虹色教室通信

遊びや工作を通して 子どもを伸ばす方法を紹介します。

子の夢 親の夢 子の人生 親の人生 ①

2012-10-17 14:05:45 | 息子とおしゃべり(ときどき娘)

(過去記事です)

わが子が幼い頃や小学生時代、いっしょに交わす会話が面白くてよく記録に取ったものでした。
それが子どもが成長するにつれ、学校、通学、趣味、友だちとのつきあい、バイト……と親より慌ただしい生活をするようになって、
顔を合わせて話をする時間が激減していました。

それが、受験生になった息子が学校が休みの日も 遊びに行かずに家で勉強するようになって、勉強に疲れると気分転換に家族としゃべる機会が増えて……。

そうするうちに、自分の中にむくむくと「子どもとの会話を記録しておきたい」という思いが復活してきました。
「なぜ?」と問われたら困るのですが、カメラ好きの方が わが子の姿を写真に残しておこうとするのと近いものだと思います。

そのため虹色教室の日誌代わりに続けてきたこのブログは、
以前より私的なものに変化しつつあります。自分にために書いているやたら長ったらしい記事も増えましたが、面倒な方はどうか飛ばし読みしてくださいね~。

今後も教室でのレッスン風景や教え方の記事も、
書いていきます♪ どうぞよろしくお願いします。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
先日、進路について悩む息子から相談を受けました。
進路といっても、大学や学部選びはもう自分の中で決まっているようで、
迷っているのは将来の仕事に向けて 
これから何を学んでいくべきか、
就職する会社はどのような職種から選んでいけばいいのか
といったことでした。

途中で現われたダンナが、
「先のこと考えて御託並べてないで、まずしっかり勉強しろ!」
と雷を落とし、
息子が「受験勉強はしてるさ。でも闇雲に勉強するだけでは、大学卒業時にそこから4,5年かかる勉強をスタートすることになって、出遅れるよ。ビル・ゲイツが成功したような まだネット社会が未完成だった時代じゃないんだからさ」と言い返すシーンもありました。

夕食後に3時間近く話しあって、
最後には、「話をしてみてよかったよ。おかげで行きたい方向がはっきり見えてきた」と言われて胸が熱くなりました。
息子の進路について相談に乗っているつもりが、
私自身の進路というか……これから自分が歩んでいく方向性のようなものを考えるきっかけにもなった会話でした。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
息子 「最近、ただIT関連の仕事がしたいと漠然と考えて、
大学で情報工学を学ぶだけじゃ、
本当にやりたい仕事からずれていくような気がしてさ。
ITといったって、今はひとつひとつの分野が専門的に進化しているから、
それぞれの先端じゃ互換性はないはずだよ。

だからといって念のためにと あれこれつまみ食いするように学ぶんじゃ
1しっかり学べるところを、2分の1、3分の1ずつしか学べなくなってしまう。
今、一番迷っているのは、ソフトを作る力を蓄えるか、ハード面で強くなっておくかということなんだ。
もしこれまでのネットのあり方を根源から変えるようなものを作りたいとすれば、大学を卒業しても、そこから研究生活に入ってく形になる。
それがぼくが本当にやりたいことなのか、自分にあっていることなのか迷っているんだ」

私 「今後、ネットの世界は飽和状態に向かうと考えているんでしょ。
ただプログラミングを学ぶだけでは、いずれ、どんなに質の良いものを作り出しても、競争の中で消えていくだけかもしれないわ。
だったら、時間や手間がかかってもハードそのものを扱う勉強をした方がいいんじゃないの?」

息子 「勉強や研究が嫌なわけじゃないんだ。」

私 「早く働きたいの?」

息子 「それもあるけど、それより自分が本当に創りだしたいものは何なのか、そう考えていくと、今 立ち止まってじっくり考えておかないと、
何となくそっちの方が良さそうだという気分に流されるうちに、自分自身を見失いそうな気がしているんだ。
それで、ぼくの、ぼくだけの特技ってなんだろう? 
将来の仕事の決め手になるような他のみんなより誇れるところって何だろうって煮詰めていくとね、
『みんながみんな左に向かっているときにも、右に向かうことができる』
ってところだって思い当たってさ。
じゃあ、そんな自分が活かせる仕事、いきいきと働き続けることができる仕事は何だろう
……それとぼくが創りたいものの本質は何だろうって考えていたんだ」

「『みんながみんな左に向かっているときにも、右に向かうことができる』能力って、単にひねくれ者ってわけじゃなくて、
多くの人がいっせいに左に向かっているときって、
その時点で もう本来の左に進むべき目的が見失われているときがあって、
みんな薄々、それには気づいてるんだけど、
動きが取れなくなっていることがあるよね。

そんなときにぼくは
潜在的にそこにある大切そうなものを汲み取って、
ひとりだけでも右に方向転換することができるってことだよ。

そういう能力が将来、活かせるかもしれないって気づいたのは、
プログラミングを自分で学んでいたときなんだ。

学べば学ぶほど、より優れた技術、より精巧な動きっていうのを、
無意識に求める気持ちに呑まれていくんだけど、
一方で、より面白く、よりすごいものを作ってくって
技術面だけにこだわってていいのか? って考えたんだ。

もちろん、技術の向上が大切なのはわかっている。
でもね、もし技術ばかりがひとり歩きして、こんなものが欲しいという人の欲望みたいなものから離れてしまったら、
それは死んだ作品じゃないだろうかって。

ほら、3Dテレビって今どんどん進化しているじゃん。
100年前の時代だったら、
3Dテレビを作り出すために一生かけてもいい、
3Dテレビをどんな苦労してもひと目見たいって、願った人もいると思う。
で、今、3Dテレビがそれほど求められているのかっていうと、
100年前と比べると、それに対して人々が抱いているロマンのようなものが変質したと思うんだよ。
それでも技術革新は必要なんだろうけど、
同時にどうしたら生きた作品を生み出せるのかって考えるときが
来たんじゃないかな?

それで、ぼくは技術を身につけて、自分で制作に入りたくはあるけど、
その一方で、『プランナー』といった面を持っている仕事も
自分にあってるんじゃないかと思いだしたんだ」

私 「生きている作品ってどんな感じのものなの?」

息子 「感情を揺さぶるライブ的要素も持った作品かな?

今の世の中がこんなにも『うつ』っぽくなっちゃった理由は、
何でもかんでも、そうしてはならないものまで、
品物化していった結果だと思うんだ。

ほら、エンデの『モモ』って童話があるじゃん。
あれを子どもの頃に読んだとき、
みんな何日で読んだ~何ページも読んだ~
他の本と比べてどのレベルで面白かったかってことばかり話題にして、

どうして、自分自身の今の生活が、
時間泥棒に奪われているモモの世界の出来事と
同じことが起こっている事実について考えてみないんだろうって

不思議だったんだ。

みんなはどうして人間としての自分の感情を通して、
物と付き合わないんだろうっさ。

いろんなものを品物として見るって、
高級料理にしたって、勉強の授業のようなものにしたって、品物化されて、
数値化されてるよね。

友だちのようなものまで、
ネット内でボタンひとつで友だちかどうか選別したり、
グループ内で友だちを格付けしたり、友だちを数でコレクションしたりする
ようになってくる。
でも、本当は、そんな品物化した『友だち』を、誰も求めちゃいないはずだよ。
友だちを欲するのは、友だちという人を求めているというより、いっしょになって団結して何かしてみたり、
冒険したり、共感しあったり、
そこで動く感情を欲しているはずなんだから。

みんな感情を求めていて、それに気づいていないんだよ。
何でも品物化したあげく、これは品物にしようがないっていう感情でしか処理しようにない『死』を、偏愛する人も増えている。

もし、IT産業で何かを作っていくにしても、
そんな風に物を求める根底になる感情の流れを揺さぶる生きた作品を作ることを目指していきたいんだ」


息子 「ぼくはずっとゲームクリエイターになる夢を抱いてきたけど、
ゲーム好きの人たちと自分の間には、
かなり感性の違いがあるのはずっと感じてきて……
最近になって、本当にぼくはゲームが好きなんだろうか?
って思うことが増えてきたんだ。

