虹色教室通信

遊びや工作を通して 子どもを伸ばす方法を紹介します。

幼児が「よく考える」ようになるためのいくつかのステップ 3 <聞く>

2019-03-08 12:50:33 | 教育論 読者の方からのQ&A

上手に「考える」ことができるようになるには、

その前にできるようになっておくといいステップのふたつめは

上手に「聞く」ことです。

2,3歳の子にはじめて会うと、耳の機能には何も問題がないのに、

まるでまったく耳が聞こえていないように見える時がある子がけっこういます。

お母さんや私が呼びかけても、振り向いたり音のほうに顔を向けたりしないで、

好きなことをしています。

また、何かをひっくり返したりして、ガラガラ大きな音がしても、その方をちらりと

見ることもないのです。

 

幼い子は同時に2つのことをするのが苦手ですから、何かに夢中になると、

耳がお留守……となりがちなのですが、

わざと聞こえていても無視しているように見える子の場合、

大人の対応や生活環境に気をつけると、直ってくることがほとんどです。

「聞く」力の良し悪しは、自分の心の中で考えた言葉を「聞く」力とも

関係がありますから、「考える」力に大きな影響を及ぼします。

もし「見える」ものだけで反射のように答えを出すばかりだと、

少しも考えが深まりませんよね。

人の話も周囲の音も自分の心の声も、しっかり集中して「聞ける」技術を身につければ、

じっくり考える力が育ってきます。

それでは、どうしたら「聞く」のが上手になるでしょう?

 

一番良い方法は、お母さんが不必要なことをしゃべりすぎないことです。

「語りかけ育児」という言葉があるくらいですから、

シャワーのように子どもに言葉をかけたらいいんじゃないの?と思うかも知れません。

確かに、語りかけるコツをきちんと押さえて、子どもの興味と聞きたい思いを

引き出しながら、語りかけていくのなら、とてもすばらしいのです。

でもだいたいの場合、お母さんが子どもに声をかけるほど、子どもは音への反応を

鈍化させて、全部聞いていたらきりがない上、

きちんと聞いてもどうでもいいことばかりだからBGMのように聞き流す

という習慣をつけています。

そうした場合、声かけというのは、「遊んできたら?それか~し~てっていって。

何がしたい?よかったね。ほら、あれで遊んでおいで。これで遊ぶ?」といったものです。

それも、子どもが新しいものを目にして、真剣に頭を使おうとしているとき、

お家よりもお外で遊ぶ際や、お友だちを前にした際、

大人がしゃべりすぎてしまうと問題が大きい気がします。

 

2、3歳の子なら、「何をしようかな?」「あれ面白そうだな」「触ってみようかな」

「あれで遊ぼ」と、自分の頭で考えて決めることをすべて、お母さんが横から

ロボットのリモコンスイッチを押して操作するように言葉で指示を出しているのです。

もちろん、幼児の方は、そうしたことは自分で決めるべきとわかっていますから、

自分で自由に遊び出すのですが、お母さんがたくさん指示を出す場合、

大人の声にはいっさい耳をかさないことが習慣になっている子も多いです。

そこでさらにたくさん声をかけ、さらに無視するという悪循環に陥っています。

軽度発達障害があって、呼びかけると聞こえていないようだったかと思うと、

小さな音にも敏感……という子もいるのですが、

ほとんどの場合は、自分に向けられる音が多すぎて、全てに反応していられないから、

自分に呼びかけられる声に鈍感になっているという障害とは無関係のもののように見えます。

 

また赤ちゃんの時期から、そうした「こうしたら?」「ああしたら?」と

背後から子どもの気もちを代弁する声かけは多いけれど、

あやして笑わせたり、手遊びしたりして、子どもの顔を見て反応を引き出しながら、

きちっと声をかけることは少なかったという場合、

「聞く」ことが、とても苦手な子になりやすいように感じます。


「価値観を固定しない教育」と「未完成な親」の価値 1

2019-02-27 21:13:10 | 教育論 読者の方からのQ&A

算数オリンピックに参加することによる弊害はないのでしょうか の記事に、

(記事でコメントを取り上げたお返事としてなのですが)

次のようなコメントをいただきました。

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草創期の学校の卒業生から世界的に活躍する人が出るのは、

価値観を固定しない教育をされてるからなのですね。

以前のエントリーにおける「未完成な親」や、

大人が手を出さない「未完成な教育システムの塾」が子供を伸ばす要因なのでしょうか。

逆に進学塾は、完成した教育でなければ子供が合格しませんから、

長期に通うことは不適なのかもしれませんね。

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いただいたコメントにある

「価値観を固定しない教育」や「未完成な親」というのものが、

(言葉の解釈が重要ではあるけれど)

わたしも子どもの知力と精神力と個性的な才能の伸びと大きく関わってくる

んじゃないかと感じています。

コメントにある「子どもの近くにいる大人に必要な隙ってどんなもの?」とは、

リンク先の記事のことです。

 

この「未完成」という言葉に、???とクエスチョンマークがいっぱい

頭の中に浮かんだ方もおられると思います。

 

そこで、最近、教室で子どもと接した出来事を取り上げて、

「価値観を固定しないこと」や「未完成」であることの大切さについて

言葉にしてみたいと考えているのですが……。

 

その前に親の接し方の未完成さや、子どもの可動領域に余白があることが、

子どもの心と人生にもたらす価値について綴った

『自己肯定感は褒めると上がる?』という記事を紹介させてください。

 (この記事の中で、未熟と未完成という言葉は異なる意味で使っています)

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ブログで自己肯定感の話を書くと、

「(自己肯定感を上げるには)もっと褒めるといいんでしょうか?」

という質問をいただくことが多々あります。

そのたびに、「褒める」というのとはちょっとちがうなぁ……と思いつつも

ひとことで、「これこれこういうことしたら上がるものですよ」とアドバイスできる

ものでもなく、もやもやした思いをくすぶらせることがあります。

 

そこで、わたしが考える「自己肯定感」が上がると思われる接し方と、

「自己肯定感」が下がると思われる接し方について、

言葉にして整理しておきたくなりました。

 

特に、子どもの自己肯定感を上げようと思って褒めているのに、

「褒める」行為自体が、子どもの自己肯定感を下げているように見えるケースについて

言語化できるといいな、と思っています。

 

3歳になりたての子らというのは、

「こういうことがしたいんだ。自分でやってやるんだ!」と

自分の動きを自分でコントロールしたい気持ちが持続しはじめるものの、

「何をどんなふうにしたいのか」ということは後回しというか、

本人にするとどうでもいいことだったりします。

 

周囲にすると、一生懸命しているところ、口出しするのも何だけど、

「ちょっと紙の使い方もったいないんじゃない?」

「新聞紙使って工作してごらん」なんてあれこれ口出ししたくなる時です。

 

