虹色教室をする前に、
頼まれて何人かの知人のお子さんの勉強を見ていたことがあります。
そのうちひとりの男の子は、小4から週1回30分学習を教えていました。
その子が中学生になるとき、友だちと同じように塾に行きたいということで、
入塾テストを受けに行きました。
結果を聞きにいった親御さんは、そこの塾長から、「これまで、どこで教わって
いたのですか?」と驚いたような様子でたずねられたそうです。
「近所の方に少しだけ習っていただけです」と知人が答えると、塾長は、
「その方に感謝しなくてはならないですよ。この子は、考える力も理解する力も
申し分ない。基礎学力もしっかりついていますよ」とおっしゃったそうなのです。
知人が会うたびに何度もその話をして御礼を言ってくれるものですから、
私の方はきつねにつままれたような気持ちですっかり恐縮してしまったことがあります。
というのも、勉強を見る時間が30分と短いですし、宿題も出していないので、
ひと通りのことをさらっとさせていただけで、教えるというほどのことは
していなかったからなのです。
みんながみんなそれほど伸びたわけではないけれど、他に教えていた子たちの中にも、
短期間で中学入試用の難問もスラスラ解けるようになった子もいました。
こちらも教えていた時間も少しですし、謙遜とかではなく実際にたいしたことを
していたわけではないのです。
そうしたことを最近まですっかり忘れていたのですが、
『教育哲学のすすめ(山崎英則 編著/ミネルヴァ書房)』という本の中で、
フロムの次のような考えに触れて、ふいに勉強がらくらくできるようになっていく子に
共通する「あること」に気づいたのです。
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「持つこととあること」は2つの基本的な存在様式である。
現代の大量生産・大量消費の社会に生きているわれわれは、
できるだけ多くの物質や富の獲得、またそれを可能にする権力や地位を所有することに
専念しようとする。
すなわち「持つ様式」の生き方に傾倒しがちである。
だが、われわれは、他方では、自分の人間的な力を生産的に使用し、
内面的な能動性を発揮し、自己を表現し、充実して生きることも求める。
すなわち、「ある様式」の願望を欠くことができない。
ところが、前者が後者を圧搾し枯渇させてしまっているところに、
現代の深刻な人間疎外状況を見ることができる。
(『教育哲学のすすめ』より引用)
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「ある様式」の生き方の再生・復活こそ、フロムの目指しているものです。
ふと感じたのは、この「持つ」と「ある」という2つの様式があることが、
勉強の場合でも言えるな……ということなのです。
勉強する側も勉強を教える側も、大量生産・大量消費の社会の延長線上で、
もっと知識を獲得し、もっと解き方を獲得し、もっと短時間で達成する能力を獲得し、
もっと好成績を獲得し、もっと多くの検定、もっと多くの資格、
もっと多くの読んだ本の冊数、もっと低年齢で成果を獲得し、もっと学習時間を増やし、
もっと時間を有効活用し、もっともっと……
と「持つ」ことを求め続けるのが学習と信じられているふしがあります。
でも、歴史を振り返っていくと、「持つ」ではなく「ある」を大切にして学習が
行われていた時期もあるはずなのです。
頭がよく見える証明を得て、かしこく見せるために学ぶのではなく、
知識を貪欲に求めて自然にかしこく成長していた時期が。
学んだことを自慢するために学ぶのではなく、
学ぶことに喜びを感じて学んでいた時期が。
内面的な能動性によって学ぶことが当たり前だった時代が、
今の教育制度を作ってきたのではないでしょうか?
学力低下の話題が出ると、「内発的動機なんて理想論だ!」と声高に言い切る方々が
いるのですが、「持つ」教育が「ある」教育を圧搾し枯渇させてしまった状況では、
そんな乱暴な言葉がまかり通るのかもしれません。
話を最初に書いていた知人のお子さんのことにもどしますね。
子どもの勉強を見ていると、大人の過保護や過干渉が少ない子は、
すっと「ある様式」の学習に入っていきやすいのです。
「勉強って、あれもこれもそれも……もっともっととゲットしていく作業だ……」と
捉えている子と、
「できるようになるのは面白い。勉強は自分を成長させることだ」と
捉えている子とでは、学習時間の長い短いとか、学習内容とかは関係なく、
後者の子の方が断然伸びがいいのです。
短時間でもいいので、子どもの意識のスイッチが、内発的動機から出発できるように
調整してあげることは、「足りないから、他国に負けるから、もっともっと知識を!」
と子どもを煽るよりずっと効果的に能力を伸ばすことができるのです。
大人たちが勉強させなくてはと熱くなるほど、子どもたちは、勉強もしていないのに、
「やらなきゃいけない雰囲気で頭がいっぱい」「あれもこれもと考えるだけで疲れた」
「何もしていないのに何となく忙しい」とやる気が減退しているのです。
↓過去記事から内発的動機について書いた記事です。
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『モチベーション3・0』ダニエル・ピンク著 に、こんな実験が載っていました。
マーク・レッパーとデイビィット・グリーンという心理学者が、
幼稚園児を数日間にわたって観察し、「自由遊び」の時間に絵を描いて過す子たちを
見つけました。
次に、この子どもたちが楽しんでいる活動に対して、報酬を与えた場合の影響を
調べる実験を考案しました。
子どもを3つのグループ
★「賞がもらえることがわかっているグループ」
(賞をもらえることを告げられており、終了後、青いリボンのついた賞状をもらえる)