ぼくがゲームに対して感じている面白さって何なんだろう
って突き詰めてみると、
さっきお母さんが京都の巨大鉄道ジオラマの話をしていたから
閃いたんだけど、

『仕事の遊び化』って部分に

惹かれているんじゃないかと思うよ。

ぼくがゲームを面白いって感じている基盤の部分に、
この『仕事の遊び化』を生み出したい気持ちがあると思ったんだ。

ジオラマ作りに参加した職人やアーティストは、
退屈で苦しいはずの作業の中に、わくわくする楽しい気持ちやフローの感覚を抱いていたはずだよ。

この『仕事の遊び化』って、昔から人が苦しいものを喜びに変えたり、
辛い作業から楽しみを抽出する知恵として
存在しているものだと思うんだ。
たとえば、プラモデルなんかも、設計の仕事から、
楽しい部分だけを抜き出したようなおもちゃだよね。

ぼくがゲーム作りをしたかった一番の理由は、
ゲームという媒体を使って、
人間の営みをいろんな視点から眺めたり、そのユニークな一面に光を当てる
のが楽しいからなんだって気づいたんだよ」

私 「『仕事の遊び化』……そうね。日本が豊かになって、
物ではうんざりするほど満たされた後に、
きっと人はそうしたものを求めだしているように感じるわ。

遊び化といっても、遊び半分という意味でなくて、プロフェッショナルとして、天職として仕事に関わるとき
そうしたものを感じることができるのよね。

人の営みの面白い面を再体験したいって思いから
ゲームは生まれたのかもしれないわね」

そう言いながら、私は息子が小学生のとき 
モノポリーが好きでたまらなかったことを思い出しました。
何度やっても、いつも息子の一人勝ち。

どんなに他のメンバーの情勢が良いように見えるときも、
なぜか最後には息子の戦略にまんまとはめられて、
お金をほとんど奪い取られてしまうのでした。
手作りモノポリーもたくさん作っていました。

モノポリーは投資のゲームですから、それもおそらく『仕事の遊び化』という一面で惹かれていたのでしょう。

息子 「現実に体を動かしてやった方が面白いものを、
ゲームにするのは好きじゃないんだ。
どんなにリアルさを追求しても、実体験には負けてしまうから。

でも、そこのゲームの世界も、より美しい画像で、より高い技術でってことを追いかけていくうちに、人間的な部分が置いてけぼりになっている気がしてさ。
人が何を面白く感じ、何に心が動かされるのか……って所を見失ったまま進化が進んでいるようだよ。

それで、そうした世界でぼくは本当にゲームが作りたいんだろうか?
面白いものが作れるんだろうか? って思いだしたんだ。

先々、ゲームを作るにしろ、作らないにしろ、
まずゲーム会社とは全く職種の違う世界で働いて、
そこでの仕事に熱中しながら、自分の作りたいものを捉えなおした方が
いいような気がしているんだ」


私 「どんな職種を考えているの?」

息子 「アプリケーションの制作会社とか、
それか、シンセサイザーなんかといっしょに新しい音響機材を作る会社なんかも考えている。

ゲームを作りたいから、
新しいエンターテイメントを生み出したいから、
ゲーム会社に入るというのは、ぼくにはあっていない気がするんだ。
そんなことを思いだしたのは、マンガを読んでいたときなんだけど。

今さ、たくさんマンガの勉強をしたんだろうな
という技術レベルの高いマンガ家がたくさんいるんだけど、
そりゃぁたくさんの人がマンガを描いているんだ……
でも、どれを読んでも面白くないんだよ。
生きている作品がないって感じ。

一方で、ある時期までマンガとは全く関係ない異分野の仕事をしていて、
途中でマンガ家になった人たちが描く職業マンガが、
けっこう面白くって、このごろ気に入ってるんだ。

単純に考えると、少しでも早い時期からマンガを描き始めて、
それだけに打ち込んだ方が、良いものができるに決まってるって思うじゃん。

でも、マンガの世界もある程度
成熟し終えた面があるから、
無意識のうちに すでにできあがった価値観の影響を受けながら、
その世界でよりすばらしくって技術を向上させるだけじゃ、
人の心が動くような作品は生まれにくいんだよ。
その点、異業種から遅れて参入してきた人の作品は、
多少いびつなところがあっても、
思いもかけない斜めからの視点があって
新鮮で読みたい気を起させるんだ。」

私 「そうね、ものづくりの現場でも
そうした異業種同士の連携が、
不況を超えるカギになっているようだものね。」

息子 「ぼくも、自分が抱いている面白さを追求する道を、
既存のイメージができあがっている世界ではなくて、
ストレートにそのまんまじゃない……
別の職種の枠の中で探求していく方がいい気がしてきててさ。

そう考えだしたのには、受験勉強の影響もあるんだ。

受験って、ランキングで格付けされて、合格の道筋がマニュアル化されて、
いかにも品物化が進んでいる分野でもあるけど、
でも勉強していると 意外なんだけど、どの勉強も人間的な性格的なものが
その底にあるんだなって気づかされることがよくあったんだ。

かしこさって、いかにもIQや頭の回転のよさだけで測られるように思うじゃん。
でも、国語を学ぶって、結局は、そこにあるのは人間の営みや生きていることへの理解を深めることに過ぎないんだって学ぶほどにわかってくる。
文章のすばらしさをただ公式を当てはめて、答えをはじきだす作業じゃなくて、
読む文章から生きていることの何かを受け取ることが国語なんだなって。

数学のように、人間的なものからかけ離れているように見えるものでも、
生きていることのすばらしさを放っておいて、存在しないんだよ。
数学がすばらしいのは、そこに
人間的な評価が潜んでいるからでもあるんだから。
それで勉強するうちに、自分が表現したいものは、この人間的なことや
生きる営み、人の感情を揺さぶることを抜きにして考えられないなって。
そうした本質的なものを含んだ作品は、小さな枠の中で近視眼的に
他人と技術を競うだけでは生まれてこないと思ったんだよ」


子の夢 親の夢 子の人生 親の人生

2012-07-02 20:17:25 | 息子とおしゃべり(ときどき娘)

わが子が幼い頃や小学生時代、いっしょに交わす会話が面白くてよく記録に取ったものでした。
それが子どもが成長するにつれ、学校、通学、趣味、友だちとのつきあい、バイト……と親より慌ただしい生活をするようになって、
顔を合わせて話をする時間が激減していました。

それが、受験生になった息子が学校が休みの日も 遊びに行かずに家で勉強するようになって、勉強に疲れると気分転換に家族としゃべる機会が増えて……。

そうするうちに、自分の中にむくむくと「子どもとの会話を記録しておきたい」という思いが復活してきました。
「なぜ?」と問われたら困るのですが、カメラ好きの方が わが子の姿を写真に残しておこうとするのと近いものだと思います。

そのため虹色教室の日誌代わりに続けてきたこのブログは、
以前より私的なものに変化しつつあります。自分にために書いているやたら長ったらしい記事も増えましたが、面倒な方はどうか飛ばし読みしてくださいね~。

今後も教室でのレッスン風景や教え方の記事も、
書いていきます♪ どうぞよろしくお願いします。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
先日、進路について悩む息子から相談を受けました。
進路といっても、大学や学部選びはもう自分の中で決まっているようで、
迷っているのは将来の仕事に向けて 
これから何を学んでいくべきか、
就職する会社はどのような職種から選んでいけばいいのか
といったことでした。

途中で現われたダンナが、
「先のこと考えて御託並べてないで、まずしっかり勉強しろ!」
と雷を落とし、
息子が「受験勉強はしてるさ。でも闇雲に勉強するだけでは、大学卒業時にそこから4,5年かかる勉強をスタートすることになって、出遅れるよ。ビル・ゲイツが成功したような まだネット社会が未完成だった時代じゃないんだからさ」と言い返すシーンもありました。

