虹色教室通信

遊びや工作を通して 子どもを伸ばす方法を紹介します。

『9歳の壁』でつまずくか つまずかないか を左右する抽象概念の理解力 2

2018-08-26 21:48:39 | 教育論 読者の方からのQ&A

Aくんが半分という言葉に関心を抱いていた姿を見て、

朝食後のレッスンで「抽象的な言葉にはどんなものがあるでしょう?

具体的な言葉にはどんなものがあるでしょう?」というクイズを子どもたちに出しました。

 

聞き慣れない言葉に、最初はキョトンとしていた子どもたちも、

「具体的な言葉は、目で見て形がわかる言葉よ」と言ってから、

近くにあったホッチキスを指して、

「ホッチキスは具体的な言葉よね。この黄緑のホッチキスは、目で見て、

これって形がわかるわよねそれから、消しゴムも○くんの靴下も目で見て確かめられる

具体的な言葉よね。

抽象的な言葉は、あいまいでこれって指さして確かめられないような実態のない言葉よ。

勇気、重要、理想、正義……どれも、これだよって指さして見ることができないね」

と説明すると、小1のBくん、Cくんがわくわくした表情で、

部屋中の物を指しながら具体的な言葉を挙げてから、

「色は抽象的な言葉?」「理解は抽象的な言葉?」と質問しはじめました。

神妙な顔で考え込んでいた小3のDくんも、

「自然は抽象的な言葉?夢は抽象的な言葉?」とたずねては、

「そうよ。よく気づいたね」と言うと、心底うれしそうな笑顔浮かべていました。

 

そこで、子どもたちの前に1つのコップをかかげて、

「このコップは、ただの紙コップだけど、よく見るといろんな言葉が隠れているよ。

外側、内側、底、オレンジ色……」と言うと、

子どもたちから、「丸」「形」「白色」「薄い」といった声が上がりました。

わたしが、「円周、縁」と言うと、Dくんが、「安物!」と言いました。

「それは名称や色や形やサイズとは違う、意味を伴う新しい表現の仕方だね。

それじゃ、リサイクル可能、影」と言うと、子どもたちはこんな楽しいことはないと

いう様子で、思いつく限りに言葉を挙げていました。

 

言葉というのは、本当に面白いのです。

4歳のEくんが、「ぼく、タコが作れるよ」と作った作品は、

さっきまで眺めていた紙コップを材料としているけれど、

わたしたちからそれまでとは別の言葉を引き出してくれます。

「これは何でしょう?」

「タコ」

「どうしてタコだとわかるのかな?どうしてタコに見えるのかな?」

「下の部分、いくつも切っているでしょ?足に見えるから、タコってわかる」と

Cくん。

「Eくんがタコだって言ったから、タコってわかるよね。作者が言うんだから」

とわたし。

「全部見たら、ほら、頭の部分から足みたいなところまで形を見たら、

タコに似ているでしょ。だからタコってわかる」とBくん。

 

その場では黙っていた小5のFちゃんが、お母さんの耳に何かささやいていました。

後から聞いたところ、「欲望も抽象的な言葉」と言ったのだとか。

欲望というちょっと刺激的な言葉に、Fちゃんの周りで笑いが起きました。

それを小耳にはさんだDくんは、

「希望も願望も抽象的な言葉だ」とつぶやいていました。

実はEくん、お母さんからうかがった話では、算数は得意だけれど、

国語は苦手とのことでした。

Eくんが、抽象的な言葉についてずっと思いを巡らせているのを見て、

「Eくん。国語のいいセンスしているね。国語もきっと得意になるよ」と言うと、

Eくんは、うれしそうに照れ笑いを浮かべていました。

 


『9歳の壁』でつまずくか つまずかないか を左右する抽象概念の理解力 1

2018-08-26 21:42:35 | 教育論 読者の方からのQ&A

20代の子を持つ親(1040名)を対象に実施された

「難関突破経験と子育ての実態」に関する調査によると、

いわゆる難関突破した経験のある子の親とそうでない親の間に

子育てスタイルに大きな違いがあることがわかったそうです。

その違いとは、難関突破した経験のある子の親は、そうでない親に比べ、

遊びを重視する傾向があることです。


就学前の遊ばせ方の特徴として、

 子どもの自主性、思いや意欲を大切にして遊びの主導権を子どもに与えています。

また、親もいっしょに遊んだり絵本の読み聞かせなどで、

ていねいに関わっていたお家が多いようです。

 

こうした調査をしているプロジェクトのメンバーである

お茶の水大学名誉教授・内田伸子先生は、

<今回の調査から、大学受験や資格試験などの難関を突破する力や夢を実現する力と、

就学前の遊ばせ方には相関関係があることが示唆されました。

子どもは、五感を使うことで脳が発達するため、

ちゃんと遊んでいないような子どもは“9歳の壁”に突き当たりやすいのです。>

とおっしゃっています。

 

9歳の壁とは、学習内容が具体的なものから抽象的なものへと変わる9歳の時期に、

勉強がわからなくなる子が増えることから呼ばれる言葉です。

調査結果を長年にわたり研究している内田先生によると、

難関突破経験者の親の3人に2人が、子ども自身が考える余地を与えるような

援助的なサポートをする共有型

逆に難関突破未経験者の半分以上が、大人目線で介入し子どもに指示を与えてしまう

強制型の子育てスタイルなのだそうです。

このことから、「遊びは量よりも質が大事で、特に親との関わり方は大切」

とのことです。

 

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話が少し飛ぶのですが、普段のブログで遊びの大切さはさんざん書いているので、

今回は、抽象概念の理解力についての話を……。

 

 

 ユースホステルでのレッスンでこんなことがありました。

朝食時に5歳の自閉症のAくんが、「なおみ先生、なおみ先生」と繰り返しながら、

わたしのそばにやってきました。もう食事はすませた様子。

 

わたしがお尻をずらして席を半分あけて、

「Aくん、ここに座る?椅子の半分をあけたよ。ここに座る?」とたずねると、

わたしの隣に座っていた他の子のお母さんも反対方向に身体をずらして、

「Aくん、こっちにも半分、席があるよ。半分座る?」と、

茶目っ気たっぷりにたずねました。

 

わたしが、Aくんの目の前に半分ずつできた椅子の隙間を順に指さして、

「半分と半分、あっ、ひとつになっちゃった!」と告げると、

Aくんの表情が好奇心と喜びでパッと輝きました。

そこで、Aくんをその半分席に座らせて、朝食のソーセージを半分に切り分けて、

それぞれをフォークにさしてみせました。

「半分と半分……あっ、ひとつになっちゃった!」と言いながら、

切り分けたソーセージを元の一本に戻すと、Aくんはゲラゲラ笑いながら、

「半分、半分」と繰り返しました。

Aくんの心に、「半分」という言葉と概念が強く響いているようだったので、

皿にあったハッシュポテトでも「半分と半分、あっ、ひとつになっちゃった!」を再現。

それから、塩の小瓶を手にして、「半分だねぇ」と告げました。

 

白い塩の粒が瓶の半分ほどを占めているのを目にしたAくんは、

そこにできた空白部分と白い部分と半分という言葉のつながりに気づいたのか、

深く感動したようでした。

塩の小瓶を持って、「半分、半分」と言いながら、

他の子や親に見せてまわっていました。

 

 Aくんについて前日の勉強会で、Aくんのお母さんからこんな話を伺っていました。

 

「とにかく同じことを何度も何度も言い続けます。

絶対、違うに決まっているでしょってことでも、ちがうよ、こうだよ、と説明しても、

少しすると、また同じことばかり言うので、返事をするのもうんざりしてしまいます。

他所の家の前に自転車が置いてあると、Aが「忘れているの?」と聞くので、

「忘れているんじゃなくて、置いているんだよ。あそこのお家の人の自転車だよ」と

説明するのに、

それからもその家の前を通る度に、毎回、「自転車、忘れているの?」と聞くんです。

それとか、道に鳥の羽根が落ちているのを見て、

「鳥が落としていったのね」と言うと、「取りに来る?」とたずねるので、

「鳥は落としていった羽根を、人間の落し物みたいに取りに戻ったりしないよ」

と説明しても、何度も何度も「取りに来る?」と聞くので、もう、どう答えたら

いいのかわからなくてイライラして、きつい言い方で返してしまうんです」とのこと。

 

「あきらかに間違っていることを何度も何度もたずねられる場合、

どう答えたらいいんでしょう?」という質問もいただきました。

 