大人からちょっとあれこれ言われても、

それまで自分や自分のすることに自信が育ってきている子は、

大人のアドバイスもそこそこ聞きいれつつ、

「大丈夫だよ。もうこれで、こうちゃく出来上がりだよ。」と

自分のしてきたことを否定しないでいいような切り返しで決着するものです。

お姉ちゃんから手厳しい追及を受けてもへっちゃらで、

ぼくが作っていたのは「○○!」と、おそらく、できあがってものを見て

後付けでひらめいた名前を自信満々に言います。

 

子どもの自己肯定感というのは、自分で自由にできる余白というか、

実際に動く場面でも、想像の世界においても、自分で動いて失敗してもOKという

可動領域がしっかり確保されているかどうかに大きく関わっているように思うのです。

 

大人が子どもの領域へしょっちゅう侵入していたり、

逆に「子ども」という存在を特別視したりお客様扱いしたりして祭り上げて、

子どもの周りに地に足をつけている大人が存在しなくなったりすることも、

子どもが確かな自分を感じられなくなる、

つまり自分に自信を持てなくなる原因のひとつとなるのではないでしょうか。

 

大人のアドバイスに過剰反応し過ぎて激しいかんしゃくに発展してしまう子も、

即座に大人の指示に従って、「自分のそれまでしていたこともこれからしようと

していたこと」も帳消しにしてしまう子も、

「ママして~」とすること自体放棄してしまう子も、ちょっとしたことをきっかけに

自信や自分への信頼感が揺らぎやすい子なのかもしれません。

 

子どもはそうした揺らぎのなかで成長していきますから、

こういう反応をするから、自己肯定感が低いとか高いとか、

気にかける必要はないのでしょう。

でも、大人の関わり方の加減次第で、日常の行為のひとつひとつが、

子どもを勇気づけ、自己肯定感を高めていくきっかけになることも事実だと思っています。

 

それは子どものすることなすことを「褒める」というのとは、異なります。

幼い子たちのすることは、たいていでたらめでめちゃくちゃですから、

大人が「褒めなきゃ、褒めなきゃ」と思っていると、

心にないような嘘をつくことになるか、子どもが一番自信満々でやった部分は無視して、

大人が言葉でコントロールしてそれなりの形にした部分だけ、

「すごい、すごい」と褒めることになりかねません。

 

つまり、

「自己肯定感を上げるために褒めなきゃ、褒めなきゃ」と思って褒めているうちに、

褒め言葉が、大人の期待通りに子どもを動かすための

見えないニンジンになってしまうことが非常に多いのです。

 

「子どもの自己肯定感を高めるため」という名目で、

子どもに何かできるようにさせようとあせっている時、

実は、周囲の人の評価を大人である自分が欲していて、

「もっと褒めてもらいたい」「もっと認めてもらいたい」という飢餓感が

その動機に取って変わらないか、自分の心を見はっておくことが大切です。

 

以前、「親自身が『子ども』から『大人』に変化できていないと、数値で子どもを

管理したがるのでは?」という辛口の記事を書いたことがあります。

子どもの自己肯定感の高低は、その記事で取りあげた内容と密接に関わっているように

捉えています。

 

↓「親自身が『子ども』から『大人』に変化できていないと、

数値で子どもを管理したがるのでは?」

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『10代の子をもつ親が知っておきたいこと』水島広子/紀伊国屋書店

(この著書でクロニンジャーの「七因子モデル」を知りました。)という著書の中で、

「あれっ?」と感じる興味深い話を目にしました。

思春期の子を持つ親御さん向けの本ですが、幼児を育てている方にとっても

とても大切な話だと感じたので、簡単に要約して紹介しますね。

思春期の心の病である拒食症の治療の中心は、

対人関係療法で言うところの「役割の変化」になるそうです。

思春期の課題を消化して、「子どものやり方」から、「大人のやり方」に変化を

遂げることが病の治癒につながるそうです。

「子どものやり方」というのは、「何でも自分の努力で解決する」というものです。

一方、「大人のやり方」は、「必要であれば他人の力を借りよう」と

考えられることです。

成績が上位になれない、という場合も、一人でさらに努力して自分を追い込んでいくの

ではなく、いろいろな人生があることを知って、

自分の存在を社会の中で相対化できるようになることです。

「何でも自分の努力で解決する、のが『子どものやり方』だなんておかしい……

大人になっていくということは、他人に頼らず、自分で責任を持っていろんなことを

こなせるようになることではないの?」と感じた方がいらっしゃるかもしれません。

世の中は、矛盾だらけで無秩序なところです。

「がんばったから、幸せになる」とか「努力に比例して成功する」という単純なルールで

成り立っているわけではないですよね。

すべての課題を自分の責任でこなそうとする人は、

「秩序」によって安定するタイプが多いので、

「努力すれば成績が得られる」「親切にすればすかれる」というようなルールで世の中が

動いていないと不安になります。

そうしたタイプの人が、自分の秩序を乱す出来事に直面すると、パニックを起します。

そのパニックへの対処のひとつの形が拒食症という病なのだそうです。

「体重」は、食べなければやせるという体重計の数字にきちんと表れるので、

達成感と安心感が得られます。

思春期には、「自分の限界を知るということ」という重要な課題があります。

努力すれば何でもできるようになるわけではない。

がんばればみんなが褒めてくれるわけではない。

運命や環境をすべて自分の力でコントロールできるわけではないと認めること。

その上で、自分にできる範囲で全力をつくせるようになることが、

大人になるための思春期の課題です。

「人間は努力すれば何でもできるし、そもそも人間は学力だけで評価される」

という狭い考え方は「子ども」としての役割から生じるものです。

大人になるということは、

「人間にはいろいろな限界があり、その中で支えあっていくことが人生」という

大人としての役割で考えることができるようになることなのですね。

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『10代の子をもつ親が知っておきたいこと』で、

拒食症をはじめとする思春期の心の病についての話を目にするうち、

ちょっと怖くなったことがありました。

子育て中の親の中には、思春期の課題を超えそびれて、

まだ「長い思春期」の最中にいる方も多いです。

機能不全の家庭に育った私も、ひとりめの娘の子育てでは、

大人になれていない心のまま良かれと思って子どもの自尊心を蝕むようなことを

平気でしていました。

「子ども」の心のままで、心の病を引き起こすような世界観のもとで

子育てをしていると、目に見える安心感や数値上の上昇を確認することを求めます。

「努力すれば成績が得られる」「親切にすれば好かれる」というような

安心できる秩序が守られている世界をお金を払ってでも得ようとします。

それが教育産業が作り上げた、人工的な架空の世界であったとしても、

それを全世界のように錯覚した状態で子育てをしたいと願います。

子育ては、「すべてを自分の力でコントロールしたいという」、

現実にはありえない考え方がはびこりやすい場です。

なぜなら「自分で努力はしたくないけれど、コントロールして数値の確認をする

作業だけをしていたい」という、本当は現実の世界で叶えられてはいけない、

病特有の執拗な願いを簡単に実現してしまうからです。

おまけに、教育産業の多くが、そうした親の考えを正当化して、さらに煽りがちです。

教育産業が、儲かることを最優先に考えるのは、

ビジネスだからしょうがない部分もあります。

利用する側が、親にとっての最優先課題は、

ビジネスのそれと重ならない場合が多いことを自覚することが大切だと思います。

 

子どもの幸不幸は、どんな能力の親のもとに生まれたかよりも、

ちゃんと思春期の自分の課題を済ませて、「大人」になっている親に育てられているか

どうかで決まるように感じています。

子どもの未来も、「大人」に育てられているかどうかで、

大きく変わってくるのではないでしょうか?

