山梨広一 東洋経済新報社
を読みました。
プロガプティブは、この著書では、「可能性を信じ、可能性を広げる」という意味で用いられています。
本のカバーに印刷された言葉。
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「これは無理だ。なぜなら……」という発想と、
「たぶん、できるはずだ。そのためには……」という発想は、結果的に天と地ほどの違いを生み出す。
プロガプティブ・シンキングとは、何でも面白がって可能性を否定することなく考える思考法なのである。
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この本を読んで最初に、「これって子どもたちが持っている発想法だな。
大人の価値観で管理しすぎなければ、
子どもはおおらかにこういう考え方を発展させながら成長していく。子どもらしい前向きで勢いのある思考のあり方を守ってあげなくてはならない」と感じました。
それから、作者がそれぞれの会社に向ける可能性を信じる姿勢に共感し、
子どもたちに対しても、「○○だからダメだ」とあきらめず、まず「できる」と思うことの大切さを再確認しました。
作者の山梨広一氏は、コンサルタントの仕事をする中で、
最初に「できる」と思わなければ、何ごとも絶対に不可能だ
という信念と思考を身につけるにいたったそうです。
山梨広一氏は次のようにおっしゃっています。(要約しています)
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経営者というものは、必ず自分の会社の可能性を信じている。
そこへ外からコンサルタントが入っていって、「この会社は○○だからダメだ」と思っていたとしたら、距離が近づくはずがないし、新しいアイデアや活動が創出されるはずがない。
ろくに検証もせずにできないと決めてかかることは、思考停止と同義語だ。そして考えることをやめてしまえば、その瞬間にすべて終了なのである。
逆にあらゆる可能性を論理的に突き詰めていけば、
不可能と思われることが可能になることも決して少なくないということを、自分自身で何度も経験した。
ただそのためには目的や条件を変えたり、何かをやめたりしなければならないときもある。
何かが整うのを待つために、時間がかかることもある。
しかし、最初に「できる」と思うことで、それが実現する可能性は飛躍的に向上する。 (『プロガプティブ・シンキング 面白がる思考』より)
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著者によると、人間の思考には4つの典型的なパターンがあるそうです。
<思いつき君>
<堅実君>
<ヒトマネ君>
<面白がる君>
最後の<面白がる君>が、プロガプティブ・シンキングをする人物です。
(これらの特徴はデフォルメされているので、実際はひとりの人の中にほかのタイプも混じっています)
<思いつき君>
とは、個別の具体的アイデアを湯水のごとく出してくるタイプ。
優れているところは、アイデアが具体的であること。確率は低くてもヒットの可能性を持っていること。
問題は、ヒット確率は保証されないことです。
また、なぜそのアイデアが出てきたのかという論理構成がしっかりしていないので、やってみた結果を貴重な体験として生かしにくい問題があります。
<堅実君>
とは、なにごとも手堅く堅実に考えて、実行に移すタイプ。
「仕事ができる」という評価を得ていることが多い。
事務処理能力が高く、ミスが少なく、責任感が強い。
欠点は、堅実にしか考えられないので、アイデアは平凡なものになる可能性が高いこと。文句のつけようがない無難なアイデアは、議論も広がっていきません。「斬新さ」や「変革」と無縁になりがちです。
<ヒトマネ君>は、誰かのアイデアや成功事例を拝借しようとする傾向が強いタイプ。
<ヒトマネ君>のアイデアは、聞いたことのない新しいアイデアではなく、必ずどこかにサンプルがあるものなので、具体的で議論がしやすい。
同業他者のアイデアを真似るのは、言葉は悪いが「パクリ」だが、
異なる業種のものをもってくるのは立派な「創造」になりえます。
弱点は、表層的な真似にとどまる限り、結果として成功しても失敗しても、実は本質がわからない。成功したからといって、たまたまうまくいっただけで、そこから次に広がらない場合が多いことです。
プロウ゛ォカティブ・シンキング で考える<面白がる君>とは、
何でも面白がって考えるのが特徴です。
難しければ難しいほど面白いと思います。
したがって、ブレークスルーや変革を生み出す可能性は、4人の中で一番高い。
<面白がる君>と一緒に働くと、本人も周りも「ワクワク感」、高揚感を持って仕事ができる。
何人かでチームを組むと、個人の発想や思考パターンの限界を超える可能性がある。
これは個人の成長にも貢献する。
まさしく現代は<面白がる君>が求められている時代なのです。
(『プロウ゛ォカティブ・シンキング 面白がる思考』より)
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うちの子たちや虹色教室に通う子たちと過していると、子どもというのは、
本来、この<面白がる君>の特徴を強く持っている存在だと感じます。
特に、子どもたちが大人に干渉されずに自由に遊ぶ時には、
<面白がる君>そのものです。
もし時代が、<面白がる君>を求めているのなら、
私たちは子どもたちのそうした子どもらしさを
本当に大切にしてあげなくてはならないと思っています。
それは甘やかすことでも、子どものわがままや気ままを
何でも許すことではありません。
子どもたちは、たくさんの自由時間と
友だちと群れて遊ぶ場を必要としています。