夕食後に3時間近く話しあって、
最後には、「話をしてみてよかったよ。おかげで行きたい方向がはっきり見えてきた」と言われて胸が熱くなりました。
息子の進路について相談に乗っているつもりが、
私自身の進路というか……これから自分が歩んでいく方向性のようなものを考えるきっかけにもなった会話でした。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
息子 「最近、ただIT関連の仕事がしたいと漠然と考えて、
大学で情報工学を学ぶだけじゃ、
本当にやりたい仕事からずれていくような気がしてさ。
ITといったって、今はひとつひとつの分野が専門的に進化しているから、
それぞれの先端じゃ互換性はないはずだよ。

だからといって念のためにと あれこれつまみ食いするように学ぶんじゃ
1しっかり学べるところを、2分の1、3分の1ずつしか学べなくなってしまう。
今、一番迷っているのは、ソフトを作る力を蓄えるか、ハード面で強くなっておくかということなんだ。
もしこれまでのネットのあり方を根源から変えるようなものを作りたいとすれば、大学を卒業しても、そこから研究生活に入ってく形になる。
それがぼくが本当にやりたいことなのか、自分にあっていることなのか迷っているんだ」

私 「今後、ネットの世界は飽和状態に向かうと考えているんでしょ。
ただプログラミングを学ぶだけでは、いずれ、どんなに質の良いものを作り出しても、競争の中で消えていくだけかもしれないわ。
だったら、時間や手間がかかってもハードそのものを扱う勉強をした方がいいんじゃないの?」

息子 「勉強や研究が嫌なわけじゃないんだ。」

私 「早く働きたいの?」

息子 「それもあるけど、それより自分が本当に創りだしたいものは何なのか、そう考えていくと、今 立ち止まってじっくり考えておかないと、
何となくそっちの方が良さそうだという気分に流されるうちに、自分自身を見失いそうな気がしているんだ。
それで、ぼくの、ぼくだけの特技ってなんだろう? 
将来の仕事の決め手になるような他のみんなより誇れるところって何だろうって煮詰めていくとね、
『みんながみんな左に向かっているときにも、右に向かうことができる』
ってところだって思い当たってさ。
じゃあ、そんな自分が活かせる仕事、いきいきと働き続けることができる仕事は何だろう
……それとぼくが創りたいものの本質は何だろうって考えていたんだ」

 

「『みんながみんな左に向かっているときにも、右に向かうことができる』能力って、単にひねくれ者ってわけじゃなくて、
多くの人がいっせいに左に向かっているときって、
その時点で もう本来の左に進むべき目的が見失われているときがあって、
みんな薄々、それには気づいてるんだけど、
動きが取れなくなっていることがあるよね。

そんなときにぼくは
潜在的にそこにある大切そうなものを汲み取って、
ひとりだけでも右に方向転換することができるってことだよ。

そういう能力が将来、活かせるかもしれないって気づいたのは、
プログラミングを自分で学んでいたときなんだ。

学べば学ぶほど、より優れた技術、より精巧な動きっていうのを、
無意識に求める気持ちに呑まれていくんだけど、
一方で、より面白く、よりすごいものを作ってくって
技術面だけにこだわってていいのか? って考えたんだ。

もちろん、技術の向上が大切なのはわかっている。
でもね、もし技術ばかりがひとり歩きして、こんなものが欲しいという人の欲望みたいなものから離れてしまったら、
それは死んだ作品じゃないだろうかって。

ほら、3Dテレビって今どんどん進化しているじゃん。
100年前の時代だったら、
3Dテレビを作り出すために一生かけてもいい、
3Dテレビをどんな苦労してもひと目見たいって、願った人もいると思う。
で、今、3Dテレビがそれほど求められているのかっていうと、
100年前と比べると、それに対して人々が抱いているロマンのようなものが変質したと思うんだよ。
それでも技術革新は必要なんだろうけど、
同時にどうしたら生きた作品を生み出せるのかって考えるときが
来たんじゃないかな?

それで、ぼくは技術を身につけて、自分で制作に入りたくはあるけど、
その一方で、『プランナー』といった面を持っている仕事も
自分にあってるんじゃないかと思いだしたんだ」

私 「生きている作品ってどんな感じのものなの?」

息子 「感情を揺さぶるライブ的要素も持った作品かな?

今の世の中がこんなにも『うつ』っぽくなっちゃった理由は、
何でもかんでも、そうしてはならないものまで、
品物化していった結果だと思うんだ。

ほら、エンデの『モモ』って童話があるじゃん。
あれを子どもの頃に読んだとき、
みんな何日で読んだ~何ページも読んだ~
他の本と比べてどのレベルで面白かったかってことばかり話題にして、

どうして、自分自身の今の生活が、
時間泥棒に奪われているモモの世界の出来事と
同じことが起こっている事実について考えてみないんだろうって

不思議だったんだ。

みんなはどうして人間としての自分の感情を通して、
物と付き合わないんだろうっさ。

いろんなものを品物として見るって、
高級料理にしたって、勉強の授業のようなものにしたって、品物化されて、
数値化されてるよね。

友だちのようなものまで、
ネット内でボタンひとつで友だちかどうか選別したり、
グループ内で友だちを格付けしたり、友だちを数でコレクションしたりする
ようになってくる。
でも、本当は、そんな品物化した『友だち』を、誰も求めちゃいないはずだよ。
友だちを欲するのは、友だちという人を求めているというより、いっしょになって団結して何かしてみたり、
冒険したり、共感しあったり、
そこで動く感情を欲しているはずなんだから。

みんな感情を求めていて、それに気づいていないんだよ。
何でも品物化したあげく、これは品物にしようがないっていう感情でしか処理しようにない『死』を、偏愛する人も増えている。

もし、IT産業で何かを作っていくにしても、
そんな風に物を求める根底になる感情の流れを揺さぶる生きた作品を作ることを目指していきたいんだ」

 

息子 「ぼくはずっとゲームクリエイターになる夢を抱いてきたけど、
ゲーム好きの人たちと自分の間には、
かなり感性の違いがあるのはずっと感じてきて……
最近になって、本当にぼくはゲームが好きなんだろうか?
って思うことが増えてきたんだ。

ぼくがゲームに対して感じている面白さって何なんだろう
って突き詰めてみると、
さっきお母さんが京都の巨大鉄道ジオラマの話をしていたから
閃いたんだけど、

『仕事の遊び化』って部分に

惹かれているんじゃないかと思うよ。

ぼくがゲームを面白いって感じている基盤の部分に、
この『仕事の遊び化』を生み出したい気持ちがあると思ったんだ。

ジオラマ作りに参加した職人やアーティストは、
退屈で苦しいはずの作業の中に、わくわくする楽しい気持ちやフローの感覚を抱いていたはずだよ。

この『仕事の遊び化』って、昔から人が苦しいものを喜びに変えたり、
辛い作業から楽しみを抽出する知恵として
存在しているものだと思うんだ。
たとえば、プラモデルなんかも、設計の仕事から、
楽しい部分だけを抜き出したようなおもちゃだよね。

ぼくがゲーム作りをしたかった一番の理由は、
ゲームという媒体を使って、
人間の営みをいろんな視点から眺めたり、そのユニークな一面に光を当てる
のが楽しいからなんだって気づいたんだよ」

私 「『仕事の遊び化』……そうね。日本が豊かになって、
物ではうんざりするほど満たされた後に、
きっと人はそうしたものを求めだしているように感じるわ。

遊び化といっても、遊び半分という意味でなくて、プロフェッショナルとして、天職として仕事に関わるとき
そうしたものを感じることができるのよね。

人の営みの面白い面を再体験したいって思いから
ゲームは生まれたのかもしれないわね」

そう言いながら、私は息子が小学生のとき 
モノポリーが好きでたまらなかったことを思い出しました。
何度やっても、いつも息子の一人勝ち。

どんなに他のメンバーの情勢が良いように見えるときも、
なぜか最後には息子の戦略にまんまとはめられて、
お金をほとんど奪い取られてしまうのでした。
手作りモノポリーもたくさん作っていました。

モノポリーは投資のゲームですから、それもおそらく『仕事の遊び化』という一面で惹かれていたのでしょう。

息子 「現実に体を動かしてやった方が面白いものを、
ゲームにするのは好きじゃないんだ。
どんなにリアルさを追求しても、実体験には負けてしまうから。

でも、そこのゲームの世界も、より美しい画像で、より高い技術でってことを追いかけていくうちに、人間的な部分が置いてけぼりになっている気がしてさ。
人が何を面白く感じ、何に心が動かされるのか……って所を見失ったまま進化が進んでいるようだよ。

