2、3歳の子というのは、「へりくつ魔王」のような存在で、
どこからそんな理由が飛んでくるのかという理由を持ち出して、
自分に起こったできごとを説明することが多々あります。
うちの子の育児記録に次のような話が残っています。
娘がもうすぐ2歳という時期のこと。
実家に寄っていた妹に、その時まだ赤ちゃんの息子(まこちゃん)といっしょに
スーパーに買い物に連れて行ってもらいました。
帰宅した妹は、「おねぇちゃん、またよ~もう★(娘)は……」と
やれやれとため息まじりに、スーパーのお菓子売り場の前でひっくり返って駄々を
こねていた娘の様子を説明しました。
私が娘にそのことを問うと、こんな返事が返ってきました。
「ちあうの。まこちゃんね、おかちほしいな~ほしいな~言ったのよ。ちょうだいして、
ほしいなほしいなして悪い子だったのよ。」と。
「★はどうしてたの?」とさらにたずねると、
「あのね、んなちゃん(自分のこと)、まこちゃんめんめんよって言ったの」とのこと……。
付け加えておきますが、当時、まこちゃんは「んまんま……」くらいしか
しゃべれませんでした。
こんな風に、幼い子に何かたずねると、
「トンデモ発言」や「ありえないへりくつ」が飛び出してきて、
親が数十年間築いてきた常識的な世界観がグラグラとゆすぶられることが
しょっちゅう起こります。
保育現場で働いている方々は、こうした意味不明のへりくつに日々向き合っているようで、
保育の実践報告を読むと、思わず笑ってしまうシーンが多々あります。
『人とのかかわりで「気になる」子』という保育者向けの本の中にこんな話が
載っていました。
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二歳から三歳くらいの子というのはすごくおもしろいへりくつをつきます。
わーわー泣いているときに、どうしたの、と聞くと、
「○○ちゃんのはながたれていたからいやだ」とか、
「くつしたがぐちゃぐちゃになっているから」と言ったりします。
そんな他人のことなんかでどうして、それとあなたが泣いていることとどんな関係が
あるの、と思ったりしますが……。
でも、「あー、それがいやだったのかー」なんて受けたりします。
そうするとはながたれてるなんて言われた子は余計腹立てて怒ったりしてね。
そんなことが日々の生活のなかにいっぱいあります。
子どもたちは、そんな「へりくつ」をいっぱい出して、それにすがりながら、
立ち直りをつくっていくのだと思います。
『人とのかかわりで「気になる」子』(現代と保育編集部 ひとなる書房)P81より
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「へりくつ」をいっぱい出して、それにすがりながら、
立ち直りをつくっていく二、三歳の子。
でも、もし、大人がそのへりくつの間違いを正して、子どもにわかるように説明して、
妙に大人っぽい物分かりのよい子に育ててしまうとどうなるのでしょう?
2歳や3歳の時期から、言葉で言えばわかるわがままや、だだこねの少ない子に
してしまうとどうなるのでしょう?
最近の子育てでは、できるだけ早く大人の望むように仕立てあげてしまうことが
他人に迷惑をかけない、しつけの行き届いたいい子を育てているかのように
捉えられているところがあります。
もちろん、0、1歳から愛情を込めた年齢にそったしつけは必要なのです。
好き勝手させて放任していていいわけではありません。
でも、子どもがおりこうさんで大人の言うことを聞いてしまうからという理由で
わがままやだだこねを十分せずにこの時期を過ごしてしまうと、
子どものなかに自己をコントロールする力がきちんと育っていかなくなることが
保育の場で指摘されています。
上の『人とのかかわりで「気になる」子』に次のように書かれています。
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子どものなかに自己をコントロールする力を育てていくということを考えると、
何かあったとき、おとなが「だめ、だめ」といいながら、つけていくようにするのか、
子ども自身のへりくつの固まりのような言い分を受け止めながら、
そっと方向性だけを示してあげるのか、
その対し方のいかんが保育者としてためされるのではないでしょうか。
(略)
そのへりくつを押さえ込んでいったら、子どもたちは何も言わなくなってしまいます。
ただ泣くだけ、暴れるだけになってしまうのではないでしょうか。
ただそれが、年長さんくらいになってくると、自分が今なんで暴れているのかと
おとなの方で理解しないと満足しなくなります。ただ、だっこしたりおんぶしたりする
だけではダメだと思います。
悪いことは悪い。
「あなたのしたことは悪いと思うよ。でもそうしたかった気持ちはわかるよ」
という説明があってはじめて、落ち着く。
(『人とのかかわりで「気になる」子』現代と保育編集部 ひとなる書房 P82)
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家庭での子育ての様子をうかがうと、
上のような保育の姿勢が逆転しているケースが多いようです。
2、3歳児には「最初が肝心だから」と強圧的なほど言葉と大人側の常識で
「わからせて」しまい、そのせいで、4,5歳に問題行動が出てきます。
すると、4、5歳児には「問題行動に困って読んだ本によると子どもを受容するのが
大事とあったから」と言って悪いことを悪いとはっきり言わずに受容するか、
「しつけをしないと小学校に入ってから困るから」という理由で、
悪いことをわからせて修正させるだけで、
そうせざる得なかった気持ちを無視してしまうのです。
こうした困った親子関係がどうして生じるのかというと、
2、3歳児の「へりくつ」や「意味のわからない要求」が、その後の成長にどのような
良いものをもたらすのか知らないことによると感じています。
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昆虫や鳥の世界も4つ足で歩く動物の世界も、子どもが親をわずらわすことって
それほどありませんよね。
もちろん、ライオンの子育ての様子なんかを映像で見ていると、
子ライオンがしつこくいたずらをして、親ライオンがガブッと軽く噛みついて
どこからどこまでが許されるのかしつける姿があるのです。
でも、そうした子育てはいたってシンプルで、
人間の子ほど次から次へと親に新たなわずらわしい課題を与えることはないでしょう。
どうしてこんなに人間の子がめんどくさいかといえば、勝手に自分で育ってしまわずに
大人の手をわずらわして成長する必要がるからなのでしょう。
それほど高度な生き物なのです。
ややこしいから大人が関わって、そうして関わり合うから一人で育つ場合にはとうてい
不可能なほど大きく成長するのですから。
子どもを効率的に最善の形で発達させるために、進化の過程で得た能力のひとつが、
成長過程で親をわずらわすということなのでしょうね。
『関係からみた発達障碍』(小林隆児 金剛出版)のなかで、
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親(育てる者)-子(育てられる者)」という非対称的関係における
コミュニケーションの過度的段階でのある特徴を見て取ることができるように思う。
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という一文に出会い、大人の手をわずらわせながら成長する子どもが特に
ややこしくてめんどくさい時期について大切な視点を与えてくれる内容だなと感じました。
「コミュニケーションの過度的段階のある特徴」ってどんなものでしょう。
この著書によると、この過度的段階のコミュニケーションとは
次のような意味をになっています。
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ことばの獲得過程のいまだ途上にある子どもにとっては、
ことばは自ら自由に操ることができるような道具ではない。
しかし、ことばを獲得して
大人文化の仲間入りをしたいという欲求(自立したい欲求)を持つがゆえに、
子どもは母親を自らの方に引き寄せて、母親に自分の内的表象をことばで語って