干渉されず、評価されず、何度も失敗することが許される
『子ども時代』が必要です。
さまざまな年代の人々、職種の人々と接して、会話し、
生きる方向性を学ぶ機会が必要です。
たったひとつの正しい道だけではなく、
いくつもの回り道があることも大事だと感じています。
現在、優秀な子たちはごくわずかで、残りの大多数の学力が底辺にとどまっていることが指摘されています。「中間層」がいないのです。
これは子どもたちが、また子どもを支える大人たちが、百かゼロか、○か×かの判断をしがちで、
唯一の正しい道から少しでもそれたら、
「できない!」と決め付ける思考停止に陥りがちなことから
来ているように感じています。
「トップをキープできないなら全く勉強に手をつけない、
がんばることをやめてしまう」なんて極端に走らず、
『どんなときも、自分の可能性を信じ、可能性を広げていく努力を怠らないたくましさと明るさ』を
子どもたちの心に育んでいきたいと思っています。
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共感した部分をもう少し紹介します。(簡単に要約しています)
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僕は若者から相談を受ける機会が多い。
近頃の若者の悩みで多いもの、というより特徴的なのは、「楽しいことがない」である。いろいろ試してみたけれど、自分が何をしたいのかわからない、と彼らは語る。
「なにもかもがつまらない」といった問題は、検索しても、相談しても、正解は見つからないだろう。人から教えてもらえるものではないからだ。
それでも無理に答えるなら、「つまらないのが当たり前」となる。
どうしてかというと、それは「君がつまらない人間だから」である。
どうしてそんなつまらない人間になったのか、を問い返さなくてはならない。
楽しさというのは、基本的に人から与えられるものではない。人からもらった楽しさはお土産のケーキみたいなもので、食べてしまったらそれでお終い。
本当の楽しさは、自分の中から湧き出るもの、自分で作るものである。だから楽しさの作り方をまず覚えなくてはならない。
これも、やはり作るセンスを育てることにつながってくる。
楽しさを自分で作るやり方は、子供のときに学んだ方が良い。大人になってから学ぼうとしても、頭は硬くなっているし、そんな時間もない。
作ることに対する素養というか、工作の免疫みたいなものを子供のときから持っているかどうか、という差が効いてくるようにも観察できる。
「どうすれば、作ることが好きな子に育てられるでしょうか?」という質問への策は、「そのように貴方がまずなりなさい」というしかない。
子供というのは育てる人間のように育つ。
子供に教えられるものがあるとすれば、自分の生き方を見せるしかない。
情報を教えることは本でもビデオでも良く、人間から人間への伝達である必要はない。
人間から人間へしか伝達できないものとは、その人間が持っている方向性であり、つまりは「生きていく姿勢」と、その要因となる、あらゆる行為のセンスである。
運動でも技術でも、先生がやるところを見て学ぶのだ。この場合も、まず受け手が、なんらかの感動をして、対象への憧れをもたなければならないだろう。
「すごいな」という感動が、学ぶスイッチをONにするからだ。
(『創るセンス 工作の思考』より)
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昨日のクレパス絵画展には、
以前学習を見ていた現在高一になる★くんが来てくれました。
(★くんのことは親御さんの承諾のもとで、記事にしています)
親御さんから絵画展の話を聞いて、★くんが自分から「奈緒美先生に会いたい」と言って来てくれたそうでとてもうれしく感じました。
★くんは今、大変なピンチに陥っていました。
進学先の授業のきちんと取り組まなかったため留年しかけていて、もし留年したら本人は高校を辞める心積もりなのです。
機械いじりの好きな★くんは、今の普通科の学校から工業高校に編入して、、
その後、中小企業に就職することを希望していました。
が、高校での編入が可能なのかすらわからず、悩んでいました。
★くんはCQ、つまり創造性が高く、
IQも高めで理科と数学が得意だけれど、
学校の授業をまじめに聞いたり、ペーパーでする学習をコツコツ続けていくのは極端に苦手という能力の凸凹を持った子です。
それなら、怠け者で根気がないのかというとそんなことはなく、すぐに怠け始めてしまうのはあくまでも机の上での学習だけで、
手でものを製作する作業では長時間、集中し続けることができます。
機械を組み立てたり、製図をしたりするのが大好きな★くんは、
虹色教室に通っていた頃は、
幼い子たちが壊したおもちゃを修理したり、難しい電子工作見本を組み立ててくれたりしたものでした。
クレパス絵画展の会場でも、展示していた回り灯籠がうまく回転しなくて困っていると、
覗き込んで、動く仕組みを調べてから、
「切り絵の部分の糊がはがれて穴が開いているから、そこから熱気が逃げているんだよ。
熱で紙がゆがんでるから、重心もずれている。」
と言って、セロハンテープで修復しはじめました。
「さすが、★くん、動く仕組みについてよく知っているし、仕事がていねいだな。」と感心しました。
★くんは2E教育という海外でおこなわれている『才能もハンディーキャップもある生徒向けの教育』の対象となるような子です。
といってもハンディーそのものは非常に軽いもので、日本の教育現場のさまざまな分野に完璧を求めすぎる教育の中でだけ、
落ちこぼれてしまうたぐいのものです。
映像でものを考えていくので、小論文や国語は苦手ですが、
科学的な知識をもとに、工作物の仕組みを的確に説明することは得意です。