 

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↑ 先の記事は自己肯定感について説明するために書いたものではありません。

わたしは子どもを外の評価の体系で測っては、数値で確認しながら育てていくことが、

自己肯定感が下がる原因と直にイコールで結ばれると考えているわけでもありません。

けれども、そうした育て方に代表される大人が、

自分の狭い世界観で自分が見たいものを子どもに投げかけて、

子どものある一面には関心をしめし、別の一面は(自分の価値観と合わないからという

理由で)無視するような育て方が、

自己肯定感を育む土壌の貧しさにつながるんじゃないかな、とは思っています。

 

ですから、毎日、子どもをシャワーをあびせるごとく褒めて育てたところで、

親が子どものなかに見たいものを褒め、認めたくないものを無視して褒めているとすれば、

そうした褒め言葉は親の価値観の押しつけでしかなく、

どこかで子どもを否定し阻害している行為ともつながりやすいと感じています。

 

次回は具体的なレッスンの話を例に挙げて書きますね。


世界一知能が高い IQ230の女性の知能上達法と創造力

2019-02-23 09:03:09 | 教育論 読者の方からのQ&A
『「頭がよい」って何だろう(植島啓司/集英社新書)』に、
1985年のギネスブックでIQ230でもっとも知能指数の
高い人物として登録されているマリリンという女性の話題が
載っていました。

マリリン自身が語る彼女の知的上達法は、次のとおり。

物事を書き留めたり、計算機を使ったりせず、
頭の中で処理せよ。

なんでも断定せず、柔軟な心を保とう。
断定することは、学ぶことをやめることを意味する。
成就したいことがあれば、すべて自分で行動せよ。

というものでした。

子ども時代の柔軟な思考のあり方が、知的上達にいかに
大切かわかりますね。著者の植島氏は、子どもには、
身近なものに対する考え方を教えるべきだと書いて
おられます。

★ 必ずしも解答はひとつでないこと。
★ 違った道順で同じ結論に至ること。
★ 創造性は間違いの中にも潜んでいること。

などを、子ども時代にしっかり身に付けることこそ、
できるだけ最短距離を通って問題の核心に切り込めるように
なる元となると。

幼児期から問いとひとつの答えを結びつける訓練をして、
学ばせることが、
子どもの頭を、大人のようにガチガチの固い状態にして、
先ほど紹介した3つの知的活動に不可欠な感性を
鈍らせないように気をつけなくてはなりませんね。

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それにしても、
★ 創造性は間違いの中にも潜んでいること。

とは具体的にどういう事をさして言うのでしょうか?

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アラン・チューリングという数学者が、

デジタル・コンピュータという機械が原理的に思考しうること
(思考する存在として振舞えること)を探求していくときに、
「簡単な問題をしばらく考えてから間違った答えを出す」という
コンピューターについて考えていました。

天才的な数学者アラン・チューリングは、
「間違える」ということを、とてもプラスイメージで
捉えているのです。
 
えっ?と疑問に感じるかもしれませんが、

A=Bといつでも、
問いから正しい答えに直結するような考え方は、
テストでは良い点に結びつくでしょうが、

柔軟性や、応用力は乏しいものです。
あまり創造的ともいえない。

大学のテストは、あっという間に全て満点の解答を
はじきだせるコンピューターを作ることができるでしょうし、
今も存在するのでしょうが、
それが何万台あっても、経済の問題も、環境問題も
解決しないものですよね。
そうした未知の問題を解決するには、不完全だけど、柔軟で、
応用力があって、創造的な
人間の頭脳が必要となってくるのでしょう。

『「頭がよい」って何だろう』には、次のような一文が
あります。

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一般的にコンピューターは、高速で計算処理ができるように
つくられており、
論理的な問題処理能力にはすぐれているが、柔軟性がなく、
応用力に乏しい。

それに対して、人間はあれこれ気をとられたりして、
なかなかひとつのことに集中できないし、
また、多くの過ちを犯すだろうが、
それによって、また新たな発見につながるようなプロセスを
見出すことができるのである。

そう人間にとっては、間違えることこそ、
あらゆる創造力の源泉があるともいえる。

『「頭がよい」って何だろう』植島啓司/集英社新書より引用
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間違えることこそ、
あらゆる創造力の源泉があるって、何だか不思議な表現ですね。

さまざまな創造力について書いてある本を読んでいると、
創造力にとって、「間違える」だけでなく、「忘れる」ということも、
大事なようです。

お茶の水女子大学で教鞭をとっておられる外山滋比古氏が、
『知的創造のヒント』という著書の中で、
次のように書いておられました。

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これまで学校教育が記憶だけ教えて、忘却を教えなかったのは、
たいへんな手落ちである。
上水道をつくって、下水道をつくらず、たれ流しにまかせて
おくようなものである。
知識の異常な詰め込みが行われている現代である。
正常な自然の忘却機能だけに頼っているのが危険なことは
わかりきっている。
それに気づかないでいるとはいったいどうしたことであろうか。

……ものを考えるのは、ものを覚えるのとはちがうけれども、
頭の中にいろいろごちゃごちゃ詰まっている状態が望ましく
ないのは共通している。
たとえ有用な知識であっても、頭がいっぱい詰まっていれば、
そのあとおもしろいことを考える余地もない。
ちょうど一面に書き込まれている黒板のようなものである。
新たに何か書こうと思えば、まず、書き込める場所をこしらえ
なくてはならない。黒板をふくのである。
それが忘却である。

……心は白紙状態、文字を消してある黒板のようになる。
思考が始まるのはそれからである。自由な考えが生まれる
のは、じゃまがあってはいけない。
 
『知的創造のヒント』外山滋比古著 ちくま学芸文庫より引用
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

こうした話を読むと、子どもたちを、いつでもどこでも
「何となく忙しい」「あれもこれもしなきゃ」「わすれない
ようにしなきゃ」「失敗しないようにしなくちゃ」という
強迫観念から解放してあげなくてはならないと感じます。