「わたしは毎回毎回、初めて聞いたみたいに対応しています。

自閉の子の望む答えは決まっていることが多いですよね。

自分の言う通りに答えてもらいたがったら、相手の要望にそのまんまに答えつつ、

毎回、少しだけ返事のバリエーションに変化を加えて、

こちらの伝えたいことを目でわかる形で示すようにしています。

すると、うんざりするくらい同じことばかり聞いていたかと思うと、

ずいぶん経ってからですが、あれっと驚くほど、

コミュニュケーション能力や語彙の理解力のステージが一段上がったのを

感じる瞬間が来るんですよ」と返事をしたところ、

いっしょに勉強会に参加していた支援級の補助のお仕事をしておられる方が、

相槌を打ちながら、こんなことをおっしゃいました。

「その通りですよ。わたしも、何度も何度も同じことを聞いてくるのに

本人の望むように答えながら、少しだけ新しいことを加えて返事を工夫するように

しているんですが、半年、同じことを言い続ける時期もありますが、

そうやって対応していると、ある時、劇的な変化の瞬間を迎えるんですよ。

本当に!」

 

その晩は、他の年齢の自閉っ子のお母さんとも、

ただのこだわりだと一蹴したくなる質問にも、毎回ていねいに答えることと、

そうした同じ質問だからこそ、こちらも知恵を絞って、

プラスαに創意工夫を加えてみることの大切さについて、話が盛り上がりました。

(詳しくは別の機会に書きますが、この回のユースには、次に食べたいものと

その値段の話題ばかり繰り返す自閉っ子の小2の男の子が参加していたのですが、

いつもいつも繰り返す食べ物と値段の話題にその子の望む返事をしつつ、

消費税の計算や場合の数の考え方など算数の世界の新しい話題を少し加えて応えて

いると、その都度、新しい算数の問題に思いをめぐらすことに夢中になっていました)


全国学力テスト  円の面積がわからない小6生 中3生

2018-04-25 13:37:29 | 教育論 読者の方からのQ&A

過去記事です。

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文部科学省が、小学6年と中学3年を対象に実施した
全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)で円の面積を求める公式を理解していない子が非常に多いという

話題を目にしたことがあります。


注意が必要なのは、
まったくわからない、知らないのではなくて、
「直径×円周」としたり「半径×円周」としたり、近いんだけど、微妙にちがうという求め方で間違えたということです。

この円の面積が求められない子たちというのは、
おそらく携帯電話の新しい機能は使いこなせる子たちで、アイドルの近況については正確に覚えていられる子たちなのでしょう。

つまり、知的な能力としたら、
「半径×半径×円周率」が3年かかっても覚えられないなんて重篤な問題を抱えている子はほとんどいないだろう……ということです。

それなら、どうしてこんなにもできないのでしょう? 
学校は何を教えているのでしょう? 
いや、学校は必死で教えてても、子どもが少しも聞いてないのでしょうか……?

私は、この問題は、「子どもにわかるように教えているか」という
先生側の問題ではないように感じています。

以前、現代っ子に共通する算数が苦手になる原因という記事で、


★ 簡単でシンプルなものを直視できない

★ 単純な情報にしっかり意識を向けていられない

現代っ子の特徴について記事にしたことがあります。

また、同様の「できない」理由をいくつか並べた
「わからない」のいくつかの形 と 対処法1という記事も書きました。
その記事には、私立小で教鞭を取られている先生から、次のような
コメントが寄せられています。
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今回の記事、まさに!まさに!です。
先生、見ていらっしゃった?って、言いたくなるほど(笑)
一昨日まで、5年の補習授業をしていました。
うちは、ほとんどの子が中学受験をする私学。
5・6年になれば、参加希望者対象の補習授業は当たり前。
算数補習は習熟度別に少人数指導をしています。
その中の、いわゆるしんどい子たちのクラスは、
まさにこんな子たちが集まっている状態。
どの子も、3つのうち2つ以上当てはまるように思います。
そして、中ぐらいの子のクラスでも、
「言葉の概念がイメージできないから解けない」子が多い。
計算はできるけど、文章問題になると・・・???

たかし君のお父さんの体重は75kgで、たかし君の体重は45kgです。
たかし君の体重は、お父さんの体重の何倍ですか?

間違える子が結構いますからね・・・。

これでも私学なんですよぅ。
もちろん、こんな子ばかりではありません(念のため)
賢い子は、感心するほど賢いです。

5年生になってからでも、間に合いますか?
対処法、ぜひ参考にさせてください。
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コメントに書かれているとおり、子どもたちの多くは、現代っ子特有の困難さを抱いて、勉強につまずいています。

現代っ子の困難というのは、
○時は習い事、○時は宿題、○時はお風呂、○時は寝る~と、
毎日のルーティーンを何も考えずにこなしていく……

だけで、毎日が過ぎていく子が多いことから生じてくるように思うのですよ。

問題は家庭だけでなく、学校にも……。

魚を釣るときに、魚が釣れるかどうかはどうでも良い問題で、

むしろ釣れたら処理に困るような意味のない活動として魚釣りがある設定のもと、(自分の利益としては、何の体感も感情もないままに)

「何時間、釣堀にいたか」とか「釣っているフォームが正しいかどうか」なんていう内容をしつこく外からチェックされた挙句、

魚を釣っている自分は、

釣れるようになることを目指している……

という目的が
わからなくなってしまったか、最初からそこが理解できないまま何年もきた……

というのが、学校教育で生み出される「勉強が苦手な子どもたち」ではないでしょうか?

……わかりづらい例でしょうか?

授業の設定は平均的な能力の子たちのペースに沿って進みますから、
「きちんと真剣に学ぶ子」は、ただ普通にがんばるだけで、浮きこぼれてしまって、できたからといって、「もう少し面白い難しい問題を解いてもいい~」といった利益を得ることはなくて、むしろ待ち時間が増えて、
損をした気持ちになります。
そんな風に、がんばることが損と結びついた環境で、
常に自分の能力にブレーキをかけることを求められてきた子が、
いつの間にか、「基礎的なことも理解できていない側」に転じていくのは時間の問題です。

いつの間にか、学習が、他人事になってしまうのです。

妙なたとえですが、
全て自分で計画して、行き先の情報を調べたり、
切符を買ったり、ぶつかる問題を自分で解決しながら旅行するのと、

旅行会社が全てお膳立てしてくれるバスツアーとか、海外旅行のパックとか
で旅行をしている人がいたとすると、

数年後、この2タイプの人々のさまざまな能力をテストすると、どうなるのか、
だいたい予想がつきますよね。

旅行会社が全てお膳立てしてくれるバスツアーとか、海外旅行のパックとかでばかり旅行をしていると、
注目したり敏感になったりするポイントが、
どの旅行会社がいいかとか、旅行会社へのクレームとかいった部分に集中して、
実際に自分で動いて何かする能力が極端に弱まったり、
自信がなくなったりしますよね。

何のために旅行をするのか……という目的についても、
 ツアーに盛り込まれた目を引く情報に踊らされるうち、
根本的な「自分」の動機や「気持ち」や
自分の中に育っていく感性や知恵、自信といったものが、
いつまでも身につかないか、むしろすたれていく……ことになりがちです。

それが学ぶという行為でも、これに似た現象が起こっています。

主体的に体験している子ども本人が、
「遊び」とか「日常生活」で、本当の意味で主人公でなくなってしまったため、
「生きている実感がある自分」がない子が、たくさんいるのです。
「何のためにがんばるの? 誰のために勉強するの?」という問いが、
「自分が自分であること」という生きている感覚の根源的な危うさやあいまいさから
立ち上ってくる子が、あちらにもこちらにもいるのです。

「自分という身体感覚を持っている子ども本人」が不在のまま、
大人たちが次々、新しい旅行ツアーの計画でも立てるように、
「あれを教えて~」「あれを訓練して~」と躍起になっても、
うまくいかないことは目に見えていますよね。


そこから、携帯の新機能は、5分でマスターできる子が、
3年たっても、「半径×半径×円周率」が覚えられらないなんていう
驚くような結果が生まれているように
感じるのですが……。(おそらくバーチャル空間は、大人たちに占領されていないので、子どもは主役の座についていられるのでしょうね)

 

数日前のこと、
昨年は、多動が目立って(発達障害の診断を受けている子です)、問題に集中できず、
どの問題もきちんと解ききるまでには至らなかった子が、
1年ぶりにやってきた算数クラブで、学年相当の算数の問題を次々解くだけでなく、分配算や和差算もちゃんと理解して解いて、
ちょっと驚き、とてもうれしく感じた出来事がありました。

この子とは、金魚すくいの準備や、ボールを飛ばすマシーンや、ポケモンのチップゲームなどをいっしょに作りました。
すると、何を作るときもとても積極的で、
年下の子が困っているときは、その子の分も作ってあげる
気遣いを見せていました。
また、「ぼくね、サッカーでクラスで一番なんだよ」「絵が得意だよ」と
1年の間で、いろんなことで自信を育てていたことがわかりました。
お母さんの話では、塾などへは行っておらず、
とにかく毎日いっぱいいっぱいまで身体を動かして遊ぶうちに、多動がおさまって、学習に集中することができるようになってきたそうです。