才能の主は、電子工作を製作するときの高い問題解決能力や空間認知能力、図面を読み取る力などです。
創造性や独創性が同学年の子に比べて飛びぬけて高い子の中には、
この★くんと同じように、学校での適応に深刻な問題を抱えている子をよく見かけます。
こうしたタイプの子が自分の能力を発揮したり、認められたり、伸ばしたりするチャンスがないまま、
学校でどんどん自己肯定感を失って、しまいにドロップアウトしてしまう姿を見るのは辛いものです。
現在、ニートやフリーターになる若者が増え続けているからと、
職業訓練などの就労の支援対策の案が練られています。
そうした案は、★くんのような子たちの成長過程を見ていると、
どれも後手の策のようにも思えます。
もし教育の場が、教科書やペーパーテストの能力だけで
子どもをふるいにかけて、一生立ち直れないほど「ダメな子」と決め付けて、子どもに「不良品」のレッテルを貼るような態度を改めて、
社会に出て職場で役立つ能力であれば、
それも早期の教育現場で育み、認め、評価のひとつに加えてあげるようなシステムがあれば、自分の持ち場で働くことに誇りを持って生きていく若者がずいぶん増えるでしょうに……。
学校教育の場が、創造性や独創的な着想、技術力もひとつの能力であると評価し、映像で思考し、手で物を作ることを通して学んでいく子たちがいることを認めたならば、若者の就労問題はどれほど解決するでしょう。
もちろん公立の小中高の学校に、個性に応じた専門的な学習内容を盛り込むことや、特別な技能を持った教師を配置することは難しいかもしれません。
でも、せめて特別支援級で少し高度な工作をする機会が与えられるとか、
高校生以上でしたら、不登校になってフリースクールに入った場合、
そこでフワフワ遊ばせてしまってさらに社会に出る自信を失うようなことがないように、町工場等で休まずに働くことなども、単位を取る手段に盛り込むとか、
親や学校の勧めで普通科に進んだものの、
どうしても自分はそうした学習は合わないと感じた子が、
工業高校や工業専門学校に途中から編入できるシステムがあったなら、
自分にできることを見つけて、そこで真剣に学んでいく子たちが増えるのではないでしょうか?
私が子どもだった頃に比べて、今の教育現場の抱えている問題は、
森博嗣氏がおっしゃる
『上手くいかないことを前提に進める計画性』
を失ったことによるものが大きいように感じています。
今振り返ると、
「予期せぬ問題は必ず起こるものだ」という経験則は、工作だけでなく、
教育のような人間相手の場でも、かつての教師は持っていた勘だなぁと思い出すのです。
子どもなんて人間なわけですから、教師の頭の中のイメージ通り、規格通りに成長する子ばかりであるはずがないという感性。
そうした子が育つ隙間も、ちょっと残してあるルーズさが、
30年くらい前までは、ちゃんと学校にあったのです。
小数派の子供たちは、徹底的につぶされたり、攻撃されたり、極端に甘やかされたりすることさえなければ、
それなりに自分の力で育っていくものです。
過去記事から、アラン・ケイの子ども時代について紹介します。↓
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アラン・ケイというのは、世界初のパソコンと
それを操作するための高度なプログラミング言語を
創り出した人物です。
そのアラン・ケイの少年時代は、学校との戦いで、
何度か落第や退学の憂き目にさえあったそうです。
そんなアラン・ケイの小学校時代の話を紹介します。
アラン・ケイは家いっぱいの本を読んで育ち、
知的に豊かな環境に育った早熟な子どもでした。
しかし、小学校に入学したとたん世界は砂漠に変わってしまいました。
授業は退屈でたまらず、アラン少年は、学校とは苦痛を与えるところだ
と思い込みます。
アラン少年が小学4年生になったとき、
メアリ・クラーク先生と出会いました。
その先生の教室の隅っこには、ガラクタでいっぱいの工作机が
あって、乾電池、ねじ回し、電球や電線、電気工作や自作メカの本などが置いてありました。
そのガラクタ机で、電磁石の図解が載っているのを見つけたアラン少年は、
英語の時間に実験して試してみようとしました。
するとうまくいったのです。
思わずうれしくて叫んでしまったそうです。
クラーク先生はアラン少年を罰するどころか、
発見をかえって誉めてくれました。
それがきっかけになり、
クラスには電気の実験に興味を持つ子が
ほかにも現われ始めたそうです。
すぐに女の先生は、興味を抱く子を集めて小さなグループを作り、
電気について探求するプロジェクトを組織しました。
あっという間に、グループは小学理科をはるかに超える
レベルの学習を達成してしまったそうです。
「あの素晴らしい女教師は知っていたんだよ。未知の世界を前にしたとき、子どもは科学者と同じ心を抱く。子どもは探究したがっている。
自分の目と耳で未知の世界を偵察したがってるんだとね。
クラーク先生はそれがちゃんとわかっていたんだと思う」
とアラン・ケイは語っています。
その後、ハイスクールを退学し、大学に進学したものの そこも退学。
空軍に入って、軍に才能を見出され、
除隊して、大学に留学、大学院にも進みます。
アラン・ケイの才能はようやく花開き、
扱いにくくてがらくたのようだったグラフィックス・コンピューターを、
小さいサイズの洗練された使いやすいマシンし変える研究を始めました。
そして、現代のパーソナルコンピューターの原型にあたる
マシンの開発に成功できたのです。
こうした話を聞くと、「すぐに今の小学校でそんなことが可能なはずがない!」と
おっしゃる方がいるのですが、
今の学校では不可能でも、家庭や身近な大人までが、
学校と同じ硬い考えで子どもの教育に当たる必要はないと
思うのですよ。
勉強イコール学校で習うことと決め付けると、