もらうことが、大きな喜びとなっている。
母親に依存しながらも、ことば文化を取り入れたいという欲求をも
同時に表現している。依存(繋合希求性)と自立(自己実現欲求)が深く錯綜しながら
展開している母子コミュニケーションの一断面をみる思いがする。
『関係からみた発達障碍』(小林隆児 金剛出版)p129
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「過度的段階のコミュニケーションが大事なのはわかったけど、
それって具体的にいうとどんなもの?」と思いますよね。
「大人文化の仲間入りをしたいという欲求(自立したい欲求)を持つがゆえに、
子どもは母親を自らの方に引き寄せて、母親に自分の内的表象をことばで語ってもらう
ことが、大きな喜びとなっている。」ときの子どもの姿は、
↑の著書に次のようなエピソードが紹介されていました。
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<エピソード1>
絵を描いて、自分が何を描いたか、私に言わせようとする。絵を指して、
私の方を向いて<言って>というふうに少し催促する声を出す。
目を見ても<これはなんだ?>と<言ってみて!>という気持ちがよくわかる。
すぐにパッと答えてあげれれば大満足で安心する。
でも、ときどき忘れてことばにつまることがある。
そんなときは、小さな声でそっと頭文字のことばを教えてくれる。
「パーキング」なら「パ」、
「プリンスホテル」なら「プ」、頭文字がはっきり聞こえず、こちらがわからないと、
すごく怒る。
一日に数回は怒らせてしまう。たまに、途中で私がわかって正解を言うと、
パッと目に涙をためながらも笑ってくれて落ち着く。切り替えは早い。
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<エピソード2>
数日間から朝起きるとすぐに「(何かを)トッテ」と要求することが多くなってきた。
母親にしてみると何をとってもらいたいのか、
本人の好みがいくつかあるので想像はできるのであるが、何かはっきりとはわからない。
そのため時折違った物を持ってくるとひどく不機嫌になってしまう。
自分の希望の物を持ってきてもらうととてもうれしそうに反応している。
ではどうして何をもってきてほしいと明確に言わないのか、言えないのだろうか。
日ごろはほしい物に関して何らかの表現方法は身につけているのであるから
言ってもよさそうなのだが、それを母親に直接的に言わない。
なぜなのか母親は首を傾げている。
(エピソードはふたつとも 『関係からみた発達障碍』(小林隆児 金剛出版)より引用
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子育て中の方は日々体験しているでしょうが、
子どもって自分で言わずにわざわざ大人に言わそうとして、
ややこしい行動をとるものですよね。
ユースホステルでのレッスンで、教室での定期レッスンにも通ってくれている2歳の
おしゃべりの男の子のお母さんから、
「うちの子良い子すぎて心配なのですが……」という相談をいただき、
「えっ?★くんが?いえ、★くんは、いつもけっこう好き放題言ってて、
良い子すぎじゃないから大丈夫ですよ~」と思わず笑いながら応えてしまい、
後から、「奈緒美先生、ひどいですよ~あれは結構傷つきました」とこれも笑いながら
告げられた出来事がありました。
というのも、★くんはそうとうなぐずぐずさんで、激しいかんしゃくこそ起こさないものの、
何かするたびに、ぐずぐずぶつぶつぐだぐだ~とややこしいこと極まりないのです。
★くんのお母さんは大らかな性質の方でとにかく★くんがかわいくてたまりませんから、
いちいち「これはどう?」「ならこれでは?」と延々と相手をしてます。
そうしてたくさん相手をしてもらっているので、しょっちゅうぐずぐず言っていても、
それが★くんのお母さんにとってわずらわしいことのようには感じられず、
楽しい親子の交流の時間になっているのです。
そうして相手をしても少しも苦とは感じないお母さんももとで、
★くんは2歳とは思えないほど表現豊かに会話したり、考えたことを言葉にするのが
上手になっていました。
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2、3歳は子育ての要ともいえる非常に大切な時期だと言われています。
この時期の大人との関わり方いかんで、その後の成長が左右されるような
ところがあるからです。
人間関係の土台が、この時期に作られるといっても過言ではありません。
『人とのかかわりで「気になる」子』という保育実践の本に次のような文章がありました。
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自我の肥大期ともいえるこの時期(2、3歳)の子どもたちは、
次に示すような矛盾する二つの顔を持ちながら大人との関係を作っていくが、
そこでどのような関係を保障されるかということが、
その後の人格形成に大きな影響を及ぼすことになる。
A 自己主張が強く、それが実現しないと強烈なダダコネをして抵抗する
B 保育者と気持ちが一つになるような関係ができたとき、素直に喜びを表現する
この場合Aの方が、子どもの内面から湧き上がる要求を出発点にするのに対して、
Bの方は、マテマテ遊びやじゃれつき遊びのように、保育者が作る積極的な関わりを通して
子どもたちが感じる、解放された幸福感のようなものを基礎に形成されていく点を
特徴としている。
ここでとりわけ重要な意味をもつのが、強烈なダダコネまでして
自己主張するこの時期の子どもたちを、彼らに寄りそおうとする大人が、
いったいどこまで受け止めることができるかという点である。
どんなにダダコネしても、そんな自分を辛抱強く受け止めてくれ、
身体が「心地よさ」を感じるまでつきあってくれる。そんな体験を積み重ねた子どもたちが、
自分の思いを受け止められる喜び、聴き取られる喜びをベースに、
今度は相手の言葉を聴く姿勢を自分のものにしていく……。
この時期の子どもたちは、まさにこうした関係の中で自分を
ステキに育てていくのである。
『人とのかかわりで「気になる」子』現代と保育編集部・編 ひとなる書房)
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2、3歳児を育てる大人の仕事は次の3つです。
★ どんな自己主張も、受け止めてあげること
★ ゆったり受け止めた後で、子どもが混乱した状態から抜け出ることができるように
そっとサポートして、良い大人と子どもの関係を作っていくこと
★幸福を身体全体で感じるようなコミュニケーションを含んだ遊びを体験して、
成長した次の段階の「幸福の形」を見つけることができるように導くこと
もし、大人が、
「そうはいっても、子どもが自己主張するとイライラして受け止めることができない」
と言う場合、
子どもはダダコネ段階からいつまでも抜け出せずに、
「へりくつ」や「意味のわからない要求」ばかり繰り返す魔の2歳児を卒業していくことが
できませんよね。
子どもが激しく駄々をこねるということは、それまで十分可愛がられてきて、
自分を思いきり表現しても、受け止めてもらえるという信頼感があるからでもあります。
(ただ、その姿に、「感覚過敏が原因?」や「これはパニックでは?」と
いったちょっと一般的なダダコネとは種類が違うと感じたときは、注意が必要です。)
自分の思いどおりにいかないことで泣きわめいてごねているのなら、
きちんと自我が成長している証拠とゆったり構えて、
まず子どもの気もちを受け止めて、でたらめなへりくつや
意味のわからない要求をたくさん言わせてあげることが大切です。
そうするうちに、身体が疲れるまでダダをこねつくした後には、
心の中に湧いていたムシャクシャするわけのわからないものがすっきり消えて、
「お母さん、お父さん、大好き!」という気持ちだけが残っていて、
今度はたっぷり甘えるうちことを繰り返すうちに、
いつの間にか、この難しい小さな暴君のような一時期を卒業していくはずですよ。
『学びの物語の保育実践』(大宮勇雄著 ひとなる書房)は、
保育と教育の可能性を大きく広げてくれるすばらしい本です。