それで、そうした世界でぼくは本当にゲームが作りたいんだろうか?
面白いものが作れるんだろうか? って思いだしたんだ。

先々、ゲームを作るにしろ、作らないにしろ、
まずゲーム会社とは全く職種の違う世界で働いて、
そこでの仕事に熱中しながら、自分の作りたいものを捉えなおした方が
いいような気がしているんだ」

 

私 「どんな職種を考えているの?」

息子 「アプリケーションの制作会社とか、
それか、シンセサイザーなんかといっしょに新しい音響機材を作る会社なんかも考えている。

ゲームを作りたいから、
新しいエンターテイメントを生み出したいから、
ゲーム会社に入るというのは、ぼくにはあっていない気がするんだ。
そんなことを思いだしたのは、マンガを読んでいたときなんだけど。

今さ、たくさんマンガの勉強をしたんだろうな
という技術レベルの高いマンガ家がたくさんいるんだけど、
そりゃぁたくさんの人がマンガを描いているんだ……
でも、どれを読んでも面白くないんだよ。
生きている作品がないって感じ。

一方で、ある時期までマンガとは全く関係ない異分野の仕事をしていて、
途中でマンガ家になった人たちが描く職業マンガが、
けっこう面白くって、このごろ気に入ってるんだ。

単純に考えると、少しでも早い時期からマンガを描き始めて、
それだけに打ち込んだ方が、良いものができるに決まってるって思うじゃん。

でも、マンガの世界もある程度
成熟し終えた面があるから、
無意識のうちに すでにできあがった価値観の影響を受けながら、
その世界でよりすばらしくって技術を向上させるだけじゃ、
人の心が動くような作品は生まれにくいんだよ。
その点、異業種から遅れて参入してきた人の作品は、
多少いびつなところがあっても、
思いもかけない斜めからの視点があって
新鮮で読みたい気を起させるんだ。」

私 「そうね、ものづくりの現場でも
そうした異業種同士の連携が、
不況を超えるカギになっているようだものね。」

息子 「ぼくも、自分が抱いている面白さを追求する道を、
既存のイメージができあがっている世界ではなくて、
ストレートにそのまんまじゃない……
別の職種の枠の中で探求していく方がいい気がしてきててさ。

そう考えだしたのには、受験勉強の影響もあるんだ。

受験って、ランキングで格付けされて、合格の道筋がマニュアル化されて、
いかにも品物化が進んでいる分野でもあるけど、
でも勉強していると 意外なんだけど、どの勉強も人間的な性格的なものが
その底にあるんだなって気づかされることがよくあったんだ。

かしこさって、いかにもIQや頭の回転のよさだけで測られるように思うじゃん。
でも、国語を学ぶって、結局は、そこにあるのは人間の営みや生きていることへの理解を深めることに過ぎないんだって学ぶほどにわかってくる。
文章のすばらしさをただ公式を当てはめて、答えをはじきだす作業じゃなくて、
読む文章から生きていることの何かを受け取ることが国語なんだなって。

数学のように、人間的なものからかけ離れているように見えるものでも、
生きていることのすばらしさを放っておいて、存在しないんだよ。
数学がすばらしいのは、そこに
人間的な評価が潜んでいるからでもあるんだから。
それで勉強するうちに、自分が表現したいものは、この人間的なことや
生きる営み、人の感情を揺さぶることを抜きにして考えられないなって。
そうした本質的なものを含んだ作品は、小さな枠の中で近視眼的に
他人と技術を競うだけでは生まれてこないと思ったんだよ」


私 「さまざまな物や行為と『生きて存在していること』の関わりを考えていくのって、哲学の世界では大事にされていることよね。
哲学って難解なイメージがあるけど、実際には幼児が考える疑問のように……ごく基本の基本みたいなことを扱っているわよね」

息子 「うん、そうそう。哲学って、存在する全てのものを意味でつないでいるものだと思うよ。
それは勉強を極めていった選択肢の先っぽにあるんじゃなくて、
もっと身近な……人が手にするひとつひとつの物……えんぴつでも服でも何でもいいんだけど……や、
『生活の営み』全般の芯の部分にあたるんだろうな。

だから、特別にかしこまらずに、もっともっとみんな
普通に哲学に触れればいいのにって思っているよ。
自分の中に持っておくというか……。

哲学だとハードルが高いんなら、詩のようなものでもいいんだ。

哲学にしても詩にしても、
形容できないものを、文字の媒体で表そうとすることじゃん。

形容できないものを形容しようとする試みがなかったら、
『友だち』というのを数や格付けとイコールで結ぶようなもので、
人の行為は、
『名前を付けられた空のパッケージ』ばかりになってしまうよ。」

私は息子の口から詩という言葉が出たのでとても意外な気がしました。
詩を読んでいる姿を見たことがなかったので。成長すると、身近にいても親が知らない面がいろいろあるもんです。

息子 「詩なんていうと、デザートのように思っている人もいるだろうけど、
『生きる糧』のようなものじゃないかな?

そうした自分の内面の芯のようなものがないままに、
どんどん勉強して、どんどん知識や技術を吸収して何を得たとしても、
それは人としての『基盤の幸せ』を失うリスクを犯すことに
ならないのかな?

生きていくことの手段に過ぎないものを
全てであるように錯覚している人がたくさんいるから、
そこで暮らしている子どもたちにしても、
もう本来の『子ども』って存在じゃないように見えるよ。

他人の評価に依存するものに、
自分を全て明け渡して、
自分の中にある形容できない何かを、
まったく無いもののようにしているんだから。
じゃあ、もうそこには自分がないってことじゃないの?」

息子の言葉を聞いて、私は昔、自分が書いた詩のことを思い出しました。
それで詩画集を持ってきて、次のような詩のページを広げて
息子に差し出しました。「同じようなこと考えるもんでしょ。やっぱり親子よね」
そういえば、息子に自分の詩を見せるのは初めてでした。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
    ハーメルンの笛吹き

もしも君たちが   自分の言葉を裏切るなら
もしも君たちが   平気で夢を枯らすなら
もしも君たちが   太陽と風を忘れるなら
もしも君たちが   本当は誰も愛していないなら

ハーメルンの笛吹きがあらわれる   子どもを連れにあらわれる
遠ざかる笛の音をつかまえても    もうおそい

まちじゅうどこにも 子どもはいやしない
赤ん坊は赤ん坊じゃないんだ
子どもは子どもじゃないんだ
ちいさくたって同じ
のっぺりした顔の 大人ばかり

そののっぺりが 世界中を埋めつくしても
みんな平気の平左さ
だって ほら 世界中  もう大人しかいないからね

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
息子はえっ? と驚いた様子で、
「あっそうだ。お母さん、詩を書いてたんだったよね」と笑いながら読んで、ちょっと真剣な口調で、
「あ~わかる。いいな~。」と言ってから、
次のように付け加えました。
「親子だからどうって言えない面があるんだけど、
もし、これがお母さんの詩じゃなくて、目にしたとしたら、すごく好きになってた可能性があるな。」
と本当に感動している様子で言ってくれました。

「いつ書いたの?
詩集を作ってたのは見たことがあるから、その時?」

「絵はね。でも、詩はもっと前よ。★(息子)とそれほど変わらない年齢の時のものもあるわ。
ほら、これ。」
私はすっかり舞い上がって、別のページも
息子に見せました。

環状線 
という詩です。

「ほら、さっき★(息子)が言ってた……
何となくそっちの方が良さそうだという気分に流されるうちに、自分自身を見失うってあるじゃない。
褒められたり、期待されたりして、
ちょっといい気になってそれを続けるうちに、環状線に乗ってぐるぐる回り続けているってことがね。そのうち、本当はどこに行きたかったのか忘れちゃうってことが……。」

