです。

鍵穴の周囲についている丸い縁取りが

以前に平たくて半径が小さな円のものから、立体的でひとまわり大きいサイズに

変わっていたのです。

 

見栄えとしては明らかにリニューアル版が魅力的なのですが、

困ったことに、そんな風に立体的で大きなサイズになったために

その部分が扉の受けの部分の金属にぶつかって、戸自体がきちんと閉まらなくなってしまった

のです。

これでは鍵をかける時に引っかける金属が、引っかける受け用の穴に届かないのです。

 

これには頭を抱えました。

どうも問題は鍵にあるのではなくて、ありえない建築ミスが問題の根にあることがわかって

きたからです。

どうみても、その位置に鍵穴があったら、よほど特殊な薄っぺらい縁取りの錠じゃない

限り、戸が閉まりそうもないのです。

 

そこで、息子とわたしで知恵を絞って、

出来る限りの解決案を出していきました。

 

★ひっかける受け用の穴に金属の穴の空いたプレートを取り付けて、

受け自体を出っ張らせる → ドアに隙間が生じる。不用心だし、隙間風が入って寒いかもしれないし、音漏れも心配。

第一、そんなちょうどいいサイズの金属のプレートがあるかわからない。


★鍵のまわりの立体の枠を、前の鍵の枠と交換する → 鍵穴と一体化していて、はずしたら鍵が使えなくなる。


★鍵のまわりの立体の枠か、金属の受けの立体が引っかかる部分を

金属のやすりなどで削って、薄くする → ネットで金属を削る道具について調べたら、

素人には扱えそうもないことが判明。


そこで、わたしがまたしても降参。

「ドアごと代えるしかないか……20万?30万くらいかな?

ドアだけで済んだらいいけど、他の部分まで交換しなきゃならない大事になったら

どうしよ……!!」

 

息子も、落ち込んだ声で、「まず、ドアの業者と品番を調べるよ。会社が潰れてなきゃいいけどな……」

と言って、ドアの端についているシールにあった会社を探して、今もそうした商品を

扱っているか調べていました。

 

なんとか会社はありましたが、うちと同じような扉は

もう廃版になっているのか、ありませんでした。

娘もいろんな方面からの解決法や扉を交換する際にかかる

費用をネットで調べてくれました。

 

わたしは……というと、すっかり頭がフリーズして、ぼやき目的で、

義母宅にお世話にでかけているダンナに電話をかけました。

 

口下手なわたしでは支離滅裂な説明になっていたので、途中で息子に電話を代わり、

説明してもらいました。

 

今回、錠が壊れてしまった原因は、ダンナが錠に油をさしていたことに

一端がありそうなのです。

ネットの情報では、鍵穴に油をさすのは厳禁で、埃がついたり、

さびたりするということでしたから。

分解した鍵穴は、さびていました。

まぁ、犯人探しをしても仕方がないんですがね。

わたしがこの点にチクチク触れると、すぐに電話を切られてしまいました……。

 

息子は取りあえず、前の鍵を取りつけなおしてくれました。

 

外から鍵を閉めることはできないのですが、

家の中からはかけられるし、外からも閉まっている状態から開けることはできますから、

応急処置です。

 

長々と、くだらないことを、すいません~

この時点で、もう絶体絶命……解決は不可能……と思っていたのですが、

なんと、お金をかけずに済んだのです。次回に続きます。

 


遊びが育むやる気 と 問題を乗り越える力

2013-02-10 13:09:51 | 息子とおしゃべり(ときどき娘)
「探しています」という声をいただいた過去記事です。
 
 
『お母さん、火って何から出来ているの?』という
6歳のタロウくん、2歳のハナちゃんの日々をつづったブログを
いつも楽しく見させていただいています。
このタロウくんとハナちゃんの思いつきや工作の仕方……言動もですが、
うちの子たちの小さいころにすごく似ていて、
読ませていただいているうちに思わずうちの子たちが小さいころにタイムスリップしています。
失礼ですが、お母さんのふるまりさんのゆるい対応(ごめんなさい~)も、私の子育ての手抜きワザとそっくりで……
世の中、似たような方法で子どもと付き合ってく方もいるもんだな~とちょっとびっくりしたりもしています。