また家庭でどのように子どもに関わると意欲的で、持続的な自分の力を
100パーセント出しきるような学びの構えを身に付けさせることができるのか
学ぶことができますよ。
子どもに「学ぶ構え」をつけるのには、毎日、一定時間、机に座る習慣をつければ
よいと考える方がいます。
身体が習慣になじんでくると、頭も自然に集中するという理由でしょう。
でも、現実には形だけ作っても頭も心もそわそわして、
心ここにあらずになるのが子どもです。
無理矢理習慣付ければ、適当にする癖がつくか、嫌がるようになるか、
きちんとしたところで「義務を果たす」以上でも以下でもない結果となりがちです。
まず、子どもの内面に自ら困難を選んで、自分に課していこうとするチャレンジ精神を
養っていくことが外から見た目を整える以上に大切なことだと感じています。
『学びの物語の保育実践』にマーガレット・カーによる面白いインタビューが
載っています。
幼稚園・保育園で行っている活動の中には「むずかしいと思う」ことはそれほど多く
あがらなかったとカーは報告しています。
このインタビューによると、23人の子どもたちのうち10人の子どもたちは、
困難な課題は(園以外の)他の場所だけにあるという回答で、
つまり子どもたちのおおよそ半数は、園を、彼らが困難なことに立ち向かい
乗り越える場所としていないことは明らかだったのです。
子どもにとって集団の場には、
挑むに値する「困難な課題」が見当たらない場合があります。
それに、子どもにもみんなの前で恥をかかないようにしようとする知恵はありますから、
失敗するリスクの高いチャレンジは、十分なサポートない場ではやりにくいですよね。
この著書にあった言葉を借りれば、保育者のエネルギーが一斉保育の準備、
計画に注がれる保育、子どもの関心が断ち切られるような保育、
保育者の期待する活動や姿から子どもの「できる・できない」を評価する保育の場には、
子どもが成長するために自ら選びとっていく課題が存在しないし、
あったとしても、それに保育者が気づき、認め、応える態勢が整っていません。
最近では、早期教育の情報や幼児教室の考え方が中途半端に家庭の中にも浸透して、
0歳、1歳児、2歳児が育つ家庭環境までが、大人の期待する活動や姿から
子どもの「できる・できない」を評価するというとんでもないものに変容しつつあります。
『学びの物語の保育実践』に次のように書かれています。
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「困難に立ち向かう」姿は、どのようにして生まれてくるのでしょうか。
それがわかれば、試行錯誤や創意工夫をしながら問題解決に粘り強く取り組む子どもを
育てることができるでしょう。
学びの物語の五つの視点は、そうした学びがつながっていくプロセス、
つまり「成長」をとらえるうえでとても有効です。(略)
関心と熱中から、「困難に立ち向かう姿」が生まれてきた、
そういう記録を紹介します。(略)
「関心」は「熱中」をもたらし、「熱中」は「関心」の幅を広げ、その深まりをもたらす。
「関心」と「熱中」が相互に手を携えて発展する中で、子どもはむずかしいことに挑戦し、
誰もやったこともないようなやり方で自分のテーマを表現したくなる。
そして……探求は、……の本質に向かう。
『学びの物語の保育実践』(大宮勇雄著/ひとなる書房)
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虹色教室で子どもたちと接していると、子どもが何度も何度も、
この関心と熱中から、誰もやったことのないようなやり方で自分のテーマを表現し、
自ら困難を選んで挑戦していく姿を目にします。
私が感じるのは、
こうした学びと成長のプロセスに入っていきやすいか、入っていきにくいかは、
親御さんの価値観と姿勢に大きく左右されるということです。
障害のあるなしとか、知能の高い低いとかはあまり関係ないように思います。
子どもが困難に立ち向かおうとせずにぐずぐずしがちな場合、
親御さんが子どもの関心や熱中よりも、外から子どもに与えられる評価が関わる
課題の方を重要視していることがよくあります。
子どもが自分が何が好きで何が面白いのかもわからないし、気づかないうちに、
次々、するべきことや、喜ぶべき楽しみを与えられているのです。
ベビー向けのサークル活動で楽しそうに振舞うこと、いっしょに参加すること、
絵本を喜んで読んでもらうこと、
他の子のできることは同じように意欲的に取り組むことといった親への過剰な
サービスを赤ちゃんにまで求めてしまいがちなのです。
赤ちゃんは、親へのサービス業をするために生まれてきたわけではありませんよね。
まず、子どもが自分のペースで自分を育てていこうとするのを「待つ」ことが、
子育ての最初の課題です。
子どもが何かに関心を寄せ、ひとつのことに熱中しはじめたとき、
「また、同じことをしている」「ママがしてほしいこれをやってみて」
「~へお出かけしましょう」と忙しく振り回さずに、それに気づいて、認めてあげて、
十分繰り返せるようにサポートしてあげることです。
子どもの興味や関心の中から、困難にチャレンジしていこうとする決意が生まれるまで
忙しく大人の事情でいじくりまわさないことが大事です。
大人がヘリコプターのおもちゃを見せてあげたいときにも、子どもの関心は、
工事現場で道路を掘り返しているおじさんの作業にあるかもしれません。
大人が水泳教室で級が上がるかどうか気にしているときも、子どもの関心は、
雨水の音が何かに似ていて、それを詩の言葉で表現してみたいという思いに
あるかもしれません。
大人が先回りして、子どもができそうな課題を設定しては「いつのまにかできるように
なっていた」という本人不在の成長をプロデュースし続ける限り、
子どもは「自分で興味を持ったことから熱中しはじめて、
そこから困難な課題を見つけだし、自分で設定して乗り越えていく」という
本当の成長に結びつく体験ができません。
↓ は自ら選んだ課題に一生懸命取り組む子どもたちの姿です。
前回の記事で、---
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子どもの「絵本にでてくるものをつくりたい」という思いは、
絵本にでてくる「もの」が欲しいのではなくて、
絵本にでてくるものを通して、自分の想像力を膨らませたり、創造力を駆使したり、
思考力を使ったりしたいということなのだと思います。
-----------------------------
ということを書きました。
それについて、2歳半のAちゃんと3歳3ヶ月のBちゃんのレッスンの
様子から、工作を発展させていく時のヒントについて書かせていただきますね。
子ども自身の発見なり関心なりが初めにあって、子どもは物事に熱心に取り組み始めます。
この日、Aちゃんはひたすらブロックを重ねて高く積んでいました。
どんどん自分の背よりも高くなっていくブロックにご満悦のAちゃん。
ひたすら積む作業が一段落したところで、Aちゃんの物作りが発展するように
サポートすることにしました。
空き箱の裏にブロックをあてて、えんぴつで型を取ります。
こんな風に、実際にものをあててみて、サイズを確かめることは、
幼い子にも見てわかる技術です。
そうしてブロックの形の穴をあけたら、エレベーターのできあがり。
Aちゃんは、エレベーターを上下させて大喜びでした。
エレベーターの天井部分は、階段の隙間に差し込むと、
乗降りを橋渡しする部分になります。
さんざん遊んだAちゃんは、エレベーターを取りはずして、
はさみで切りはじめました。
改良したい部分があったわけではなく、
ただはさみを使いたいだけのようでしたが……。
そのため、エレベーターは最初の形より
あちこち切り目が入った不格好なものになりました。
でも、そのガタガタのエレベーターに、Aちゃんは、それまでにない強い愛着を
抱いていました。自分ではさみを入れたからです。
こんな場面の子どもの情熱を目の当たりにする度、安易に
「大人が思うよりよくするアドバイス」をしてはいけないと感じます。
人形たちを乗せては上げたり下ろしたりを繰り返していました。
Aちゃんは、ままごと道具や人形よりも乗り物やメカニックなものを好む女の子です。