★「賞をもらえることを知らないグループ」
(賞をもらえることを知らされていないが、終了後青いリボンのついた賞状をもらえる)
★「何ももらえないグループ」
それから、2週間後の自由時間に、幼稚園の先生は紙とフエルトペンを用意しました。
研究者たちが観察していると、「何ももらえないグループ」と
「賞をもらえることを知らないグループ」は、実験前と同じくらい熱心に絵を
描いていました。
ところが、「賞がもらえることがわかっているグループ」
(賞をもらえることを告げられており、終了後青いリボンのついた賞状をもらえる)は、
実験前より絵に対する興味を大幅に失っていて、絵を描く時間も少なくなっていました。
これは、報酬が、興味深い仕事を、決まりきった退屈な仕事に変えてしまうため
だと考えられています。<ソーヤ効果>と呼ばれたりしています。
報酬があることで、内発的動機づけが下がるのです。
遊びが仕事に変わってしまうこともあるのです。
何の見返りも期待せずに、「やりたい気持ち」「好奇心」「やり遂げたことへの
感動」から、何かをするとき、人は、すればするほど意欲が湧いてきます。
しかし、「交換条件つきの報酬」は、自律性を失わせ、
モチベーションのバケツに穴があき、活動の喜びが漏れてしまうのです。
社会人となった大人の場合、やる気がない状態で、報酬のために働くことも
大事でしょうが、子どもの場合、せっかく生まれ持った「自分で自律的にやる気を
感じて物事をしよう」という気もちを、わざわざ低下させる必要はないですよね。
今の時代、通信教材にも、習い事にも、内発的動機づけを低下させる釣りエサの
ようなものがたくさん用意されています。小学校低学年の極端なやる気のなさや、
中学生の英語嫌いともつながっているようで注意が必要だと感じています。
『モチベーション3.0』によると、具体的な条件つきの報酬は、内的動機づけや
創造性を弱めることが多いけれど、あまり影響を与えない仕事もあるようです。
激しい情熱を呼び起こしたり、深い思考を必要としない作業です。
この場合は、アメが問題にならないどころか、功を奏する可能性があるそうです。
おそらく音読カードとか、そろばんなどには有効なのだろうと思います。
芸術家たちを調査したときも、注文作品は自主的な作品と比べて、
創造的な面でははるかに劣るけれど、技術面の評価では両者に違いはなかったそうです。
長期間にわたって実施された調査では、外的な報酬への関心が、
芸術家としての最終的な成功を妨げるおそれがあるとわかったそうです。
話を戻して、型通り決まった仕事には、次の3つが、
その取り組み方のヒントなのだそうです。
★その作業が必要だという論理的な根拠をしるす。
★その作業は退屈であると認める。
★参加者のやり方を尊重する。
一方、ひとつひとつの指示を受けて、そのとおりにこなす以上の、
高度な内容が要求される仕事には、報酬はいっそうの危険が伴うそうです。
虹色教室でも、創造的に深く考える、好奇心を持って根気よく取り組む、
学ぶことを心から楽しむといった特徴をしるす子というのは、
報酬をともなうような学習法と、ほとんど関わりなく生活している子たちです。
うちの子も、大きくなるにつれて、勉強が好きになってきましたが、幼い頃から、
学ぶことは、自分の気持ちや好奇心を満たすことに直結していて、
ごほうびでつって何かさせるようなことはありませんでした。
ただ、がんばったときに、お祝いするような形で、何かをしてあげたことは
ちょくちょくありました。
報酬が悪いというより、目的が報酬になって、それ自体のおもしろさが色あせると
よくないのかな?と感じています。
報酬を得ない部分への「研究したい」「より知りたい」といった願望は弱まるように
見えます。
私は報酬で子どもに学ばせるより、子どもが好奇心を抱いたことや、
発見したことに、大人が強い関心を寄せ、子どもの能力を信頼し、
よりそれを発展させる手立てをしるしてあげることが大事だと思っています。
子どもは学ぶこと自体に強い愛情を感じます。テストの結果などとは関係なくても。
「交換条件つき」報酬やその他の外的な報酬は、危険な副作用を
引き起こす可能性があるとされています。
ロシアの経済学者アントン・スボロフは、「一度交換条件つきの報酬が与えられたら、
似たような仕事に直面したとき、従業員、生徒、子ども側は、再びそれを期待し、
雇い主、教師、親側は繰り返しそれを利用せざるえなくなる。
この点において、報酬には(麻薬のような)依存性がある」と説明しています。
また報酬への依存は意思決定をゆがめます。
鼻先にぶらさげられたニンジンは、どんな状況においても悪影響をおよぼすわけでは
ありません。
ただ、短絡的なものの見方を生む短期思考につながるようです。
報酬は思考の幅を狭める傾向があるのです。
さらに外発的動機づけ(具体的な交換条件つきの動機づけ)も
思考を萎縮させるおそれがあります。遠くにあるものが目にはいらなくなり、
すぐ目の前にあるものしか見えなくなるからです。
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幼児期は、
<自律性><熟達><目的>
からなる内発的動機づけが何より大事だな~と実感しています。
モンテッソーリが幼児の秘密として発見したことは、
幼児が絶え間なくこの<自律性><熟達><目的>を目指して
自分から外界に働き続けていく事実だったのです。
一方、発達障害のある子たちにとっては、報酬をはっきりしるして、
しつけや学習をさせることが大事な場合があるのも、事実だと思います。
ただ、私が発達障害のある子たちと接していて感じるのは、
必ずしも、アメとバツだけが有効な子たちではないということです。
他人に認められること、自力でやり遂げることなどを通して
報酬なしでも、自己コントロールを学んでいく子は多いのです。