そんなふるまりさんの★タロウのプレゼン失敗と、本当の「問題解決能力」という記事に、次のような思いがつづってありました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
タロウには(ゆくゆくはハナにも)、自分のやりたいことをやるために、どんな状況であっても諦めずに努力する力、をつけていってもらいたいと思っています。
そのためには、少々の困難(この場合はダンナのダメ出し)にもくじけず、
「では、どうすれば良いのか」
を考える力をつけていくのが大事なのかな、と。

でも、そうやって、「問題を乗り越えていく力」というのはなかなかエネルギーがいるもので、そのためには、その原動力となる、「~したい」という強い思いがなくてはダメです。

子供であれば、遊びがその原動力となると思いますが、その遊びを通じて、「~するためにはどうすれば良いのか」という対応能力を、つけて行ってもらいたいなーと。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
読ませていただいて、
そうそう~うちの子たちのやる気と自発性と
何があってもめげずに問題を乗り越える力や、くじけなさは、
小学生時代に毎日、毎日、
遊んで遊んで遊びつくしたあげく作られていったものだな~と思い当たりました。

どちらかというと、うちの子たちは、飽きっぽかったり、人間関係で、打たれ弱かったりする所があったのですが、
子ども同士わいわい群れてする遊びは自然に子どもをたくましくしてくれるな~と思います。

前にも書いたことがあるのですが、
娘が5、6年生、息子が2、3年生のとき、近所の子どもたちといっしょに、
息子を社長にして、そそそ会社という架空の会社を立ち上げていました。
娘と娘の友だちは、いつも息子をからかったり、
キツイ言葉をかけたりしているのですが、社長に祭り上げているあたり……
遊びを生み出す発想力に関しては息子のことを一目置いてたんでしょうね。
「この子の思いつくアイデアに乗ってたら、はずれがなく面白いはず……」と。

娘と娘の友だちは、いつも社長より一段上の会長職か何か……のような
立ち位置にいて、陰の支配者のようにも見えました。

この会社、子どもたちの思いつくままにどんどん事業を広げて、
(よく思いつくもの……と呆れるうちに……)
テレビゲーム製作部門、おもちゃ製作部門、販売部門、映画制作部門、販売部門、プレイパークの運営……
あげくの果てには、学校経営にまで手を出していました。

それで、近所の低学年を勧誘して、面接試験をし、社員研修までおこなっていました。
この試験とか、社員研修といったアイデアや内容は、ほとんど娘の友だちが考えていました。
「将来はシナリオライター?」と思うほど、おもしろおかしい文章やアイデアがつらつら出てくる子なんです。
二階で好き勝手に遊んでいるのですが、時々、聞いていると、
このそそそ会社の面接試験も、経営している学校の入学試験も、世間の価値観の逆さまなのです。

「トイレに行ったあとで手を洗いますか?」といった質問には「いいえ」と答えないと減点されて、試験に落とされたりするのです。
本気で試験に挑んでいた子が、泣きながら試験に落ちた~と私のところに訴えてきたこともありました。

時折、バーッと外に出て行っていなくなったな~と思うと、
バタバタ駆け戻ってきて、また遊びが再開するという繰り返し……でした。
 
子どもって、親が選ぶ「良いこと」だけでは育たないな~

と子どもが大きくなるにつれて感じます。

子どもの気持ちを前向きでチャレンジャーにしてくれるのは、
失敗したってどうってことない、飽きたら次を考えれば済む~という
環境のゆるさだったりします。

「新しくこんなことしてみたい、自分の全力をこれに傾けてみたい」
と閃いたとき、一瞬の迷いも、大人への遠慮も、罪悪感もなく、
自分をその中にどっぷり投入できる……

それが子供だけでする自由な遊びのよさですよね。

思い通りにいかないことが多いこと、
頭をしっかり使わないとすぐ退屈すること、
きょうだいも、友だちも、
自分から働きかけて、一生懸命、説得するなり、ぶつかりあうなりしないと、
親や大人たちのように、簡単に折れてくれないこと……

