<内向的直観タイプのわかりにくさについて>という記事が
よく読まれているので紹介します。
この子は感覚、感情、直観、思考の
教室でひとりひとりの子とじっくり関わっていると
どれを主にしてものを考えていくのかよく見えてきます。
とはいえ、見えやすいタイプ、見えにくいタイプというのはあって、
子どもの姿の一部分だけ捉えて、「この子は○○タイプだろう」と決め付けても
あまり意味はないと感じています。
「こういう面があるから、この子は○○タイプじゃないかな」という印象は持っても、
「やっぱり、○○タイプなんだろうな」と実感するのは、何年もの期間、遊んだり、物を作ったり、考えたり、
おしゃべりしたりする姿を見守り続けた後となります。
「この子は、○○タイプじゃないかな」と思っても、関わる時間が増えるにつれて、
「最初の印象とは別の○○タイプの子にちがいない」という確信を持つようになる子もいます。
教室でスーパーボールすくいのような遊びをする時でも,
性格タイプによって、何に熱中するか、何をもっとも面白いと感じているか、どんなことに気づくか、
そこから何を学びとるかなどは、性格タイプによってずいぶん違います。
わたしが、「ちょうど100グラムぴったりになるようにスーパーボールをすくってね」とはかりをだすと、
直観タイプの子たちは、コップに入れたスーパーボールを何度か試しに量ってみてから、
戦略的に100グラムちょうどになるような方法を編み出そうとします。
「スーパーボールをひとつ取り除くと、はかりの針がこれくらい後ろにさがるから、
3個くらい取るといいだろう」とか、「ボールがコップにいっぱい入っている時は100グラムのところより
このくらい過ぎているから、コップの半分と残りの半分の半分くらいまで入れたら100グラム」といった具合に。
遊んでいるうちに、新たな「こうしたい」を見つけて
熱中しだすことはあるものの、本人なりのねらいがあるあたり感覚タイプの子たちとの違いを感じます。
感覚タイプの子たちの子の場合、ひとつのねらいというより「網羅したい」「できるまでやりたい」という
あたりにモチベーションがあるので、
最初に「100グラムにぴったりになるように……!」と告げていても、
スーパーボールを乗せてははかることを繰り返して、1回、1回、「あっ、○グラムだった」「今度は○グラムだった」と
確認することが遊びのメインになっていきますから。
思考タイプの子たちは、活動そのもにには熱心でない場合が多いけれど、
はかった重さをまとめた表を見ながらデーターを分析したり、
原因や理由について考えさせる場面でいきいきしています。
感情タイプの子たちは、お友だちと同じ目標で動いたり、
他の子らをびっくりさせたり感心させたりすることにモチベーションを持ちやすいです。
見えにくいタイプのひとつに内向的な直観タイプの子が入ります。
外向的な直観タイプの子たちは、次々と新しいことに興味を移して
「ひらめいた!」とばかりに自分のアイデアを口にするけれど、
内向的な直観タイプの子たちは、頭の中は忙しくてしていても行動はおっとりしていたり、
直観の使い方にしても、自分の内面での「あっ、そうだったのか」というひらめきが
主なので、外からわかりにくいのです。頭の中で自分の考えを追っている時は、
フリーズしたようにボーッとしているので、考えている時ほど、何も考えていないようにも見えます。
わたし自身は内向的直観タイプなので、
「自分の内面の動きや頭の働かせ方に似ているから内向直観の子じゃないかな」と
感じるのですが、他のタイプの子たちに比べて、
はっきり目に見える判断材料がほとんどないので、「うちの子の性格タイプは?」とたずねられると、
幼児期は、「たぶん、……でしょうけど」「おそらく……でしょう」とあいまいな返事を続けることになりがちです。
たいてい小学校中学年くらいになると、読書の好みやおしゃべりの内容に
内向的直観の子らしさがはっきりしてきます。
大学生の息子と話をしていると、「この子はやっぱり内向的直観タイプだな。
内向きの直観をよく働かせるんだな。」と実感することが多々あります。
物事が行き詰った時にしろ、普段のちょっとした問題解決にしろ、
自分の内面に光を当てることで答えを見いだす姿がありますから。
先日もこんなことがありました。
学校で自分の名前をテーマにした作品をプログラミングで作る課題があったそうです。
他の課題の提出時期と重なっていたため、一夜漬けで、
「自分以外の人(友人等)の名前の集合体が、クリックボタンを押す度に
まぜあわさって、だんだん自分の名前に確率的に近づいて行き、最終的に何クリックかで
自分の名前ができあがる」というアルゴリズムを組んでいました。
評価自体はよかったようですが、その出来に、
短い時間で慌てて作ったのと、何かが足りないという不全感を抱えていました。
そこで、他の作品提出の機会にそれをもう少しいい形で練り直して出すことにしたようです。