この頃は、お家の敷居の上でビー玉を転がして遊ぶのを一番喜んでいると聞いたので、
ブロックや紙筒でピタゴラ装置の遊びを楽しむことにしました。
↑前の記事で紹介した、ビー玉を集めながらレールを上っていく道具。
紙筒をすべってきたビー玉を、紙コップで受けるコーナーを作りました。
紙コップには、ひもが貼ってあります。
ビー玉が入った後で、ブロックの塔にひっかけてあるひもを引くと
コップのエレベーターが上がりはじめます。
ひもを引くと、寝かせてあったコップが起き上がって
高いところにあがっていく様は、Aちゃんの強い興味を引き出したようです。
自分から進んで、コップにひもを貼ってエレベーターをもうひとつ
作ろうとしていました。
そこで、今度は、ひもの両端にコップをつけて、ビー玉が入ると
上って行くエレベーターを作りました。
夢中になって、ビー玉をコップに入れるAちゃん。
この工作で発展させているのは、
「高さの利用」「傾きの利用」「重さの利用」「形の利用」などです。
次回に続きます。
年中や年長になると、文字や数字に対して敏感になってきます。
ブロックをするにしろ、ごっこをするにしろ、
文字や数字を取り入れるようにすると
遊びが盛り上がるし、文字や数字に対する親しみも湧きます。
遊びに取り入れる方法をいくつか教えると、子どもたちは出かける際も
駅や遊園地の料金表、レストランのメニュー、
禁止の張り紙、広告などさまざまものに興味を抱くようになります。
自分から積極的に文字や数字を遊びに取り入れるようにもなります。
文字や数字を書くことができない子たちには、
大人が子どもの要望に応じて書いてあげるといいです。
自分も書いてみたいと思うようになります。
それでは、文字や数字を遊びに取り入れるためのアイデアをいくつか紹介しますね。
<駅の電飾掲示版のテロップ>
紙の帯を作って文字を書いてブロックに巻くと、
簡単に電飾掲示版を作ることができます。
<映画館や博物館のチケットやお知らせ>
<パンフレット>
<お手紙><絵本>
<メニュー表>
↓の写真はメニュー表ではなく
レストランで注文を受ける機械を手作りしたものですが、
こうしたものといっしょにメニュー表も作ると楽しいです。
<絵本の世界に出てくるものを取り入れる>
<おまけ>
ついでに年中さんたちのレッスンの様子をコピペしておきますね。
年中のAくん、Bくん、Cくんの算数タイムの様子です。
Aくんが、お弁当箱におもちゃの食材を詰めて、
「先生、けいさつのごはんって書いて!」と言ってきました。
言われるままに「けいさつのごはん」と書くと、
Aくんは、「ぼく、『の』の字、書けるよ。」と言って、『の』と書きました。
Bくんも、Cくんも、「ぼくも」「ぼくも」と、『の』を書きました。
わたしが、「けいさつの の の のごはん」とみんなの書いた『の』も
指でなぞりながら読むと、おふざけ大好きのAくんに大ヒット。
息ができているのか心配になるほど笑い転げてから、
「もっともっと、書いて!」とお願いされました。
ちょうど、『の』が多すぎる文章で笑った後ですから、
次に『のぬき』の手紙……というのを書いてあげました。『の』の字だけ抜かすと、
お手紙が現れます。真剣に『の』の字にバツをしています。
どの子も文字にとても興味がある時期のようで、「ぼくにも、のぬきの手紙書いて!」
「ぼくにも」とみんな必死です
魚釣り遊びをする時、魚の色ごとに得点を考えてもらいました。
といっても、ある程度、釣った後で得点を考えたので、
どの子も自分が持っている色の得点を大きい数にしようとしていました。
カラスのゲーム。
このゲームでも果物の色ごとに得点を決めることにしました。
大きな数を言うのを心から楽しんでいたので、
「6点のが1つと7点のが1つと100点のがふたつ取れたよ」と報告だけ
してもらって計算をするのはやめました。
子どもが数の何に興味を持っているのか、に応じて、ゲームのルールを調整するのは
大切だと思っています。
ビー玉コースター作りやひもを引っ張ると回る回転すし、
同じしかけでバッティングマシーンなどを作りました。
学ぶのが上手になるには、『何かを得る』より、『与え方を学ぶ』ことが、一番の近道だと感じているのです。
子どもがお手伝いが好きなのは、
自分の持っている力をどんどん使って
他人に与えていくことに躊躇しないし、それをうれしく感じるからです。
子どもは自分の力を他の人ために使うことで
自己効力感を得ます。
みんなから、自分が役に立つ有益な存在だというフィードバックをもらって
自分の価値を上げるのです。
他の人に与えながら
自分の中からどんどん力を引き出していくコツがわかってくるものです。
霊長類を長年研究してきた方によれば、
「共感」は人間の「本能」なのだそうです。
赤ちゃんは他の赤ちゃんの泣き声に同調して、自分も泣きます。
人は生まれたときから、
他者と自分との距離を縮めたいという衝動を持っているそうです。
成長すると他者を思いやりたいという衝動が現われてくるのだとか。
こうした共感の本能を持っている子どもは、
個人的な自分の能力を高めるということより、
自分の力を人との交流の中で使っていくことに熱心です。
型にはまった「お手伝い」や「人助け」ではなくて、
その子その子の個性にあった内容で
自分の力を他の誰かのために使っているとき
とてもいきいきしています。
「フットワークが軽くて、何かを取りにいくのは喜んでする」とか
「面倒見が良くて自分でできるようになったことを、できない子に喜んで教えてあげる」とか
「大きな声でみんなに説明する係を喜んでする」とか、
子どもによって自分を生かせる場面は異なります。
(幼いときは、内向的で神経質な子や
発達障害があって人との交流を避ける子もいますが、
そうした子も、たいてい小学生前後になると、
どんなお手伝いも喜んでするようになってくるので心配はいりません。)
そのように「他者を思いやりたい」という本能から、
自分の力を他の人ために使っているとき
子どもは自然にできることを増やしていきます。
『与え方を学ぶ』と、子どもが伸びる理由は、
それだけではありません。
幼い子にすると、目で見えるのは「自分」ではなくて、外にいる「誰か」ですよね。
ですから、「自分」をイメージして何かするより、
「誰か」に向かって何かしている時の方がわかりやすくて、
行動しやすいのです。
自分がしたことも、結果も、改善点も
目で見て理解しやすいのです。
親は、子どもを見て、どのように行動すべきか、
あれこれ教えたり、指示したり、良くない行動を直させようとするのですが、
親の目には子どもが映っていても、
子どもの目には自分自身が見えません。
ですから、そうした干渉は、子どもにすれば自分が何を求められているかわからない場合がよくあるのです。
子どもにとってわかりやすくて学びやすい活動は、
★ 自分から何かやってみて、探索するのでも、おもちゃで遊ぶのでも何でもいいのですが……その結果どうなったかから学ぶことと、
★ 自分から他人に何かやってみて、相手のすることや、相手が返してくるものから学ぶこと
です。
子どもにすれば、親の指示のもと、
「親が自分に期待しているもの」を察して、
その言葉通りに、(全体像が見えていない)自分を動かすというのは
至難の業です。
ですから子どもをしょっちゅう構って干渉していると、
ぼーっとしたまま自分からは何もしようとしないか、
大人の顔色ばかりうかがって緊張しているか、
大人の声かけを無視して好き勝手に行動するかのどれかの行動を取りがちです。
「自分」が、間違えずに大人を満足するアウトプットをしなくてはならない……という縛りから解放されて、
「他人に何かしてあげる」という自由に自分から行動する場面では、
子どもたちはリラックスしていて、一生懸命動きます。
学んだことを復習するときも、
わからない子に教えてあげたり、
丸付けのお手伝いをしたりする方がしっかり身につくことが多いのです。
具体的にこうしたことをすると、相手からこういうフィードバックが返ってくるという事実は、
目で見えない言葉とちがって、
子どもにとってわかりやすく学びやすいのです。
子どもに課題を与えるときに、
それが誰かの役に立つものになるように
ちょっとした工夫をすることで
子どもはどんどん積極的になって、より自分の力を発揮しようとします。
「こういう風にしたい!」という思いからスタートする物作りは