子どもの才能を枯らしてしまう場合もありますね。
「子どもの未知なるものへの探究心」を大切にしてあげなくてはと考えています。
特に軽度発達障害の子は、
アスペルガーの子の場合、
ひとつの分野や興味にとことんこだわるところがありますし、
ADHDの子の場合、拡散思考とひらめきを駆使して、
これまでにないものを生み出す力があったりします。
学校への適応ばかりを気にして、そうした才能を伸ばすことを
おろそかにするのはよくありませんね。
子どもは どの子もすばらしいものを持っていますから…。
アラン・ケイノエピソードの引用は「子どもの脳が学ぶとき」戸塚 滝登 高陵社書店 からです。
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知的障害を持っている子たちに勉強を教えるときの3つ目の視点は、
『その子の個性をしっかり感じ取る』ということです。
子どもに何かを教えようとするとき、どうしても教えている内容や教え方にだけフォーカスしてしまいがちです。
そうなると、子どもが発信しているものを受信する大人のの感性が鈍るときがあるのです。
知的障害の子といっても、個性も能力もそれぞれ異なりますし
発達の段階も違います。
ですから、その子がどのような子かということを知ろうとする努力は、
何をどのように教えるかと同じくらい大事なことだと感じています。
たとえば、ある子どもに数についてのプリントをさせても
いっこうに進まないとします。
その子と話をするうち、お笑い芸人の物まねをするのが好きで、アニメの歌はよく知っていることを知ったとします。
すると『聴覚を利用した学習から入ると学びやすいかも‥‥‥』という可能性が生まれますよね。
そういう子には、先に、足し算や九九を歌にしたり唱えたりする練習から始めて、
耳で暗記した記憶を土台にして、書いて解く形に移行させていくと、
急速にできなかったことができはじめたりするのです。
その子について知ろうと努力すると、一方的に何かを教え込もうとするより
何倍も伸びる場合があります。
知的ゆっくりさんたちの遊びは、敏感期の幼児の遊びに似ていることがよくあります。
はさみでひたすら線を切っていたり、
ままごとの果物を容器から容器へと移しかえる遊びを繰り返したり、
ブロックをただはめることを繰り返したりするのです。
ひとつのことを覚えてしはじめると、長い期間それに熱中し、
あまり進歩が見られないため心配になる親御さんもいるようです。
「またやっている!」とそれをやめさせて、別の遊びを強制する方もいます。
教室の子たちを観察していると、
見たところくだらない繰り返しに見えることも、
その子にとって今必要な発達の課題を超えるための訓練である場合が
よくありました。本能的に子どもは自分が何をすべきか知っているのです。
たとえば、ブロックの基礎板にみっちりブロックをはめていく作業に
しばらく熱中していた知的ゆっくりの子がいたのですが、
ひたすらその作業をした後で、それまで知能テストで悪い点だった
空間上の位置を理解したり、記憶したりすることができるようになったのです。
また、アニメのキャラクターのポスターを見るのに凝っていた知的ゆっくりの子は、それに熱中したあとで、ひらがなや漢字を覚える力が
急速に伸びました。
子どもがしつこく繰り返すことに注目し、
それをやめさせるのではなくて、
その作業が含んでいる深い意味を読み取って、その作業からより多くのことを学べるように環境を整えてあげることが大切だと思っています。
前回の続きの前に、少し遠回りな話からさせてくださいね。
学習していくとき、人が頭の中でする作業には、
次の4種類があげられます。
★わかる……認知する・分類する・意味を理解する
★覚える……保持する・記憶する・想起する
★考える……類推する、推測する、一般化する、抽象化する
★決める……企画する、評価する、判断する、選択する
学習というと、上であげた『わかる』と『覚える』を子どもに繰り返させることというイメージがあります。
認知させ、分類させ、意味を理解させ、その記憶を保持させて、思い出させてテストすることを繰り返すことこそ、学力につながると信じられています。
教材では、
類推する、一般化するといった『考える』作業は、
そのパターンをわからせ、覚えさせて、テストしていくことでマスターさせるようにできている教材は多いです。
またそういう学習の場では、『決める』は大人がしてあげる仕事という前提があります。
「読み書き計算は学習の基礎だから、まず読み書き計算の徹底を!」というスローガンはもっともだし、その大切さはよくわかるのですが、
子どもの能力を急いで上げようとするあまり、
『考える』体験と、『決める』を体験をする場や機会がなくなっているのはどうかなぁ?と感じているのです。
ひと昔前の子であれば、外で子どもだけで群れて遊ぶ時間が長かったので、
自分で選択したり、評価したり、判断したり、企画したりすることは、
しょっちゅうありました。
大人が飛んできて何でも解決してくれるわけではないので、
推測したり類推したりする力を発達させないと危険でしたし、
家のお手伝いは、考え、決める力を使う絶好のチャンスでした。
それが、最近では、学習法がどんどん合理的になり、系統化されているので、
テストの点としては、短期間に急速に進歩するようになっているものの、
そのせいで、子どもが自分で考える体験も、決める体験もできないということが起こりがちなのです。
★考える……類推する、推測する、一般化する、抽象化する
★決める……企画する、評価する、判断する、選択する
は、授業内容や教材の中に取り込もうとすると、複雑になって難しいですが、
遊びやお手伝いやものづくりや会話の中では、
大人の関わり方次第で、
自然に伸ばしていけることでもあります。
