虹色教室通信

遊びや工作を通して 子どもを伸ばす方法を紹介します。

今頃、水遊び? と、やっぱり遠回り 2

2009-09-17 09:00:32 | 教育論 読者の方からのQ&A
四苦八苦してできあがった水遊びのおもちゃ。
「さぁ、どんどん水を持ってきてよ~」とお声がかかりましたが、
ちゃんとパッキンがはめられているのか心配で、
ペットボトル1本分の水を「まず、少しずつ試してね。お願い!お願い!」と渡しました。

案の定、「漏れてるぞ~!!」の声。
3人とも、何箇所か水が漏れている場所に集まって、あれこれ意見しています。
「きちっと、カチッて音がするところまで
はめてないやつがあるから、漏れたんだ。」とTくん。「じゃあ、1つ1つチェックしていこう」とYくん。
「これ、よ~し。これ、よ~し」とSくん。

私は……ぞうきん持って、拭くのに忙しい……。レジャーシート敷いているとはいえ、水漏れで床に浸透しないかヒヤヒヤです。
子どもたちに自分でさせるからには、こういう覚悟いりますよね。
問題が起こったとき、私がすぐすぐ子どもの中に入って
解決してしまうと、
子供同士、知恵を出し合って解決しあう、友だちを尊重しあう、問題を解決できたとき心底、達成感を味わうことができなくなるのです。
だから、散らかるとか、汚れるとか、多少の怪我とか、
子どもたちのミスとか、今回は水漏れですけど……
そうしたトラブルは、自分たちで解決させています。
結果にあまりとやかく言いません。

このおもちゃの組み立ては年長さん三人にとっては
自分たちの限界に挑戦するものだったので、
できあがったときの喜びよう
水遊びの楽しさは格別だったみたいです。
はしゃいで、はしゃいで、大喜びしていました。

頭脳でも体力でも
子どもは自分で選んで、決意して、自分の限界ギリギリまで
それに自分を投げ出していくことが大好きです。
そうして達成したときには、
別人になったような自信に満ちた態度で
さまざまなことにチャレンジし始めます。

この日も、水遊びのあとで、

数独ナンプレにチャレンジしたときに、これまでにない
強気ながんばりを見せてくれました。
最初からかなり難しいレベルにチャレンジしたがり、
途中でわけがわからなくなったとき、
「絶対正しいものを残して、あっているかわからないものを
取り出してそこからやりなおそうよ」Tくん。
「まず、一回、おいてみて、全部ね。それから間違ってたら
次のを試せばいいんだよ」とYくん。
「これはさ~よく考えて!
縦列と横列ともうひとつとよ~くよ~く見て、見ていて、おくところを考えるんだよ」とSくん。
「それはわかっているけどさ、
でもあっているかどうかわかんないのを、もうおいちゃってるわけ。
だから、それが原因でまちがってくんだ」とTくん。
「そうそう!じゃ、これを横にどけるんだね」とSくん。

この子たちの会話のおませっぷりに、うちの子たちが家にいるときは、
いつもちょっと吹きだすか、苦笑いしています。

でも、こうした言葉、
水遊びのおもちゃを作ってみたとき、これまでもそうやって
楽しい遊びに全力投球したとき
ちょっとずつわかってきたこの子たちの心の底からでている言葉でもあるのです。
体感が言葉のうしろにちゃんとあるのです。

それにしても意見がそれぞれちがったわりには
上手に協力し合って、難問も解ききりました。

勉強ができる子になるためには、遠回りなようでも
夢中になっていることを
とことんさせてみる

それが最善の方法だな……と実感しました。

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今頃、水遊び? と、やっぱり遠回り 1

2009-09-17 06:32:42 | 教育論 読者の方からのQ&A
家電店で、夏物処分らしき特価品に、
巨大な水遊び用のおもちゃを見つけました。
値段がびっくりな安さだったことと、
科学クラブのメンバーたちが少し前から、いろんな力で動く船を作りたがっていたのを思い出し、
これがあれば実験するとき楽しいだろうな~という安易な判断で
買ってしまいました。

年長さん3トリオのレッスンのとき、ちらっとそれを見せたら、
「やる~やる~!!」の大騒ぎで、
もう秋だよな~水遊びってな……と思いつつ、
遊んでみることにしました。

パーツを一通り、点検したSくんが、
「設計図がさぁ、全部、英語なんだよねぇ~。」と不服そうに言うので、
「見てみて。文字が英語だって、絵は、万国共通でしょ。見れば一目瞭然じゃない?」と言うと、3人は納得。
完成図の写真は、易しいものから難しいものまで3種類。
自由に選ばせると、
ダムから、ポンプのくみあげから、水車から~取り付けられる、一番難易度の
高いものを選んでいました。