とにかくジレンマを感じる場面に何度もぶつかるし、
考えてもみなかった事態に遭遇することもよくあります。

でも、それが、「どうしてもこれがやりたい!」という気持ちに駆り立ててくれるし、退屈ついでの言い争いが、多少のことにくじけず、
あきらめず、どうすればいいのか考え続ける
挑戦し続ける姿勢を作ってくれるのです。

私は毎日の子どもの生活に、退屈や無駄やけんかや、
大人から見ると「無意味で非効率的」なことがたくさんあるといいな~
と感じています。
また、親の私が正しいと思う考えとは対極にあるものも
チラホラあるのがいいな~とも。

実際、子どもたちがかなり大きくなってみると、
私が価値をおいていなかったものが、子どもたちを鍛え成長させてくれていたことがよくわかります。

ふるまりさんの記事にもうひとつリンクさせていただいて↓
★「輪ゴムをひっかけてあそぼう」オモチャ

タロウくんが地団駄を踏んで、「これがしたいんだ~」「これじゃなきゃダメなんだ~」と訴えて、その熱意におされて、しぶしぶ
工作準備に手を貸す様子が描かれています。

これを読んで、そうそう~もし、最初から、
「お母さんはいつでもあなたの工作に手を貸しますよ、スタンバイしてますよ」
だったり、
「子どもに工作をしてほしいのは、本人よりお母さんかもしれない」って
状況だったり、
「工作教室で、きちっと材料が整っていて、今工作の時間ですよ」
だったりしたら、
それほど工作に熱が入るのか……
工作以外のことまで、貪欲にやりたいがんばりたいという気持ちが起こるのか、
疑問だな……と感じました。

こうしたところに、子どもをやる気にさせる、主体的にさせる
原動力が生まれる瞬間が潜んでいて、
それは大人が「がんばって」作ろうとするとすごく難しいことだな
と感じるのです。

まず、本気で交渉すれば相手が動くという経験なり信頼感がベースにあって、

それでいて、まあまあ手ごわかったり、
思い通りいかなかったりして、
軽いジレンマや、

必死に、あの手この手でぶつかる時間があって……

つまり、時間に追われていないことが大事で、
その後、人と人との間で自分の思いが達成できたという満足感が残るという経験


そうした繰り返しのなかでこそ、
自分の知力や、技術力や、体力や、精神力の限界が把握できるし、
自分が何がやりたいのか、
内面から湧き上がってくるものを実感できるのですよね。

2歳くらいの子でも、
新しいおもちゃを渡しても見向きもしなかったりするのに、
お友だちが持っていると欲しくなる、
取り合うとさらに欲しくなって、
ものすごくやってみたくなる、
いつもならすぐに飽きてポイなのに、渡したくないからおもちゃに熱中するという瞬間がありますよね。

そうやって人と人との間でジレンマを抱きながら、自分の気持ちがワーっと湧いてくるから、
いろんなことに夢中になれるようになるのですよね。

もちろん勉強だって、

大人の期待に応える形ではなく、
また級とか賞とか、プレゼントとか関係ないところで

「自分自身の心が強く強く何かを欲した経験」がベースになって、
がんばれるようになるのだと感じます。

うちの子たちの小学生時代のことを思い返すと、
何が良かったのかって、
大人の価値観に真っ向から反抗して、好きなように無駄をやりつくして、
ひとつも「大人のため」が入っていない世界で
自分のしたいことをした~
やりたいことのエネルギーがいくらでも湧いてきたという
経験なのでしょうね。

そこで、すっきりとゼロの自分になって、

自分の人生にどんな計画を思い描こう、
この人生に自分の知力、技術、体力、精神力の全てを投入して
何をやってやろう!