「やるときは、自発的に集中してやる。
遊ぶときは、全てを忘れてのびのび遊ぶ。」

そうしたサイクルが可能になるよう、生活を整えてあげたいですね。

IQの高い子の脳の不思議

2019-02-12 09:54:16 | 教育論 読者の方からのQ&A
「子どもの脳が学ぶ時」戸塚 滝登  高陵社書店
に興味深い研究が載っていました。

ラポポート博士とジード博士は、全米から集められた
1800名に子どもたちひとりひとりについて、4歳から21歳になるまで
定期的に脳スキャンを行い、
継続観察しています。
ラポポート博士は、子どもの脳発達とIQとの関係を追跡しました。

ラポポート博士は6~19歳まで307名の子ども達を、
●普通のIQの子ども達、
●ややIQが高い子ども達、
●最もIQが高い子ども達(IQ121~149)
の3つのグループに分けました。
脳画像を見ながらIQテストも実施し、
13年間分の脳画像データーとIQデーターを
比較してみたのです。

すると最もIQが高い子ども達の場合だけ、
奇妙な現象が見つかったのだそうです。

その子たちの脳では、灰白質の増え方が著しく遅れていた
のです。

灰白質層には、ニューロンと呼ばれる神経細胞が、約1000億個も
つまっていると言われています。
ララポート博士は、この灰白質層の厚みが成長するにつれて
どう変化するかを調べました。

灰白質層は成長するにつれて厚みを増しました。
普通のIQの子ども達は、厚みは6歳で最大に達しました。
ややIQの高い子ども達は、9歳頃に最大に。
もっともIQの高い子ども達はだけは、
11歳を過ぎても最大に達しなかったのです。
この実験でわかったのは、IQの高い子どもの脳ほどゆっくり成長するということです。
IQの高い子どもの脳はスローペースで成長し、思春期がやってくるまで
成長をやめませんでした。

一方ジード博士も不思議な発見に突き当たっていました。
脳の神経細胞「ニューロン」のくっつきあっている部分をシナプスと呼びます。
このシナプスのシナプス密度が成長するにつれてどう変化していくかを追跡したのです。

シナプスは誕生するなりどんどんシナプスを作っていきます。
が、生後一年にも満たないうちに、
今度はシナプスを捨て始めるのです。

この床屋さんのような仕事を「プルーニング」と言うそうです。
ジード博士たちは「前頭葉」と呼ばれる
脳の先っぽにある思考や判断力をつかさどる部分のシナプスの密度が、
どう変化していくか追跡しました。
5歳くらいでストップするだろう…って思っていたのに……。
シナプス密度は成長し続け、思春期にさしかかる直前に
最大に達したそうです。

ところが思春期にはいったとたん減り始めました。
またもや床屋さんのようなプルーニングが始まったのです。
こんどは長い!!なんと20代に入るまで、
脳は工事中でした。

思春期の脳の中では、よく使うものは強化し、
使わないものは切断すると言う脳の機能強化がおこっていたのです。

脳と言うこの宇宙一複雑な生物機械は、
自分で自分の構造を変えてしまう「可塑性」を秘めていたのです!!

20世紀最大の物理学者、アインシュタインの脳は、
著名人や科学者の脳を保存している「ブレイン・バンク」に
送られ、分析されています。

アインシュタインは、子ども時代に発達の遅れがあり、言葉をしゃべるのも、
読み書きを覚えるのも遅かったそうです。

アインシュタインはいわゆる「眼で考える子ども」で、
視覚的な思考力に優れ、言葉や文字よりも、
図や記号に頼って考えを進めるのが
得意だったのです。

アルベルト坊やは、伯父から数学の初歩の手ほどきをしてもらい、
ユークリッド幾何学にぞっこんになったそうです。
その後、知恵遅れとみなされていたアインシュタインは、
すばらしい才能を伸ばしていきました。

アインシュタインの脳は、分析したところ、未分化の部分があり、
それがニューロンとシナプスの結線を豊富に形作っていたそうです。

虹色教室にも、言葉の発達等に遅れがあって
教室に見えるお子さんがいますが、「眼で見て考える」タイプの子が
多いです。
また育てにくいお子さんのなかには、知能の高い子がよくいます。

脳の科学が教えてくれること…おもしろいですね。

               引用は 「子どもの脳が学ぶ時」戸塚 滝登  高陵社書店

子どもとの間で生じる『力のゲーム』から抜けるには? 後編 

2019-01-12 20:53:58 | 教育論 読者の方からのQ&A

これまであれこれ書いてきて、結局のところ、今度Aくんが、

「本を読んで欲しくない」だの「やっぱり読んで欲しい」だの

「やっぱり読まないで」だの「読まないのは嫌」だの、

どっちつかずの態度でぐずる時にどうすればいいのかと問われたら、

わたしの答えは、「今まで通りでいいんじゃないかな」という中途半端なものです。

 

毎日、密に付き合っていく子どもとの関係で、一部分だけ自分のやり方を矯正しても、

正しい対応をしようと考え過ぎても、あまりいいことはないでしょうから。

それなら、Aくんとお母さんの関係についてあれやこれやと思いを巡らしてきたのは

何だったのかというと、そうして十二分にわかった上で、

「こんな時はどうするか」なんて構えないで、自然に自分らしく振舞うと

いいのではないでしょうか。

 

それまでのように、それがお互いの意地の張り合いに発展したとしても、

きっとそれは、Aくんのお母さんが「わたしは、いつものパターンが崩れると、

AかBかの二者選択の急いで答えを出さなければと焦ってしまうところがある。

想像力を使って解決しなくてはならないことが苦手だからな」と意識した上で、

「今日は本を読まなくてもいいの?それなら、お皿を洗ってくるわね」と告げた後の

揉め方とは質が違ってくるはずです。

 

また、Aくんの「Aは嫌。Bも嫌」といった態度に遭遇した場合も、

「この子はどちらの選択肢も否定する時があるけれど、

自分自身の中からAでもBでもない新しい選択肢を作り出すことも多い」と

わかった上でぶつかりあうのは、それまでのエスカレートの仕方とは

異なるにちがいありません。

 

鷲田清一先生が、「賢くある」ということという文章の中で、

<「賢い」というのはつまり「簡単な思考法に逃げない」ということだ。>

と書いておられました。

めまぐるしく変化する現代社会で、多角的にさまざまな立場で長期のスパンを

見据えて、考えなくてはならないような事柄については、

ひとつの正解を求めるなど逃げに過ぎないのです。

子育てにしても、鷲田先生の言葉を借りると、

「あいまいなものにあいまいなまま正確に対応する」べきもの

「正解などそもそも存在しないところで最善の方法で対処する、

という思考法や洞察力」が求められるものなのでしょう。

 