苦労したわりに仕上がりはイマイチ……という結果に終わることも多々あります。
それこそ「こういう物を作りましょう」と
最初から「できあがるもの」がわかっているキットで作ったり、
大人の指導のもとで作ったりした方が、作品としたら見栄えのいい価値が
ありそうなものができあがるのです。
それを痛烈に感じるのは、
作品として何を作ったのやらよくわからない物ができあがる時です。
小学3年生の★ちゃんの作品。
コースターにひたすらきれいな柄のマスキングテープやビニールテープを
貼りつけただけ……という作品です。
このマスキングテープ……
「高価なものだからね!貴重なものだから、大事に使ってちょうだいね」と
わたしが口うるさく注意するのを聞いて、よりいっそう無駄使い熱に火がついたのか、
★ちゃん、せっせせっせとテープを貼りまくって作っていました。
(★ちゃん、かなりのいたずらっ子です)
★ちゃんは感覚が優れている子で、できあがり作品をイメージして作るというより
製作過程の素材との触れ合いを楽しむような作り方をする子です。
わたしもほんの少しで300円もするテープをこれだけ無駄使いさせるからには、
その場にいる子全員に、円の面積をテープで貼って埋めていくと、いかほど必要か
しっかり体感してもらいました。
ついでの単位量あたりの計算も。
このくらい「しめしめ無駄使いしてやったぞ」という経験をすると、
「3メートル300円のテープを1キロメートルの道にまっすぐ貼っていきます。
テープは何円分いりますか?」
なんて問題もリアルにイメージすることができるでしょう。
こうした作品を工作と呼べるのかどうか……は別にして、
物作りがその後に学ぶ算数とつながっているのは確かです。
また、頭の使い方を習得するのにも役立っています。
同じ日、★ちゃんはコースターにビーズやスパンコールをつけて
アクセサリー類を作る方法で画期的なアイデアを発見しました。
これまで、コースターに飾りをつける子たちはボンドかテープで
つけていました。
が、★ちゃんは、こよりにビーズやスパンコールを通してから、
コースターに目打ちで穴をあけて、こよりで飾りを取り付けるという方法を
考え出したのです。
この作り方だとボタンなどもはずれにくいし、
ビーズの連なっていくデザインの美しさを表現しやすいはずです。
作品としての「できあがり」の良し悪しだけでなく、
製作工程について独創的なアイデアを練ることも大切なことを
★ちゃんの作品を見せながら子どもたちに伝えました。
少し話が脱線してしまいましたが……
わたしが教室で提供したいと思っているのは、次のようなことです。
★ 創造力や想像力を使って遊んだり、何かしたりすることへの
ハードルを下げること。
創造力や想像力を使う遊びは、やったことがないと、
普段の生活の中では「やってみよう」という気力が起きないものです。
特に現代の子どもたちのように、遊びを伝承していく子どもの集団がなかったり、
遊び時間が細切れだったりすると、いつも受動的な遊びに終始しがちですよね。
教室では気軽に創造力や想像力を使って遊ぶさまざまな体験を用意して、
そうしたことに対するフットワークを軽くする……というか、
「めんどくさい~」という気持ちより、「面白そう」という気持ちの方が
勝つようにしています。
★ 「こういう風にしたい!」という頭の中のひらめきやイメージを、
形にしていく作業につきあうこと。
「こんなことしてみたいな」「これ面白そう」「こうしてみたらどうかな」と……
子どもたちは、毎日いろんなことをひらめいたり思いついたりしていることと思います。
でもそうした頭の中のイメージを何らかの形でアウトプットしてみる経験は
とても少ないのではないでしょうか。
教室では、そうした子どもの声や思いを目に見える形にしていく作業を
手助けするようにしていますが、これはいざお家でしてあげようとすると
なかなか難しいんじゃないかな、と思います。
というのも「ああじゃない」「こうじゃない」とさんざん話し合った末、
「こうでもない」「ああでもない」と頭を絞り、
最終的にはあまり生産的にも価値があるようにも見えないような何かが
アウトプットされることが多いからです。
でもそうした過程(話合いや頭を絞ること)をめんどうがらずに楽しめるように
なっていってくれるとうれしいなと思っています。
★ 自分たちがしている日常の活動と学校で習ったり、
受験のために訓練したりする学習内容は重なっていることに気づくように配慮する。
紙や布を「どうカットして、かばんを作ろうかな」と考えることは、
面積について考えることと同じだということ。
「これ100グラム、~円もしたのよ。もったいないわね」と注意されることは、
単位量あたりの計算で学ぶこととつながっていること。
日常のひとこまの中に潜む数学的な概念にスポットライトを当てることで、
算数や数学の問題に親しみや興味が湧くように配慮しています。
また、逆に、日常に潜む数学的な概念に気づくことで、普段の何気ない物事について
頭を使って考えてみるきっかけも作っています。
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基本的に虹色教室でしていることは、「子どもに付き合う」ということです。
特に、子どもが頭の中の世界(イメージの世界)と具体的な外の世界を行き来するのに
根気よく付き合っていくことにつきます。
つまずいたら少しだけ手をかしながら、道中で「これを今、教えておこう」と
思うことはわかりやすい言葉にして伝えます。
算数の問題を解いている時にわたしがするのは、解き方を教えることではありません。
「どうやって解いたらいいかわからないな」と思った時、どこを見たらいいのか、
何をしたらいいのか、複雑な物事をシンプルに整理しなおすにはどうすれないいのか、
「できない、わからない」と混乱する気持ちをどうやって落ち着かせたらいいのか、
といった頭や目や手の使い方です。
また「自力で何かやってみる、自分で一歩前に踏み出してみる」ことへのハードルを
下げることや恐れを取り除くことです。
話がずいぶん脱線していたのですが、
2歳9ヶ月~3歳1ヶ月までの★くん、☆ちゃん、●くん、○ちゃんの
レッスンの様子の続きです。
●くんが最近のマイブームを再現したり、
線路の切り替えスイッチに感激したのをきっかけに、
ブロックで作った「2方向にビー玉が分かれて転がっていく」仕組みで遊んでいる間に、
他の子たちは同じ場を共有しながらも、別のものに興味を持って、
別の遊び方をしていました。
★くんは、↓の写真の中央のプラスチックのビー玉スロープが気になるようで、
それを手に持ったまま、積み木で道路を作っていました。
わたしが近づくと、オレンジ色の迷路のようなスロープを指でなぞりながら、
「これ何?これ何?」とたずねます。
わたしは「それは、ビー玉を転がして遊ぶものよ。★くん。ビー玉、転がしてみる?」
とたずねてから、★くんのすぐ近くにいる赤ちゃんの妹ちゃんに目を移して、
「でも、妹ちゃんが口に入れたら危ないかもね……」と言い足しました。
横合いから★くんのお母さんが、「家でも★がビー玉で遊びたがるんですけど、
下の子が口にしたらいけないんで触らせていないんですよ」とおっしゃいました。
そこで、
「★くん、向こうでピタゴラスイッチみたいにビー玉がころころ転がっていくの
作って遊ぼうか?」と誘って、お母さんと妹ちゃんから離れた場所にビー玉通路や
穴がある積み木を出してあげました。
★くんは知力がしっかりした語彙の豊富な子です。
内向的な性質で、他の子が興味を持っているものにすぐに関心を示すタイプではなく
自分の心が動いたひとつの事柄を深く探求したいタイプの子です。
自由に遊びを広げていくよりも、
自分の中に生じた目的に向かって、ちょっとしつこいかな、というほど
試行錯誤を繰り返すような遊びをします。
大人が遊びの手本を見せてあげる際に、
子どものそうした個性的な性質を把握していると、こちらの提案するものが、
子どもの中で眠っていた潜在的な力が表現されるようになっていったり、
自分のやり方にこだわりがちな子が他の人の提案を受け入れたり、
お互いに気持ちを共有しあってする遊びを楽しめるようになってきます。
●くんが喜んでいた
「もうちょっとでうまくいきそうだけど、知恵を絞らないと