「こんなすごいもの作ったら、大変よ。こっちにしたら?」とシンプルなデザインを指差すと、3人とも、「ぜ~ったい、こっち!!」
と声をそろえて主張します。
それがこの水遊びセットただものじゃなくって、水が漏れないためのパッキンの取り付けや、複雑な設計図……等、大人だって
めんどくさいし難しいし、とても簡単にできるとは言えない代物でした。

遠巻きに3人の仕事を見ていると、それぞれ得意をいかして
いい仕事していました。
Yくんは実行力と根気のある子なので、
力のいるパッキンの取り付けや、いくつもパーツをつなぐ仕事を
苦にもせずに、ひたすらもくもくと繋いで行きます。

途中で仕事があまりに大掛かりなことに気づいて、
私に「○先生も手伝ってくれる?」と声をかけてきたのですが、
「ねえ、やっぱり、この簡単な方にしようよ。こんな大きいの作るの
大変だもの……」と言ったとたん、
「いい~いい~いい~いい~手伝わなくていい!!ぼくたち3人で、ぜ~んぶしますから!!」3人で声をはもらせて、大声で言い返してきました。

Sくんは、いつもとても頭がきれて、判断力の高い子なので、
全体を見て、みんなを指揮しながら、
難しいパーツの組み立ても
どんどんこなしていました。

Tくんは問題解決能力が高く、よく思考が働く子なので、
うまくつながらなくて、理由がわからず3人ともが困惑してしまうシーンで、
「みんな!設計図をもう一度見直そうよ。ちょっと図、貸して。」と
設計図をじっくり見ながら、間違いのもとを探り、
きちんと直していました。

年長さんになって、本当に上手に協力し合えるようになった3人。
難しい算数パズルも、3人で真剣に話し合いながらとくように
なってきました。3人だと、1人でするときよりパワーが数十倍に湧いてくるようです。

今頃……の水遊びは次回に続きます。

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3歳半の☆ちゃんの創作センス

2009-09-16 17:42:49 | 工作 ワークショップ
3歳半の子の絵画や工作といえば、
形あるものにする場合、かなり手伝うこともあるのですが、
☆ちゃんだけは別です。
とにかくものすごい創作意欲で
ひとりで作りまくります。

☆ちゃんが虹色教室に通い始めた2歳の頃、
とても自信なげで、身体をゆらゆら揺らして
他の子のしていることをぼんやり見ていることが多い子でした。
とてもとても繊細な子なのです。
☆ちゃんは、いっしょにはじめた工作がとても
気にいって、教室にくるたび、画用紙とクレヨンを出してもらいたがりました。
絵の具、コラージュ、かばん作り、服作り、魚釣り、
星や海のテレビ
などいろんなものを作ってきました。
☆ちゃんのすごいところは、お家でも、
自分で素材を集めてきて
教室で習った創作法を盛り込んで、どんどん作り上げていくことです。
私も、2,3歳児の作品とは思えない完成度にいつも驚いてきました。

工作作品のキリンとキリンの絵です。

☆ちゃんのお母さんが、「ニキーチンの積み木を与えてもよいでしょうか?」
と質問されたので、
「☆ちゃんは、今、自分で素材を選び、自由なできあがり作品を描いて創作する
という形に熱中しています。まったく違う刺激を次々与えることで、
☆ちゃんの中に育ってきた良いものが
弱まるかもしれないので、もう少し大きくなってからにしては
いかがでしょう?」とお話しました。
与えるもの、与える時期
とても大切です。
漢字や文字の練習を早くにさせるだけでも、
こうした自由な創造性が消えてしまうことがあるのです。
何が子どもの中で育ちつつあるのか、よく見極めることが
大事ですね。

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子どもの変化 大人の変化

2009-09-16 08:44:06 | 教育論 読者の方からのQ&A
今年も、地域のキャンプの手伝いと
ジュニアリーダーの研修に行ってきたうちの夫。
手伝い始めた当初の5~6年前と、この1~2年の
子どもたちの変化と、大人たちの変化にとまどいが隠せない様子です。

とにかく年々、子どもたちが幼くなっていることに
危機感を感じていました。
「幼いって?」とくわしくたずねると、
自分で決められないのと、
ちょっと難しくなると、考えもせずにすぐ大人に
やってもらおうとする高学年の子がほとんどなこと、
簡単な質問で、自分がわかっている場合もミスがこわくて誰も
手をあげない……そのため、シ~ンとしたしらけた瞬間が
しょっちゅうあるみたいです。
5~6年前まで、子どもたちは
自分たちで失敗してもどんどんテントを立ててました。で、うまくいかなくなって、試行錯誤をつづけたあげく大人にちょっとだけ助けを求めてきていたのだそうです。
それが、この数年、ひとりの子が「これ間違ってないかな?」なんて言おう
ものなら、
どの子も手がとまって呆然と立ち尽くす
のだとか……。