子育ての答えは、子育て本やネットのQ&Aのコーナーにあるのではなく、

親が正解がないことから逃げないで、その時、その時の最善を

探りながら、子どもと歩み続けること、添い続けること、向き合い続けることの中に

あるのだと思います。

 

最初の問いの、

子どもとの間で生じる『力のゲーム』から抜ける方法は、

かつて自分と父親との間で繰り返されてきた、相手をコントロールしようとする

争いを、親としての視点から受け止めなおしてみたり、

現在の子どもと自分の状況や争いの火種となっている物事について、

子どもの目線に下りて眺め直してみたりすると、

心にしっくりくるようなその時々の最善が見つかるかもしれません。

 


子どもとの間で生じる『力のゲーム』から抜けるには? 中編 

2019-01-12 12:44:00 | 教育論 読者の方からのQ&A

前回の記事でAくんとわたしとのやり取りでわかるように

Aくんは衝動的で自己中心的な性質ではありません。

周囲の空気を読んで慎重に自分の出方を決める自分を抑えがちな子です。

絵が上手なAくんは、園のお友だちから「○○の絵を描いて」と

頼まれることがよくあって、

もう絵を描くのをやめて遊びたいのだけれど、

絵を描いてって言われるから描いていたら

あんまり遊べなかったとがっかりした様子で口にすることがあるそうです。

 

そんなふうに自分を抑えがちな子が、ある時には手がつけられないほど

大泣きしてみたり、あれもだめこれもだめと駄々をこね続けることは

よくあることです。

普段ストレスを溜め気味なので、神経が疲れきってしまうことも

あるでしょうし、もともと過敏な性質だから、周囲の空気に気にして

慎重に振舞っているとも言えるでしょう。

また、こうしたタイプの子の中には、ちょっとしたきっかけで、

過去の嫌な出来事をどっと思いだしてしまう子もいます。

ですからAくんが寝しなにわざわざけんかをふっかけるような真似をして

それをエスカレートさせていくのは、

身体に溜めこんでしまったネガティブなものを吐きだす必要があって

そうしているのかもしれません。

 

ただ、そうとばかりも言えません。

Aくんは内気で他人に対して遠慮がちな子で、

頼まれごとでは相手にあわすことが多いですが、

その一方で、「自分はこうしたい」というイメージが非常に

はっきりしている子でもあります。

毎回、教室では、多少の反対には屈せず、どんなに手間をかけて説得してでも、

自分の意見を通そうとするAくん姿があります。

Aくんは、「これにする?あれにする?」といった選択肢を提示されることを

好まず、自分の中の「こういうことがしたい」を口にするし、

それはとても独創的で、新しさが感じられるものです。

以前、教室で部屋を暗くして影絵や光の実験をするのが流行った際も、

一番最初に「こういうことがしてみたい」とアイデアの火を灯したのはAくんでした。

日常の中で、Aくんの感受性に「これは面白い!」と響いたものを、

どのようにしたいのか、何が必要なのか、どんな手順でできそうか、

誰に何を頼めばいいのかをじっくり練っていて、

今なら口にしても大丈夫そうだという時に、こんなに物静かな子の中に

よくこれだけ言葉が詰まっていたものだと驚くほど、

ああだこうだと事細かに解説し始めるのです。

 

Aくんのお母さんは、洗練されているい印象がある方で、

自分の心に照らして何が重要か何が重要ではないかを

選んで、大切なものだけを選んでシンプルに暮らしておられます。

お母さんの鑑識眼は確かなもので、それはAくんの生活に秩序や知的な雰囲気や

暖かみを与えています。

Aくんのお母さんと話をしていると、情報の渦に飲み込まれそうになっても、

本当に大事なあれとこれに絞り込むことができる方なんだな、

何がAくんにとって大切なのか、感性でわかっていて、日々の中で継続していく力が

ある方なんだな、と感じています。

その一方で、Aくんのお母さんが度々口にする「こんな時にどういうふうにすれば

いいかアイデアが思いつきません」

「レパートリーがなくて……」「発想が浮かびません」といった言葉から、

未知の事柄を想像力を駆使して対応するのは苦手なのかな、と思っていました。

 

Aくんとお母さんは雰囲気がよく似た母子です。

Aくんは今時のアニメよりもヨーロッパの人形劇の動画に惹かれる子。

いいと思うものにしろ、心地よく感じるものにしろ、

重なる面が多いのではないでしょうか。

 

でも、『未知の事柄』を前にした『想像力の使い方』となると、

AくんとAくんのお母さんでは、正反対とも言える違いが見られます。

 

Aくんはゼロの状態からイメージを生み出していくことが好きで

あれでもこれでもないという選択肢すら見えてこないようなあいまいな状態で

根気よく考えを練っていくタイプ。それを最も得意としているし、

そうした頭脳活動をしている時に一番いきいきしている子です。

 

一方、Aくんのお母さんは、そうしたあいまいな場面に遭遇したとたん、

たちまち不安定になって、普段ならゆったりと物を考える方なのに、

「AかBか、どちらかに早く決めなくてはならない」「アイデアは思いつかない」

といった短絡的な決めつけるような心の状態に偏りがちなのです。

 

新しいアイデアが生まれてきそうなカオスな状態や

毎日のルーティーンにほころびができて、新しいことが生まれそうな兆しがある時、

Aくんはそれに敏感に反応して、「いつも通りじゃ嫌だ」と言って、

ちょっとでもその時間を引き延ばして、手探りで「いつも通り」を

拒絶したい思いの正体を探ろうとするでしょうし、

Aくんのお母さんはAにもBにも定まらない漠然とした雰囲気に不安を募らせて、

「いつものAにするか、やめてBにするか、早く決めてちょうだい」

と急かすことになるでしょう。

 

 Aくんがこうした場面で、根気よく自分の思いを追いたいと感じ、

Aくんのお母さんが、手短にAかBかに決めてしまいたく感じる場合、

Aくんは時間の上で焦らされていることにも、

選択肢を2つに絞られてしまったため

第3のまったく新しいアイデアを口にできないことにも、

不満を募らせるに違いありません。

Aくんはそうした不満を直接口にするタイプではないため

かえってこじれることが予想されます。

 

教室でも、新しい独創的なアイデアが実現される前には

必ずといっていいほど、こうした不安的でカオスな間があります。

そうした不穏な空気を感じ取ると、イメージするのが苦手な子は、即座に

「先生決めて」と言ったり、くじびきやじゃんけんで誰かひとりが決める形に

逃げたがります。

 