なかなか上手くいかない課題」です。
●くんが最初に興味を抱いたオレンジ色のスロープを中心に、
少しだけ他のおもちゃも取り入れています。
子どもによったら、気持ちが移りやすく、
次から次へと新しいものに目がいく子もいるし、
ひとつのことに興味を持ちだすと、なかなか次に移れない子もいます。
●くんは気持ちを切り替えるのが苦手という短所と同時に
それと表裏一体でもある「ひとつの物事への探究心を持続し続けること」が
得意という長所があります。
また、遊び方の幅が少し狭いという短所と同時にそれと表裏一体でもある
「目的や課題をはっきりさせて、何かをやりとげるまで努力し、
推測したり、理由を考えたりすること」を好むという長所も持っています。
●くんは、ビー玉通路のある積み木をオレンジのスロープの中央部分に
設置するのですが、
ビー玉を転がすたびに、通路の落ちずに、片方の端から転がり出てしまうことが
不思議でならないようでした。
大人にすると、スロープの下部の穴からビー玉が落ちるのですから、
その下に通路を置くのがあたり前のように感じられるでしょうか、
2歳後半の子にすると、
まるでビー玉が意志を持って、脱走していくかのように見えもするのです。
でも、何度も何度も、繰り返しビー玉を転がしてみることで、
物の性質に対する理解が高まり、どうやったら問題を解決できるのか
自分で気づきます。
●くんは、この遊びに長い時間関わって、上手くいった時は、
全身で喜びを表していました。
こうしたビー玉スロープのおもちゃで遊ぶにしても、
積み木やブロックで遊ぶにしても、
大人が子どもに新しい遊びを提案したり、新しい形で頭を使う活動に誘ったりする時は、
その子の性質や長所と短所を感受しながら、
子どもの自発的で能動的な態度を引き出すように接するのが大事だと感じています。
もしそうしたことが難しいなら、
働きかける前に、見守ったり、待ったり、子どもの声によく耳を傾けるように
気をつけるだけでいいのかもしれません。
それには、子どもと過ごす場や時間がひとつの価値観で固定された
柔軟性のないものにならないよう、
気をつける必要があるのかもしれしれません。
教室で乳幼児と過ごす時も、小学生と接する時も、
メインとなる価値観を大切にしながらも
価値観を固定しないようにすることが、遊びのフォーローにおいても
勉強の手助けにおいても大事だな、と感じています。
2歳9ヶ月~3歳1ヶ月までの★くん、☆ちゃん、●くん、○ちゃんのといった
とても幼い子たちのレッスンを例に挙げて、説明させてくださいね。
3歳1ヶ月の●くんは、大のお寺好き。図鑑を開いて、弥勒菩薩や鳳凰の説明を
熱心にしてくれます。
そこで、積み木でお寺を作って、紙に描いた弥勒菩薩を飾ってあげると、
とても喜んで、「鳳凰がいるよ」と催促。
それでちょっと適当なのですが、鳳凰も描いて、飾れるように棒をつけてあげると
すごくうれしそうでした。
子どもってとても個性的で、好みも違えば、長所も短所も、
考えるプロセスも技能の学び方もそれぞれ違います。
3歳の子の積み木遊びだから、この積み方、こういう遊び方と固定せずに、
それぞれの「好き」を取り入れると、
いっしょにいるお友だちにしても、「●くん、ああいうもの好きなんだな」と
自分とは違う好みに対して興味が湧きますし、その子の関心の範囲も広がります。
大人が事前に用意できるどんなに洗練されたアイデアも、
今現在のその子の内面を占めているものより心に響くことはないはずです。
●くん、お寺の他にも、「おすもう」が今のブームらしくて、
何度もしこを踏むのを披露してくれました。
この日、●くんが教室で気にかけていたのは、写真の切り替えスイッチ。
「これなあに?これなあに?」と不思議がるので、
「こっちの線路~あっちの線路~と電車が行くよ」と切りかえの先に二つに分かれた
線路を取りつけてあげると、パァッと顔を輝かせて喜んでいました。
そこで、ブロックの板で、ビー玉を転がすとふたつの道に分かれて滑っていくように
してあげると興味しんしん。
そんな●くんを見て、『コんガらガっち どっちにすすむ?の本』を読んであげたら
喜ぶんじゃないかな、と感じました。
先に大人の側に既存の価値があって、
それに添って子どもを導いていこうというもくろみが幅をきかせていると、
「子どもがその時、興味を抱いたこと」を出発点にして、
遊びや学びを展開していくことはできません。
子どもは自分の興味に引っかかった時や自分の個性的な好みが外の世界と
響きあった時に、創造的に遊びを作りだすし、たくさんのことを学ぶのです。
それは幼い子だけに限ったことではないはずです。
内田樹氏が、ご自身のブログで、こんなことを書いておられました。
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日本の教育をダメにした根本は
この「シラバス」的なものの瀰漫にあると私は思っている。
シラバスというのは平たく言えば「授業計画」のことである。(略)
今年度の私の採点基準は「そのような知的な構えをとることが、あなた自身の
知的パフォーマンスを向上させるか?」という問いのかたちで立てられている。
もちろん、ひとりひとり構えは違う。
恭順で謙抑的になることで知的に向上する学生もいるし、反抗的で懐疑的になることで
知的に向上する学生もいるし、知識を詰め込むことで向上する学生もいるし、
詰め込みすぎた知識を『抜く』ことで向上する学生もいる。
そんなの人それぞれであるし、同一人物であっても春先と冬の終わりでは
こちらの着眼点ががらりと変わることもある。(略)
教育研究というのは「なまもの」相手の商売である。どう展開するのか予断を許さない。
日本の教育がここまでダメになった最大の理由はこの「教育は『なまもの』である」
という常識を教育関係者がみんな忘れてしまったことに起因している。
彼らが「工場生産」のメタファーに毒されて、適切なマニュアルに従って、
適切な練度を備えた教師が行えば、教育的アウトカムとして標準的な質の子どもたちが
「量産」できるはずだと考えたせいで、
日本の子どもたちは「こんなふう」になってしまった。
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教育は「なまもの」という言葉、1歳の子の相手をしていても、
中学受験を目指している子の算数を見ていても、
もう大人の域にいる娘や息子と議論を交わす時にもしみじみと実感するものです。
「なまもの」相手に価値観を固定できないのは、確かですよね。
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先に取り上げた内田樹氏の元の文章を息子に見せて意見を求めました。
というのも、数日前、息子が、「学校で勉強する意欲が削がれていく一番の原因は、
たいていどの先生も疲労してきっていて常時イライラしていることだったから、
先生の雑務の量を少し減らすだけでも勉強しやすい雰囲気が生まれるんじゃないかな?」
といった話をしていたのですが、学校の問題にはあまりにも多くのことが
絡まり合っているようで、話題にするのに気乗りしないわたしが、
あいまいに口を濁してしてそのままになっていたのです。
それが心にくすぶっていたので、
「この文章、どう思う?★が言ってたこと、大学のような場なら少しずつ改善可能
なのかもね。それがとても叶わないような風潮があっての文でしょうけどね」
とたずねました。
『内田樹の研究室』の「書類書くのはイヤだよう」という記事にさっと目を通した
息子は、「あ~わかる、わかる」とうなずいてから、
「最近、リスクを意識化する世界って文章を読んだんだけど……
それはインフルエンザについての話題だったんだけどさ。
この文(内田氏の文)を読むと、教育もリスクの問題でもあるんだなって感じたよ。
リスクを意識化する世界って、
もともと人は生産する側で何かを生み出す存在だったんだけど、
成長した社会では、何か新しい物を作りだすことで生じるリスクを負うよりも、
すでに作られているものを失うかもしれないリスクを避けるのに力を注ぐことになる
といったことが書かれていたんだ。
学校教育にしても、どっちがよりよい教育になるか、
生徒の成長によいものをもたらすか、といったことより、どっちが危ない道を