それと、とにかく手伝いの親たちが口出して口出して、
手も出して~

子どもがちょっと問題を見つめて考えてみようとする間も許さずに
しゃべりまくるので、

やる気なくたらたら指示にしたがう、いかにも面白くない
キャンプになっちゃうんだそうです。

「子どもの頃と言えば、学校の授業なんて面白くないから、
キャンプとかクラブとか、面白いことでいっしょに遊んで仲良くなった
友だちと今も親しくしてんだけど……。
大人が教えてばっかりで、子供同士、全然仲良くなってないんだな~。
いっしょに間違えて、笑いあうとかなくて、
ミスして友だちに笑われたくなくて、構えている子ばかりだ」
と夫の……感想です。
ジュニアリーダーの研修も、少し前のように自覚があってしっかりした子が
ほとんどいなくなって、まるで幼児のまま大きくなったような
中学生と、幼児に教えるように
一挙一動を教え込みたくって、指示したくって、
子どもにつきまとう大人の姿が目立って、
子どもが友だちと少しも楽しそうに遊んでいなかったのだそうです。
それなのに、大人の会議では、子どもに何を教えようか~という
教育的配慮ばかり話し合われていて、
楽しさなんてそっちのけなのです。

夫の話……幼児といっも接している私には、
「これから先、子どもたちはどうなっていくんだろう?」と
頭を打ちつけられるものでした。
今の小学生より、最近の幼児は
さらに顕著にこうした特長があらわれていて、
3歳児でそうした態度をしるす子が少なくないのです。
そして、口出し手出しがやめられなくなってしまう……大人も。

話は変わって、昨日、レッスンに来た知的ゆっくりさんの
小1の☆ちゃんが、この数ヶ月で見違えるように
意欲的で自信に満ち溢れた態度になって、とってもうれしかったです。
昨日はいっしょにポケモンのげームをしたのですが、
4ヶ月くらい前までは(はじめて会った頃は)
5まで数えることすら危うかった☆ちゃんが、
さいころの目をさっさと読んで
きちんとゲームのルールも理解して楽しく遊べました。
また、ゲームの出し入れの手伝いをていねいにすることも
きちんと身につけて、お手伝いに誇りを感じていることがわかりました。
お家では、しょっちゅう、数字を読むようになって
数に強い興味を持つようになってきたそうです。

☆ちゃんは、最初すべてに自信がない子でした。
でも虹色教室に通うように
なってからは、虹色教室でだけ、やる気のある子でした。
私の前ではできてもできなくても手をあげまくる姿が見られました。
でもお家ではあいかわらず、何でもいやいやだったようです。
それが、その後、お友だちができて以来、
お家でも学校でも
意欲とやる気がみなぎるようになってきたようなのです。

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誤った早期教育的アプローチをしないためには?

2009-09-16 06:18:57 | 教育論 読者の方からのQ&A
日本人は、義務教育でも英語を学んでいるわけで、
長い期間、英語学習に時間を費やしています。

それなのに、
ネイティブの方々を前にすると、
ちょっとした簡単な会話すら出てこなくて四苦八苦するというのは、
よく聞く話です。

でも、海外の観光地の映像を見ると、、
小学校へ行ったのか、日本語の先生と呼べるほどのプロが教えたのか……すら定かではないような現地の人々が流暢に日本語をしゃべているのですよね。

どうして、そんなことが起こるのか?

実は私も、街で出会った海外の方々と何度も勇気を持ってしゃべろうしゃべろうとして、
のどのあたりで言葉がつまって、何も言えなかった経験が何度もあります。

発音に自信がない……
文法に自信がない……
妙に自意識過剰になって、緊張して何をしゃべっていいんだか
わからなくなってしまうのです。

早期教育をしていきたという幼児の中には、
学んでも学んでも
海外の方と対面して英語がしゃべれるようにならない日本人と
似たような姿が見られます。

本来、幼児と言うのは、自分が間違っていようが、
下手だろうが、それ自体に気づけない、それ自体がわかっていないところが、
すごい強みです。
怖いもの知らずで、何にでも全身で飛び込んでいくので、
さまざまなフィードバックを得て、
何をやったとしても、ちょっと学んで賢くなっていくのです。

たとえば、小学生たちが、将棋をしていたとして、
そこに乱入した2歳児は自分もコマをペシペシ盤にたたきつけてみて、
もうお兄ちゃんお姉ちゃんたちと同じことができていると思っていて
とても得意げです。
将棋としての正しさを知らないので、自分の行動が
とても正しくてすばらしいものだと感じているのです。
そうした体験で得た自信は、
年上の子たちの行動を逐一観察して、自分もしてみよう(私はできる!)という
態度に変わっていきます。
また、年上の子たちの反応次第で、
自分の働きかけが、どんな結果を生むのか推理する力が身についてきます。