私が子どもの頃は、学校の規則がそれほど細かくなかったので、
学校でたびたびトラブルが発生していました。
そのたびに、学級会や終わりの会で、子供同士、活発に意見が交わして、問題を解決しようとしていました。
当時は、『考える』と『決める』が活性化されるような場面がたくさんあったのです。
授業中に交換日記を回している子がいるとか、シャーリングなどのおもちゃをどこまで学校に持ってきてもいいかとか、男の子の口が悪いとか、女の子がえらそうだとか、揉め事にしても、けんかや話し合いにしてもつきることはありせんでした。
本当にうだうだと言い合いばかりしていましたが、そうした真剣な言葉や感情のぶつけ合いを通して、
自分の責任を自覚したり、考えを練ったり、判断力をつけたりしていたのです。
「子どものことは、大人が何でも決めて、大人が勝手に解決する」という風潮は、最近のものだと思います。
基礎が大事だからと、『わかる』と『覚える』を訓練していく際の問題は、大人が子どもの能力を伸ばそうとあせるあまり、
視野が狭くなって、
★わかる……認知する、分類する、意味を理解する
★覚える……保持する。記憶する、想起する
の部分で、少しでも先に進ませようと、目に見える成果を求めるあまり、
『考える』と『決める』を体験する場や機会を奪ってしまうことにあるように思っています。
忙しくって、子どもたちに話し合いなどさせていられない……という大人のせかせかした態度をゆるめて、少しリラックスして子どもたちに接しないと、
勉強はたくさんしたけれど、考えたり、決めたりしたことがないという子が増えてくるかもしれません。
話を知的ゆっくりさんへの教え方に戻しますね。
九九を教えると、真似して2の段と3の段が言えるようになったとします。
教えている側が、「はやく4の段を!5の段を!」をあせっても、
知的ゆっくりさんたちは、ゆっくりゆっくりしか覚えていかないでしょうし、
九九を覚えたからといって、九九を使った文章題の理解に移行するのは難しいでしょう。
私は、2の段と3の段が言えるようになったなら、
それをさまざまな場面で活用できるように工夫しています。
写真のように、「2個ずつ人形におやつ(積み木)を配ってね」と言って、
「2いちが2~」と言いながら、配ってもらうこともそうですし、
友だちとの遊びや、お手伝いの場面で、かけ算が役立つようにするのです。
それと同時に、少しずつ次の段をマスターするための練習を進めていきます。
また、10の合成が言えるようになったとすれば、
最初に10個の物を見せてから、いくつか隠して、
「いくつ隠れているでしょう」と推理する遊びをしたり、
その問題を他の人に出題する役をさせたりします。
学ぶときに子どもが、教える役や説明する役、人形劇を演じる役など、
さまざまな役割を体験できるように工夫すると、
学習がなかなか進まず停滞しているように見える時期にも、
企画する、評価する、判断する、選択する、
類推する、推測する、一般化する、抽象化するといった経験を深めていくことができます。
「火星を開発しているところが作りたい」と言い出した4歳の★くん。
いろんな材料を用意してあげると、1時間半も工作に熱中していました。
磁石のてんとう虫を火星を探索する乗り物にして、大喜びで遊んでいました。
「パソコンをつながなくちゃならないから……」とビニールの線を張り巡らしていました。
生徒の子のひとりが、小豆島に帰省した際、「工作用に」と言って拾ってきてくれた『海ガラス』が大活躍しました。
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前々回の記事で、親の期待やエゴといったフィルターを通して子どもを眺めることの問題について書きました。
が、これは、「子どもに期待をしてはいけない」ということとは、少しちがいます。
子どもは親から「あなたならきっとできるはず」という期待を受けて、それをバネにがんばるものでもあるのです。
子どものやる気が萎えていく期待とは、
選択肢や自由が少ない親の狭い価値観にがんじがらめになったもので、
スーパーに出荷する野菜を○と×に選別するような期待だと思っています。
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『おせっかい教育論』著者 鷲田清一 釈徹宗 内田樹 平松邦夫
(株式会社140B)
という著書の中で、「遊園地」ではなく「原っぱ」的な遊びを……
という提案があって、「現代の子どもたちのメタ認知力や地頭力が下がっているのは、これが原因だなぁ」と感じました。
同じ遊び場でも、遊園地というのは、そこに行ったら何をするかというメニューがすでにあって、その中で、どれを選ぶか、どんな順番でやるかというところです。
今の大学・学校もカリキュラムがあって、大学の授業は「勉強する遊園地」となっているそうです。
鷲田清一氏が、この著書の中で次のようにおっしゃっています。
「(ぺんぺん草が生えて空き缶が転がっているだけという原っぱに、学校にも家にも居づらい子が、一人で来て空き缶を蹴ったりしていると、よそから同じような子がやって来て、お互いに意識しあう……)
でも遊び道具もない、野球もできない。そんな時にちょっと空き缶をそいつの方に向けて転がすと、向こうも手持ち無沙汰ですから、またポーンと蹴ってきたりして…、そうやっているうちに2人の間で新しい遊びのルールを自ら作っていくんですよね。
子どもというのは別に遊び道具なんかなくても、石ころや棒切れなんかで、上手に、いろんなゲームを自分らで作っていく。
遊園地のように、その空間の意味があらかじめ決まっているんじゃなしに、自分たちが何かすることで空間の意味を作っていく。そんなふうにルールや意味を自分たちで作っていかないと、原っぱで遊べませんよね。そういう教育の場所というのが今なくなってきているんです。「原っぱとしての遊びの場」がね。」