進むことになるか、というリスク回避の考えが主になっているんだろうな」
それを聞いたわたしは、ずいぶん前にいただいでずっと気になっていた
コメントが心に浮かびました。
雑誌を読んで「えっ」と思うという記事にいただいた次のようなコメントです。
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うなずきながら読みました。
うちの子は、算数の難問が大好きで、家では自分で最レベに嬉々として取り組んでいます。
学校では算数は退屈、計算テストはあっという間に終わるというので、
「終わった後は何してるの?」と聞くと、他の子がテストしている間の30分くらい、
学級文庫を読んでいいことになっているとのこと。
「でも同じ絵本ばかりで飽きた」というので、先生に連絡帳で「違う本を入れてもらえ
ませんか?少し難しい本や図鑑など」とお願いしましたが、
クラスの所有物だから一人のために変えることはできないとのお返事。
学級文庫の一番のヘビーユーザーのために1冊か2冊増やすだけでいいのに、
と納得いきません。できない子のためには工夫を色々されていますが、
できる子のための配慮はしない、というのが公立小学校の原則らしいです
(先生がそのようにおっしゃいました 涙)。
凹凸があっても、子供に合った方法で長所を伸ばす、という方針でやってくだされば
いいのにと思うのです。
もうすぐ、家庭訪問なので、先生に直接お話するチャンスです。
でも、どのように話を進めれば分かってもらえるか、悩んでいます。
なおみせんせい、先生との対話方法、アドバイスがあれば、教えてください。
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わたしは息子に、コメントの内容を簡単に説明してから、
「今の学校の問題は、親たちの要望が、もっともっと……と学校の先生に何かを求める
ことによって起こっているようにも感じているから、
コメントを記事で取り上げることはできなかったんだけど……。でも、同時に
この方のおっしゃっていることはよくわかるのよね。
こうした普通の声が、わが子への特別な対応を求めるモンスターペアレント的な
親の声として響くほどに、学校が四方からの多くの声に辟易しているのかと、
ちょっと気持ちが塞いだわ。★が言っていたように、先生の雑務が多すぎるというのは
あるんでしょうね。
それと、もし、ひとりの子を特別扱いしたら、後々、面倒なことになるかも
しれないという不安が大きいのかも。
お母さんが小学生の頃の読書の普及に熱心だった先生方なら、
こうした要望を、子どもの読書の幅が広がっていくこととして喜んで受け入れた
でしょうし、お母さんが先生の立場なら、そうした声がなくても、
本を手にしている子たちにとって、教室にある本が満足感をもたらしてくれているか、
さらなる読書への意欲を育てているかということは毎日のように気にかけて
いるでしょうしね。
といっても、今、教師の職に就いている方々がこなしている仕事をする自信なんて
自分にはないけど。」
それを聞いた息子は、「読書の幅が広がって子どもの能力が伸びることは、
生産的で新しい価値が生み出されることにもつながるけれど、
そこでも、そうして教育によって何か作りだすより、リスク回避の考えが
強いんだろうな。先生の労働量が増えるとか、他の子や親から文句が出るとか、
もっと別の要望があるかもしれないとか、学校が想定している目標の枠から
はずれるとか……。
内田樹先生が教育はなまものって書いていたけど、
今は教育をプロジェクトとして捉えている人が多いよね。
やっぱり教育はなまもので、人の人生に組み込まれた一部で、友だちとか
人生観とかいったものと同じように、均一に与えて、均一の結果を得ようとすれば、
いろいろ問題が生じてくるんだと思うよ。
自然に友だちができるのはうれしくても、友だちプロジェクトで友だちを
作りたいとは思わないよね。
教育も人としての重要なものを担っているから、リスクを伴いながらも、
そこから創造される価値に目を向けていけるような余裕が、学校には必要なんだろうな」
算数オリンピックに参加することによる弊害はないのでしょうか の記事に、
(記事でコメントを取り上げたお返事としてなのですが)
次のようなコメントをいただきました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
草創期の学校の卒業生から世界的に活躍する人が出るのは、
価値観を固定しない教育をされてるからなのですね。
以前のエントリーにおける「未完成な親」や、
大人が手を出さない「未完成な教育システムの塾」が子供を伸ばす要因なのでしょうか。
逆に進学塾は、完成した教育でなければ子供が合格しませんから、
長期に通うことは不適なのかもしれませんね。
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いただいたコメントにある
「価値観を固定しない教育」や「未完成な親」というのものが、
(言葉の解釈が重要ではあるけれど)
わたしも子どもの知力と精神力と個性的な才能の伸びと大きく関わってくる
んじゃないかと感じています。
コメントにある「子どもの近くにいる大人に必要な隙ってどんなもの?」とは、
リンク先の記事のことです。
この「未完成」という言葉に、???とクエスチョンマークがいっぱい
頭の中に浮かんだ方もおられると思います。
そこで、最近、教室で子どもと接した出来事を取り上げて、
「価値観を固定しないこと」や「未完成」であることの大切さについて
言葉にしてみたいと考えているのですが……。
その前に親の接し方の未完成さや、子どもの可動領域に余白があることが、
子どもの心と人生にもたらす価値について綴った
『自己肯定感は褒めると上がる?』という記事を紹介させてください。
(この記事の中で、未熟と未完成という言葉は異なる意味で使っています)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ブログで自己肯定感の話を書くと、
「(自己肯定感を上げるには)もっと褒めるといいんでしょうか?」
という質問をいただくことが多々あります。
そのたびに、「褒める」というのとはちょっとちがうなぁ……と思いつつも
ひとことで、「これこれこういうことしたら上がるものですよ」とアドバイスできる
ものでもなく、もやもやした思いをくすぶらせることがあります。
そこで、わたしが考える「自己肯定感」が上がると思われる接し方と、
「自己肯定感」が下がると思われる接し方について、
言葉にして整理しておきたくなりました。
特に、子どもの自己肯定感を上げようと思って褒めているのに、
「褒める」行為自体が、子どもの自己肯定感を下げているように見えるケースについて
言語化できるといいな、と思っています。
3歳になりたての子らというのは、
「こういうことがしたいんだ。自分でやってやるんだ!」と
自分の動きを自分でコントロールしたい気持ちが持続しはじめるものの、
「何をどんなふうにしたいのか」ということは後回しというか、
本人にするとどうでもいいことだったりします。
周囲にすると、一生懸命しているところ、口出しするのも何だけど、
「ちょっと紙の使い方もったいないんじゃない?」
「新聞紙使って工作してごらん」なんてあれこれ口出ししたくなる時です。
大人からちょっとあれこれ言われても、
それまで自分や自分のすることに自信が育ってきている子は、
大人のアドバイスもそこそこ聞きいれつつ、
「大丈夫だよ。もうこれで、こうちゃく出来上がりだよ。」と
自分のしてきたことを否定しないでいいような切り返しで決着するものです。
お姉ちゃんから手厳しい追及を受けてもへっちゃらで、
ぼくが作っていたのは「○○!」と、おそらく、できあがってものを見て
後付けでひらめいた名前を自信満々に言います。
子どもの自己肯定感というのは、自分で自由にできる余白というか、
実際に動く場面でも、想像の世界においても、自分で動いて失敗してもOKという
可動領域がしっかり確保されているかどうかに大きく関わっているように思うのです。
大人が子どもの領域へしょっちゅう侵入していたり、
逆に「子ども」という存在を特別視したりお客様扱いしたりして祭り上げて、
子どもの周りに地に足をつけている大人が存在しなくなったりすることも、