って力が湧いてきたのでしょう。
そして、今度は、一歩、現実の世界にも
足を踏み入れて、その力を勉強なり、人との関係の構築なりに
使い出すのだと思います。

子の夢 親の夢 子の人生 親の人生 ②

2012-10-17 14:10:21 | 息子とおしゃべり(ときどき娘)

私 「さまざまな物や行為と『生きて存在していること』の関わりを考えていくのって、哲学の世界では大事にされていることよね。
哲学って難解なイメージがあるけど、実際には幼児が考える疑問のように……ごく基本の基本みたいなことを扱っているわよね」

息子 「うん、そうそう。哲学って、存在する全てのものを意味でつないでいるものだと思うよ。
それは勉強を極めていった選択肢の先っぽにあるんじゃなくて、
もっと身近な……人が手にするひとつひとつの物……えんぴつでも服でも何でもいいんだけど……や、
『生活の営み』全般の芯の部分にあたるんだろうな。

だから、特別にかしこまらずに、もっともっとみんな
普通に哲学に触れればいいのにって思っているよ。
自分の中に持っておくというか……。

哲学だとハードルが高いんなら、詩のようなものでもいいんだ。

哲学にしても詩にしても、
形容できないものを、文字の媒体で表そうとすることじゃん。

形容できないものを形容しようとする試みがなかったら、
『友だち』というのを数や格付けとイコールで結ぶようなもので、
人の行為は、
『名前を付けられた空のパッケージ』ばかりになってしまうよ。」

私は息子の口から詩という言葉が出たのでとても意外な気がしました。
詩を読んでいる姿を見たことがなかったので。成長すると、身近にいても親が知らない面がいろいろあるもんです。

息子 「詩なんていうと、デザートのように思っている人もいるだろうけど、
『生きる糧』のようなものじゃないかな?

そうした自分の内面の芯のようなものがないままに、
どんどん勉強して、どんどん知識や技術を吸収して何を得たとしても、
それは人としての『基盤の幸せ』を失うリスクを犯すことに
ならないのかな?

生きていくことの手段に過ぎないものを
全てであるように錯覚している人がたくさんいるから、
そこで暮らしている子どもたちにしても、
もう本来の『子ども』って存在じゃないように見えるよ。

他人の評価に依存するものに、
自分を全て明け渡して、
自分の中にある形容できない何かを、
まったく無いもののようにしているんだから。
じゃあ、もうそこには自分がないってことじゃないの?」

息子の言葉を聞いて、私は昔、自分が書いた詩のことを思い出しました。
それで詩画集を持ってきて、次のような詩のページを広げて
息子に差し出しました。「同じようなこと考えるもんでしょ。やっぱり親子よね」
そういえば、息子に自分の詩を見せるのは初めてでした。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
    ハーメルンの笛吹き

もしも君たちが   自分の言葉を裏切るなら
もしも君たちが   平気で夢を枯らすなら
もしも君たちが   太陽と風を忘れるなら
もしも君たちが   本当は誰も愛していないなら

ハーメルンの笛吹きがあらわれる   子どもを連れにあらわれる
遠ざかる笛の音をつかまえても    もうおそい

まちじゅうどこにも 子どもはいやしない
赤ん坊は赤ん坊じゃないんだ
子どもは子どもじゃないんだ
ちいさくたって同じ
のっぺりした顔の 大人ばかり

そののっぺりが 世界中を埋めつくしても
みんな平気の平左さ
だって ほら 世界中  もう大人しかいないからね

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
息子はえっ? と驚いた様子で、
「あっそうだ。お母さん、詩を書いてたんだったよね」と笑いながら読んで、ちょっと真剣な口調で、
「あ~わかる。いいな~。」と言ってから、
次のように付け加えました。
「親子だからどうって言えない面があるんだけど、
もし、これがお母さんの詩じゃなくて、目にしたとしたら、すごく好きになってた可能性があるな。」
と本当に感動している様子で言ってくれました。

「いつ書いたの?
詩集を作ってたのは見たことがあるから、その時?」

「絵はね。でも、詩はもっと前よ。★(息子)とそれほど変わらない年齢の時のものもあるわ。
ほら、これ。」
私はすっかり舞い上がって、別のページも
息子に見せました。

環状線 
という詩です。

「ほら、さっき★(息子)が言ってた……
何となくそっちの方が良さそうだという気分に流されるうちに、自分自身を見失うってあるじゃない。
褒められたり、期待されたりして、
ちょっといい気になってそれを続けるうちに、環状線に乗ってぐるぐる回り続けているってことがね。そのうち、本当はどこに行きたかったのか忘れちゃうってことが……。」

