虹色教室通信

遊びや工作を通して 子どもを伸ばす方法を紹介します。

自閉症の子 と アフォーダンス  ターンテイキング の話  2

2011-06-03 06:02:54 | 教育論 読者の方からのQ&A

前にも書いたように私は自閉症について専門的に学んだ経験がありません。
でも、教室には自閉症スペクトラムの診断を受けている子たちも通っています。



(<自閉症の子 と アフォーダンス  ターンテイキング の話1/a>
の続きです。)


虹色教室の活動は
、『アスペルガー症候群・高機能自閉症の人のハローワーク』という著書で
テンプル・グラディンさんらが、自閉症スペクトラムの人がその能力を十分に生かしながら適職を見つけるためのガイドラインとして力説している次の3つのことを支援しやすいものです。

★ 才能を伸ばす

★ 自分の強みをみつける

★ 一番得意なことを仕事に生かす

といっても、自閉症スペクトラムの子は、他人から学ぶことが苦手ですし、
好きなことや強みにつながりそうなこだわりも、
自由にさせていると、感覚遊びに終始してしまいがちです。

そこでさまざまな自閉症関連の本に目を通して、
「後々の問題行動につながりそうなことには慎重に接する」
「理解しやすい提示の仕方をする」といった
関わり方の指針にしています。

ただ、そうした本から得る知識だけでは、障害特性も違う、個性も違う、発達段階も環境もこれまでの経験も違う子に
対応するのはとても難しいです。

そこで私にとって、とても役に立ったのが、

「一般的な赤ちゃんが非言語の世界で身近な大人と交流しながら
言葉や知識を学んでいくプロセス」や

「赤ちゃんが身近な環境のアフォーダンスを利用する姿」

といった子育てや仕事で得た体験にもとづく知識です。

そうした私の中でとても微細な点まで体系化している
言葉のない世界の「人と人」、「人と物」の間で交わされるやりとりは、
自閉症スペクトラムの子の「できる」と「できない」の境界線を見極めて、
越えられそうな課題を用意するのに役立ちました。


たとえば、一般的な赤ちゃんは、おっぱいを飲んでいる最中に、ちょっと休憩して、
お母さんがちょっとゆすったり、愛情を込めてつっつくと、急に思いだしたようにまた飲みはじめます。

休憩ついでに、お母さんの表情をうかがったり、くるんと首をまわして、周囲の様子をうかがったりしますが、
お母さんの自然なサインで、「あっ、そうだった、そうだった。おっぱいを飲んでいるんだった」と察したかのように
再び吸いはじめます。

また、まだねんねの時期の子も、ちょっと頬や手の先などをつっつくと、
たちまち「かわりばんこごっこをしようよ」とでも言いたげな様子で、「あーあー」などの声を出して交互に反応しあうゲームに誘ってきます。
「あーあー」と応えると、手足をばたつかせて、「あーあー」と返し、
こちらも「いないないばぁ」をしたりして積極的にあやしはじめると、
体をねじらせて笑うなどします。

こうしたやりとりがターンテイキングと呼ばれることは、
最近になってしったのですが、
この名前を知らない時期も、自閉症スペクトラムの子たちは、
この交互にやりとりする形が苦手なために、能力があってもできないことが多いんだな、と気になっていました。

何か教えるにしても、理解力が弱くてつまづくのではなく、
この「人と交互に交わすやりとり」がネックになって、
学習がうまく進まないことがたびたびありましたから。

そこで、
「いったいどのあたりから苦手なんだろう」
「何ならできて、何ができないんだろう」
「教えればできそうなことは何だろう」
「どのような形ならできるようになるのだろう」とターンテイキングということを意識して
自閉症スペクトラムの子たちと接するようになりました。

「トントン」と背中などを軽く叩いて、本人のするべきことに気付かせようとすると、

感覚に過敏さや鈍感さがあるために、ビクッとして自分に攻撃をされたかのような構えになったり、
叩かれているのさえ気づかず、それまでの行動を続けていたりして、

そこで、「あっ」とこちらの伝えたい意図を察するのが難しい子が多いのです。

これって、赤ちゃんがおっぱいを飲むのを休むときに、ゆすったりつついたりすると、
「あっ、そうだった」と自分にとって今必要な行動に気づくのと同じような気づきですよね。