そうした間での創造性の高い子が最初にする仕事は、

それまで滞りなく流れていたいつものやり方に対して『待った』をかけることです。

想像力が豊かで創造性が高い子の「そんなの嫌だ」「面白くない」という

ダメ出しや妨害は、その子に考えるスペースを作ってあげると、

みんなを巻き込んで熱中するような斬新なアイデアを

生み出すことにつながりやすいのです。


子どもとの間で生じる『力のゲーム』から抜けるには? 前編

2019-01-12 08:59:15 | 教育論 読者の方からのQ&A

実は今回紹介する過去記事にある、今から4年前、この記事の中で連日、お母さんと揉めてばかりいた

男の子というのは、

昨年末アップさせていただいた

2019年版 子育てのしかた (虹色教室文庫の新作です)

という本を作ってくれたは現在9歳になる男の子なのです。

当時、お母さんが、自分の力で子どもの気になるところを押さえ込んでしまわず、

何度も自分の内面を見つめて、子どもとの関係をいいものにするよう

努めるうちに、

Aくん自身も自分の内面を見つめ、

自分の中で戦う弱い自分とそれを超えていきたいと願う自分を意識して

前向きに取り組むように育ってきたのです。

 

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<子どもとの間で生じる『力のゲーム』から抜けるには? 前編>

レッスンにいらしていた年中のAくんのお母さんから、

こんな相談をいただきました。

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 「子育てで気をつけていたこと

という記事にあった先生のお母さんと妹さんのように、息子との関係がしょっちゅう

力のゲームになっていると思います。

ちょっとしたことがきっかけで、私は息子をコントロールしようとし、

息子は私をコントロールしようとして、争いがどんどんエスカレートしていきます。

私自身、子ども時代を通して、いつも父とこうした力のゲームをしていました。

今、息子との関係が、私と父との関係とそっくりになっているのが嫌で、

何とかそれを避けたいのですが、エスカレートしだしたら私がその場を離れる……

くらいしか解決のレパートリーが自分にないのです」

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私はAくんのお母さんに、どのような場面で、どんな理由で、どんなふうに

Aくんとの揉め事がエスカレートしやすいのか詳しくたずねました。

Aくんは寝しなにお母さんから本を読んでもらって眠りにつく習慣があるそうです。

普段は読み聞かせを心待ちにしているAくんが、

時々「今日は、読まなくていい。今日は本を読んでほしくない」 と言うときが

あるそうです。

それなら……と、「お母さんは夕食の後片付けをしてくるわね」と告げると、

「それは嫌だ、やっぱり本を読んでほしい」と言い出し、

本を読もうとすると、「今日は本を読まないで」と騒ぐのだとか。

そうした優柔不断さにぶつかると、Aくんのお母さんは、

「とにかく早く読むのか読まないのか決めてちょうだい」とイライラが募り、

Aくんの方はお母さんのイライラを感じ取って、さらに頑固に、こうでもない

ああでもないと、どちらにも決めない態度を押し通します。

 

そうなるとAくんもお母さんも、本を読むか読まないかということは二の次となって、

とにかく相手を自分の意のままに動かしたいという気持ちに

駆り立てられていくのだとか。

そんな時にお母さんは、父と自分がずっと続けていた力のゲームを、

今度は息子とやっているのを強く感じるというお話でした。

 

子どもの問題で、「こんな場合どうすればいいか?」と考える時、

どんな育児書も教育書もしつけ本も、

読み物として子育てについての最低限の知識を得て、

子どもに関する想像力を広げる分にはよくても、

実際、現実の子どもとの関係を改善するにはあまり役立たないものです。

子どもはそれぞれ個性的で、その子の問題は、

他の不特定多数の子どもの問題とちがうのはあたり前。

ましてや、親も環境も子どもの状態をどのように読みとるのかという

感受のあり様(ある親には「わがまま」と映る子がある親には「子どもらしく

いきいきした子」と映ります)もまちまちなのですから、

マニュアル的な対応がうまくいくはずがありません。

それならいったい何を頼りに解決すればいいのかというと、

その子との間に生じている問題をなら、答えは、「その子」にあると考えています。

 

話題をAくんに戻して、Aくんがどのような子か、

優柔不断な態度を取る理由は何か、ぐずる時のAくんの目的は何か、

解決の糸口となるものはないかを探ることにしました。

 

Aくんは争いごとを好まない温和なおっとりした性質の年中さんです。

Aくんのお母さんが私にAくんについて相談をしていた間も、

傍らで静かに遊んでいて、

話がひと息ついたところで、遠慮がちに笑みを浮かべながら、

「そろそろさぁ、いい?もう……」とだけ口にしました。

「そうね。ごめんごめん。Bくん(いっしょにレッスンをしている子)が

お休みだからお母さんとつい話こんじゃっちゃったわね。

もう話はお終いにして、レッスンにするね」と言うと、

うれしそうに大きくこっくりしました。

 

「Aくん。今日はどんなことがしたい?このところ、ほかのお友だちはどんなことを

していたかな……。そうそう、海賊船を作ったり、迷路を作ったり、光の実験を

したりしていたけれど……」。

私が言い終えるのを待っているようだったAくんは、控えめな口調で、

「あのね、先生、ぼくの話をきいて」と言いました。

Aくんの控えめな頼み方にあわせて、こちらも気持ちを落ち着けて、

「ちゃんと聞くよ。なあに?」と答えると、

Aくんはかばんの中からプラスチックの廃材を取りだして、

「これで、潜水艦が作りたいんだよ」と言いました。

「このところが、くるくる回るようにして、

本当に水の中に潜る潜水艦にするんだ」とのこと。

 

私が、

「潜水艦の見本がいるよね。これに潜水艦の絵が載っていたんじゃないかな……」

と言いつつ何冊か図鑑を引き出すと、

Aくんは、遠慮がちに、「先生、ぼくに選ばせて。自分で探したい」と言いました。

といっても、ピンポイントで潜水艦を探している風ではなく、

科学の図鑑をめくりながら、興味がわいた場面を指さしてはあれこれおしゃべりを

していて、最終的に私が差し出した『大図解21世紀大百科』の

『しんかい6500』を目にして、「それにする」と言いました。

マニピュレーターという深海生物などを採集するためのリモコンの腕の部分に

強く心を引かれたようです。

 

 

工作を始める前、Aくんは、

「あのね、先生。水に入るようにするから、プラスチックじゃないとダメだよ。

紙はダメなんだよ」と言いました。

「ペットボトルやプリンの容器があるよ。そうそう、油の空き容器も

水に濡れても大丈夫な潜水艦が作れるよ。作ったら、お風呂で遊べるね」と言うと、

「ダメだよ。無理だよ。だって、ぼくはまだ咳が出てるからお風呂に入れないから」

とAくん。そういえばマスクをしています。

「それなら、風邪が治ったら、お風呂で遊べるよ。だって、ずっとずっと

風邪引きのままで、ずっとお風呂に入れないわけじゃないでしょう?」

「うん。ずっとじゃないと思う。たぶん」

 

 