息子 「そうだよ。ほとんどの人が、人からえらいとか、目立ちたいとか思ってがんばっているうちに、気づかない間にその詩の環状線に乗っていると思うな。」

私はすっかりうれしくなって、
出逢い 
小さな友へ の詩も見せました。

すると、息子は笑いながらこう言いました。

「お母さんの詩、いい詩だよ。ぼくは好きだな。
お姉ちゃんが、いい詩が読みたいって探してたけど、意外に
お母さんの詩を読んでもいいんじゃないかな?」

私 「気に入ってもらってうれしいわ。
お母さんの詩が良い詩かどうかなんてわからないけど、
でも、今そうした詩を書こうと思っても、もう書けないから、お母さんにとっては貴重な詩なの。

だって、それはその時のお母さんの心の軌跡でもあるから。

環状線を書いたときは、
自分がいつのまにかそうした不安な状況に呑みこまれてて、降りたくてもどうやって降りたらよいのか見当がつかなかったのね。

それがきれいな詩を書くために、
過去を振り返りながら、上手に言葉を組み合わせるように書くんだったら、
お母さんにとってはあまり意味がないのよ。

その時、その時の心が抱く思いは、普遍的なところがあると思うの。
お母さんの心が感じる体験は、世界中のさまざまな人が同じように感じているだろうってこと。

出逢いの詩で書いたような心の体験が、人と真剣に出逢うときには
必然と言っていいほどあって、
たとえそれが苦しいものだったとしても、
そうした普遍的なものに触れて、
自分の目にどう映り、どう感じたのか……
『その時』を言葉にできたことが うれしいのよ。

評価されるかとか、認められるかなんてこととは別の問題でね。
どんな出来だって、作るのは楽しいものよ。

そしてこうやって、ちゃんとひとりでも読んでくれる人がいると
すごく感激するものだしね。
そうだ、★が11歳の時の姿をスケッチしたものと詩があったわ。
ほら、これよ」

11歳の孤独
息子は面白そうにそれを読んでから、懐かしそうに笑い出しました。
「ああ、この時のぼくは、ぼくで、今とはまったく違う心で、いろんなことを考えていたんだよな……今思い出すと面白いな」

私 「お母さんは子どもの頃からずっと児童文学の作家になりたいって夢みてきて、いまだに夢はずっと持ち続けているのに、遠回りばかりしているわ。

今の仕事が大好きだしね。
その時、その時、★が言ってたような『生きている』って実感を味わいながらきているから、
思い通りにいかないときも、それなりに満足しているの。
それに、自分を生きているとね、どの道を歩いていたとしても、やっぱり夢に近づいているように感じるわ」

 

続きを読んでくださる方はリンク先に飛んでくださいね。

 

 


子の夢 親の夢 子の人生 親の人生6


読書 と 対話  うちの子たちとのおしゃべり 4

2011-11-29 22:49:52 | 息子とおしゃべり(ときどき娘)

 息子 「確かに、本を読んでるんじゃないな。

全ての文からまんべいなく、ひたすら情報を集めて分析していくことが

読むことだとしたら。

哲学書にしても、文を読んでいるというより、本の内容は、

自分で考えていく上での道筋やひとつの歩きやすい方法を示してくれるものに

過ぎなくて、

再加工って言うんだろうか、

自分の考えを組み立てていく作業がひたすら歩いていくことだとしたら、

本の内容は読んでいる最中にも、背景のようなものでしかないよ。

もちろん、書いてあることをできるだけ正確に読み取ろうとは思っているけどね」

 

その答えを聞いて、

文を「背景」という映像的なイメージで捉えているあたり、

息子も「映像で物を考えていく」派や「まるっと」派の一員だな~としみじみ感じました。

 

息子 「今の時代は、まるで夢のようなコミュニケーションを実現するツールが次々と

作られているよね。数年前には不可能だと思われていたようなやりとりが

簡単にできてしまう。

でも、そこでできがっていくつながりや相互交流を見ていると、

コミュニケーションという面で、それらがきちんと機能しているようには見えないよ。

もったいない使われ方をしているというか、どこか中途半端だよね。

 

ぼくが将来作りたいと思っているもののひとつは、学問をリアルな形式で表現したものだけど、

学問そのものを表現するというより、

学問のためのツールに近いイメージなんだ。

学問に触れる方法が言語という枠に縛られているのが、

気にいらないってのもあるし、

学問の世界には、触れて触って、勉強を楽しさだけを

探索していくツールも必要だと思うからね。

 

何かに魅力的なものにするには、シンプルな芸術性とか人間の衝動のようなものを

抜きにして考えちゃいけないと思うよ。

 

学問にしたって、理詰めで理解するのも大事だけど、

音楽のように感性で味わう経験も必要だからね。

それを好きになっていく過程では。

そう考えていくと、勉強にしても、会話であってコミュニケーションなんだ」

 

それを聞いた瞬間、そういえば……昔、同じような言葉を目にしたような……という考えが

ふっと浮かびました。

考えてみると、息子が中学に入学したての時に学校で国語の時間か何かで

書いてきた作文が、よく似た言葉で締めくくられていたのでした。

「ぼくも作文という形で会話を書いた。そしてこれを読んで会話が成立するのを心待ちにしている。」

という一文。

創造的で生産的な何かを生み出す会話って?3

に載せていました。

まだ小学校を卒業したばかりであどけない顔をしていた当時にも、

今と同じようなことを考えていたなんて、人間、中身は変わらないもの……。

そうした思いつきが、枝葉を広げて、将来の夢へと育ってきているというのは

うれしい気がします。

 

教室の幼児さんたちにしても、小さくてもひとりひとりが、

自分の芯の部分から生じてくるテーマのようなものを抱いて生活しています。

その子の感性を大人の過干渉で鈍らせてはいけないな~と再度実感しました。


読書 と 対話  うちの子たちとのおしゃべり 3

2011-11-29 09:17:48 | 息子とおしゃべり(ときどき娘)

久しぶりにツタヤに行って、何本かDVDを借りてきました。

そのうち、

 

マイマイ新子と千年の魔法

は、小学生が主人公のアニメ映画ということもあって、最初はわたしひとりで見ていました。

 

日々の忙しさで、児童文学を書いていきたい自分の夢をついつい後回しにしがちなので、

自分の夢とどこかで触れていたい気もちでこんなDVDを借りてきたのです。

すると、思いもかけなかったほどいい映画でした。

バイトが休みでくつろいでいた娘はわたしの大絶賛ぶりを耳にして、「わたしも見たいわ」と言いだしました。

そこで、娘とふたりで再び『マイマイ新子と千年の魔法』を視聴。

 

この映画、出だしがちょっともたもたしたところがあってストーリーに入っていきにくいのです。

でも転校生が学校に現あらわれたあたりからは、ぐいぐい引き込まれて、

目が離せなくなる面白さなのです。

それで、「最初の5分、10分は、どうかなっと思っても見ていて!きっと面白くなってくるから」

と念を押してからDVDをスタート。

ストーリーが中盤にさしかかるころには、娘も夢中になって見ていました。

 

見終わった娘は、「よかったわ~面白かったわ~」と感激した様子でつぶやいてから、

「この映画のストーリー、まるでお母さんが書いたみたい!

