自分の劣等機能にあたるものの価値に、
正等な評価を与えることは難しいです。
ですから、長所が「ノイズ」として攻撃されるといったことは
しょっちゅう起こります。
たとえば私は、「感情」が優れている親御さんが、
「思考」が優れている子たちの発する「考える力の高さ」を
感じさせるもののほとんどを「ノイズ」と捉えて遮断するか、抑圧するのを
しょっちゅう見かけます。
「感情」が優れている方の劣等機能は「思考」にあたるのです。
感情タイプの人は、思考を疎ましく思って馬鹿にしているわけではなく、
思考できる人を絶賛したり、
「頭が良いことこそ全て」という考えにとらわれることがよくあります。
そして、自分の子の知的開発に力を注ぎこみます。
そのように、「理想の自分」とは、
自分の劣等機能と関わりが深いものなのです。
問題なのは、子どもの知力を伸ばす手段として、
ユング研究所の講師であるフォン・フランツが、
「劣等な思考の性質を帯びている」と表現する方法……
数少ない概念で、ありとあらゆることが言い表せるし、可能になると考える方法や、
陳腐な決まり文句やスローガンが、全てを解決するカギであるかのように信じる方法
を、あえて選びがちなことです。
何かひとつの方法を信じて、幼い頃から訓練すれば、
理想通りの結果が得られると考えるのは、
ある面、思考することを放棄して、
「劣等な思考の性質を帯びている」方法に、考える行為を丸投げしている
といえます。
効果のあるなしの問題より、
これから思考することを学んでいく子どもに、
親が「思考しない」という悪い見本を示すのは
やはりよくないように思うのです。
「小学校低学年までの子は機械的な暗記をとにかくさせるのがいい」とか、「計算訓練を多量にさせると脳が変化して頭が賢くなる」とかいう
考え方も、
確かに一理あるし、
感情や感覚が優れている子たちなら、「じゅげむ」を唱えたり、伝承遊びに興じるような雰囲気で、それほど嫌がらずにするうちに、
「九九制覇」とか「計算が速くなった」などの成果を得ることも可能です。
ただ、思考が優れている子たちは、かなり幼い時期から深く考えていくことを好むし、
同じことを繰り返させると、素直に訓練に従わずに、もっと効率的にする方法を考え出したり、自分のしていることに疑問を差し挟んだりしがちです。
また、ゆっくり考える時間がないほど、
次々、単純な作業を与えられると、非常に苦痛を感じるようです。
思考を好む子はある面、ゆっくりしていたり、きまぐれだったり、
気難しかったり、ひねくれているように見えたり、ぼんやりしていたり、しつこかったり、がんこだったり、一言多かったり、自分の内にこもっていたり、冷淡な傍観者のようだったりします。
そうして自分の見聞きしている現実を鵜呑みにするのではなく、
自分の頭でこねくりまわして考えているのです。
そうした思考タイプの子が自分で考えるための時間を確保しようとする姿は、
感情が優れている親御さんにすると、
「ノイズ」として映ることが多いようです。
感情が優れている方は、
成績とか、評判の学校の制服とか、自分の目で見て、周囲からも評価できるものの中で、学ぶことを捉えがちです。
ですから、あるときまで受験勉強をしていて、やはり受験をやめるという話になったときに、
「これまで受験用の問題集を解くのに使った時間や労力がもったいなかった」ということをおっしゃるときがあります。
学べばそれだけ考える力や能力が鍛えられているので、
損得はないと思うのですが、
たとえ頭がよくなっていたとしても、何らかの見える成果がなければ
よかったという実感に結びつかないようなのです。
以前、虹色教室の小学生で「物理」に関わる能力が非常に高いと
思われる子がいました。
私はこの子とピタゴラ装置作りや物理実験をしていたのですが、
独創的な問題解決能力の高さにいつも驚いていました。
この子はおそらく外向的直観の思考寄りの子で、ペーパー上ではなく、
電子工作のような手を使って作業するときに、
思考力の高さが発揮される子でした。
私はそれをいつも親御さんに伝えていました。