子どもが確かな自分を感じられなくなる、
つまり自分に自信を持てなくなる原因のひとつとなるのではないでしょうか。
大人のアドバイスに過剰反応し過ぎて激しいかんしゃくに発展してしまう子も、
即座に大人の指示に従って、「自分のそれまでしていたこともこれからしようと
していたこと」も帳消しにしてしまう子も、
「ママして~」とすること自体放棄してしまう子も、ちょっとしたことをきっかけに
自信や自分への信頼感が揺らぎやすい子なのかもしれません。
子どもはそうした揺らぎのなかで成長していきますから、
こういう反応をするから、自己肯定感が低いとか高いとか、
気にかける必要はないのでしょう。
でも、大人の関わり方の加減次第で、日常の行為のひとつひとつが、
子どもを勇気づけ、自己肯定感を高めていくきっかけになることも事実だと思っています。
それは子どものすることなすことを「褒める」というのとは、異なります。
幼い子たちのすることは、たいていでたらめでめちゃくちゃですから、
大人が「褒めなきゃ、褒めなきゃ」と思っていると、
心にないような嘘をつくことになるか、子どもが一番自信満々でやった部分は無視して、
大人が言葉でコントロールしてそれなりの形にした部分だけ、
「すごい、すごい」と褒めることになりかねません。
つまり、
「自己肯定感を上げるために褒めなきゃ、褒めなきゃ」と思って褒めているうちに、
褒め言葉が、大人の期待通りに子どもを動かすための
見えないニンジンになってしまうことが非常に多いのです。
「子どもの自己肯定感を高めるため」という名目で、
子どもに何かできるようにさせようとあせっている時、
実は、周囲の人の評価を大人である自分が欲していて、
「もっと褒めてもらいたい」「もっと認めてもらいたい」という飢餓感が
その動機に取って変わらないか、自分の心を見はっておくことが大切です。
以前、「親自身が『子ども』から『大人』に変化できていないと、数値で子どもを
管理したがるのでは?」という辛口の記事を書いたことがあります。
子どもの自己肯定感の高低は、その記事で取りあげた内容と密接に関わっているように
捉えています。
↓「親自身が『子ども』から『大人』に変化できていないと、
数値で子どもを管理したがるのでは?」
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『10代の子をもつ親が知っておきたいこと』水島広子/紀伊国屋書店
(この著書でクロニンジャーの「七因子モデル」を知りました。)という著書の中で、
「あれっ?」と感じる興味深い話を目にしました。
思春期の子を持つ親御さん向けの本ですが、幼児を育てている方にとっても
とても大切な話だと感じたので、簡単に要約して紹介しますね。
思春期の心の病である拒食症の治療の中心は、
対人関係療法で言うところの「役割の変化」になるそうです。
思春期の課題を消化して、「子どものやり方」から、「大人のやり方」に変化を
遂げることが病の治癒につながるそうです。
「子どものやり方」というのは、「何でも自分の努力で解決する」というものです。
一方、「大人のやり方」は、「必要であれば他人の力を借りよう」と
考えられることです。
成績が上位になれない、という場合も、一人でさらに努力して自分を追い込んでいくの
ではなく、いろいろな人生があることを知って、
自分の存在を社会の中で相対化できるようになることです。
「何でも自分の努力で解決する、のが『子どものやり方』だなんておかしい……
大人になっていくということは、他人に頼らず、自分で責任を持っていろんなことを
こなせるようになることではないの?」と感じた方がいらっしゃるかもしれません。
世の中は、矛盾だらけで無秩序なところです。
「がんばったから、幸せになる」とか「努力に比例して成功する」という単純なルールで
成り立っているわけではないですよね。
すべての課題を自分の責任でこなそうとする人は、
「秩序」によって安定するタイプが多いので、
「努力すれば成績が得られる」「親切にすればすかれる」というようなルールで世の中が
動いていないと不安になります。
そうしたタイプの人が、自分の秩序を乱す出来事に直面すると、パニックを起します。
そのパニックへの対処のひとつの形が拒食症という病なのだそうです。
「体重」は、食べなければやせるという体重計の数字にきちんと表れるので、
達成感と安心感が得られます。
思春期には、「自分の限界を知るということ」という重要な課題があります。
努力すれば何でもできるようになるわけではない。
がんばればみんなが褒めてくれるわけではない。
運命や環境をすべて自分の力でコントロールできるわけではないと認めること。
その上で、自分にできる範囲で全力をつくせるようになることが、
大人になるための思春期の課題です。
「人間は努力すれば何でもできるし、そもそも人間は学力だけで評価される」
という狭い考え方は「子ども」としての役割から生じるものです。
大人になるということは、
「人間にはいろいろな限界があり、その中で支えあっていくことが人生」という
大人としての役割で考えることができるようになることなのですね。
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『10代の子をもつ親が知っておきたいこと』で、
拒食症をはじめとする思春期の心の病についての話を目にするうち、
ちょっと怖くなったことがありました。
子育て中の親の中には、思春期の課題を超えそびれて、
まだ「長い思春期」の最中にいる方も多いです。
機能不全の家庭に育った私も、ひとりめの娘の子育てでは、
大人になれていない心のまま良かれと思って子どもの自尊心を蝕むようなことを
平気でしていました。
「子ども」の心のままで、心の病を引き起こすような世界観のもとで
子育てをしていると、目に見える安心感や数値上の上昇を確認することを求めます。
「努力すれば成績が得られる」「親切にすれば好かれる」というような
安心できる秩序が守られている世界をお金を払ってでも得ようとします。
それが教育産業が作り上げた、人工的な架空の世界であったとしても、
それを全世界のように錯覚した状態で子育てをしたいと願います。
子育ては、「すべてを自分の力でコントロールしたいという」、
現実にはありえない考え方がはびこりやすい場です。
なぜなら「自分で努力はしたくないけれど、コントロールして数値の確認をする
作業だけをしていたい」という、本当は現実の世界で叶えられてはいけない、
病特有の執拗な願いを簡単に実現してしまうからです。
おまけに、教育産業の多くが、そうした親の考えを正当化して、さらに煽りがちです。
教育産業が、儲かることを最優先に考えるのは、
ビジネスだからしょうがない部分もあります。
利用する側が、親にとっての最優先課題は、
ビジネスのそれと重ならない場合が多いことを自覚することが大切だと思います。
子どもの幸不幸は、どんな能力の親のもとに生まれたかよりも、
ちゃんと思春期の自分の課題を済ませて、「大人」になっている親に育てられているか
どうかで決まるように感じています。
子どもの未来も、「大人」に育てられているかどうかで、
大きく変わってくるのではないでしょうか?
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↑ 先の記事は自己肯定感について説明するために書いたものではありません。
わたしは子どもを外の評価の体系で測っては、数値で確認しながら育てていくことが、
自己肯定感が下がる原因と直にイコールで結ばれると考えているわけでもありません。
けれども、そうした育て方に代表される大人が、
自分の狭い世界観で自分が見たいものを子どもに投げかけて、
子どものある一面には関心をしめし、別の一面は(自分の価値観と合わないからという
理由で)無視するような育て方が、
自己肯定感を育む土壌の貧しさにつながるんじゃないかな、とは思っています。
ですから、毎日、子どもをシャワーをあびせるごとく褒めて育てたところで、
親が子どものなかに見たいものを褒め、認めたくないものを無視して褒めているとすれば、
そうした褒め言葉は親の価値観の押しつけでしかなく、
どこかで子どもを否定し阻害している行為ともつながりやすいと感じています。