レッスンで算数の問題を解いてもらうと、

もうすぐ3時というのが、何時頃か……

「Aくんの持っている電車のおもちゃは、Bくんの半分です」というとき、
Bくんはどれだけ電車のおもちゃを持っているのか……

AさんとBさんがすくった金魚があわせて12ひきで、Aさんの方がBさんより2ひき多くすくったという場合、
AさんBさんは、それぞれ何びきずつすくったことになるのか……

といった問題が、
自分の経験を通して、すぐにピンとくる状態でした。
遊びの力はすごいですね。

「遊び」が大事と繰り返していると、
どんな能力をアップさせるどんな遊びをさせたらいいですか?
とたずねられることがよくありますが、
基本は子どもが自由に遊び、自由に考え、自由に判断する場面が多いほどよいと感じています。

たとえば、自由に遊んでいる子は、少しでもたくさん遊びたくて、
「あと10分だけ遊ばせて~」とお母さんに交渉し、
「だったらあの時計の長い針が、8のところにくるまでだけ……40分になるまでだけよ」といったやりとりを繰り返したりしています。
そうするうちに、10分経つと、何時何分になるとか、夏は日が長くて、
7時くらいまでは明るいな……それは太陽の軌道が冬と異なるからだなとか、
○くんの家まで3分だから、送って戻ってきたら、6分くらいかかるから
それから遊べるのは~分くらいだな~」とか
自分で懸命に考えるようになるし、体感としてさまざまなパターンの時間や数がインプットされてきます。

それが、毎日、決められた行動を、ただ、こなしている子たちは、
頭を使わないだけでなく、体感しているものにゆがみがあるのです。

「10個のお菓子を3人でわけるといくつずつ?」とたずねると、
よく遊ぶ子は、
「3つと割ったやつ」と言ったり、「3個ずつで、1個はあまるから、残しておく」と言ったりします。
けれども、学習時間が長く、遊びが少ない子たちは、
「分けられない」「1個ずつ?」「2個? 10個?」と答えることがあります。

 

親が勉強にだけ目を向けて、子どもの生活を痩せた貧相なものにしてしまうと、

実感できるものの幅が狭くなってしまうのかもしれませねん。


子どもとの間で生じる『力のゲーム』から抜けるには?<1>

2017-12-05 09:49:24 | 教育論 読者の方からのQ&A

実はこの記事のAくんは、今は小学2年生で

とてもしっかりした男の子に成長しています。

 

(先日、虹色教室文庫のふろく付きの雑誌を作ってきてくれました。)

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レッスンにいらしていた年中のAくんのお母さんから、

こんな相談をいただきました。

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子育てで気をつけていたこと という記事にあった先生のお母さんと妹さんのように、

息子との関係がしょっちゅう力のゲームになっていると思います。

ちょっとしたことがきっかけで、私は息子をコントロールしようとし、

息子は私をコントロールしようとして、争いがどんどんエスカレートしていきます。

私自身、子ども時代を通して、いつも父とこうした力のゲームをしていました。

今、息子との関係が、私と父との関係とそっくりになっているのが嫌で、

何とかそれを避けたいのですが、エスカレートしだしたら私がその場を離れる……

くらいしか解決のレパートリーが自分にないのです」

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私はAくんのお母さんに、どのような場面で、どんな理由で、どんなふうに

Aくんとの揉め事がエスカレートしやすいのか詳しくたずねました。

Aくんは寝しなにお母さんから本を読んでもらって眠りにつく習慣があるそうです。

普段は読み聞かせを心待ちにしているAくんが、

時々「今日は、読まなくていい。今日は本を読んでほしくない」 と言うときが

あるそうです。

それなら……と、「お母さんは夕食の後片付けをしてくるわね」と告げると、

「それは嫌だ、やっぱり本を読んでほしい」と言い出し、

本を読もうとすると、「今日は本を読まないで」と騒ぐのだとか。

そうした優柔不断さにぶつかると、Aくんのお母さんは、

「とにかく早く読むのか読まないのか決めてちょうだい」とイライラが募り、

Aくんの方はお母さんのイライラを感じ取って、さらに頑固に、こうでもない

ああでもないと、どちらにも決めない態度を押し通します。

 

そうなるとAくんもお母さんも、本を読むか読まないかということは二の次となって、

とにかく相手を自分の意のままに動かしたいという気持ちに

駆り立てられていくのだとか。

そんな時にお母さんは、父と自分がずっと続けていた力のゲームを、

今度は息子とやっているのを強く感じるというお話でした。

 

子どもの問題で、「こんな場合どうすればいいか?」と考える時、

どんな育児書も教育書もしつけ本も、

読み物として子育てについての最低限の知識を得て、

子どもに関する想像力を広げる分にはよくても、

実際、現実の子どもとの関係を改善するにはあまり役立たないものです。

子どもはそれぞれ個性的で、その子の問題は、

他の不特定多数の子どもの問題とちがうのはあたり前。

ましてや、親も環境も子どもの状態をどのように読みとるのかという

感受のあり様(ある親には「わがまま」と映る子がある親には「子どもらしく

いきいきした子」と映ります)もまちまちなのですから、

マニュアル的な対応がうまくいくはずがありません。

それならいったい何を頼りに解決すればいいのかというと、

その子との間に生じている問題をなら、答えは、「その子」にあると考えています。

 

話題をAくんに戻して、Aくんがどのような子か、

優柔不断な態度を取る理由は何か、ぐずる時のAくんの目的は何か、

解決の糸口となるものはないかを探ることにしました。

 

Aくんは争いごとを好まない温和なおっとりした性質の年中さんです。

Aくんのお母さんが私にAくんについて相談をしていた間も、

傍らで静かに遊んでいて、

話がひと息ついたところで、遠慮がちに笑みを浮かべながら、

「そろそろさぁ、いい?もう……」とだけ口にしました。

「そうね。ごめんごめん。Bくん(いっしょにレッスンをしている子)が

お休みだからお母さんとつい話こんじゃっちゃったわね。

もう話はお終いにして、レッスンにするね」と言うと、

うれしそうに大きくこっくりしました。

 

「Aくん。今日はどんなことがしたい?このところ、ほかのお友だちはどんなことを

していたかな……。そうそう、海賊船を作ったり、迷路を作ったり、光の実験を

したりしていたけれど……」。

私が言い終えるのを待っているようだったAくんは、控えめな口調で、

「あのね、先生、ぼくの話をきいて」と言いました。

Aくんの控えめな頼み方にあわせて、こちらも気持ちを落ち着けて、

「ちゃんと聞くよ。なあに?」と答えると、

Aくんはかばんの中からプラスチックの廃材を取りだして、

「これで、潜水艦が作りたいんだよ」と言いました。

「このところが、くるくる回るようにして、

本当に水の中に潜る潜水艦にするんだ」とのこと。

 

私が、

「潜水艦の見本がいるよね。これに潜水艦の絵が載っていたんじゃないかな……」

と言いつつ何冊か図鑑を引き出すと、

Aくんは、遠慮がちに、「先生、ぼくに選ばせて。自分で探したい」と言いました。

といっても、ピンポイントで潜水艦を探している風ではなく、

科学の図鑑をめくりながら、興味がわいた場面を指さしてはあれこれおしゃべりを

していて、最終的に私が差し出した『大図解21世紀大百科』の

『しんかい6500』を目にして、「それにする」と言いました。

マニピュレーターという深海生物などを採集するためのリモコンの腕の部分に

強く心を引かれたようです。

 

 

工作を始める前、Aくんは、

「あのね、先生。水に入るようにするから、プラスチックじゃないとダメだよ。

紙はダメなんだよ」と言いました。

「ペットボトルやプリンの容器があるよ。そうそう、油の空き容器も

水に濡れても大丈夫な潜水艦が作れるよ。作ったら、お風呂で遊べるね」と言うと、

「ダメだよ。無理だよ。だって、ぼくはまだ咳が出てるからお風呂に入れないから」

とAくん。そういえばマスクをしています。

「それなら、風邪が治ったら、お風呂で遊べるよ。だって、ずっとずっと

風邪引きのままで、ずっとお風呂に入れないわけじゃないでしょう?」

「うん。ずっとじゃないと思う。たぶん」

 

 