ところが、最近、幼い子どもにいろんなことを予備知識として
教えておこうとする親の無駄な努力のせいで、

「自意識過剰でネイティブの方々の前では、ハウ アー ユー? と言う言葉すら
緊張して出てこない大人たち」

とよく似た態度をしるす幼児が増えているのです。

自分が何かを「する」ことを信頼していなくて、
ミスを恐れて、新しいことはたいてい しり込みしてしまうのです。

そのために、やらないから上達しない

という2次障害的な問題が大きくなっていきます。

早期教育はしていなくても、
お母さんが子どものいたずらによくダメ出しをしていたり、
お母さん自身が不安が強く自分に自信がない性格だったり、
早期から集団教育を受けている子にもよくみられます。

話が遠回りしましたが、
2歳半の☆ちゃんのレッスンで、気づいたことを書かせていただきますね。

2歳半の☆ちゃん、少し前までは、ぬいぐるみを物のように扱っていたのに、
かわいがって世話をする……という遊びが洗練されてきました。
今回、お気にいりのうさぎさんをリュックサックに入れて
背負わせてあげるとご満悦で遊んでいました。

「うさぎさんおんぶする?」と聞くと、真剣な表情で
こっくりし、「みぎて~はい、ひだりて~」と言いながら、
私がリュックの取っ手を手に通すのに、
自分も手を上手に通していました。
そうしておんぶして、うろうろ~途中で猫ちゃんもだっこして、うろうろ~。
だんだん飽きてきたけれど、次にしたら良いことが思いつかない様子の☆ちゃんに、
「うさちゃん、ちっちしたって。おしっこ出たよ。おむつ替えてあげようか?」
とたずねると、また真剣な表情になって、こっくりし、リュックをおろしました。

この真剣な表情……☆ちゃんの中に自意識が芽生え始めているサインです。
☆ちゃんが真剣な顔になって、こっくりするとき、
これまでのように「~しようか?」の声に誘導されて
なんとなくするのではなく、

私はこれがしたかったんだ~!!

というびっくりと、感動と、確認と、自分が選んでいる感じと、判断することへの緊張で、全身震えるくらいに真剣になっているのです。
ちょうど「自分」が生まれてくる瞬間なのです。

それで、私が大きめのハンカチを三角に折って、うさぎさんをその上に寝かせて
オムツをあてるように、「した、み~ぎ、ひだり~」と言いながら折ってみせると、
それを見ている☆ちゃんは真剣すぎて息もしていません。
その表情からは、やりたい気持ちがあふれているのに、
「☆ちゃんもおむつあてる?」とたずねると、長い長い間がありました。

おそらく、これは自分がやりたいのか、できるのか、もやもやした緊迫した思いが渦巻いていたのだと思います。
☆ちゃんのお母さんが「おむつあててごらん」と指示を出しそうになったところを
少し我慢してもらって、☆ちゃんの答えを待ちました。

「おむつする~」と決意した様子の☆ちゃんは、
2箇所だけでたらめにハンカチを折りました。
私は、そっと形をととのえて、
「上手におむつあてれたね~」とウサギさんを☆ちゃんの腕にだっこさせてあげました。
大満足の笑顔です。

この自分の意志で選び判断する という時期の子どもの姿……
親しくしているブログのyoshikoさんが、ディズニーランドでの2歳のジェリーちゃんの姿を、

ジェリーが勇気を出し、決心してドナルドやミニーマウスに近づいていく時の心の様子が、表情からよくわかり興味深かったです。今までとは違う種類の意志の芽生えを感じました。

という言葉で表現していらっしゃいます。

この時期の子に、自分で判断する間を与えず、
繰り返し「してごらん」とうながして、親が「してごらん」と言ったからしたのか、自分の意志で行ったのか
あいまいでわからない~
という経験を繰り返させていると、自発性や好奇心が弱い子に育つと感じています。

また、はじめてのチャレンジで、きちんと親が教えようとして
「できなかった」経験をインプットすると、

しまいに、子どもの私は弱くてできない存在
何でも大人に頼っていこう

という態度が身につきます。

また、できたことを過度にほめまくって、
大げさなほど「できる」ことを意識させると
「できない」と親に嫌われると感じて、できることしかしなかったり、
新しいチャレンジを恐れるようにもなります。

この日、☆ちゃんは帰り際に、教室のリュックとかばんとぬいぐるみを抱えて
帰ろうとしていました。
玄関でお母さんにうながされて、
リュックは返したものの、気に入っていたキティーちゃんのポシェットは
手放しません。

そこで、私が、
☆ちゃんが持ってきた、☆ちゃんがこのところいつも持ち歩いていると言う
ブルーのフリルつきの妖精柄のポーチを差し出しながら、
「これ、かわいいね。☆ちゃんの。
☆ちゃんのだから、先生は☆ちゃんに返すね。
そのキティーちゃんのポシェットは先生の。先生のだから先生に返してね。
交換、交換。」と言いました。

