○ちゃんのお母さんとか、○屋さんのおばちゃんといった子どもの目で観察した大人の姿が思いだされるのですが、
それがあなどれないのですよ。
癖や性格や人が通常外に見せない心の暗部まで子どもの目にはちゃんと映っていて、
「教えよう」と思っているところは伝わらないのに、
「教えるつもりがなかったところ」でいっぱい学んでいるものですから。
学ぶといえば、子ども時代は、
目にするものの背後にある人の考え方やアイデアを、
五感からその場の空気を自分の魂に写し取るように学んでいたんだな~と感じます。
けっしてオーバーな表現ではないのです。
大人の私にはもうない独特の感性が,子ども時代にはあったように思えるのです。どの記憶を振り返ってみても……。
大人になった私が推測して付け加えたのでない……
当時を伝える細かい描写が、
記憶の中に残っているのです。
何かと私におけいこ事がさせたかった母の思惑ははずれにはずれ、
何をさせても上達する意欲がゼロだった私ですが、今思うと、
目にするものや経験から、それは多くのものを学んでいたようです。
母は時折、タッパーウェアーの販売員の方々の子どもたちを預かるベビーシッターの仕事をしていました。江坂のガラス張りのビル内の仕事です。
まるで植物園のように観葉植物をここかしこに配置してありました。
当時にすると、海外のビジネススタイルを取り入れたとてもめずらしい
建物だったのです。
親しい人に頼まれてしている仕事だったため、
母は、夏休みや冬休みには、私や妹を連れてその職場に通っていたのです。
小学生の私にとって、そこはキラキラしたまぶしい映画の中の世界のような場所でした。
そこで目にしたものから受けた印象は、
私から職場とはこんなものという既成概念の枠を壊してしまいました。
「この世界には、さまざまなビジネススタイルがあって、アイデアとエネルギーがあれば、
自分の働く場や未来も新しく創り出していけるんだな~」というものでした。
そこで、私は子どもたちと遊ぶ仕事を任されていて、
「あぶくたった」などのさまざまな伝承遊びや、なぞなぞをして
2~6歳くらいの子たちの相手をしていました。
母がおやつの買出しに行くときについていくと、
「いくつかは個包装のお菓子にしないと、食べきれないで持って帰る子がいるとき困るのよ。赤ちゃんが飲み込まないサイズの手で持てるのがいいわ。」
「ポテトチップスはどの子も好きだし、調整がきくからいいわ」「チョコは服を汚す子がいるわね」などとつぶやきつつ買っていました。
「いろんな年齢の子、いろんな好みの子、さまざまな親のニーズに配慮して
こうしたものは買わなくてはならないんだな」
と感じました。
その買出しで感じたことが、仕事をしたり、ボランティアをしたりするときの
形の基本になっています。
母にすれば、
私や妹を職場につき合わせてすまないな~。習い事にでも行かせてあげると有意義に時間が過せるだろうに……と感じているようでした。
でも、母が「私のために」
とお金を使ったものからは
ほとんど学ぶものはなく、
どうでも良いと思う場では、いろいろ学ぶことがあったのですよ。
以前、記事にした子どもの頃の出来事↓でも、子どもの私はクリーンな空気もその背後の緊張した大人たちの心のありようも社会の状況も、隈なく観察しています。
★だ~れが 殺したクックロ~ビン~?? 1
★だ~れが 殺したクックロ~ビン?? 2
また、大人たちが繰り広げるドタバタ↓も、その心の微妙な揺れまで目に写し取っているんですよね。
★同じ屋根の下で
それと幼稚園の子どもでも、大人の動機が純粋なものかどうかを見極める
目を持っているんです。↓
★番外 子どもの頃の思い出
子どもたちと接していると、
その瞳は、見るものを吸い取り紙のように
魂に刻んでいるのがわかります。その意味や背後にある考え方までも。
そうして心に響いたものを土台にして、
人生を築いていくのでしょうね。
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