この話を読んで、『子どもの「遊び」は魔法の授業』キャッシー・ハーシュ=パセック他 (アスペクト)
の著書にあったネズミの実験のことを思い出しました。
50年ほど前、ある教授が、研究室のネズミをわが子のペットとして数匹持ち帰ったそうです。それらが、研究所のネズミより素早く迷路をすり抜け、ミスが少ないことを発見しました。
その後、別の教授が、ネズミを取り巻く環境のさまざまな面がネズミの行動や脳の発達に影響を及ぼすかという研究をしました。
かごで1匹で暮らすネズミ、ほかの数匹と大きなかごで暮らすネズミ、おもちゃの滑り台や回し車のある遊園地のような環境で暮らすネズミを比べて調べました。
すると、遊園地のような環境で、他のネズミといっしょに暮らしているネズミは脳内にシナプスをたくさんこしらえていたそうです。
この話にはもうひとつ重要な部分があって、この教授の報告によれば、
遊園地のような環境で過していたネズミよりもっと脳が発達していたのは、
自然の中で育ったネズミだったそうなのです。
自然の中の音、匂いといった刺激、遭遇する生き物、集団で群れる遊び、シラミやノミ取り、仲間とのはしゃぎあいなどは、
研究者がかごの中に作ったディズニーランドよりずっと脳を発達させるもの
だったのです。
人間をネズミといっしょにするのは問題なのですが、
人が人工的に作る豊かな環境は、必ずしも何もない原っぱに勝るものではないことを頭に入れておくとよいのかもしれません。
私が子どもだった頃は、広場はもちろん、街も学校も大人たちの作るコミュニティーも、『原っぱ』的な要素が十分にあった気がします。
過去記事ですが、よかったら読んでくださいね。↓
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<番外 消費者ではなくて、製作者でもあったちょっと昔の話 >
マシュー・フォックスという神学者が次のような言葉を
語っています。
私たちは本質的に
消費が好きな生き物だろうか?
そうは思えない、
人間は製作者として存在してきたのであって、
消費者ではないはずだ……。
年々、子どもをめぐる環境は変化し続けて、
子どもの心のあり方や物の見方や関わり方が変わってきていますよね。
特に感じるのは、最近では、親がリードする形で、子どもがいつでもどこでも「消費者」になりつつあるということです。
私が子どもだった30年以上前、子どもの私が世界をどのように眺め、関わっていたかというと、
良い消費者になりたくて、経済力をつけて、購入の際のセンスを磨こうと必死の大人たちと、
現実には何もかもが未完成過ぎて、創作したり製作したり、自分で何とかしたりと……「製作者」の立場もとらざる得ない現実の間でもがく大人たちの姿を……
自分もその両方を模倣しつつ暮らしていました。
それで、当時の
「製作者」側、「創作者」側、「発信する」側に、
いざ素人の自分たちが立ったときの、
何ともいえない危うさや面白さやワクワクや、がっくし……くる感じ……が、
その「おしゃれ」とはほど遠くて、鈍くさくて面白すぎる風景が、
子ども時代の私の脳裏に焼きついています。
どれを、思い出してもおかしくってしょうがありません。
そうしたことを急にだらだらと書いてみたくなりました。
私は大阪の吹田市の関西大学の近くで育ちました。
それで、子どもの頃はよく友だちと、大学の構内にもぐりこんで
乗馬クラブの馬のえさやりを手伝わせてもらっていました。
この関西大学の乗馬クラブは、
毎日、私の住んでいる周辺の道路を
きちんとした乗馬用の服で正装して、ぐるぐるまわっていました。
馬は千里山の駅前の信号機を確認しては、
きちんと交通ルールを守って、かなり気取った姿で立っていました。
そこらあたりまでは、大阪のちびまる子ちゃん世代の日常として
許せる風景だったのですが、
近所に住んでいる地域の世話役の人が、「子どもたちのために、小さな動物園を作ろう!」と言い出したのです。そこで、公園のそばの地域の集会所の前の広場で
やぎと羊を飼いはじめたのです。
確かうさぎもいました。
最初はよかったんですが、サラリーマンが多い地域……
世話をする人も仕事があるし、大きな動物は世話がたいへん……で、
しまいには、どんどん開発の波が押し寄せてきている千里山の街中で
やぎや羊を放し飼いすることになりました。
そこで、私は、毎日、
千里山の駅前で、きちんと交通ルールを守って立っている馬と、
気の向くままに草を求めて移動するやぎや羊の姿を目にすることに
なりました。
おまけに当時、そのあたりはペットが野生化したワカケホウセイインコが
大量発生していたので、
夕方ともなると、カラスの大群なんて目じゃないほど、圧倒するような数の
緑色の大型の鳥の群れが、空を移動していました。
そんな風に、社会というか、環境が未完成でカオス……なので、
私の通っていた公立小学校の校長の考えも自由そのもの。
宝塚歌劇のファンだからという理由で、
学校のクラス名を、「雪組、星組、月組……」として、毎月、クラスで
劇を発表する日を作っていました。
子どもが育つ環境としてどうだったのか……というと、???なのですが、
私も友だちも
自分たちが頭で考えて、何かをすることに対して、
躊躇しなかった気がします。
子どもなのですが、常に、「製作者」「作る側」の発想が
あるのです。
千里山の駅前には、ミスタードーナツとか、サンリオショップとか、「○○塾」とか、これから全国でチェーン展開していこうとする店舗が並びはじめていました。
その手前の道路には、自動車といっしょに
馬やら羊やらヤギやらがごちゃごちゃしていたわけですから、
子どもの目にも、世界はまだ未完成で混沌としているのだから、
自分たちの参入する場はいくらでもある!