Aくんは普段は一から十まで自分で工作する子で、形やサイズなどは気にもとめずに

箱や紙をザクザクと切って思いを形にしています。

今回の潜水艦作りは、子どもには扱いにくい素材ばかりでかなり私が手伝うことに

なりました。

それでも一部始終、自分でやりたいAくんは、

穴を開けたり、ビニールテープで固定したりする部分は私に任せているものの、

どこにどんな形のものをつけるのか、マニュピュレーターはどうやって動かすのか、

スクリューをどうやって回転させるのか、細かいところまでこだわっていました。

途中で、Aくんは母体部分の油の空き容器に小石を入れたがりました。

「石を入れたら水に潜るから」と言うのです。

でも、教室にある小石は空き容器の口より大きくて、苦心して押し込もうとしても

ひとつも入りませんでした。

そこで前回のレッスンで色水を作ってペットボトルに入れた話をして、

「水を入れてみたらどう?口をしっかり封するなら、色つきの水を入れるのも

きれいだし」と言うと、

「水も石と同じみたいに重くなるね」と言ってとても喜んでいました。

 

前回の記事でAくんとわたしとのやり取りでわかるように

Aくんは衝動的で自己中心的な性質ではありません。

周囲の空気を読んで慎重に自分の出方を決める自分を抑えがちな子です。

絵が上手なAくんは、園のお友だちから「○○の絵を描いて」と

頼まれることがよくあって、

もう絵を描くのをやめて遊びたいのだけれど、

絵を描いてって言われるから描いていたら

あんまり遊べなかったとがっかりした様子で口にすることがあるそうです。

 

そんなふうに自分を抑えがちな子が、ある時には手がつけられないほど

大泣きしてみたり、あれもだめこれもだめと駄々をこね続けることは

よくあることです。

普段ストレスを溜め気味なので、神経が疲れきってしまうことも

あるでしょうし、もともと過敏な性質だから、周囲の空気に気にして

慎重に振舞っているとも言えるでしょう。

また、こうしたタイプの子の中には、ちょっとしたきっかけで、

過去の嫌な出来事をどっと思いだしてしまう子もいます。

ですからAくんが寝しなにわざわざけんかをふっかけるような真似をして

それをエスカレートさせていくのは、

身体に溜めこんでしまったネガティブなものを吐きだす必要があって

そうしているのかもしれません。

 

ただ、そうとばかりも言えません。

Aくんは内気で他人に対して遠慮がちな子で、

頼まれごとでは相手にあわすことが多いですが、

その一方で、「自分はこうしたい」というイメージが非常に

はっきりしている子でもあります。

毎回、教室では、多少の反対には屈せず、どんなに手間をかけて説得してでも、

自分の意見を通そうとするAくん姿があります。

Aくんは、「これにする?あれにする?」といった選択肢を提示されることを

好まず、自分の中の「こういうことがしたい」を口にするし、

それはとても独創的で、新しさが感じられるものです。

以前、教室で部屋を暗くして影絵や光の実験をするのが流行った際も、

一番最初に「こういうことがしてみたい」とアイデアの火を灯したのはAくんでした。

日常の中で、Aくんの感受性に「これは面白い!」と響いたものを、

どのようにしたいのか、何が必要なのか、どんな手順でできそうか、

誰に何を頼めばいいのかをじっくり練っていて、

今なら口にしても大丈夫そうだという時に、こんなに物静かな子の中に

よくこれだけ言葉が詰まっていたものだと驚くほど、

ああだこうだと事細かに解説し始めるのです。

 

次回に続きます。

 

 


自ら学ぶ子が育つ教育とは?(ペスタロッチとフレーベルに学ぶこと)

2017-04-07 14:30:08 | 教育論 読者の方からのQ&A

ブロック講座の募集は、来週の頭(月か火)にさせていただきますね。

 

久しぶりに読んだ『人間性の最高表現』

(偉大な芸術家や科学者などが、自己実現していく姿を記録した本です)

というP・フェルッチの著書で

ペスタロッチとフレーベルの教育への姿勢を読みました。

 

現在、あまりにも軽視されている大人のあり方で、忘れないように

書き写しておきたかったので、記事にすることにしました。

 

「民衆教育の父」と称されるペスタロッチについて、P・フェルッチが

こんなことを書いています。

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一瞬一瞬の観察で、教育者たちは子どもたちの成長や発達にともなう才能の変化に、

どんなとらえにくいことでも気づくことができます。

それは、知性、心身のバランス、感情面の成長、好奇心、自律などの変化です。

このプロセスは、ほかの生き物に見られる発達とも似ています。

生物学的な比喩は、すぐれた教育者たちにたびたび使われてきました。

というのも彼らは、生徒たちのなかに、自分固有のルールに従い、自分のペースで展開する、

生き生きした自律的な進化を認めるからです。


(省略)このような眼差しを注がれると、成長していく子どもたちは

深い尊敬と自信を呼び覚ましてくれます。

そして、教育者が強制する必要なしに、子どもたちのなかに自律的なプロセスが続きます。

付け加えなければならないものは、何もありません。

すべての知恵と善が、すでに子どもたちのなかにあるのです。生徒たちから学ぶことが

教育者の務めであり、その逆ではありません。


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フレーベルもモンテッソーリも子どもたちのなかに、

自然発生的な自律性が生じるのを見ていました。

子どもたちのなかに普遍性を見つけることは、教育の最も重要な原点です。

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学び成長している子どもは、単に、自分の務めをこなし、先生の期待を満足させようと

している個人ではありません。

それどころか、一人ひとりの子どもすべての子どもで、それは、

万物の法則に従って宇宙を動きながら、全宇宙の秩序を

映し出している一つの星のようなものです。

成長している子どもは、やはりかけがえのない個人であると同時に、普遍的な

調和の現れでもあります。

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前にも書いたのですが、今、マイコー雑記のマイコさん、たまきさん、

ワーキングマザーさん、ともえさんらと、

「子どもたちのために、何かしたいね」と話しあっています。


子どもたちの人生に本当に役立つような贈り物とは、

それぞれの子の両親や祖父母、身近な大人たちが、

次に挙げるような良い教育者の資質を自分のなかに育てていくことじゃないかな、

と感じています。

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 ● 私たちが選択したことを実際に試み、恐れることなく世界を探検する

手助けをしてくれる人。

そしてもし私たちが失敗したり、困った問題に巻き込まれたりしても、

私たちは裁かれないということを知っている。

 

● 私たちができること、なれるものを示してくれ、新しい発見がどんな喜びを

生み出すか、示してくれる人。

 

● どれほど陳腐なものであっても人生に持ち込み、

それをいきいきした魅力いっぱいのものにする人。

 

● 私たちが自分で何か探し出すように励まし、

私たちを自分の才能に結びつけ、私たちが学んだ

ことは自分がやったことなのだと気づかせてくれる人。

 

● 私たちを退屈させたり、眠りこませたりすることは決してしない。

ただちょうどよい量の夢を見せて、

常に私たちの注意を呼び覚まし、刺激する用意ができている人。

 

● 苦労せずに学ぶ手助けをし、そのため私たちは、学んでいることが、

深いところではずっとわかっていたことだと感じる。

 

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<おまけ>

金貨があふれるしかけ。


写真は重いハンディーキャップを持っているAくんとの遊びの一コマです。

Aくんと水遊びをしている時、水がコップからあふれる瞬間、

手をたたいて喜ぶ姿を目にしました。

そこで、紙コップの内側に、ひもを(ガムテープでしっかり)貼りつけて、

あふれる瞬間を味わえるしかけを作りました。


Aくんは、まだほとんど言葉がない子ですが、

透明の筒(100円ショップのお茶を入れる入れ物)のなかをよく観察していて、

紙コップの高さよりたくさんの金貨を入れるとあふれることに気づきました。

また、

また、ひもを引っ張りながら集中力を持続させて、次にあふれる瞬間が来ることを

予感したわくわくする表情でひもを引きあげていました。

 

何度も何度も金貨をあふれさせるAくん。

遊びを通して、Aくんに次に起こることを期待する心が育ちつつあるのを

感じました。



 


「作る・創る」ことを通し「考える力・創造力・自主性を育む場」

2017-03-23 22:27:10 | 教育論 読者の方からのQ&A

マイコー雑記のマイコさんが、こんな記事を書いてくださっています。

「作る・創る」ことを通し「考える力・創造力・自主性を育む場」を築くというビジョンに向けて話し合い

興味のある方はぜひリンク先に飛んでみてくださいね。


見えないものが見えるように 触れられるように おわりです

2017-03-22 13:36:14 | 教育論 読者の方からのQ&A

わたし 「お母さんは今やっている仕事が好きだし、自分にあっていると思う。

それに、小さい教室で自由がきくからこそできることがあるって感じてる。

算数や工作を教える時には、経験からくる慣れや自信を持ってもいるわ。

でもね……。

 

このところ時間がなくて休みがちだけど……

教室でやったことや気づいたことをブログに記録しているでしょ。

飽き性でコツコツ続けるのが苦手だから、持続しているってものが見える形で残る

だけで満足というのもある。

それに何より、ブログをコミュニュケーションツールにして、

アイデアを伝えたり、いっしょに疑問を共有したり、意見を交換したりできるしね。

 