すると、長い長い間があって、真剣にふたつのものを見比べていた
☆ちゃんは、

「はい」とキティーちゃんのポシェットを差し出しました。
それから、私から妖精柄のポーチを受け取ると、
ほおずりして満足そうな笑顔を浮かべて、自信満々の足取りで帰っていきました。

大人にすれば、子どもの手から勝手に奪い取って交換しちゃいそうな瞬間ですが、
こうしたひとつひとつの間に
幼児は自分の全身全霊をかけて
脳みそを総動員して考えているのです。
そして、「自分」の意志で
何かできることに、自信をつけていきます。
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早期教育の問題はどこ?

2009-09-15 15:10:16 | 100均グッズで学ぶ
早期教育的なかかわりや環境にいた結果、

子どもが、低い次元に閉じ込められたまま、

自分で思考する、判断する、熟考する、推測する、表現する

ことが、学ばせても学ばせても
できるようにならない……
ということが起こっているようなのです。

また学ばせれば学ばせるほど
できなくなる……ということまで起こってくる……
というのは、実際、どのようなことなのでしょう?

最近、身内の小学生2人を自然体験に連れ出して
た~ぷり本物体験をさせてきた

とおっしゃる知人が、こんなことをこぼしていました。

川くだりをしたり、自然の中で思いっきり遊んだりしたあとで、
学校に提出する夏休みの作文に、
「書くことがない~」と騒いだ挙句、ポケモンタウンで買い物したことを書いていた……そうな……ちょっとびっくりしたとか……。

この感じ……私にはとってもよくわかります。
ブロック教室や科学クラブにはじめて参加する子は、
まだ自分という視点からだけ、目の前の課題にかかわっています。

それが、
お友だちからの視点
過去や未来も含んだ視点
活動している自分自身を俯瞰してながめることができる視点

といったまなざしや意識のあり方や視野の変化にともなって

ごく自然と、会話そのものが、活動を思い返し、気持ちをのべる、疑問を持ち、推理し、自分の考えを整理する

というそのまま優れた作文につながる発言が増えてくるのです。

そして何に関わるときも、自分で、自分自身の関わり方の次元を上げていこうとする姿が見られます。

このように子どもが自分で活動を大きく膨らませて
知的な学びの多いものに変えていく力というのは、
1~3歳の時期につくように思います。

今日も、2歳の☆ちゃんのレッスンで、
ちょっとしたかかわり方のコツで、
子どもがたちまち、よく考え、知識を吸収するようになることを
親御さんに学んでいただきました。

☆ちゃんのレッスンの様子は次回に書きますね。

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早期教育 何が悪くて 何が良いのか?

2009-09-15 09:11:43 | 教育論 読者の方からのQ&A
海外にお住まい方(この夏、虹色教室に来ていただきました)から次のようなコメントをいただきました。

先生が時折このトピックをとりあげてくださるので、私も自分の子育てについて
考えさせられるいい機会になります。

情報のあふれている現代では「早期教育」って本当に難しい問題だと
思います。
わたしは子供が嫌がることは絶対にやらせたくないと思ってきましたが、
本の読み聞かせ、ひらがなの読み、数字遊び、などは子供も楽しそうにしている
ので力を入れてきました。
お教室などには行かせたことはないですが
(虹色教室以外は)
これまで自分が取り組んできたことは「早期教育」なのかどうか
気になることがあります。

どこからどこまでが早期教育といえるのか、子供が嫌がらなければ大丈夫なのか、
そのへんの定義がぜひ知りたいです。

また、0歳児の下の子がいますが、
その子にたとえばドッツカードや漢字カードをを見せたりすることは
早期教育なのでしょうか。


どこからどこまでが早期教育といえるのか、子供が嫌がらなければ大丈夫なのか、

の定義は難しいことですね。
私が、早期教育や日本の子育ての問題を真剣に考え始めたのは、
この質問者のクロエさんのお子さんを含む海外から教室に訪れる子どもたちに接してからです。
それほど人数が多い訳ではないので、それを一般化できないのですが、

明らかに何か日本の子どもと違う……

生きるエネルギー その子がその子らしくある様子
目の輝き 自尊心 子どもらしい万能感 身体の自然な柔軟さ
正直さ 真剣さ その年の発達段階で安心して自分を表現している様子

そうしたものが、子どもの中からあふれ出すように感じられて
顔立ちは日本人の子そのものでも、その性質はまったく異なる印象があるのです。

その違いや理由がどこにあるのか、私は子どもたちの様子をよく観察しながら
探ってきました。
2歳、3歳の子を育てている日本で暮らしているお母さんは、たびたび、
「うちの子、すぐ、わからないと言うのです。自分で考えずにすぐ親にたよろうとします」とおっしゃるときがあります。
そこで、私はとても奇妙な感覚にとらわれます。