この相手からの小さな刺激を受け入れる時点で、
やりとりがプツンと切れてしまうのだとしたら、
自閉症スペクトラムの子たちが、いくら叱られても
「教え教えられる」という関係をうまく築くことができずに困っているのも納得しました。

でも、いっしょに過ごしていると、自閉症スペクトラムの子たちも、
「心地よいと感じて、自分からもフィードバックを返して、
それに応えると、また返ってくる」というやりとりにつながるものがいろいろとあることがわかりました。

体全体でゆっくりギューッと圧迫されて、ギューと押し返すとか、
ブランコに乗ったり、トランポリンではねたりするときには、
いっしょにいる側が、やりとりにつながるように工夫すれば、交互に楽しくやりとりがつながっていくことがあるのです。

また、段ボールの間仕切りに開けた穴を向こうとこちらで覗きこんだり、
積み木やブロックが今にもぐらぐらと倒れそうな瞬間をいっしょに感じあうときには、
あちらがこちらの意図や反応を察して返して、こちらもそれに応じて返すということが
たびたびできました。

ものすごくささいなことなんですが、
そうした小さな突破口のようなものを探し出して、
こうした非言語の世界のやりとりで息を合わせたり、同時に笑ったり、交互に何かすることが
できるようになってくると、
それまでどうしても教えることができなかったようなことが
スムーズにどんどん教えていけるようになることがあります。

会話がでなかった自閉症スペクトラムの子が、おしゃべりを覚えだしたり、
全く遊びが成り立たなかった子が、上手におしゃべりを交わしながら遊べるようになるなど、
それだけが理由で良くなっているのかわかりませんが
急に成長した実感を得たことが何度かあります。


写真は、紙飛行機をくぐらせる輪っかに的を取りつけている★くんです。

★くんは、何かを教えようにも
忙しく動き回るか、一方的にわめき続けるかで、
交互にやりとりすることが
とても難しかった子です。

交互のやりとりの型については、
最初は見えないほどの小さな進歩しかありませんでした。
本人がやりたがる糊や砂といった素材をぐちゃぐちゃ混ぜるとき、
「もっと糊を入れて!」「もっと砂!」といった要求にこちらが応えて、また要求するのを、
次第に、交互に目を見てやりとりする形に変えていき、
だんだん目的や意味のある工作へとつなげていったのです。

工作に2年あまり親しむうちに、
ようやくこちらのお手本を見て、自分でしてみて「これでいい?」とたずねて、また続きを作ると、
それに応じて見本を見ながら作ったり、
地面の下の模型を作るときに、こちらに相談しながら、計画を立てたり、
思うものがなくても癇癪を起さずに納得して、あるもので制作するようになってきました。

自閉症スペクトラムの子の就学準備というと、
字を教えたり、計算を教えたりすることを重視している親御さんもいますが、
工作やブロック制作、日常のごっこ遊び(自閉症スペクトラムの子たちも慣れるとごっこ遊びを好みます)
などの場で、
他人と交互にやりとりする形を覚えたり、相手の話を聞いて、それにフィードバックを返したり、
共同作業ができるようにして
学ぶために必要な型のようなものを身につける支援をすることは
とても大事だと感じています。

一朝一夕には上達しないのですが、
「好き」な活動を繰り返しできるようにして、
その活動のなかで、身近な大人が、知的な向上を目指すだけでなく
そこで交わされる非言語のやりとりを少しずつ向上させるように調整していくと、
子どもの困り感がかなり減ることを実感しています。

子どものけんかを見守る 4

2011-06-02 12:51:59 | 幼児教育の基本
けんかの話から少しそれますが……。


お互いの二ーズを明らかにするというのは、どのようなことでしょう?
『ナチュラルな子ども時代』という著書にあった例を紹介します。

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子どもに食事を作ったのに、子どもが「これまずい、食べない」といった場合。