……そんなふうに、いいことばっかり並べながら、なんかぐちぐちと言いたいような

煮え切らない気分になっちゃうのは、読む側にすれば、お母さんのブログ自体、

今日話していたような情報が増えすぎて全体像が見えないものになってるだろう

なってことなのよ。

だからといって、教室での活動を、『こういうことをしています』と一目でわかる

形にまとめてアピールするとなると、

活動のひとつひとつが個別のニーズに応えている面が大きいから難しいの。

 

ただ、このまま放っておくわけにいかないって焦ってもいるのは、

パッケージ化された体験がどんどんあたり前になりつつある、という事情もあるの。

お母さんの教室も、

『活動とそれをしたらどんないい結果を得られるか、先々どう役立つか』という視点で、

どんなパッケージを提供してくれるんですか、と暗にたずねられているように感じる

ことが増えてる。

それに対して、相手が満足するような答えを返すことはできるし、

たいてい、相手に満足する結果を手にしてもらうこともできはする。

教えることは得意だし、工夫しながら微調節を繰り返してきた仕事でもあるから。

それが、さっき、いい面も悪い面も、外にあるものとしても、

教室内の課題としてもパッケージ化された体験を意識しながら仕事をした、

と言った理由。

 

最近は、赤ちゃんからスタートするプリント学習の教室とか、

3年保育といわずもっと幼い時期からの集団保育も珍しくないから、

家庭での体験の先に集団生活があるんじゃなくて、

集団生活のために家庭が待機場所としてあるように見える子もめずらしくないの。

だから、お母さんは、教室といったって、家庭や近所の大人や友だちとの関わりや

会話や活動に近いものを目指したいのよ。

 

でも、それは自分のしていることの質を考えないことではないの。

外から見ると、行き当たりばったりで、漠然と時間を過ごしているように見える時も、

その状況で追える最善を考えてはいるから。

ある面、質を高めるほど、気づくことが増えるほど、

自分が扱えるものの種類が増えるほど、

こういうことをしています、とひとことで表しにくいところがある。

その一方で、細かいことに配慮するほど、相手が気づきにくいものを提供しているわけで、

わかりやすい説明が必要になってくるのにね」

 

わたしの自分でも整理のついていない愚痴もどきを聞いた息子は、

「あーお母さんが教室でしているのは、何かのメソッドって感じじゃないからなぁ」

と言って笑いました。

 

息子 「ほら、何かをマスターさせるための教授法じゃないよね。

それに、朝食を食べると授業に集中できる、とか、自然と触れ合うべき、

外遊びは頭にいい、とかいった正しいと思う考えを実践していくのとも違うよ。

じゃあ、何をしているのかというと、相手に見えなかったものを見えるようにしたり、

感じられるようにしたり、触れられるようにすることじゃないかな。

 

算数の表とか、まわりの長さとか、旅人算は何を計算しているのか、とか

マス目の入った数字の羅列やプリントに印刷された線や公式という名前の

暗記物にしか見えなかったものを、

日常の感覚で直観的に把握できる形に変えることとか。

工作にしても、おもちゃとか身の回りにあるものの内部の動きを可視化させて、

子どもが自分の考えを目で追えるようにすることが目的になっているしさ。

お母さんたちの相談に乗るとしても、

カウンセリング的な役割を果たしているのではなくて、

子どもについて見えなかった面が見えるように手助けしているんだと思うよ。

子どもを知るためのパラメーターの種類がやたら少ない人がいるから」

 

わたし 「パラメーターの種類が少ないってどういう意味?」

 

息子 「能力値を体力10、集中力8 みたいに表したらって例えだけど、

○○ができる能力とか、スポーツ教室の級みたいに

すごく少ないカテゴリーでしか自分の子どもを把握していない人がいるってことだよ」

 

わたし 「ああ、わかったわ。

それと、★の話を聞いて、自分が教室でしていることをひとことで表すと、

確かに、見えないものが見えるように、触れられるように……ってことだなと

いうことも。でも、それを自分のしていることとして、ひとことで説明するのは

無理そうだけどね」

 

 

(星雲を作っています♪)

 

わたし 「『見えないものを見えるように手助けする』のも、ずっと続けていると、

見えない理由はいろいろで、見えるようにするにはどうすればいいのか……

それに相手の子の頭や心がちゃんと乗っかるようにするってことへの答えが、

『見えるようにさせていく過程』では『外からはほとんど見えない』ってものも

出てくるの。正しい答えというより、経験からくるお母さんの勘が答えだとつかんで

いるものの話だけど。

 

自閉圏の子たちと関わる時には、

特にそういうややこしい『見えなさ』を相手にすることになるわ。

共同注意が難しい子と体験を共有するには、

いっしょに同じものを見るようにする工夫だけじゃ足りないから。

 

共同注意っていうのは、『わたしはこれを見てます!』ってことを相手にわからせて、

自分が見ているものに対して取ってる態度を相手と共有することよ。

『わたしはこれに注目している!』ということを相手が理解して、

それへの態度を共有するってことでもある。

自閉症スペクトラムの子たちは、程度の差はあるけど、それがすごく難しいのよ。

頭がとてもいい子であっても。

 

だから、お母さんは、ただ見るのではなく、

自分の目に見えたものがこちらにも見えているのか

確認するような気持ちが生じるようなシーンを作ったり、

見えているものを、その子も『先生も見てるな』って気づいた上で、

お母さんがそれをどう思っているのかを参照にしたくなる場面をごっこや人形劇や

工作のプロセスで作ろうとしているの。

難しいようで、あらゆる活動で、そこにフォーカスすることで、たいてい成功しているわ。

どのような活動がそうした状況を生むのか、経験を蓄積しているし、

お母さんには、いつもその際が見えてもいる。

 

でも、さっき言った『見えるようにさせていく過程』で、

何に働きかけているのか、何が起こっているのかは、

『外からはほとんど見えない』ということが足かせになって、上手くいかないことが

結構あるの。

すると、お母さんの仕事のほとんどは、子どもに対してどうする、というより、

見えない時期に親御さんの辛抱をどうやって保ってもらうかになってくるわ。

というのも、共同注意が難しい子のお母さんは共同注意が難しい方もいて、

子どもの姿を共有するのが大変なケースも多いから。

 

だから、あれこれ経て、子どもの困り感が激減した時、

何をしたからよかったということより、

子どものお母さん(親御さん)の『見えなさ』に寄り沿い続ける根気の良さというか、

ただただ歩き続ける姿勢のようなものへの尊敬の念だけが自分の中に余韻のように

残っている気がするの。

わたしの言うことやすることをずっと信じてくれた……というんじゃなくて、

ただただいっしょに、一人の子、一人の人間に近づこうとして、

寄り沿い続けてきたという事実が響いている感じがあるのよ」

 

息子 「見えないものを見えるようにする作業は、ほんと、いろいろだよね。

話が変わるけど、『虚数』ってあるじゃん。

負の数の平方根なんて、架空の現実の世界じゃ意味を持たないもの、

役に立たない想像上の数って思われがちだし、実際、ぼくもそう感じていたんだけどさ。

でも、このところ、電気系統をあれこれいじってると、

回路では虚数が役立っているところが見えるというか……

虚数が可視化できているわけじゃないし、虚数計算した値が目に見えているとは

言い難いんだけど、虚数を使って実態のあるものの動作の現象を目にできることに

感動したんだ。

実際には、1、2、3……と見て確かめられると信じられている数にしても、

数自体が目に見えているわけじゃないから、数学と現実の見える世界の関係は面白いよ」

 

 

河合隼雄先生と大江健三郎先生の対談で、大江先生が、こんなことをおっしゃっていました。

「小説家のイマジネーションというものは、いわば不思議なもので、

読者とわれわれ書き手とが断絶しているところと、

その上でこちらで起こったイマジネーションの作用が、

向こうでむしろこちらより深いような共鳴現象を起こしているということを

感じ取る場合がありますよね(省略)」

 

『見えないものが見えるように 触れられるように』は家でのおしゃべりを

記事にしたもので、小説家の文章とは違うけれど、

この記事にいただいたコメントを読んで、この大江先生の言葉が浮かびました。

この記事の締めくくりにいただいたコメントを紹介しますね。

(非公開のコメントには、コメント主さんの親としての視線の確かさが伺えて

素晴らしいいものがいろいろあったのですが、残念ながら非公開なので

紹介できませんでした。)

 

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ここまで読んで「なるほど」とタイトルと内容がつながりました!