本来、2,3歳の子は、わかるかわからないか、というところから
無縁の世界で生きている存在なのです。
何かにひとつの答えがあるということに
気づいてもおらず、
とにかく環境に働きかけるうちに、
自分の中からこうしたいという思いが目覚めてくるこの穴に積み木を押し込みたいとか、傘を自分で開きたいとか……でもそうした意志や目的を持っていることすらわからなくて、
それに気づくための試行錯誤が続きます。
そうするうちに、うまくいった!という達成感にぶつかって、
はじめて、ある正しさが存在することに気づくのです。

でもまだまだ個人的な正しさです。

子どもにすれば、うっとうしい鼻水を服でぬぐっても、
鼻水を排除できたという正しさが
その行為にはあるのです。

そういう風に、環境と会話をしながら、自分の感情、喜び、正しいと判断することへの感性、自分にとっての達成感、付加価値として親が褒めてくれることで倍増する喜びなどが加わって、
だんだん『学ぶ』ということを理解していきます。

しかし、2,3歳から「わからない」という子は、
そうした自分の核と環境の間の関係が作られていないのに、
外から正しいとするものを次々押し付けられているので、

瞬時に目の前のものに対する記憶が取り出せたら、答えを言う
ひらめかなければ「わからない」と言うという
条件反射で世界に接する癖がついています。

つまり、思考する、考える、という感覚をつかめないまま、

大人がしるす質問に条件反射的に反応することが、
「わかる」ことや「わからない」ことだと勘違いして、

いつも心が浮遊しているように考えない状態を保って、
大人に求められたとき、ひとつの過去にインプットされたことを取り出す

ということをよくします。

私が最も早期教育の弊害として危惧しているのは、その部分です。

本来子どもは遊び上手で、ブロックなども、次々工夫して
作り出せるものでした。
それが、何を作ってよいのかわからず呆然としてしまう子が
たくさんいるのです。

なぜかというと、ブロック教室の記事で書いたように
非常に狭いある視点からしか物が見られなくなっている子がいるからです。
幼児にもかかわらず、大人の固定観念に染められているのです。

この非常に狭いある視点というのは、最近、大人が知らず知らずに
なってしまい周囲にも押し付けがちな視点です。

話がそれますが、うちの夫が、地域の子どものキャンプの手伝いに行くと、
キャンプのお手伝いで参加していただいている親御さんが、
わが子の世話だけに目が行ってしまい困ってしまう……数年前はありえないことだったのに……となげいています。
班のお世話をお願いしていたら、自分の子にだけ、ジュースを買ってきたり、
自分の子だけ叱ったり……
キャンプの反省会には、「うちの子がはじめて参加させていただいて、どうだった、こうだった~」という話に終始する……

そのように親御さんの視点がとても狭まっている現状があって、

それと同時に

かつてはなかったキレて学年が下の子に暴力をふるう
他から手伝いに来ている大人の話が聞けず、怪我をする

という事件が、地域のキャンプやジュニアリーダーの研修でも
頻発するようになっているそうです。

こうした狭い視点から出られなくなってしまう方も
実はそうした場に参加しているくらいですから、
とてもしっかりした方でもあるのです。
子どもへの愛情もたくさん持っておられる方です。

ただ、この情報のあふれる日本の社会や、環境が、
そのように親の視野を小さな枠に閉じ込めてしまうことがよくあるようなのです。

そのため、子ども自身も、
とても低い次元に閉じ込められたまま、

自分で思考する、判断する、熟考する、推測する、表現する

ことが、学ばせても学ばせても
できるようにならない……
ということが起こっているようなのです。
学ばせれば学ばせるほど
できなくなる……ということまで。

続きは次回に書きますね。

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ラッタくんの積み木のお城 3

2009-09-14 15:17:31 | 番外(自分 家族 幼少期のことなど)
ラッタくんは、積み木のお城をどんどん自分で作ります。
ただ、細部のサイズにうるさく、自分のイメージを完璧に再現しようとする
思いが強いため、
積み木が足りなくなったり、
工夫しないと自分の思う作品に至らないことも多いのです。
そんなときは、
私に手助けを求めます。

昨日もラッタくんの思いを実現するには、三角の積み木が足りなかったため、
エッジという小物を使って立方体の積み木を
斜めに積み上げていく方法をとりました。

そうした積み木遊びのときのラッタくんは、
神経質で完璧主義の宮大工のおじいさんのような態度になります。
1センチのずれも許さない~!!という気迫があって、
「これでいいじゃない?」なんてママラッチさんが適当な積み木を乗せると
いいかげんな弟子をひとにらみで追い払うような様子をしるして
声をかけることすら許しません。