どこをとっても、お母さんそのものじゃない!!こんな映画がよくあったね~。

この映画に出てくる遊びって、わたしが幼児や小学生だったころ、

一通りやったことがあるものばかりよね。お母さんがやらせてくれる遊びって

ほんと、こういうんだったわ。

わたしが小さかった頃には、まだ、こんな風に思いっきり楽しさを満喫できることが

たっぷりあったけど、最近の幼児や小学生は、マクドナルド行ったり、習い事をはしごしたり、

忙しくって、この映画にあるような心から楽しめる遊びというか、一生、記憶に刻まれるような

遊びってしたことあるのかな?」

翌日、夕食時にこのDVDを見た息子も、見るやいなや「お母さんの世界観やなぁ」とひとこと。

 

子どもが幼い頃は、親の側から「この子はどんな子かな?」とわが子を眺めるものですが、

大きくなってくると、子どもの側に、「お母さんってこんな人やなぁ」と眺められています。

 

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前回の息子とのおしゃべりの続きです♪

 

哲学書を読むのって自分にとっては会話のようなもの……

言う息子に、わたしはその前日のネット上の

読書会で話題になっていた次のようなネタについて話をしました。

 

このネットの読書会、視覚優位派と聴覚優位派というか、

「同時処理」派と「継次処理」派というか、

 

物を見るとき、「まるっと」全体を捉えてから考え始めるタイプと、

順を追って、ひとつひとつ分析にながら考えていく派の2派に分かれていて、

 

会話を交わすごとに、お互いの得意不得意や考え方のちがいに驚くことが

多々あるのです。

わたしは、何でも、まず「まるっと」全体をつかんでから、

言葉で考えるより、映像で考えていく「同時処理」派です。

 

読書会でこの話題が出たとき、ひとりの「まるっと」派の方が、

「三党合意という言葉を聞いた時に何を思い浮かべますか?」と質問なさいました。

すると、「継次処理」派というか、言語を操るのが上手で、聴覚的な記憶力が優れている方は、

「映像はなしか、三つの丸のようなものが、ぼんやり」とおっしゃいました。

 

最初に質問した「まるっと」派の方は、

民主党や自民党っぽい代表が金屏風の前でがっちり握手して、カメラに向かって笑顔。

シルクのネクタイの感じ、脂ぎった額…そんな現実的な映像が浮かぶとおっしゃっていました。

その方の芸術関係のお仕事をなさっているご主人の場合、同じ映像でも、

もっと抽象的なメタファーで再構築されていて、三党ごとに色がついていて、

色の混ざり具合で「合意っぷり」を表現しているといった

半透明のアクリル板のようなイメージだったそうなのです。

 

同じように映像をイメージするといっても人それぞれ。

わたしの場合、「三党合意」という政治風の言葉に脳が反応したのか、たちまち

新聞の風刺漫画のような動物たちが、動物村で繰り広げるドタバタ

政治ストーリーが浮かびました。

 

ひとつの言葉を聞いて、どんなイメージが浮かぶかやってみる……というのは、これまで

したことがなかったので、たったひとつの言語を聞いただけで、

勝手にストーリーまで思い浮かべている自分にびっくり。

 

それと同時に、

「そういえば、小学校の頃、先生がひとことしゃべるたびに、

即座に、想像の世界に引き込まれちゃって聞いてなかったな~」とか、

「そういえば、本を読んでいるときも、活字に反応して、

どんどんストーリーを膨らませてしまいがちだな~」なんてことが、次々思いあたりました。

 

そこで、ふっと妙なことをひらめいて、こんなことをスカイプに書きこみました。

「Aさんの話でいろんな発見がありました。
ずっと不思議に感じていたことがあったんです。
視覚優位の人の不思議というか。
視覚優位の人のなかで、わたしと似た感覚の人の不思議なんでしょうけど。
視覚に関しては、直に触れる印象があるので、
目の前の現実をありのままに素直に見ることは簡単なんですよね。


でも、聴覚的な刺激に関しては、目で読む言語にしても、耳にしたとたん(目にしたとたん)
自分の視覚情報とイリュージョンで
加工してしまって……

ちょうど聴覚優位の方が目の前の現実を見るときに言語で加工して

素直に目の前のものを観察しにくいのと同じように、

自分の視覚映像を通して事実を考えようとしたり、それを勝手にストーリーに乗せようとしたりしていました」

それこそ、わたしが子どもの頃から抱えている困り感の最大要因のようなもので、

とにかくぼけ~っとして他人の話を聞けなかったのも、

連絡事項もたちまち忘れて叱られていたのも、まさに

これが原因なのです。

でも、わたしと同じ「まるっと」派のAさんは、

「奈緒美先生は本を読んで知識を得たとしても、

再加工するので、あらゆるお子さんに対応できるのではないでしょうか。

自慢じゃないですが、奈緒美先生のすごいところは正にそこだ!と思っていました。(笑)」と

言ってくださいました。

そういえば、どんな硬い文章を読んでも、瞬時に

笑いあり、ドラマありの映像に変換してしまうところは、

勉強には不向きだけど、使いようによっちゃ役に立ってるんですよね。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

そんな話を息子に長々とした後で、

「★が、哲学書を読むのは会話だって感じるのは、

★も、本を正しく理解するというより、読みながら

創造するというか、文字を見ると同時に再加工する習慣があるからじゃないの?」とたずねました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


読書 と 対話  うちの子たちとのおしゃべり 2

2011-11-28 14:11:54 | 息子とおしゃべり(ときどき娘)

息子 「これ読んでて思ったんだけど、哲学書を読むのってさ、会話なんだな。

ほら、哲学は理論を学ぶってものでもないし、

技術を身につけるものでもない。文学でも数学でもないからさ。」

 

母 「ソクラテスも対話のような議論で、哲学的な考えを深めてったし、

哲学の世界って対話していくイメージに近いのかな……?」

 

息子 「ん~そうだな。

哲学は具体的な形があるものでも、証明できる正解があるものでもないし

要は人間が作りだしたイメージと言えるんだろうけど、

 学ぶための知識の集大成というより、

会話やコミュニケーション……というか、

 

……時間軸を超えた形の高次元のコミュニケーション……

といった捉えた方が

あっている気がするんだ。

 

あくまでもぼくにとって、だけど。

それと、コミュニケーションというのをかなり広義に解釈した場合なんだけどさ。

 

たとえば、ハイデガーの本にしても、読み始めたとたん

存在の謎について問いを投げかけてきて……

すると、読んでいる側は、ただ文字を追うんじゃなくて、

その答えを自分の頭の中で見つけ出そうとするじゃん……

そうしたら、本もいろいろと答えを模索しながら、

次の問いをこちらに出してくる。

哲学の本を読んでいると、ただ読んでいるという気がしなくて、

やっぱり会話なんだな」

 

母 「あ~、そういえばそうね」

 

次回に続きます。

 


読書 と 対話  うちの子たちとのおしゃべり 1

2011-11-27 20:46:16 | 息子とおしゃべり(ときどき娘)

 

娘と息子に、「お母さんの仕事への熱中ぶりはスティーブ・ジョブズ並み」と笑われた後で、

口をそろえて、「うちには本がたくさんあるからいい」「うちの本の品ぞろえは最高!図書館よりいいのがある」

「専門的過ぎず、くだけ過ぎてもいない質が良くて読みやすい本って探すの大変だよ。図書館でも」

と褒められました。

主婦業ではダメ出しされっぱなしのわたしですが、

本棚の品ぞろえに関してはわが子から絶賛されております。(この本、ダンナからの苦情のもとでもありますが……)

 

娘はこのところ『これからの「正義」の話をしよう』を繰り返し読んでいる模様。

正義感が強くて、経済に関心が強い娘。

この本は娘が自分で本屋で買ってきた本ですが、

「これから、ずっと傍らに置いておきたいくらい感動したわ」と

深く心に響いているようです。

 

 

息子は先日、仲のいい友だちの家にお邪魔してきて、

「気が合う友だちって意外な共通点があるもんだな」

と感じたそうです。この友だちは医学部を狙っている勉強好きの子です。

「どんな?」とたずねると、「友だちの部屋の本棚にも、うちと同じように

たくさん本があってさ。聞いたら、親から本だけはお金のことを考えずに

買うように言われているんだって。

親からどういうこと言われてるかってとこまで似てたりするんだなって思ったよ。

いろんな種類の本があって、哲学の本なんかも置いてたよ」と言っていました。

 

受験中でうろうろできないために内面と向き合う時間が長いためか、

人工知能の研究に興味を持っているため、それに関連する哲学の話題に惹かれるのか、

このところの息子の読書のブームは哲学関連の本です。

 

先日も、勉強の合間に『ハイデガー』について書かれて

いる本の一節とひとつの言葉にえらく感動していました。

 よく聞いてみると、わたしも1ヶ月ほど前にその部分と、その言葉に

強く惹きつけられたのでした。

といっても、その文や言葉からイメージしたことは、

お互いかけ離れたものですが。

 

夕食後、のんびり本を読んでいた息子が、本から顔を上げて、

ブログを更新中のわたしに声をかけてきました。

「思考の祝祭って面白い言葉だね。

ハイデガーが円環の道って呼んでるどうどうめぐりし続ける論法を、

重要視した気持ちがわかるよ」

思考の祝祭というのは、説明すると長くなるのですが、

次のようなことです。

 