見えないものを見えるように」とはそういうことでしたか。

確かに、わたしから見ると、先生の立ち位置って橋をかけているんだなって

おもうことがあります。

わたしはコアな?内向直観タイプというか、普通の人があまり興味ない「見えない世界」

のことを考えるのが大好きな変わった人間ですが(もちろん霊とかそういうことじゃ

ありません…)なおみ先生は教室をやり続けることで、前線でいろんな子どもや

お母さんたちと日々接してらっしゃいますよね。

小さいといえど、教室というビジネスをやることで最前線に立って、

親子のニーズに応えている。

だからもともとの素質もあるのだろうし、立場として見えない部分と見える部分の

橋渡しをしてらっしゃるな、とすごく感じます。

わたしみたいに見えない世界どっぷりの人と見える価値観の世界に住む人とでは

全然話しが通じない、と思うのですが、なおみ先生は通訳のように

その2つの世界を行ったり来たりしているイメージです。

このブログを読んでいて発見したのは、こどもにとって「見えない世界」の栄養が

とても大事なんだな、ということ。

ただ、その2つの世界はまったく違うものだから、

見える世界に上手に対応できればできるほど、自分の中のコアなメッセージとの

矛盾にもやもやしてしまうのかもしれませんね。

わたしからするとその2つの世界を行き来しつつ、ビジネスを成り立たせている

なおみ先生の能力がすごいとおもいますが。

わたしは逆にこのブログを拝見していて、コアなメッセージがたくさんの記事に

埋もれていることで、守られている面もあるな、と感じていました。

なおみ先生が前線で進化し続けているからこその過渡期なのでしょうか。

どっちの方向に向いていくのかはわかりませんが、どちらにしても応援しています。

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ひとつのキーワードとしては、心、頭、感性を自由に働かせる、

それに夢中になって時間のないところまで行く、ということかなとおもいました。


そして、そういうことがなかなか難しいという状況があるということなのですね。

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 “煮え切らない気分になっちゃうのは、読む側にすれば、お母さんのブログ自体、

今日話していたような情報が増えすぎて全体像が見えないものになってるだろうなって

ことなのよ。だからといって、教室での活動を、『こういうことをしています』と

一目でわかる形にまとめてアピールするとなると、

活動のひとつひとつが個別のニーズに応えている面が大きいから難しいの。”

先生のこの考えに納得する部分はあります。

先生のおっしゃる通り、個別のニーズに応える部分の根底は同じであっても、

安易に自分たちのパターンにそのまま当てはめるてしまうのは危険だと感じているし、

昔の先生のブログと今のブログの根底は同じであっても少しずつ表現が変わって、

うまく言葉にできないですが、さらに経験が深まり、より慎重に、より鋭敏になって

きているにも関わらず、時間の変化の部分を考慮せず、安易に一辺倒に扱っては

いけないなと感じているからです。

わたしにとって先生のブログを読んで色々考えることは、

子育ての中核になっていると言っても過言でないです。

その膨大な情報の表面に現れることだけを再現することに躍起になると

本質的なことを見過ごすのではないかなと思っています。

でも無秩序な情報の中から秩序を見いだすことができれば、この膨大な情報の

一つ一つが生きてくるのではないでしょうか。

また先生の考えは先生の考えとして、一旦心にとどめて、自分の考えを展開する

ことは可能だし、私自身、できているかはわかりませんが、

のようにしているつもりです。その他の書物や他の方の考え方も同様です。

私は基本的に、多くの情報は本質的なものに近づく情報に収束させるタイプなので、

比較的混乱はないのかもしれません。確かに状況によって見えないものが

見えなくなったり、触れなくなったときは、先生の考えやその他書物、

各種のHow toなど奥底に流れる本質的なものに気付かないまま、

お手軽に表面上のやり方に固執したり、あれやこれやと試してみたりとしがち

なのかなあとは思います。

でも子どもたちと先生の様子を勉強させて頂くたびに、私も見えないものが見えたり

触れるようになってきていると実感しています。

子どもたちもたくさんの種を植え付けてもらっているなと実感しています。

これは子どもたちを表面上の評価やできるようになったばかりに焦点をあわせて

いると気付かないのだろうなと実感しています。

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以前先生が書かれたブログで取り上げられていたブログを読ませて頂いて以来、

ブラックボックス化を意識して生活をしています。

子どもたちにブラックボックスの世界をどのように伝えていったら良いか、

私なりの方法はまだこれといってないのですが、

意識することでずいぶん違ってくると思っています。

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今回の記事を読ませていただいて、

ふと去年買おうと思ったキネティックサンドのことが頭をよぎりました。

「室内用砂あそび」というキャッチフレーズで、何かのTV番組で紹介されていて

思わず欲しい!と12月の娘のBDプレゼントかクリスマスプレゼントに買おうと

思ったものです。

ただ、何故だかわからなかったんですが欲しかったのに買う気がしなかったので

結局購入しないままでした。

でも、今回の「パッケージ化されて人から与えられた体験」とか

「自分自身の体験」などの言葉を目にして、「そっかぁ、私はこれを娘に与えて

砂遊びの代用にさせるのが嫌だったんだな」…と気づきました。

お持ちの方、スミマセン。私がそういう与え方しかきっとできなかった気が

するので・・・この商品自体を批判している訳では決してないですm(__)m)

砂遊びって、どの位の水を足すと丁度いいとか土のどの部分を使えば固まりやすい

とかから始まって、土の中に何だか触りたくないものが入っていて

友達とキャーキャー言ったり、ビール瓶の割れたのを見つけて親に危ないと

叱られたり、たまたま入っていた葉っぱや棒があればそれを使ってお墓に見立てたり、

まだ出来上がってなくて後で続きをしようと思っていたのに誰かに踏まれて

壊されていたり・・・先が読めないハプニングが沢山あって、

完成してもしなくても色んな体験があって楽しかったのを覚えています。

なのに、汚れず触感もよさそうなこの新商品を見たとき、

そんな過程など全く思い出さずにうちの娘はこれでどんなものを造って、

どんな風に想像力を刺激されるんだろうと、結果にのみ興味をもってしまいました(>_

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「パッケージ化された体験」「昔も今も同じような自然があるのに、

そこに自分の頭や心を使う発想がない」「複雑なものを単純化する」

どれも本当に本当に考えさせられる内容ですね。

息子5歳は生き物の採集や飼育、逆立ち、サッカー、戦隊物、料理、折り紙、

父親の影響を受けギャンブルの予想をするなどやりたいことや好きなものが

いっぱいです。

どれも全力で取り組み、それが彼の一部になっていることがよくわかります。

この前は霜柱を延々掘りだし、氷の山を作っていました。社会的に歓迎されたり

学校教育などで受け入れられるようなものもあるし、全然そうではないものも

あるけれど、息子を見ていると、ずっと今のように、何か好きなことに全力で

取り組んでほしいと思います。

娘2歳も、植木鉢に水をやったり、風呂掃除を手伝ってもらってスポンジを渡すと、

息があがるくらい興奮して一心不乱に取り組んでいるのがわかります。

以前のブログの中に息子さんが「クラス全員が殺しあう内容にはまっている友人は、

今までの人生の中で好きなことをたくさんして生を感じるような経験が少なかった

のではないか」というような話をしているものがありました。

まさに、パッケージ化された中での体験、自分の好きなものにたっぷり取り組む

ことが少ないと、友人同士が殺しあうような内容に強烈な生を感じるのでしょうね。

私も読んだことがあるので、その感覚はわかります。

かなり多くの子どもが自分のブログや同人誌で上記のものと似たような物語を

作って発表したという話を聞いたことがあります。

今どきの子どもたちは…という論調でしたが、

子どもたちがそうするのは何故かも考える必要がありますね。

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新しい年を迎えて子供と向き合うなかでまたひとつ、指針ができました。

今は、物も情報も多すぎて、親も子も、ある意味流されているんだと思います。

パッケージ化された体験に満足しがち…

ハッと考えさせられました。

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いつも読ませていただいてありがとうございます。

最近、過去にさかのぼり必死で2010年位目?まで読ませていただいておりました。

おかげで自分の子が、感覚型ど真ん中らしいこともわかり一歩理解へ進むことが

できました。

巨大な感覚のプールの中に何やら私にはうかがい知れないものをため込んでいく

息子の姿が不可解で、反復を伴いそこに何やら価値を見出しているらしき姿が

またまた無意味に思え、「そんなゴミ情報」と切り捨て、捨てさせようとさえ

してきたこともあったと、振り返れば思います。親の自分自身も、時には感覚に

耽溺することもあるので理解できないこともないのですが、

いかにも価値のありそうなものだけを取って置かせようとするのが、

よくない選別だったかなと思いました。

まあ、どれだけ選別しても底知れぬ感覚パワーであっというまに感覚の世界を

修復してしまうことにも驚きがあったのですが、それが息子の生地なのですね・・。

それはさておき、ブログ、先生と息子さんとで交わされたお話の内容や、

日々の雑感・・などが特に面白くてつぶさに拾わせていただいております。

今回のお話も、さすが、小学三年生の時に「白い紙と鉛筆」一枚の白い紙から

全てを切り出して組み立てていかれたという、息子さんらしさを感じました。

そのとき言われた言葉がとても素敵で、ちょっと初泣きしそうになりました。



 