前回と前々回のレッスンのときから、ラッタくんの表情が重く
さまざまなことから心を閉ざしているような態度が気にかかっていました。
そして今回の積み木作品では、細部にまでこだわって機能的な作品を作るラッタくんが、
あえて、扉部分すべてに、積み木を埋めてしまって
どこからも入れないようにしてしまったことにショックを受けました。
「外から入れるように、ここを開けておこうよ」と
うながしても、頑固に拒絶します。

これまで、子どもがこういう外部と出入りができない
四方をすべて壁で囲った建造物を作る場面に、何度か遭遇した
ことがあるのですが、
どの子も心が一時的に危機状態にあるサインでした。
私の経験では、感覚型思考寄りの子や思考型感覚寄りの子がこうしたものをよく作るように思います。

思考の面で発達するときや、
妹や弟ができて、不安が強いとき、お母さんの入院、園でのいじめ、
自分に合っていない環境……などのきっかけで作ります。

そこで、ママラッチさんにそのことを伝えて、

「ドアが開いた作品を作るようになるまでは、
何かをラッタくんに求めるのは避けて、ひたすら心を癒すようにこころがけた方がいいですよ」と伝えました。
「でも、保育園や家庭で何かストレスがあるのかな~?と罪悪感を感じるのは、
ラッタくんの場合ちがうかもしれませんよ。
教室には、ひたすら交通事故にこだわる子、ある特殊なものに強い恐怖を覚える子など、
親の育て方や体験とはかけはなれたところで、
強いストレスを抱えている子がいるんです。
何かとても根源的なものです。

それこそ、不思議な感性で18、9世紀ごろのフランスの生活様式にこだわる子もいます。
変な話かもしれないけど、前世で負った傷がまだあるのかな?
としか推測しようのないような言動を繰り返す子がいるのです。
ですから、原因探しをするよりも、強い刺激を避けて、それが癒されるまで静かに待ってあげるのがいいと思うんですよ」
といったことをお伝えしました。

こうしたことを伝えるのは、かなり迷いがあります。真実かどうか何の確証もないのですから。

でも、子どもが元気がなく気難しいとき、
親や環境の中に原因を探して罪悪感を持つのはちがう感じがする……
そんな印象を受ける子がいるんです。
ラッタくんもそんなひとりです。

子どもの悲しみや不安は、今の生活というより、もっと根源的な深い部分からのぼってくるものの場合もある……
そうした可能性も知っていただきたかったのです。

前回の記事を書いたあとで、教室の生徒のお母さんから
共感のお電話をいただきました。
お電話をいただいた方のお子さんは2歳のときから、その子特有の不思議な感性があるんですが、
年長さんの今、『能』にはまっていて、ママパパの趣味とはかけ離れた
超和風のしぶ~い絵柄を好んで、幼稚園に持っていくハンカチまで
それなのだそうです

私が不思議でたまらない別の5歳の女の子は、
2歳のころからおしゃれにこだわりだし、ウエストやくつの紐を痛いほどにギューッとしめたがる子です。性格は誇り高く、家では家族全員に女王様のような言動があります。たくさんおもちゃの首飾りやブレスレットをつけたがり、ぶどうが極端に好きです。心がとても優しくて、同時に年上のいじめっ子を追い払うほど強いのです。

そうした子どもの不思議さにぶつかったとき、
私はそうした性質をできるだけ自然にそっと扱っています。
取り立てて騒いだりせず、
子どもの気持ちに、よりていねいに耳を傾けるようにして、
恐怖や不安が強いときには、できるだけそうしたものから守るようにしています。
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ラッタくんの積み木のお城 2

2009-09-14 09:25:22 | 番外(自分 家族 幼少期のことなど)
ラッタくんと私は、よく積み木のお城を作って遊びます。

ラッタくんがいつも遊びたがる積み木は海外の積み木のクリエイターが作った
クラシックなデザインのもので、ひょんなことから手に入れましたが
実際の値段はとても高いものだと思われます。

こうした高価な質の良い積み木に特別なこだわりをみせる子というのは、
感覚がすぐれていて、スピリチュアルな感性を持った子が多いと感じています。

ラッタくんの作った日本のお城に続く橋で遊ぶなのたん

ラッタくんは虹色教室で世界遺産の本を見ながら
日本のお城を作って以来、何度もこの遊びをしたがりました。
特にお城へ続く橋を作ることと、周囲の石垣を表現すること
がとても気にいっていました。

ママラッチさんが、ラッタくんを喜ばせようときれいな色の積み木で洋風のお城に
デコレーションしたところ、
いきなり泣きだして、全てを取っ払い、
きっちりきっちり積み木の長さをあわせて
それが日本のお城であることと、お城の瓦部分を表現することにこだわりだしました。

こうした日本のお城を好む子は、忍者の話に飛びついてきたりします。
そこで、忍者の本を見せて、しゅりけんなどの武器作りや
忍者が屋根裏からのぞいて、敵の情報をスパイしていた様子などを
絵本で見せました。