親の二ーズは、「作った食事を子どもが食べて、苦労が報われること」
子のニーズは、「好きな食事が食べられること」

どちらのニーズも満たされていませんが、
どちらのニーズを優先させるかというと、この場合は子どもです。

子どもにしてあげた他のことで喜んでくれたことを探して満足し、
子どもには時間をかけていろいろな食べ物の味を経験するように促します。


仕事から帰ったばかりで、しばらくリラックスしたいのに、子どもがうるさく遊ぼうとする場合。

ニーズが満たされていないのは親だけ。子どもは遊ぶというニーズが満たされている。

どちらのニーズを優先させるかというと、親。

くつろげる静かな場所に行くのがひとつの手で、子どもはそのまま遊んでいる
はずです。

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子や親のニーズって、上で紹介したような単純なものです。

けれども、
子どもが小学生ともなると、
それとは別に精神的な面での
「親が子どもを心の底で子どもにしている評価」とか

「子どもが無意識に親のニーズに応えすぎている」とか、

「子どもが自分の心の核となるものを作ることができていない」といった理由で、

隠れたニーズが満たされていないために、

親子の間で、慢性的な冷やかなぶつかりあいや、
ぼんやりとした不安感が続いているケースを目にします。


私はたびたび、

子どもの性格タイプによって、
「子どもが親に求めている基本的なニーズ」が満たされたり、
満たされなかったりするのを
感じます。

基本的なニーズが満たされないままだと、
子どもが、ちょっとしたフラストレーションに弱くなって、
すぐ楽な方に流れたり、急に感情を爆発させたりしやすくなります。


たとえば、同じ感覚が優れている子にしても、その子が思考寄りか、感情寄りかで、

親の気持ちの持ち方や対応に

すいぶんちがいが生まれる印象があります。




内向的感覚の思考寄りと思われる小4生の★くんと、
強力粉からグルテンを取りだす実験をしているところです。
こねる時間が30分もかかるため、
他の子たちが尻込みしてやろうとしなかった実験です。
でも★くんは、進んでこの実験をやりたがり、すすぎ時間もいれると40分間、粉と格闘し続けて
実験を終えました。
毎度ながら、私は★くんのねばり強さに感動してい
ました。
それは私にとって劣等機関である感覚が優れているってことのすばらしさを目のあたりにしているからでも
あります。
お迎えにきた親御さんも、そうした★くんの集中力や根気を誇りに思っているようでした。

★くんは、好きな作業に対してこうした根気を見せる一方で、
そうして取り組んだ作業が、すぐに知的な好奇心に結び付く子でもあります。
宇宙に熱中していたかと思うと、最近では建築に強い関心を示すようになっています。
先日も『巨大高層建築の謎』という大人向けの建築技術の本を30分近く熟読していました。
★くんとお母さんの関係はいつも良好です。



同じように、感覚が優れていると思われる子も感情寄りの子だと、
物作りにかける情熱も根気もすばらしかったりするのに、
それがすぐには知的好奇心に結びつかず、
人にそれを披露したり、それで友だちと遊んだりすることに向かいがちです。

もちろん、思考寄りの子、感情寄りの子は優劣つけがたく、
どちらもそれぞれが相手にはない良さをたくさん持っているのです。

感情寄りの子の作りだすものや熱中するものは、
人を「アッ」
と驚かせたり感動させるものだったり、
色合いが美しくデザインそのものとして完成度が高かったりします。

ただ、それらがすぐに知的なものに結びつかない場合がよくあるのです。

学習するときに根気がなかったり、嫌がったりするときに、
その子が素質として持っている集中力や熱心さや美的センスなどが
正当に認められていないのをよく見かけます。

「フワフワしがちな困ったちゃん」というイメージを周囲の大人たちから
かぶせられているときがあるのです。

そのように、「その子らしさ」のすばらしい面がしょっちゅう忘れられて、
「親からあるがままの姿で認められたい」というニーズが満たされていないと、
子どもの問題がさまざまな場面で浮上してきて、
親子のぶつかりあいにつながりやすいです。

子どもはどの子も、自分は「こういう かけがえのないすばらしさを持っている」という
肯定的な自己イメージと
いつでもつながっていたいというニーズを持っていると感じています。

そのために、失敗させないようにするのはいい方法ではありません。
失敗のさなかも、そうしたイメージとつながっていれば、
強い気持ちで乗り切れます。
それは、親のまなざしに映っている自分の影響を受けながら
作っていくイメージだと思います。