息子 「そうだよ。ほとんどの人が、人からえらいとか、目立ちたいとか思ってがんばっているうちに、気づかない間にその詩の環状線に乗っていると思うな。」

私はすっかりうれしくなって、
出逢い 
小さな友へ の詩も見せました。

すると、息子は笑いながらこう言いました。

「お母さんの詩、いい詩だよ。ぼくは好きだな。
お姉ちゃんが、いい詩が読みたいって探してたけど、意外に
お母さんの詩を読んでもいいんじゃないかな?」

私 「気に入ってもらってうれしいわ。
お母さんの詩が良い詩かどうかなんてわからないけど、
でも、今そうした詩を書こうと思っても、もう書けないから、お母さんにとっては貴重な詩なの。

だって、それはその時のお母さんの心の軌跡でもあるから。

環状線を書いたときは、
自分がいつのまにかそうした不安な状況に呑みこまれてて、降りたくてもどうやって降りたらよいのか見当がつかなかったのね。

それがきれいな詩を書くために、
過去を振り返りながら、上手に言葉を組み合わせるように書くんだったら、
お母さんにとってはあまり意味がないのよ。

その時、その時の心が抱く思いは、普遍的なところがあると思うの。
お母さんの心が感じる体験は、世界中のさまざまな人が同じように感じているだろうってこと。

出逢いの詩で書いたような心の体験が、人と真剣に出逢うときには
必然と言っていいほどあって、
たとえそれが苦しいものだったとしても、
そうした普遍的なものに触れて、
自分の目にどう映り、どう感じたのか……
『その時』を言葉にできたことが うれしいのよ。

評価されるかとか、認められるかなんてこととは別の問題でね。
どんな出来だって、作るのは楽しいものよ。

そしてこうやって、ちゃんとひとりでも読んでくれる人がいると
すごく感激するものだしね。
そうだ、★が11歳の時の姿をスケッチしたものと詩があったわ。
ほら、これよ」

11歳の孤独
息子は面白そうにそれを読んでから、懐かしそうに笑い出しました。
「ああ、この時のぼくは、ぼくで、今とはまったく違う心で、いろんなことを考えていたんだよな……今思い出すと面白いな」

私 「お母さんは子どもの頃からずっと児童文学の作家になりたいって夢みてきて、いまだに夢はずっと持ち続けているのに、遠回りばかりしているわ。

今の仕事が大好きだしね。
その時、その時、★が言ってたような『生きている』って実感を味わいながらきているから、
思い通りにいかないときも、それなりに満足しているの。
それに、自分を生きているとね、どの道を歩いていたとしても、やっぱり夢に近づいているように感じるわ」


息子 「ぼくがゲーム会社以外の異業種の会社に就職したいって
思いだした一番の理由は、
安定した力を手に入れたいって気持ちからなんだ。

ゲームのプログラミングならこれまでもしてきたし、
どうせ下積みで学ぶのなら、これまで学んだことのない新しいものを
学びたいからさ。

会社に入って意味のある能力を身につけて、
必要とされるような人間になりたいってのがあるからね。
いつ会社が合併したり、潰れたりするかわからない時代だからって、
手抜きして働いてしまうと、
かえって不安が募るだけじゃないのかな?

今は不況だ不況だというけど、
会社が潰れても一人で儲けることができるくらいの力を蓄えておけば、
変化は超えられるはずだよ。
こんな考えを持ちはじめたきっかけは、○先生なんだ。(息子の学校の地理の先生)
あの先生なんて、40歳から先生になったわけだけど、そんな年齢でも見ている人間はいる、そのために面接はあるって言ってたからね。
自分に力さえつけておけば、後から転職することだってできると思ってさ。

社会がこんなに不安定な時代だから会社に入るのなんて無意味だって
いう人もいるけど、会社に入っていないと対人的な力がつきにくいんじゃないかな?
○先生があの年で就職できたのも、会社の履歴はなくても、
世界を旅行したり、いろんな職を体験したりして、
対人スキルを身につけていたからだと思うよ。」