(今、火山ブーム♪)


見えないものが見えるように 触れられるように  続きの続き

2017-03-21 07:43:51 | 教育論 読者の方からのQ&A

(ひと押しで、一番下の段まで宝が落ちる仕掛け作りに知恵を絞る)

 

わたしの話を聞いて、しばらく考え込んでいた息子は、こんな言葉を返しました。

 

息子 「もっともっと上を目指して、知識を増やして、技能をマスターして……

という形で、『単純なものから複雑なものへ』と進歩していくイメージばかり

重要視されがちだよね。

子ども向けにパッケージ化された体験はどれも、単純なものをひたすら足し合わ

せていって、より複雑なものを構成していく価値観でできているようにみえる。

 

でも、実際には、それとは逆方向に

『複雑なものが単純なものに書き換えられていく』ってプロセスも、

大事なんじゃないかな。難しいものを簡単な言葉で言いかえることや

情報のダイエットをするって意味じゃないよ。

 

ほら、ブレークスルーが起こると、それまで苦労して大量の情報を使っても上手く

いかなかったことが、シンプルな新しいやり方であっさり片付くようになるよね。

一つの方法が、それまでの膨大な情報を必要としていたことが、

一瞬にして少ない情報で行われるようになるってこと。

 

そんなふうに複雑なものが単純化されることって、

一人ひとりの頭の中では、よく起こることだと思うよ。

単純なものを複雑化していくのなら、努力次第で、誰がやっても同じプロセスを

踏んで行くよね。

でも、複雑なものを単純化する時には、何に着目して、それをどう捉えたか、

どう認識したか、どう意味づけたかが関わってくるから、

人それぞれ違ってくるはず。

複雑なものをどう単純化するかは、ただ知っているのか、理解しているのかを

分けるポイントにもなると思うよ」

 

わたし 「複雑なものの単純化……。今まであまり考えたことがなかったけれど、

確かに教室の子どもたちにしても、無秩序なものから秩序を見つけ出したり、

ただ『できる』だったものを、応用のきく『わかる』の形にコンパクトに書き換える

ときがあるわ。自分で意味を作りだす力を使って。

複雑なものを単純化するプロセスでは、それぞれの子の資質や個性がはっきり

出やすい気がするわ」

 

息子 「同じものを見ていても、それをどう解釈するかは人それぞれだから。」

 

わたし 「そういえば、遊びにしろ、工作にしろ、算数にしろ、一人ひとりの子が

強く意味を感じる部分の違いは見ていて面白い。

今ある環境ですぐに評価されるものもあれば、最終的にはその子の一番大事な力と

なるはずなのに、今は無駄に見えるか、良い成果を出すのを邪魔しているものもある。

お母さんがそういう力を活かしてあげられることもあるし、

この子はこういう能力があるんだな、と心に留めておくしかできないこともあるわ。

★(息子)は、幼稚園時代から、サイコロやチップやトランプをさんざん散らかした

あとで、その並べ方や出し方の中に潜在している秩序に気づいたり、

不思議を感じる点を見つけ出したりするのが得意だったわよね。

教室にも、着眼点や秩序の見いだし方は違うけれど、

そうしたランダムに見えるものから応用のきくシンプルな気づきを得る子らは

たくさんいるわ。

遊びの世界で、子どもがそうやって自分らしい資質を使うのを見るのはうれしい瞬間よ。

考えてみたら、子ども時代、お母さんが複雑なものを単純化する対象は、

いつも目に見えているものの目には見えない部分だったわ。

★のように見えないルールというものではないんだけど。

お母さんにも、子どもの頃のお母さん独特の『複雑なものを単純化』する感性の

ようなものがあった、あった。

団地のぐるりにピラカンサっていうオレンジ色の小さな実を大量につける木が植え

られていたのをしょっちゅう眺めていたのよ。

どんな葉の形でいつごろ実がなるか、なんて、植物図鑑的な興味は微塵も持たない

まま何年も過ぎたのに、飽きもせずに眺めていたのは、

こんなことを考えていたからなのよね。

このオレンジ色の実の一つひとつが顔で、それに一つひとつ心が宿っていたとしても、

お互いに同じ根っこでつながっているなんて気づかないはず。

知らないからけんかして、相手が枯れてしまったら、

結局自分も枯れてしまうなんてことはあるのかな……といったこと。

ピラカンサを見ながら、人間の場合、地球上を移動はしているけれど、

移動しながらも地球の一部としてひっついているってことはあるのかな、とか、

星の光は長い時間をかけて地球に届いて、ずっと昔の姿を今目の前で見ることが

できると聞いたけど、心は、光と同じような性質かな、とか考えていたわ。

団地の壁に貼りついている蛾を眺める時も、蛾の模様が偶然の産物には見えなくて、

進化の過程にどうやって、意味を持った画像が取り込まれていくのか、

誰のどんな目に映ったものが、何世代もかけて美しい模様を作っていくんだろう、

とかね。

受験に役立ったわけじゃないけど、それを思い出すと、自由でのびのびした幸せな

心地になるから、教室で接する子たちには、そういうその子ならではの頭や心の

使い方の自由を守ってあげたいと思う。」

 

 


見えないものが見えるように 触れられるように   続きです

2017-03-19 09:44:19 | 教育論 読者の方からのQ&A

 

(「100ってどんな数?」)

 

わたし 「パッケージ化された体験?

そういえば、去年はいろいろな意味で……いい面も悪い面も、外にあるものとしても、

教室内の課題としても……それを意識しながら仕事をした1年だったわ。

 

事前に山にカブトムシやクワガタを放しておく、

『夏休みの虫とりイベント』みたいにわざとらしいものから、

フランチャイズ化している習い事にしろ、

消費者のニーズを盛り込む幼稚園にしろ、

情報網の中で先回りがあたり前となっている子育て環境にしろ、

いろいろな場が、それ自体で完結しているパッケージ化されたものになりつつ

あるわよね。どれも悪いものじゃないし、商品としての質を約束しようとしている

だけでもあるんだけど、なら何が問題なのかといえば、参加している子が、

あれこれ得ることはできても、人や環境と直に会話していくことができない、

ということにつきるんでしょうね。

 

自分の反応で環境が変化するということがないし、

自分の考えが、結果を別の方向に持っていくこともないでしょ」

 

息子 「パッケージ化された体験は、未来がある程度固定されちゃうし、

ほかの体験の代わりにならないところがやっかいなんだろうな。」

 

わたし 「ほかの体験の代わりにならないって、どういう意味?」

 

息子 「子どもの時に、野球とか将棋に夢中になっても、

そのまま野球選手や棋士を目指す人は稀だよね。

たいてい、夢中になっていた時にした体験は、新たに興味を持った体験の中で

更新されていくよ。

パッケージ化されて他人から与えられた体験じゃなくて、

本当に自分が関わっていた体験の場合だけど。

次のもっと自分にぴったりくる体験をした時には、

前にやっていたことが別の形で活きてくるし、自分にとっての意味もわかってくる。

 ぼくは、子どもの時に必要な体験って、それが別の体験と代替え可能なものか

どうかが、先々役立つかよりずっと大事なことだと思うよ」

 

わたし 「そうよね。お母さんも子どもたちと接していると、

いつもそれを感じるわ。

子どもって一人ひとり個性的だから、同じ体験をしていても、

その体験の何がその子に響くのか、何がその子に残っていくのかは千差万別なのよ。

例えば工作していると、

「これこれこういうふうにしたいんだ」「ここはこうでこうで」と

やたら注釈が多いけれど、不器用さのせいで仕上がりがいまいちって子がいるのよ。

それでも本人が楽しんでいるなら、工作をしながらおしゃべりしていた体験が、

理科や算数の図を見ながら分析していくのを楽しいって思う感性につながって

いくことがあるの。

一方で、作るものはこちらの模倣で作り方も大雑把なんだけど、

できたものを使って遊ぶのが大好きだった子が、それを劇遊びに発展させて、最終的に、

絵本や物語を作るのがその子の日々の楽しみになっている子もいるわ。

他の子が工作する間、ドールハウスにミニチュアを並べる遊びを繰り返していた子が、

最近になって、動画を撮影するのに興味を持ちだしたってこともある。

そんな姿を見ていると、

工作だったら、工作をいかに見栄えのいい作品を作らせていくか、

ピアノならどうやって短期間に上達させていくか、

スポーツなら競技でいい成績をあげるかっていう世界だけで、

どんどん追い立てていくのはどうかと思うのよ。

もちろん、そうした系統的な学びができるように整った環境が大事な場合もあるのは

よくわかるの。

ただ、何もかもが、そうなってしまうことが気になるのかな」

 