親の心の中には、「理想の子ども像」が居座っていることがあります。
それが親側の隠れた二ーズとしてあるために、
まったく別のことでの親子のいざこざが絶えないことはよくあります。

その場合、
まずニーズをはっきり認識して、
「断念」しなくてはならないもの(子どもに「別の性格タイプの子のようであってほしい」と望むなど)を、
思いきって手放してみると、
それまで連鎖的にトラブルを生んでいた状況が
「子どもにひとこと注意すれば解決する」レベルのスッキリした問題に
変化するかもしれません。

子どものけんかを見守る 3

2011-06-02 09:35:36 | 幼児教育の基本


子どものけんかを見守る 1子どものけんかを見守る 2

に次のような感想をいただきました。
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こういう感情の扱い方というか、理想論みたいな対処法はたくさん見聞きしても
やっぱり根本的にその時、その子にはどんな学びが必要なのかを知らないと
…どう受け止めてどんな手助けをしてあげればよいか、むずかしいです。

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子育ての方法は、「参考にするためのひとつの基準」でしかありません。

ですから、個性も違えば、発達の段階も、環境も、そのときの状況も異なる
リアルな子どもの問題に向き合うときには、

親はいつも「これで正しいの?」という迷いや罪悪感が伴いがちだと思います。

特に子どもがネガティブな感情を吐き出したり、ネガティブな態度を示しているときには、
親は、
荒れている海の上で、小舟をどっちに進めたらいいのかわからなくなっている……

ような気分になるかもしれません。

現実には、親が個々に直面している問題は、
相手にしている子どもの個性も違えば、発達の段階も、環境も、そのときの状況も異なるわけですから、
最初から「正解」なんてあるわけがありません。

でも、より悪い状態に固定しないためのヒントや、

ネガティブなものからも学びを得るヒント、

子どもを成長させる方向に働きかけるためのヒントならあります。


けんかにしても、子どもがごねて親とぶつかりあうのにしても、
そこには、「2つの異なるニーズ」が存在します。
一方のニーズともう一方のニーズがかみあわなくて、
トラブルが起きているのです。

友だち同士のけんかの際にどれくらいどのように介入するかといった話の前に、

親と子のぶつかりあいの際に、
親子それぞれの「ニーズ」をきちんと確認することや、
子どもの表面的な行動の奥に隠れているニーズに気づく必要性について書かせていただきますね。


感情を専門とするセラピストであるイザベル・フィリオザの息子さんが、
1歳半だったときに、それまで見たことがないほど怒りを示した出来事があったそうです。
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時間は午後2時。
息子のアンドリアンくんは駅に向かうタクシーの中で寝ていました。

30分ほどで駅に着くと、彼の昼寝は中断されました。
車を降りて、まわりの様子に心を奪われたアンドリアンくんは、その時は不満をあらわさず、
あちこち眺めていました。
駅の構内で雑誌を買うために売店に入ると、アンドリアンくんはキャンディーが入った
袋に目をつけました。
でも、そのキャンディーは母親の目からすると、添加物が入りすぎているようい思われました。
それを買ってやるのがためらわれたので、アンドリアンくんと交渉することにしました。
おもちゃの車でもバイクでも、何でも買ってあげようと言いました。
が、彼は承知せず、泣き叫んで、床を転げ回りました。
イザベル・フィリオザが触れようとすると、めちゃくちゃに暴れました。

いったいどうすればいいのでしょう?

キャンディーを買ってあげるのも選択肢のひとつです。
でもキャンディーが体によくない上、
アンドリアンくんの怒りが尋常ではないので、おそらく原因はキャンディーではないだろうと
思われたため、それはしませんでした。
というのも、キャンディーを買い与えれば、本当の原因から目をそらせることに
なるだろうと思われたからです。

キャンディーをほしがって泣いているけれど、実際には寝足りなかったために、
ちょっとしたフラストレーションにも耐えられなくなっているのだろう、と考えました。

子どもはひどく疲れているときには、癇癪を起すものです。
そんな時、子どもは漠然とした不快感を感じており、その原因を早くつきとめたいと感じています。
ですから、最初に出会ったフラストレーションが何であれ、それが原因だと見安してしまうのです。不快感をある対象に向けて、それを発散させる必要があるからです。
神経がもうそれ以上の負荷に耐えられなくなっているのですから、
いくら叱ったところで無駄なのです。「疲れているんだね」などと言おうものなら
バカにされたと感じて、いっそう怒り狂うでしょう。