親御さんは感情が優れている方で、
「そんな能力が高くても、学校のテストでうっかりミスが多いので、
あまり意味がないのでは?」と考えているようでした。
今、テストの点がよくなければ、将来、自分の能力をいかした仕事につけないし、仕事につけなかったら、その道の才能を伸ばしていてもしょうがないかも……と感じていたようなのです。
またあるときは、「うちの子にはそんな才能はないと思います」ときっぱりおっしゃっていたので、この方にとって、
外の世界にその才能を測定したり評価したりするシステムがないことと、
その才能自体が存在しないことは、
イコールで結ばれることなんだな、と感じたことがあります。
私は「それが今の学校で学んでいる教科になかったとしても、
その子の思考力がいかんなく発揮できる体験の場は大事。
その子に自分の能力を自覚させ、
考える楽しさに気づかせて、学習への内発的な動機を育てたい」
と考えていたので、そうした方法も大切なことを伝えました。
すると、その子の進む学校に「そうしたクラブ活動がないから」という理由で、この子の「物理」に関わる能力の存在は、親御さんにとって「ノイズ」のままで終わりました。
感情の優れている方が、みんなそうした対応になるというのではなく、
人間関係や社会での体験を積んで、幅広い考え方や大らかな捉え方を身につけている方もたくさんいます。
また、私とその方との間で意見のすれ違いが起きたところで、
感情が優れている方とは、さまざまなことがバランスよくこなせるし、
人との関係も良好で、社会人として誰もが好印象を抱くような方なのです。
私も、その魅力的な面を十分承知してはいるのです。
子どもの発するものを「ノイズ」と捉えてしまう場合にしても、
このタイプの方が、社会で価値を置かれているものに敏感で、
それに適応することを第一前提にして、
子どもの才能開発しているからでもあるのです。
もし、子どもに個性などなくて、ある理想に向って
親が作り上げる商品だとしたら、
効率的なよい方法とも言えるのです。
今、社会で何が認められていて、流行っていて、評価されるのかを基準に、
それに適するものだけ、
子どもから発信されるものを拾って、それ以外を遮断するということは、
ビジネスの世界では当たり前の常識なのかもしれません。
でも子どもは白紙の状態から親が作り上げていく商品ではないので、
「ノイズ」として切り捨てたもののなかに
その子の存在や、将来を形作っていく潜在的な才能の種があるかもしれない
という視点が必要になってくるのです。
たとえば、ある系統学習を子どもにさせている方が、
「幼児のうちに英検●級を合格させる」とか「小学生のうちに算数で高校レベルまで進む」といった目標を持って、子育てするとします。
すると、子どもの疲労感も、友だちと遊びたいという思いも、
自分でいろいろ悩んで考え込むようなことも、
親にとっては「ノイズ」でしかなくなります。
また、時間をめいっぱい成果をあげる活動に使いたいですから、
子どもの個性的な才能も、
「ノイズ」として伝わりがちですよね。
子どもを、白紙の状態から親が作り上げていく商品として捉えたら最後、
子どもがひとりの人間として何を発信したところで、
親にとっては、自分の計画を邪魔する
「ノイズ」でしかないのです。
「子どもは自分が作りあげる商品ではない」ということは、
あたり前なようで、
今の時代は、それに気づくことすら難しいのです。
どうすれば、この難しい時代に、きちんと目覚めた状態で子育てしていけるのかというと、
「情報」を信じるのではなくて、
活用する「情報」と自分の目の前の「現実」の間で、
ゆらいだりぶれたりしながら、柔軟に考えたり判断したりする空間を作る
ことが大切なのだと感じています。
ある方法を信じて、そのマニュアル通りに固定した生活を送るのではなくて、
ある方法を利用するなら、
それを通して得られる体験のなかで、悩んだり迷ったりしながら、
柔軟に思考し、行動する能力を親自身がアップさせていくことが
大事なのではないでしょうか。