Aくんは普段は一から十まで自分で工作する子で、形やサイズなどは気にもとめずに

箱や紙をザクザクと切って思いを形にしています。

今回の潜水艦作りは、子どもには扱いにくい素材ばかりでかなり私が手伝うことに

なりました。

それでも一部始終、自分でやりたいAくんは、

穴を開けたり、ビニールテープで固定したりする部分は私に任せているものの、

どこにどんな形のものをつけるのか、マニュピュレーターはどうやって動かすのか、

スクリューをどうやって回転させるのか、細かいところまでこだわっていました。

途中で、Aくんは母体部分の油の空き容器に小石を入れたがりました。

「石を入れたら水に潜るから」と言うのです。

でも、教室にある小石は空き容器の口より大きくて、苦心して押し込もうとしても

ひとつも入りませんでした。

そこで前回のレッスンで色水を作ってペットボトルに入れた話をして、

「水を入れてみたらどう?口をしっかり封するなら、色つきの水を入れるのも

きれいだし」と言うと、

「水も石と同じみたいに重くなるね」と言ってとても喜んでいました。

 


『9歳の壁』でつまずくか つまずかないか を左右する抽象概念の理解力 6

2018-08-27 10:51:04 | 教育論 読者の方からのQ&A

この話題、タイトルの内容から脱線しながら書いているので

読みづらくて申し訳ないのですが、もう少し続けさせてください。

 

寝食を共にするユースホステルのレッスンでは、

子どもたちが数学的な考え方を扱う場面や

抽象的な言葉と出会う機会がたくさん見られました。

 

夕食中、わたしの前に座っていた3歳のAちゃんが、

「先生とわたしはお向かいだね」と言いました。

Aちゃんの口から「お向かい」という言葉を聞くと思っていなかったわたしが、

聞き間違いかと思って、「Aちゃん、先生とAちゃんは何だと言ったの?」と

たずねると、Aちゃんの隣に座っていた年長の姉のBちゃんが

「お向かいって言ったのよ。先生はAの向かい側に座っているから」と解説しました。

「ああ、そうね。先生とAちゃんはお向かいだわ。

それならAちゃん。Aちゃんの斜め後ろは誰かしら?」と問うと、

くるりと後ろを振り返ったAちゃんは、斜め後ろに座っているDちゃんのお母さんを

見ながら、「わからない」と言いました。

すると、BちゃんとBちゃんの友だちが、「Aちゃんは、Dちゃんの名前を知らないの。

Aちゃんの斜め後ろに座っているのはDちゃんのお母さんでしょ?

ねぇ先生?もしわたしの斜め後ろはっていうなら、別の人だけど」と言いました。

 

この場面、周囲にいた子は興味しんしんで耳を傾けていました。

食事中だったのでやめておきましたが、

こんな算数クイズを出したら面白いだろうな……と思いました。

  

<その人は誰でしょう?クイズ>

その人はAちゃんのとなりではありません。

その人はBちゃんのお向かいに座っていません。

その人はCちゃんの斜め前に座っています。

その人は誰でしょう?

 

食後に、職員の方から、「できる分でかまいませんから、

できるだけ同じ食器ごとに重ねて、返却コーナーに戻してください」と

いうお知らせがありました。

子どもたちに、「同じ食器ごとに重ねるってどういう意味かわかる?」と

たずねると、

「こうやって、おわんはおわんってすることでしょう?」と写真のように

重ね始めました。

 

忘れ物や落し物があった時も、数学的な考え方に触れる機会になります。

わたしの道具入れに混じっていたミッフィーちゃんのペン。

部屋にいた数名の子とお母さんにたずねると、

「わたしの物ではない」ということでした。

 

それなら、誰のペンである可能性があるのでしょう?

まず、部屋にいた人々のものではないことがわかったのですから、

今、部屋ではない場所にいる人の物である可能性がありますよね。

 

そんなふうに子どもたちと探偵のような推理を働かすのは面白いです。

 

こんなクイズにも発展します。

ピンクの消しゴムが落ちていました。

Aちゃん、Bちゃん、Cちゃん、Dちゃん、Eちゃんのいずれかの落し物です。

 

AちゃんとBちゃんは公園で遊んでいます。CちゃんとDちゃんはお部屋にいます。

Eちゃんは台どころにいます。公園に行って、落としものについてたずねたところ、

消しゴムの持ち主はいませんでした。

お部屋に行ってたずねましたが、そこにも消しゴムの持ち主はいませんでした。

消しゴムを落としたのは誰でしょう?

 


『9歳の壁』でつまずくか つまずかないか を左右する抽象概念の理解力 4

2018-08-27 09:36:13 | 教育論 読者の方からのQ&A

ユースホステルでの晩の勉強会で、

遊びや日常のどんな場面で、数学的な考え方に触れる機会があるか話しあいました。

子どもいっしょにとさまざまな考え方に親しむアイデアを共有しました。

 

その時期、その時期、子どもにヒットすることや、子どもがしつこいほど繰り返したが

ることは、その子の能力を最も成長させてくれるものであることがほとんどです。

 

先の記事で書いた「絶対、違うに決まっているでしょってことでも、

ちがうよ、こうだよ、と説明しても、少しすると、また同じことばかり言う」という

自閉症のAくんにしても、こちらが、特性によるこだわりだと一蹴せずに、

「抽象的な意味を伴う言葉の意味をわかった、そういうことか、と自分の中に落とし

こめるような体験を欲している」「言葉に対して敏感になっている」という

受け止め方をして、気になる言葉をさまざまな場面で目で確認し、体感できるように

してあげることは知力の大きな成長につながると考えているのです。

 

Aくんにとって、「大切」とか「重要」という抽象的な言葉は、耳で聞くだけでは

わかりにくいものです。

でも、Aくんが大切にしているものを、「大切だね。これは大切」と言いながら、

大切に扱うボディーランゲージをし、ゴミとして捨てるものを、「大切じゃない。

こんなの大切じゃない。」と言って、ぞんざいに扱う真似をするすると、

Aくんの中に、具体的な大切という言葉のイメージが蓄積されていくかもしれません。

重要などもそうです。

お母さんの話にあった鳥の羽根の話も、

「人が落としていったハンカチは拾いに戻るけれど、鳥が落としていった羽根は

拾いにもどらない。なぜなら、人間が大切じゃないなとポイッとゴミ箱に捨てたものと

同じで、鳥にとってもういらないものだから。

それに鳥は落としたことに気づいていないかもしれない」といったことをテーマにした、

ごっこ遊びや人形劇遊びをするとAくんが今敏感になっていることに寄りそうことに

なるのかもしれません。

 

発達の凹凸がない子たちは、Aくんのようにひとつのことにこだわって

同じ言葉ばかりを繰り返すようなことはありませんが、

その時期、その時期で、非常に敏感になっている思考のあり方があるし、

月齢ごとにより抽象化した概念に関心を寄せるようになっていることを

遊びや会話の中で感じます。

 


