東京から2、3ヶ月に1度、通ってくれている小1の★くんのレッスン。
虹色教室に通いだしたのは、家庭で幼児教育を受けるうち
「勉強いや~きらい~!」となってしまったことがきっかけでした。
虹色教室での理科実験や物作りが気にいって、
それには一生懸命取り組むものの、ワークを出すと
イヤイヤモード。
1年生に入学してから、「学校の勉強は簡単だよ!できる!
家での勉強は習っていないからしない」と言うようになりました。
そう言い切られてしまうと、親御さんもとまどって、
無理に先取り学習をさせる必要もないし、学校でできているからいいのかな……
でも何だか気にかかることもあるなぁ……
と★くんの姿に、心が揺れていました。
今回、虹色教室に★くんが来た際、私は★くんにちょうど良いレベルの
問題をいくつか出題しました。
すると、少しひねってあるとはいえ、2,3分考えればできる
問題を、「できない~学校で習っていない」と言い張るのです。
★くんは幼稚園時に測ったIQも高く、
好きなこととなれば高い能力を発揮できる子です。
でも、学校に行き出して、
「めんどうなこと、がまんがいること、かんがえることは
どれも、1分だってしたくない~いつも楽しい楽なことだけしていたい」という
態度をさらに強め、「習っていない」を言い分にして
考えることを強く拒絶するようになっていました。
ここで、「どうして学校で習っていないことを
やらせる必要なんてあるの?」と疑問を抱いた方がいるかもしれません。
虹色教室でしているのは、
学校の先取りでも補習でもありません。
シンプルに、その子の能力に応じて、
「考える」力を伸ばすということをしています。
そして、長い文章であっても、それをイメージに変換して、
途中で放り出さずに扱えるように指導しているのです。
その難易度の目安は、その子の能力で、精神を集中させて、意欲的に取り組めばできるレベル。
難しそうでも、ていねいに読んで、2,3分考えれば
自力で解けるレベルです。
それが、学校に通い出して、勉強って、考えてするものじゃなくて、
答えさえ出して、先生にOKもらえばいいんだ~
と思い始めた子は、とにかく「考えない」姿勢にこだわるケースがよくあります。
そのほとんどは、誤った幼児教育の影響で、
向上することも、学ぶことも、
大人を喜ばせるため、大人から承認を得る目的で存在する
という考えが、身に染み付いているからのようです。
それにしても、どうしてそれほど「考える」ことが苦痛なのか
と観察していると、
そうした子たちの多くは、
「学ぶこと」=「大人の評価を受けること」がセットになっていて、
間違うかもしれない自分にちょうどよいレベルの問題は、
間違えて悪い評価を受けて辛い思いをするリスクがあるから……
という理由で避けるのです。
目的が評価や褒められることにあると、
自分の能力より、1~2学年下のレベルに固執したり、
得意な計算や漢字以外を解きたがらなかったり、
幼児の場合、弟や妹に出された問題ばかりしたがる子がいます。
この日、★くんが、「習ってないからしない、イヤだ~」と
抵抗していた問題に、
「落ち着いて、1,2分は考えること」と言い渡すと、
サッと解けていました……。
考えれば1分かからないものを、「考える」行為そのものに
強い抵抗があるので、できていなかっただけなのです。
付き添いのお父さんには、「たくさん学習させる必要はなく、
週に、1~2問でいいですから、2,3分は考えるレベルの問題をさせた
方がいいですよ。避ければ避けるほど、考えることが苦手になりますから」とお伝えしました。
計算ドリルや漢字練習のような考える必要のないものは、
パッパとするので、
「考える」ことを避ける性質があっても
外からは気づかれない小学生は大勢います。
夕べは、以前私が教えていた子で、今は小中学生の家庭教師をしている
女の子が事務の手伝いに来てくれていました。
その子に、この話を伝えたところ、
「4年でも6年でも、小学校で、考える問題をすることは一度もないですよ。
たの算(たのしい算数)も、四角で抜いたところに覚えた言葉を
埋めるばかりだから。あと、簡単な計算。
学校で、考える経験をすることなんて、ないない~」という
返事が返ってきました。
「親の不安を煽ると、学校に苦情がくるから、
テストはいつも100点取れるようにできてるし……」とのこと。
今、小学校では、6年生まで、通知表もテストも満点近かった中学生の
家庭教師をしていて、分数も少数も少しもわかっておらず、中学の勉強が成り立たない現実に困惑しているそうです。
少しもわかっていなくて、解けなくても、
良い点数が取れるようになっていて、
錯覚で、親を安心させる小学校のシステムってどうなのでしょう……?