ハイデガーが考えた問題、

「芸術の本質はなにか」という問いを立てれば、

それを考えるために真の芸術作品を見なければならず、

ある作品が真の芸術作品かを決めるためには、

「芸術の本質がなにか」がわかってなくてはならない……

 

といった議論の循環論的構造、

つまりめぐりめぐってスタート地点に戻るような構造から

抜け出るのではなく、

この無駄な思考の運動に飛び込んでいき

「この道にとどまりつづけること」です。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「思考の祝祭」とは、デュオニスの祭りのように、狂ったように

歌い踊るうちに、次第に陶酔が起こり、この陶酔のなかで

新たな知恵が開けるような状態を言います。

       ( 『ハイデガー  存在の謎について考える』 北川東子  NHK出版より)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

母 「思考の祝祭? あ~、お母さんもその部分、そこは、そうそうそう~ってうなずいたわ。

お母さんさ、前から、うまく言葉にできない解決不能の問題をもんもんと考え続けていて、

わからないまま問題の周りをぐるぐるめぐっている鬱々した状態が好きでもあるのよね。

前にブログでそんな暗い記事も書いた覚えがあるわ。

 

どうしてと問われてもうまく言えなかったけど、

その本で思考の祝祭という言葉にぶつかって、妙に納得したのよ。

そういえば、工作イベントでも、あまりに計画的にして参加者の親の満足度を上げることに

興味がないのは、そこにもあるんだけど。

もんもんとした先が見えないカオスで不安定な状態のどうどうめぐりは、

そこからそれまで存在しなかった新しい価値が生まれてくるのを

待っている状態でもあるから。

子どもたちに物事の表面的な部分だけ、マニュアルにそうような経験はさせたくないのよ。

何かにどっぷり投げ込まれて、そこでもがいて、足踏みしながら、ゼロの状態に誘われて

自分の内部から価値のあるものを引き出すような心を体験してほしいの」

 

息子 「そう、この思考の祝祭ってさ、教育の世界でも……というか、

人間が成長するときに必ずっていっていいほど起こることでもあるよね。

知能の発達の性質上、こうした循環の構造に飛び込んでいって

とどまることって必須なのかもな。

根本的な問題を考えていこうとしたら、常に疑う心を手放せないし、

合理的に効率的に同じテンポで理解を進めていくのなんて不可能だからね」

 

次回に続きます。

 


教育と学習方法について考えること (息子とおしゃべり) 9

2011-09-28 22:47:09 | 息子とおしゃべり(ときどき娘)

息子 「学習を通して伸ばしていくものって、基本的な3つに分けられると

思うんだ。

一つ目は知識の量。

二つ目は思考の方法。文法のように体系化された学習内容を含むものだよ。

三つ目が地頭力。

学校では一つ目と二つ目の学習には熱心だけど、特に一つ目に偏った形でさ。

でも、三つ目の地頭力を伸ばす場面は少ないよね」

 

母 「そ。地頭力を育てる気持ちが薄いから、特別支援教室で学んでいる子が

せっかく勉強しても、それが将来の実生活で生かせていないのよ。

地頭力を伸ばせない問題は、学習支援の必要な子に限ったことじゃないけどね」

 

息子 「学校で地頭力を伸ばすカリキュラムが組みにくいのは、

地頭を伸ばそうと思うと、断片化して個別にパッケージできない種類のさ、

広範囲にわたる学習を統合するような勉強が必要になってくるからかな?

さっき話した『いろいろ考えた後で、それをひとつに統合して、蓋をするって作業』がさ。

でもそうした雑多の教科をまたぐ学習は、どれだけ進んだのかわかりにくいし、

成績として比べにくいよね」

 

母 「そうね。でも、成績で測って管理しやすいかどうかで

学習が偏ったり、子どもの思考法まで断片化するような方法ばかりに

なるのってどうなのかな?

せめて家庭や地域では相互コミュニケーションや創造的な活動を増やして、

子どもの生きる力を育てていかなきゃね。

思考が断片化しないためには、何かひとつの活動にしっかりコミットメント

する必要があると思うのよ。」

 

息子 「今の習い事は、感情を通してテレビドラマにあるような

うれしかったり悲しかったり、感動したり、耐えて努力したりっていう

体験の幅がないものね。わかりやすく断片化した体験が、

マニュアルで管理されて時間で売られている。

そんな風に何もかもが断片化されていくと、全てに通じる何かがわかった!って

瞬間が少ないかも」

 

母 「本当にそうよ」

 

息子 「そうだ。大学に入ったらさ、難関校を目指している中高生を集めて『数学クラブ』でも

作ろうかと思っているんだ。

お母さんのやってることとか、面白そうだしさ」

 

母 「お金を取る形で? それともボランティア?」

 

息子 「大学入試のために成績を上げることを重視したクラブなら、

お金を集めるつもりだし、そうじゃなくてプログラミングやゲームを通して

遊びを中心に部活風にするなら無料でしようと思っているよ。

どっちでもいいんだけどさ。

もしお金を取る形でするにしても、

実際に成績が上がった場合に家庭教師料をもらうとかさ、

お金を集めるシステムは学生らしい良心的なものにしたいけどね。

数学をわかりやすく教える自信はあるんだ。

まぁ、何でも実際やってみないと、はじまらないけど。楽しみだな」

 

これで長々と続いた息子との話合いはおしまいです。

 

そういえば、1年前にも息子と教育問題の話で長話をしたのでした。↓

わが子との会話を残しておくと、その時々の自分と子どもの感じていたことや考えたこと

が見なおせて懐かしいです。

教育現場に欲しい新しい言葉と新しい概念 1

教育現場に欲しい新しい言葉と新しい概念 2

教育現場に欲しい新しい言葉と新しい概念 3

教育現場に必要な 『ブラックボックス』 という言葉 1

教育現場に必要な 『ブラックボックス』 という言葉 2

教育現場に必要な 『ブラックボックス』 という言葉 3

教育現場に必要な 『ブラックボックス』 という言葉 4

教育現場に必要な 『ブラックボックス』 という言葉 5

教育現場に必要な 『ブラックボックス』 という言葉 6

 

 


教育と学習方法について考えること (息子とおしゃべり) 8

2011-09-28 20:07:03 | 息子とおしゃべり(ときどき娘)

外食ついでに教育と学習方法についていろいろと話しあった後で、

まだ話し足りなくて、結局、翌日も翌々日もその続きをあれこれ言いあっていました。

 

息子 「算数オリンピックとか数学オリンピックのいいところってさ、自らアウトプットするってところに

あるのかな?

学校の授業は一方通行にインプットされるばかりだし、定期テストはアウトプットとしては、

価値が怪しいしね。

前から定期テストのために勉強するのってどうなのかなって思ってたんだけどさ。

そもそもテストってそういうものじゃなくて、

勉強した成果がテストの成績であらわれるってのはわかるけど、

その逆はちょっとさ……続けていれば必ず学習動機を見失うよ。

話しが戻るけど、アウトプットってとても大事だと思うよ」

 

母 「でも、アウトプットが大人たち……つまり親や教師の

成果比べのために使われることもあるから、

どうなのかと思うときもあるわ。

インプットの良い面、悪い面、アウトプットの良い面、悪い面を押さえておく必要

があるのかもね」

 

息子 「確かに、コンピューター内って、誰もが気楽にできる

アウトプットのスペースになっているけど、

そこに問題がないといったら嘘になるしね。

アウトプットばかりだと、

他人の意見を聞かずに自分側から好き勝手なことを

言うだけになりがちだな」

 

母 「教育現場ではいい形で実現しにくいのかもしれないけど、

インプットにもアウトプットにも偏りすぎない

やっぱり相互交流という形の学びっていると思うのよ」

 

息子 「そうだな。相互コミュニケーションをしているときは、

思考が断片化されないってメリットが大きいもんね。

最近、思うんだけど、テレビを見ていると頭が悪くなるってよく言われるのは、

番組が低俗だからとか、脳内物質がアンバランスになるからなんてことより、

思考が断片化されてくからじゃないかなって思うんだ。

あくまでもぼくが自分でテレビを見てて

感じることで、何の根拠もないんだけどさ。

テレビの画面を目で追っていると、最初に自分の頭にあったことが、

次には何の脈絡もない話題に切り替わるようなことがしょっちゅうあるんじゃん。

そのせいでテレビがついていると理由もなく疲れていることがあるよ」

 