『9歳の壁』でつまずくか つまずかないか を左右する抽象概念の理解力 3

2018-08-27 09:34:29 | 教育論 読者の方からのQ&A

前回までの記事にこんなコメントをいただきました。

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今回のユースホステルありがとうございました。

かわいい子ども達と出会い、とても楽しかったです。

毎日、仕事で子ども達と遊び、工作などをくり返す中で、

数学的思考が発達の凸凹のある子ども達にとって、社会を生き抜いていく中で、

重要な鍵になるのではないか‥‥と考えていました。

発達の凸凹のある子ども達は、あらゆる刺激の強さから、一対一対応でしか物事を

認識できないこと‥少しでも違いがあると別の物として認識してしまうことが

多くありますよね。様々な物が全く違った物として個別に存在しているので、

分類遊びは自然発生的には、なかなか出てきません。

例えばよくある事例では、

・Aちゃんを叩いてしまった時、注意を受けてとても反省していても、

Bちゃんは叩いてしまう。また注意を受けると「Bちゃんは叩いたらダメって言われて

ないもん!」と言う。

・「まっすぐ家に帰りましょう。」と言われると「そんなの帰れない!」と言い、

なぜか聞くと「曲がらないと帰れないから。」と言う。

こういった彼らの性質上の特性として片づけられてしまっている事も、

刺激の強さから抽象概念をとらえられず、遊びの中で充分に育まれにくい事から

起こるのではないか‥と感じていました。

物事を抽象的にとらえられる様になると、帰納的な考えや類似的な考え、

統合的な考えなどにつながりやすく、そういった考えは勉強だけでなく、

人間社会に多くある暗黙のルールをとらえられやすくなったり、変化に対する耐性や

柔軟さもでき、学校生活や社会生活の不安が少なくなるのでは‥と感じています。


発達の凸凹のある子ども達はくり返す事で(くり返すと思っていても、彼らには全く

違うことなんでしょうね。自転車が毎日、場所が1ミリも、角度が1°も違わず置いて

あることなんて、ないですもんね。違った状況を何度も照らし合わせて、

様々な角度から擦り合わせていく事で)意味として、獲得していくんでしょうね。

そこに、彼らの苦手とされる抽象的な表現や変化やユーモアなど取り入れると、

一対一対応ではなく大きな意味を持ったものとして、獲得していけるんだな‥‥と強く

感じました。

心と身体を解放して、全身で自分が何が好きか、何が心に響いているのか‥‥を

表現する子ども達。そんな子ども達に触れられて、とても幸せな2日間でした。

ご一緒させていただいたご家族のみなさん、ありがとうございました。

また、お会いできるの楽しみにしています。

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通常、ユースホステルのレッスンは、

幼児中心の日、小学生の女の子中心の日、小学生の男の子中心の日、

発達に凹凸のある子たちが中心の日などで分けて募集しているのですが、

今年は、十分な日程を確保できなかったため、発達に凹凸のある子、一般的な子、支

援の仕事をなさっている方のお子さんたちで年齢の高いお兄ちゃん、お姉ちゃん……と、

さまざまな年齢のさまざまなタイプの子らが参加することになった日を

設けることになりました。

こうした特別な日を作ると、

「発達の凹凸のある子のお母さんが相談したり気持ちを打ち明けたりしにくくなるの

ではないか?」「それぞれの子の学習時間がきちんと取れるのか?」

「まとまりのある体験ができるだろうか?学びを共有できるだろうか?」

「つまらなかった、参加しづらかったという子は出ないだろうか?」と気を揉むことも

多いのですが、心配のほとんどは杞憂に終わり……

結果良ければ…じゃありませんが、特別な日は特別な日にしかないかけがえのない時間を

参加した方々と共有することができました。

 

晩の親の学習会では、発達に凹凸のある子にも一般的な子にも

とても大切だと感じている日常生活や遊びや親子の会話の中で、

「抽象概念の理解力」と「さまざまな数学的な考え方」をどのように育んでいくかに

ついて話しあいました。

 

この記事の初めに、「難関突破経験と子育ての実態」の調査で、

子どもの自主性や思いや意欲を大切にして、遊びの主導権を子どもに与えることの

大切さが示唆されたという話題を紹介しました。

子ども自身が考える余地を与えるような援助的なサポートをする

共有型の関わりが大事であることや、遊びの量より質が重要であることも書きました。

 

でも、実際、子どもの遊びを見守る段になると、

「考える余地を与えるようなサポートってどんなこと?量より質っていったい何を

どうすればいいの?」と疑問でいっぱいになったかもしれません。

 

虹色教室では、子どもたちの遊びの質を高めるためのさまざまな試みをしているので、

何がどのように子どもの思考する姿勢に影響を与えるのかよく把握しているつもりです。

 

子どもと遊ぶ時に、あれやこれや知識を与えようとするのは

子どもを考えることから遠ざけてしまうこともあります。

遊びながら知識をインプットしようとするのではなく、

子どもの中に形成されつつある数学的な考え方の芽を育んでいくことが、

考える力の土台を作っていく上で大切だな、と感じています。

また、日々の暮らしの中で抽象的な言葉の理解を深めていくことも重要だと思います。

 

数学的な考え方には、

『数学的な考え方を育てる課題&発問集/鈴木正則著(明治図書)』を参考にすると、

 

帰納的な考え方  類推的な考え方  演繹的な考え方

統合的な考え方  発展的な考え方

記号化の考え方  数量化、図形化の考え方

集合の考え方   単位の考え方

抽象化の考え方  単純化の考え方  一般化の考え方

特殊化の考え方  表現の考え  操作の考え

アルゴリズムの考え  概括的把握の考え 基本的性質の考え

関数の考え    式についての考え

 

などがあります。

言葉だけみると、大きくなってから数学の世界で学ぶように感じられる考え方も、

まだ2、3歳という幼い時期から、ざっくりと考えに触れたり、使ってみたり、

扱う中で洗練させたりしているものがたくさんあります。

幼い子向けの絵本や児童文学の世界でも、こうした考え方は多用されているものです。

 

たとえば、

数学的な考え方のひとつの帰納的な考え方というのは、

いくつかの場合を調べて、それらに共通するルールや性質を見いだし、

それを元に推測し、推測したことが正しいか新しいデーターで確かめていくことです。

 

帰納的という言葉こそ難しそうですが、

子どもたちが親と楽しそうにおしゃべりする様子を聞いていると、年少の子らでも、

「あれとあれとあれは、こういうところが似ているね。ということは、

あっちは、こうなるのかな?」と、共通に見られるルールに着目したり、

それをもとに予測したりすることを心から楽しんでいる子はけっこういるのです。

そういう子は、文字や計算のプリントを早い時期からするようなことはありませんが、

1を聞いて10を知るような利発さがあって、考えることを心から楽しんでいるのです。