自分たちもクリエイティブにこの街作りに参加しよう
という気持ちがありました。
たとえば、道なども、
はじめに覚えなくちゃならない道順があるのではなくて、
到着地までの近道は自分たちで発見して作り出すものという思いがあったので、
塀があれば登り、柵の下の穴を掘ってくぐれるようにし、
他人の家の垣根のふちを、番犬を狂ったようにわめかせながら歩いていって、
がけを斜めに渡っていって、
団地の前の倉庫やら、自転車置き場の屋根やら、高いところがあれば必ず登って
そこも道のひとつとして捉えて通っていくことに
何の疑問も抱いていませんでした。
子どもは、
それぞれそうして自分で見つけて作り出した道や秘密の隠れ家を
たくさん持っていました。
時間にしても、暗くなったら帰る時間というアバウトな捉え方で
遊びまわってますから、曜日とか時間なんて気にかけたことがなかったです。
そんな中で、子ども同士、
遊びでもルールでもどんどん自分たちで作り出して、考え出して、改善して遊んでいました。
人脈も開拓して、近所の人にお願いして犬の散歩をさせてもらったり、
同じ団地に住むひとり暮らしのおばあさんに子どもたちで敬老の日のプレゼントを贈ったりしました。
運動オンチで内気な性格の私も、どこでも登るしもぐるし~を何ということもなくやってましたから、
その頃の子どもたちは、
躊躇なく何でもやっていたな~と今になってびっくりしてしまいます。
とにかくエネルギッシュだし、
自分たちの頭でよく考えていました。
よく考えていた~というのも、あんまり頭を絞ったので、40過ぎてる
今でも幼稚園の頃、考えあぐねていた問題をはっきり思い出すことができるくらいです。
それで、最近の子どもたちが頭を使わないとか、
昔みたいに小猿みたいな無茶をしろ……と思っているわけではないのですが、
「それにしてもあんまりじゃないかな?」と思う現状があるのです。
今は幼い子でも習い事に通っている子が多いのですが、
そうした人工的な場は当然、未完成さとかカオスからほど遠いものです。
時間の枠がありますし、することは決められてますし、
場合によっては、どういう気持ちで、どういう態度で参加すべきか
まで暗黙のうちに
子どもに適応を求めてきます。
そこまでガチガチに固められた環境で、
子どもたちが、
自分が環境に影響を与えたり、変化させたり、作り出したりできる存在なんだって
気づくことは皆無なんじゃないかな?
と思えてくるのです。
それでもそんな現代っ子たちも、よくよく話に耳を傾けてみると、
あれこれと考えていて、したたかで、ユニークで、面白いです。
何に関しても「消費者」としての受身な立場しか
取ったことがない子は多いですが、
一度「創作する」ことを覚えると、
「買う」ことよりも、何倍もうれしそうな表情をします。
いったん、クリエイティブに創造性を発揮し始めると、
どの子もいきいきとしてきます。
……ここまで、話してきて何を書きたかったのかというと、
空間も時間もちょっと混沌としていてすき間が多い方が、
何をしようかな? 面白いのかな? やってみようかな? やっぱりやめとこうかな? 私はそれがやりたいの? すきなの?
と自分で選んで、考えて、味わって、創造的に参加してみようという気持ちを、
子どもの中から引きだしてくれるのじゃないかな?
ということなのですが……。
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これまで何度か工作でロボットを作ってきました。
でも、動くロボット作りは難しく、
「歩かせたい!」「ロボットっぽい動きにしたい!」と言い続けてきました。
今日は、電子工作の部品を入れている箱を開けて、壊れたおもちゃやロボットを再利用して何か作れないか★くん、☆くんと調べていました。
足の取れたあひるの2足歩行ロボット(2000円前後で、電気店のプラモデルコーナーで売っている電子工作セットです)があったので、
それをリサイクルして、待望の2足歩行するロボットを作ってみることにしました。
足の動きは、バッチリ!