 

(立体迷路)

 

わたし 「何もかもが、そうなってしまうことが気になる……なんて歯切れの

悪い言い方になってしまうけど、自分でも自分の思っていることを整理して

捉えられていない状態なのよね。


話が脱線するけど……

子どもの頃住んでいた団地の敷地にある土で、お母さんたち当時の子どもは

よく遊んでいたの。棒を拾って、お姫様や絵描き歌のコックさんを描いたり、

ケンケンパや陣取りゲームの線を描いたり、水で周囲を囲った島を作って

蟻の世界を作ったりもした。掘ると粘土が出てくるのが面白くて、

半日かけて土を削ってみたり、泥だんごには向かない土なのに、

大量のどろだんごをこしらえて、

1階のベランダの下にある隙間に隠しておいて、何日もかけて磨いてた。

当時の子の目には、土は遊び道具のひとつとして映っていて、

さっき★が言っていた『単体で存在しているねじ』のように、

途方もないくらいいろいろな種類の可能性のイメージを重ねることができたのよ。

 

でも、今、砂場以外で、土があっても気づかない子も多いわ。そんなものに

自分の想像力や思考力を重ねていってもいいんだ、と思ったこともないはず。

わたしが子ども時代の情景を思い返すのは、

昔はよかったとノスタルジーに浸りたいわけでも、

昔の子はおもちゃもなしに上手に遊んでいたと自慢したいわけでもないのよね。

正論を振りかざしたいわけでも、自分のやっていることは正しいって再認識したい

わけでもない。

 

たぶん、今の幼い子や小学生たちと接していると窮屈そうに感じる自分がいて、

どうして自分がそう感じるのか正確な理由をつきとめたいんだと思う。

昔も今も、雨も降れば星も月も太陽も空にあるのに、不思議を感じて、

どうして?なぜ?と周囲や自分自身に問いかける子は少数派になりつつあるわ。

目に映るものに、自分の頭や心を使えるんだ、使っていいんだって気づいていないの。

お母さんが教室で教えたいのは、やっている内容がごっこ遊びであれ、

物作りであれ、実験であれ、算数の問題であれ、それに自分の頭や心を使えるし、

使ってもいいんだよ、ということにつきるんだと思う。

 

ただ、実際、教室という形を取って教え始めると、

他人から評価されるようなアウトプットやどんなすばらしい体験をしたのか、

新しく何を吸収したのかという点だけが注目されて、

それぞれの子がどんなものに対して自分の頭や心を使っていいと認識しているかを

気にかける人はあまりいないんだけどね。」

 

 

 

子どもには子どもだけが持っている直観的な理解の仕方がある

2017-03-05 08:27:59 | 教育論 読者の方からのQ&A

いつも読ませていただいているe-子育て.comのスタッフブログの

ちょっと複雑な文章題、4年生の場合という記事で、

「大人と子どもの感覚のずれ」を理解しないまま教える弊害が指摘されていました。

 

羊先生の

「子どもの算数の理解が止まってしまう原因と根っこが近い気がします」という

結びの言葉がとても腑に落ちるとともに、


ちょうど夕べ息子と話していた内容と重なっていたことを思いだしました。

(羊先生の記事おかげで、捨てかけていた会話のメモをゴミ箱から救い出して

この文章を書いています)

 

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昨夜、わたしは朝のレッスンのことを思い返しながら、

「おかしなことなんだけど、

お母さんが実感している言葉が出始める時期の子を飛躍的に伸ばすコツって、

その子のお父さんやお母さんに、

子どもの前でほんの数分黙っていてもらう練習をすることなのよ」と言いました。

 

母 「数分といわず、数秒でもいいわけだけど、子どもが幼いほどそれが難しいようでね、

お家でも子どもをまったく視界に入れずに用事をしているか、

子どもを絶え間なく構って言葉をかけてしまうか、どちらかになってしまうようよ。

幼いうちはインプットの時期だから、言葉をシャワーのようにたくさんかけるといいって

ステレオタイプに信じ込んでいる人がたくさんいるけど、

現実には子どもがしゃべる間のようなものがなくなってしまうし、自分の頭で考えたり、

自分の意志を使うのを絶え間なく邪魔されているようにしか見えないことが多いのよ。

まだ言葉が自由に話せない子たちとの距離感って難しいのよ。

ある面、子どもと自分の区別が全くないかのように 間主観的にわかるって

言葉で表わされるような関係のなかで子どもは成長していくものなのよ。

 

でも、それと似ているのに子どもの意志や感情から離れたところで

大人の目線上で子どもと一体化するような状態があってね、

むしろ乳幼児の子育てであたり前になっているようなところがあるのよね……

そうした関係の上で言葉が大量の注がれているようなところがあるの。

 

でも、1、2分だけ、何もしゃべらずに子どもを眺めるのって、簡単なようで

かなり難しいみたいでね、

そうしてちょっとの間、黙っていて、子どもが何を見ていて、何に興味を抱いているのか、

どんな時に嫌な表情をして、どんな時に顔が輝いているのか気づいてもらうように

お願いしていても、

たいていの親御さんが、不安でたまらなくなって教えたり指示したりしてしまうのよ。

 

そりゃ、何か『する』のは、大事なことに思えるけど、

何かを『しない』のは、わざわざする価値があるように思えない……と

いうのもあるんでしょうね」

 

息子 「言葉が多すぎて問題が起こることってよくあるよね。

ぼくは、毎日一定の時間は、原始的な言葉のない状態で過ごすのっているなって

思ってんだけど……

自分の心のなかの言葉もないような状態!

言葉使えば使うほど、言葉という装飾品のせいで、

現実が見えなくなっていることがよくあるからね。

そうして言葉なしに、色や形や状況を見ていると、人間って外から学ぶだけでなく

自分の内から学ぶことができる存在なんだってわかってくるよ。

そうしたことを一番強く感じるのは、ピアノを弾いている時とか絵を描いている時とか、

本を読だり映画を見たりしている時でさ。

 

たとえば、絵を練習する時に、いろんな資料があるけど、一番すばらしい資料は

自分の右手と左手を見て、感じた通りに描くことだったりするんだ。

自分で感じとることが、一番の先生ってわけ。

映画を見てて腹が立ったら、どうして自分は怒ったんだろうって自分の感情の変化を

分析していくことで学べることは多いよ。

素直に世界を観察して、自分の内側で気づいたことを正確に受け取るには、一度、

勝手に漏れ出す言葉を外にも内にもなにもない状態にしてみるといいのかもしれないね。

お母さんが、

親に子どもの前でちょっとの間、言葉を発しないでいることを学んでもらうだけで、

不思議なくらい子どもの成長がよくなるって思っているのは、

そういうことと関係があるのかも。

言葉が多すぎる問題ってさ、最近、ネットで小学生の算数の教え方が話題になってるのを

読んでいろいろ考えていたところだったんだ」

 

母 「小学生の算数の教え方って?」

 

息子 「かけ算の文章題を教える時に、『かける数』『かけられる数』って

言葉を使って教えるよね。

それが、わかりにくいんじゃないかって議論をネットでやっててさ。

 

それを見てて、言葉を多用し過ぎる弊害というか、確実性を高めようとして

言語化できない概念まで言葉で表現しようとすることで、

子どもの学習能力を落としているよなぁと思ってさ。

言語はある意味、記号に過ぎないんだから、

言語化できない直観で捉えるようなものまで言語化しようとすれば、

自然に発展するものを、小さな枠に押し込めてしまうことにも起こるんだなって

感じたんだ」

 

母 「言語化できない直観で捉えるもの……?」

 

息子 「そう、さっきの『かける数』『かけられる数』にしても、

もし子どもの目の前に皿やかごに同じ数ずついちごを入れたものを見せたとするよね。

子どもはそれを目にするだけで、

直観的に『かける数』にあたるものと、『かけられる数』にあたるものの違いを

感じとって、自分に求められていることを直観的に理解することができるはずだよ。

それを『かける数』『かけられる数』という言葉に言いなおして、

伝え間違いが起こらないように確実性を高める時、

実際には、子どもが自分で目で見て感じとっているものと、

その言葉をつなげることができないまま、そこが切断された状態で

学習が進みがちなんじゃないかな。

 

子どもには子どもだけが持っている直観的な理解の仕方があるように思うよ。

それは学習の根っこの部分とつながってる。

大人の考え方の多くは、より確実にしようとするあまり、

言語化した時点で、大きな樹の葉っぱの部分になってしまう。

そうして葉っぱの部分を繰り返し教えて定着させることが教育だと思われているけれど、

やっぱり何度も根っこに立ちかえることだって必要なんじゃないかな?」