明日の大人だけの勉強会のお手伝いにこの女の子に来てもらうことになっています♪家庭教師をして感じた話、気づいた話を、少しだけしてもらう予定です。
数日前に子どもさんのレッスンに見えた私立小の教師をしている方も、
3行くらいの文になると、読んで解くことができない
小学生の姿にとまどっておられました。
入学当初は、背丈を越えるプリントをこなして、入学を果たした子たちなのだそうです。
入学時は、頭の回転がとてもよかった子たちが、
2,3行の文章題を読み取ることができないって、なぜなのでしょう(一方で、とてもできる子もいるそうです)?
少し話題が脱線するのですが、
教育に関わる仕事をしておられる方から、こんなコメントをいただきました。
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…人を評価するという形があまりに日本の社会に浸透していて…子どもたちと関わる中で、この形が子どもたちを苦しめているのを感じています。
小学生の高学年になると、大人から評価され続けてきたので、子どもたちは自分が(誰かの)評価することは、当たり前だと感じています。また、子どもは~であるべき。という答えを求められ続けてきた子どもたちは、当然、大人や友達にも、親は~であるべき。先生は~であるべき。友達は~であるべき。と、答えを求め、周りにいるすべてのものを評価してしまいます。でも、完璧な人なんて、どこにもいないんですよね。友達関係でも自分の思い描いた態度をとってもらえないと、この友達はダメだ!嫌な子なんだ!と、考えたり、また、私が悪いから、嫌われてるから…と悩んだり、この形に絡めとられ、苦しんで孤独を感じてしまう子どもたちは、私のまわりにも多くいます。
…人と人が集う場にリラックスできる空気が流れるようにみんなで努力していかなければ…まさに今、日本は変えていかなければならない時でしょうね。
… 悩んだり苦しんだりしなくても「大丈夫よ。がんばっているね。」というまなざしを受け取って人の力で癒されていくような環境でなくてはならない…子育てだけでなく子どもから高齢者まで、今、日本で問題になっているすべてのことは、根っこの部分は同じなのだと感じています。
私もまずは自分から一歩踏み出していこうと思います。
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子どもたちに会うと、問題の根源はそこにあるんですよ~。
評価にさらされるうち、
素直な気持ちを失って、何もかも、誰もかれも辛らつに評価して
生きる癖がついてしまうのです。
勉強って成長することだから、「変わる」ことです。
今の自分を卒業して、「変える」ことです。
でも、「変わる」=自分がダメな人間だという評価を受けること
というイメージが刷り込まれていて、頑なに変化を嫌う子、拒む子が多いのです。
また、「考える」ことを怖がります。
「考える」ことは、
間違うリスクがあるからです。
知っていることを、自慢するだけなら安心ですよね。
どうして、こんなに大人が躍起になって子どもに勉強させているのに、
昔の子より、子どもたちの学力が落ちてきているのでしょう?
これほど塾に行く子が増えたなら、
ゆとり教育の影響なんて受けるわけないのに、
中学3年間を終えて、A~Zのつづりが書けないなんて高校生がいるのは
なぜなんでしょう?
私たちは幼児期の6年間、子どもを評価する目で見続けて、
「変化」への恐れ、「考える」ことへの不安感を刷り込んでいないでしょうか?
小学校の6年間に、子どもの成績やテストに夢中になって、
「考える」力を破壊していないでしょうか?
大人が自分を「変える」ことへの抵抗を手放し、子どもの教育に関して、
錯覚に甘んじず、自分の目できちんと確かめて、
自分の頭でしっかり考える必要を感じています。
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