すると、ラッタくんは、
武器を異様に嫌がって、不安と怒りをあらわして、それをどこかへやるように
繰り返しましましたが、
忍者が屋根裏からのぞいて、敵の情報をスパイしていたことなどは、
まるですでに知っていること……といった様子で
昔の事情を説明しだしました。
そして、私が、「橋はどうして作ってあったのだと思う?」とたずねると、
「敵がお城の中にどどっと来るから、この橋の上でとめる~」といったことを、
熱心に話していました。

こうしてラッタくんとお城で遊んだあとで、
ママラッチさんがラッタくんを日本のお城や歴史的建造物を見に
連れて行ったところすごい喜びようだったようです。
ラッタくんはディズニーランドは嫌がってすぐに帰りたがった子です。


長くなったのでこの続きは次回に書きますね。
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ラッタくんの積み木のお城 1

2009-09-14 07:19:27 | 番外(自分 家族 幼少期のことなど)
昨日、宝地図を書きこもうラッタくんのレッスンでした。
ラッタくんに関しては、私はず~っと気にかかっていたことが
あるのですが、こういうことって教室のレッスンで言うべきことではないし……
と控えていました。
が、少し前から、それが原因で

親子関係がだんだん悪化していく模様……

に、何だか見ていられなくなって、少し私が感じていた話に触れました。
すると、ママラッチさんは、
これまで感じていたたくさんの疑問を解くヒントを得た様子で
緊張していた思いを手放して、
このところ気難しい態度が続いているラッタくんのありのままの姿を受け入れ
はじめました。
すると、この間から、新しく提示することには、ほとんど拒絶の態度をとっていた
ラッタくんが、ニコニコと前回は拒絶したカードゲーム類をいろいろ取ってきて
「先生、ゲームしよう!」と催促しました。
そうして、声をあげて笑いながら、片足は私のひざに乗せて、
次から次へと知能ゲームを楽んでいきます。
このラッタくんの急変振りに
お母さんに思っていたことをお話してよかったな~と感じました。

思っていたこと……というのは、ちょっと簡単には説明しにくいので、次回に書きますが、
以前も教室をしていると、前世の記憶なの?と首をかしげるような
好みやこだわりや才能(2歳の子が突然習っていない外国語で演説をするなど)を持った子がいることを書いたことと似たようなことです。

私がもしかして前世の記憶? なんて妙な発想も、
「あ~そうかもな」とあっさり受け入れてきたのは、
私自身も子ども時代から、
自分の経験とは全く別の記憶というか、強烈なイメージとしての風景が
繰り返し浮かんで、そのイメージの中に心を沈めると
心が癒されて力がみなぎってくるような感覚を何度も得ていたということがあります。
娘もそうした生まれる前のイメージのようなものを持っている子でした。

でも、実際そういうイメージがあっても、
なつかしい気持ちくらいで、不思議でもなんでもないのです。
自分の想像なのかどうかもわからないし、その光景を思い浮かべると
気分がいいな~どまりです。

私は子どもの頃からとっても直感が鋭い子でした。
ですから、何かが起こる前に事前に感じ取るとか、
相手の考えていることを言葉抜きで察知する
とかして、危険を回避できたことが何度もあります。
でも、この直感、せいぜい鈍い感覚を補う程度の代物で、
実際、直感を使って何かうまくいっても、「なんとなく~だった」というあいまいさをぬぐえないし、不思議という感じはわかないのです。
鼻が利く人が、匂いでいろんなことを判断するようなものです。

ですから、大人になった私は、直感型とはいえ、

最初に直感で選んで、

感情でかかわり、思考で対処し、感覚情報をできるだけ集めて、
(ここの部分が仕事のメインで)

最後の最後の判断を自分の得意とする直感にゆだねるという生活をしています。

話がそれてきましたが、直感で感じ取ることが身近に体感としてあった私は、
ずいぶん長い間、スピリチュアルとか、
オカルトチックな本や話を避けてきました。

自分の体感していることが、あまり不思議だとは感じなかったし、
それより、体感として自分が感じているものの正体を
科学的にきちんと把握したい
という思いが強烈にあったのです。

それで、物理学や宇宙論や意識についての本を片っ端から読んでいった
わけですが、
そうして読み続けるうちに、
科学の方もどんどん進歩して、科学とスピリチュアルな概念が接近してきて……
最初感じたとおり、

あんまり不思議でも何でもないんだな。
な~んだそういう種明かしか……
バラバラの理論がうまくひとつに重なりだしたな

と納得したわけです。
それ以来、私はスピリチュアルな本を避けずに、
そうした本が、表すことが、どのような科学的背景に根ざしたものかに
思いをはせるようになりました。

ラッタくんの話に入れませんでしたが、次回に続きます。



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