浮かしていると、きちんと交互に足を動かすのですが、
自分で歩かせるにはパワーが足りないし、バランスを取るのが難しすぎる様子でした。
それでも、ふたりは大満足。
家に帰って、電子工作の部分から自分で作ってみたいそうです。
壊れたおもちゃのパーツを組み合わせて、モーターを使ってビー球を持ち上げるおもちゃも作りました。
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算数の人形劇を見せました。
(算数の人形劇のストーリーは私が考えています)
<ジャンケンしたら……?の巻き>
白猫ちゃんとフラミンゴちゃんが、3個ずつお菓子を持っていました。
そこにちょっと悪い黒猫ちゃんがあらわれました。
「ジャンケンしてごらん。
負けた人が勝った人にお菓子をひとつあげるんだよ」と、黒猫ちゃんが、ふたりに言いました。
白猫ちゃんとフラミンゴちゃんはジャンケン。(ここにいた年少さんたちが、代わりにジャンケンしています)
白猫ちゃんの勝ち。フラミンゴちゃんが、白猫ちゃんにお菓子をあげると、
白猫ちゃんが4個、フラミンゴちゃんが2個になりました。
「あれあれ?白猫ちゃんの方が多いなぁ~。仕方がないから、多い分をぼくが食べてあげるよ」
そう言うと、黒猫ちゃんは白猫ちゃんのお菓子を2つぺロリ。
もう一度、ジャンケン。今度はフラミンゴちゃんの勝ち。
白猫ちゃんのお菓子は1個、フラミンゴちゃんは3個になりました。
「あれあれ?今度はフラミンゴちゃんのお菓子が多くなっちゃった。仕方がないからぼくが食べてあげる」黒猫ちゃんは、フラミンゴちゃんのお菓子を2個取るとぺロリ。
「よかったね。おんなじおんなじ。1個と1個。それじゃあ、さようなら。お腹がいっぱい!」と黒猫ちゃん。
この話を大爆笑しながら見ていた年少さんの女の子ふたり。
「どうして、ジャンケンしたら1個ずつになっちゃったのかな?」とたずねると、「わかんない。どうしてかな?」と首をかしげていました。
<けんかをしていたら……の巻き>
白猫ちゃんは3個。フラミンゴちゃんは2個お菓子を持っていました。
「ずるいよ。白猫ちゃんの方が多いよ」とフラミンゴちゃんが
怒り出しけんかをしていました。
そこにちょっと悪い黒猫ちゃんがあらわれました。
「本当だ。白猫ちゃんの方が多いね。けんかにならないようにぼくが食べてあげる」と言うと、白猫ちゃんのお菓子を2個パクパク。
大変です。今度は、白猫ちゃんのお菓子が1個。フラミンゴちゃんが2個になっちゃいました。
「ずるいよ。フラミンゴちゃんのお菓子が多いよ」と白猫ちゃん。
「本当だ。フラミンゴちゃんちゃんの方が多いね。けんかにならないようにぼくが食べてあげる」と言うと、フラミンゴちゃんのお菓子を2個パクパク。
「あれあれ、フラミンゴちゃんのお菓子がなくなっちゃった。けんかになったらいけないから、白猫ちゃんのも食べてあげる」
黒猫ちゃんはそう言うと、白猫ちゃんのお菓子をぺロリ。
黒猫ちゃんは「ばいばい!もうお菓子はどこにもないよ。全部ぼくのお腹の中だから、ゼロだよ」と言うと、どこかに行ってしましました。
この話も、とにかく大うけで大爆笑でしたが、なくなった理由をたずねると、
「どうしてかなぁ?」と真剣になやむ年少さんたち。
白猫ちゃんとフラミンゴちゃんに2個ずつお菓子を配ってから、
「あとから1個もらったらいくつになるかわかった子には、お菓子をあげるわよ」と言うと、よく考えてから、「3個!」という答え。
フラミンゴちゃんがお菓子をもらいました。
もう一度、2個ずつ配って、
「あとから2個もらったらいくつになるかわかった子には、お菓子をあげるわよ」と言うと、「うーんうーん」とうなるように考えてから、「4個!」と答えていました。
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小学生が学習につまずくとき、
何らかのハンディーキャップが原因で
できていない場合があります。
「努力しないから」とか「先生の説明を聞いていないから」などと
安易に決めつけず、ていねいに原因を探る必要があります。
写真はアスペルガー症候群の女の子に勉強を教えていたとき使っていた紙です。
この子は、障害特性のせいで、『興味の範囲がとても狭い』です。
動物が大好きで、寝ても覚めても動物の話をしています。
私が「お家では、お姉ちゃんとどんなことをして遊ぶの?」とたずねても、
「この問題の解き方はわかる?」とたずねても、
「今日は、カーコちゃん(うちの鳥です)は何をしているの?」
「どうしてカーコちゃんは、飛んでいってしまうの?」と自分の好きな動物の話題にすりかえてしまいます。
何とか計算はできるようになっているものの
算数の概念の多くは、難しすぎて理解できない様子です。
いくら説明しても、首をかしげたままなので、親御さんが困っておられました。
こうした興味の範囲が狭い子には、その子の興味のある事柄で
算数の概念を説明するようにすると、
急に理解が進む場合があります。
この女の子も、「子どもが100人いました……」という話だと、
そわそわしたり、「うーん」と首をかしげて「わからない」と言うだけだったのですが、
子どもをフラミンゴに変えて、「フラミンゴが100羽いてね。そんなにいっぱいいたらどうする? 困るね~!!
100羽のフラミンゴを同じ数ずつ10の小屋に分けたら、
何羽ずつになるのかな?」という話で説明すると、ずっとわからなかった大きな数を10分割するときの概念に、理解をしめすようになりました。
興味の範囲が狭い自閉症スペクトラムの子どもたちに教えるとき、
電車とか、昆虫とか、動物とか、その子が興味を持っている分野の内容で
説明すると、学習に集中できる場合がよくあります。
また、学習内容を、できるだけシンプルにして、
理解させる部分だけ抽出して教えることも大事です。
1枚の紙に、1つの内容だけ書く。
といったことが、理解に役立ちます。
同じ診断名だから、同じハンディーを抱えているとは限らないので、
まず、苦手な部分を見つけると同時に、
得意なことや長所も見つけておくと、得意や長所を通して難しい概念の理解が教えやすくなるときがあります。
苦手は、字が小さかったり、たくさん字が並んでいたりすると、読むのが困難になる、聞くと見るを同時にできない、注意散漫、筆算が苦手、文章題が苦手、メタ認知力が極端に弱いなど……。
得意には、色に敏感、位置はよく覚える、数字好き、字を読むのが早い、褒められるとがんばるといったものがあります。
具体的な教え方は、またの機会に書きますね。