私 「会社って、前に大企業は自分にはあわないって言ってたわよね。
大企業の子会社とかも嫌なの?」

息子「そんなことないよ。それに、大企業に入りたくないわけじゃないよ。
ぼくが選べる立場じゃないけど。
競争は好きじゃないといったって試験は好きだからね。京大受験にしたって面白いよ。
ぼくが中小企業もいいなと考えていた理由は、下積みの間もかなり本格的に実戦から学べそうなところだったんだけど、
でも現実には入社時に厳しい会社の方が、働きがいがある気もするな。だから大きいとこも狙ってみるつもりだよ。」

私 「下積みの間に、鍛錬しておけば、多少しんどい思いをしても
身につくものは大きいわよね。
お母さんは★が中高一貫校に行ったのも、朝は早いし帰りは遅いし、しんどい思いはしたけど、公立で安穏と過していたより、
ずいぶんたくましくなったって思っているのよ」

息子 「それは違うよ。しんどいっていうのとはずいぶん違って、楽っちゃ楽だからね。
ぼくが中高一貫に行って学んだことと言ったら、
騙されてさ、どんなに他人に、これをやったら成長するって言われたとしても、やっぱりそれは無意味だってことだけさ。

何が苦しいと言ったって、やっていることが全く役立たないとわかってて
それをずっとさせられるほど
気もちが萎えることはないからね。同じ漢字を何百回も書けとか、もうできている計算を何十回もしろとか。
学校がつまらないのは、ひとつの見方を10回言ってわからせようとする点だよ。
こうやってお母さんとしゃべっている場合でも、普通、生活の場で考えるなら、
1つのことを10の視点から見るわけじゃん。
前から見て、背後から見て、斜めから見てって、良い面と悪い面を押さえた上で、そうした後に、一番最適なものを選ぶわけで。


でも、学校はとにかく無駄なことをさせてでも、生徒に何かさせてなきゃ
安心しないから、勉強する時間がなくなっちゃうんだ。」

私 「授業は易しすぎたの?」

息子 「そんなことないよ。難しいものもあるけど、やり方がワンパターンなのが問題なんだ。
数学でも物理でも、全部、暗記していくんだから。
そんなステレオタイプな学び方じゃ、即効、忘れるよ。
でも、中高一貫校から、反面教師として学んだことはこれから役立つと思うよ。
勉強するのに、何かに依存してもしょうがなくて、
結局、学ぶのは自分自身だってこと。
いつかは気づかなきゃならないことだからね。

早めに失敗しておけば
次は良い手が打てる。
就職に関しては、会社に入る何年も前から、その会社の必要としているものを
手にしておくつもりだよ。
大学1年から準備していても遅くないはずだよ。
京大入試にしても、もっと早く赤本に目を通しておけば良かったって後悔しているんだ。学校が忙しすぎて、勉強らしい勉強ができなかったから残念だよ。
いっそ、高一か、もう少し前から目を通して準備しておけばよかった。
まぁ、その後悔があるから、就職は はりきるつもりだけどさ」

私 「就職して、何か学びたいんでしょ。でも下積みの間はいろんなことをさせられるんじゃないかな?
営業とか……」

息子 「営業もいいよ。人と会って話すのは好きだし。
ただ、人を騙して何か売り込むのは嫌だな」

私  「なら、海外に行くことになったら?」

息子はゲラゲラ笑いだして、次のように言いました。
「海外? 恐ろしいことに巻き込まれるのは困るけど、ぼくの場合、海外はぜひって感じに行ってみたいからね」

私 「★(息子)は、そのどこへ行っても平気なところが強みだものね。
海外のニュースを聞いて、ドキドキするのは私の方かもね。」

息子 「就職したい会社については、どんな人材が必要とされているか調べて、早いうちから何をすべきか明確にしておくつもりだよ。
会社の雰囲気もできる限り調べたいし、できれば中で働いている人と実際会って話がしたいな。
就職難とは言うけれど、その会社の求めているものを正確に理解して、
そこで自分が何をしていきたいのか示せたら、うまくいくところもあるんじゃないかな?
○先生だって、就職できたわけだしね」

息子と話をするうち、「ゲームクリエイターになりたい!」と夢見ていた息子がいつの間にか、さまざまな価値観を受け入れながら、成長していたことに
とても驚きました。
知らない間に、大人になっていくものですね。