母 「断片化? あまり考えたことがなかったけどそうよね。

その断片化って、いろんなところで起こってきているように思うわ。

教育現場なんかでも」

 

息子 「確かに、学校の授業は思考を断片化しがちだよね。

集団で学んでいるから仕方がない面もあるけれど、

はい、次、はい、次……って、生徒の理解の度合いに関わらず

進行していくからね。

どうりでどの受験向けの参考書にも学校の授業を聞かずに

内職をすることを勧めているわけだな。

断片化しないようにきちんと思考をするには、

いろいろ考えた後で、それをひとつに統合して、蓋をするって作業が

いるんだろうけど、

ぼくは自分で勉強するときには、その都度、そうしたけじめをつけていくんだけど、

学校ではそういうことを大事にしないよね。

断片化のメリットは、生徒の進み具合が明確にわかることだろうから、

どれだけ進んでいるか、どこまで進んでいるかを教師や親が把握することが

優先され過ぎて、

むしろ思考を断片化していくことを良しとする風潮さえあるよ」

 


教育と学習方法について考えること (息子とおしゃべり) 7

2011-09-28 14:17:46 | 息子とおしゃべり(ときどき娘)

ゆとり教育世代の息子。

自分が受けた教育の質うんぬんより、

教育の形がより良いものに洗練されていくのでなく

その時々で、まるでファッションの世界の流行と衰退のように大きく揺れていくことに、

疑問を抱き続けていたようです。

 

息子 「自分自身で学ぶ内面のプロセスに関する情報っていうのは、

教える側にも、今の何十倍も必要だと思うよ。

 

だって、教師になる人は、例えれば箱の中にある青いボールについて

すでに知っている側、わかっている側の思考プロセスで教えようとするけれど、

教わる生徒は、箱の中に何色のボールがあるのかわからない側。

 

場合によっちゃ、ボールが入っているのかどうかさえつかめていない状態で学んでいるんだから。

 

そこで、青いボールについてどう説明するかとか、

青いボールの次に何色のボールについて教え、その理解度をどうやってテストするかってこと以外に、

箱の中に何が入っているかわからない状態から、そこにボールがあり、その形と色を認識するために

必要な思考のプロセスはどのようなものか、

わからないという状態にはどのようなわかる側からは理解しがたい盲点が潜んでいるのか、

情報として把握しておく必要があると思うんだよ。」

 

 小学生の頃、ボードゲームやパズルを手作りするたびに、

姉の友だちから、

「お前には初心者向けっちゅう発想がないんかーい」という突っ込みを入れられていた息子。

初心者側の視点に立つこと、学ぶ側、生徒側の理解度に配慮することの

大切さについて、

よく考えるようになっているようです。

教育問題については、次のような感想も言っていました。

 

「教育問題が議論されているとき、

一番問題に感じるのは、小学校、中学校、高校のそれぞれの教員の立場、大学の研究所の立場、

企業の立場、臨床の立場、予備校や塾の立場、

メディアの立場、子育て中の親の立場と、それぞれ別の切り口で

論点の優先順位が目まぐるしく変化していて、会話がちぐはぐになっているよね。

 

ぼくは教育の世界を語りあうためには、

その前提として、あらゆるマイノリティー側の意見も拾って、

数学的な平等さで体系化された相関図のようなものと、

それらをどの立場にも偏らない視点から網羅してある百科事典のような情報が必要だと

思うな」

 

母  「確かにそういうものがあると、教える際の立ち位置や自分の向かっていく方向

がわかりやすいわね」

 

息子 「何のためにそうした情報が必要かっていえばさ。

身近な例でいくと、○○式といった体系学習と、お母さんが子どもに教えるときの教え方の優劣は、

測れない種類のものだよね。

でも、多くの人はそうは思わないはずだよ。

メディアで成功しているか、有名であるかということが、

まるで教育の質の良し悪しを測ることができるように錯覚するからね。

 

過去の時代に価値を持っていた教育観も平等に評価しなおして、

子どもの生きている形について、できるだけ正確にバランスよく

教育という面から捉えて体系化すれば、

それぞれ教える側の人が、時代の流行に飲み込まれずに、

個人としてかしこくなれるよね。

自分はどのように教えるのか、その子どもにはどのような教え方が適しているのか、

一番いい方法が探りやすくなると思うよ。

それと、まず教育について議論するときに

迷走しないですむよね。」

 


教育と学習方法について考えること (息子とおしゃべり) 6

2011-09-28 08:39:46 | 息子とおしゃべり(ときどき娘)

息子と話しこむうちに、息子自身はどのような学校教育を受けたいと感じてきたのか、

どのようであればいいと考えているのか知りたくなって、それについてたずねました。

 

息子 「一度、勉強を損得勘定とつないでしまうと、そこから

勉強自体の面白さ……つまりパズルを解くような学ぶ楽しさに気づいていくのは

難しいもんだよ。

大人は、勉強しないと将来、こんな困ったことになる、こんな損をするといった

損得勘定を刺激するような安易な動機付けをして、

生徒たちを机に向かわせようとするけれど……

ぼくが学校で出会った先生たちのほとんどが、

口を開けばそうした脅し文句を繰り返していたけれどさ。

 

現実に社会を見渡せば、頭がよくなることがそのまま幸福な人生を保障してくれるわけじゃない

ことくらい小学生にも見えているんだよ。

実際、かしこくなればなるほど厭世的な思いにとらわれて、

無気力になっている人は多いよ。偉人の伝記を読んでも、ネットでの発言を見ても

それは顕著。

人と関わるのがおっくうになったり、

ささやかな善意を素直に喜べなかったり、

日々の営みをつまらなくてくだらないことのように感じて、

より単純なもので楽しめなくなっているんだ。

だからって頭がよくならない方がいいってわけじゃないけど、

教える側や教育する側に、脅し文句に変わる

もっと確かな教育のための哲学が必要だってことじゃないかな?」

 

母 「それなら、実際の教育現場はどのようになればいいと思うの?

現実に足りないものや改善点は何だと思うの?」

 

息子 「小学生って、足し算習って、かけ算習って……と、次々、新しい知識を

教えられていくけれど、後から振り返ると、

そうして6年間に何がどこまでできるようになったかなんて進歩よりも、

本当は習う内容なんてどうでもよくて、それを通して自分なりの勉強の

やり方をきちんと身につけることができたかってことが、その後の出来不出来を決めていく

と思うんだよ。

ぼくは小学校であれほど漢字を大量に書かされてもいっこうに覚えることができなかったのに、

ある時から漢字を覚えるのが簡単になったときに気づいたんだけど。

たとえ100回書いて苦しい訓練を積んだところで無駄な努力は無駄なままで、

それよりも1個の漢字を、ああ、こうしたら覚えられる、こうやってできるようになるんだってことを、

1回のプロセスの成功から身体で学ぶことが必要だとわかったんだ。

1個覚えるときに、どういう手順で、どういうプロセスで覚えたかわかったのかということを、

あいまいなままにせず、きちんと自分で了解すれば、

その後は急速に勉強が楽になる。

もし、教育の現場で、ひとつだけなおしたらいいことを挙げるとすれば、

自分自身で学ぶ内面のプロセスに関する情報を増やすってことかな。

教える側も、子ども自身も。

たとえば、足し算、引き算を大量に計算カードで練習している子たちは、

足し算ってどういう意味なのか、引き算ってどんなことなのか、

どういうときに成り立って、どのような不思議さや不可解さが含まれているのか、足すことと引くことで

どんな可能性が生まれてくるのかといった

「1+1」というひとつの数式に関する情報をほとんど与えられていないよね。

考える機会すらない。

そんなにも情報が少ないままに、大量に覚えていくことで、

自分でそれをわかるってプロセスがつかめないままでいる子は多いと思うよ。

そこに、なぜ、という問いが入り込む余白がないから」