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この後、イザベル・フィリオザはどのように判断し、どのように問題を解決したのかというと……

「本当の理由を読み解き、それを満たしてやる以外方法はない」と判断しました。
振り回す手を避けながら、腕の中にアンドリアンくんを抱きとめて、
こう話かけました。
「ごめんね。お昼寝の時間に移動したのがいけなかったんだよね。寝ていたところを
起されたので、気分が悪かったんでしょう?怒っても当然だよね」
姉のマルゴちゃんはすでにおもちゃを選んでいましたが、アンドリアンくんは選べる状態ではなかったため、
両親がバイクのおもちゃを買いました。

その後、電車で眠りなおしたアンドリアンくんは、目を覚ましてから
機嫌よくバイクのおもちゃで遊んだそうです。

この話は子どもが激しく怒っているときは、子どもが口に出して「ほしい」といったものを
与えてはいけないという例ではありません。

子どもの怒り方を見て、子どものニーズの大きさを理解し、
親が自分の行動を見直して反省し、最初子どもに提供しなかったことを与えると解決するという話です。

イザベル・フィリオザによると、子どもは常に一貫していて、<気まぐれ>があるのは
むしろ大人の方なのだそうです。

この例は、まだ2歳にならない幼い子の話なので、
「もう少し大きな子だとどう接したらいいの?」と疑問が湧きあがってきたことと
思います。

でも、私が虹色教室でさまざまな年代の子と接していて感じるのは、
どの子の問題も、扱う内容こそちがうけれど、
アンドレアンくんの大騒動と同じで、隠れた小さなニーズが満たされずに放置されていたため、それが膨らんだ結果、
どうでもいいものを前にしてフラストレーションが爆発している
(だらだらしたやる気のない態度なども……)場合が多いのです。

その場面だけ見て、「これは○」「これは×」と裁くだけでは
いっこうに解決せずに、悪化するケースがほとんどなのです。


そこで、静かに大人の側が自分の内面や過去から今にかけての出来事に目を向けると、
「その年齢の子が当然受けるべきニーズが満たされていない」
「その子が本当に必要としているニーズが満たされていない」
「いつも、表面的なごまかしで解決されている」
という事実が見えてくるのです。

そこで、根本的なとてもささいな問題に光を当てると、
急速に子どもの態度は前向きで建設的なものに変化していくことが
よくあります。


次回に続きます。









子どもの能力を引き出す幼児教育  ダメにする幼児教育 7

2011-06-01 18:49:41 | 幼児教育の基本
さまざまな幼児教育法が飛び交っていて、
「あれが良さそう」「これがお得」と選んでいるうちに、
弊害があるという噂を聞いたり、自分の子に合わなかったりして、
何が何だかわからなくなって、何もしないまま時が過ぎています……

そんな声をちらほら耳にします。

「子どもに何をさせようと親の自由」と語る学者もいて、
「幼児期は勉強なんかさせずにたっぷり遊ばせたらいいのよ」と力説する先輩主婦もいて、

「何をしてもしなくても、結局、いっしょ なんじゃない?
いっそ自己流で適当に育てちゃおう!」

そんな気持ちに行きつく親御さんたちがいても不思議ではありません。

確かに3歳までに英語を聞かさなかったとしても、
就学するまで計算やひらがなを教えなかったとしても、
0歳から先取り学習をしていたという子たちと
先々、能力の差はなくなるかもしれません。

けれども、
水と光がなければ、ほとんどの植物か枯れてしまうように、
幼児にとって基本的で必要不可欠な学びが欠けてしまうと、
それは発達不全となって、
その子の将来に後々まで悪い影響を及ぼすものも
あるのです。

現在は、そうした子どもの成長に絶対必要なものが、
他のどうでもいい情報にまぎれて見えなくなったり、
環境そのものが、子育てに不向きなものに変形していたりするので、
あえて当たり前のことに真剣に意識を向けていないと、
大変なことになるかもしれないのです。

そこで、私が考える
「幼児の成長に必要不可欠なもの」と、
「弊害をもたらす危険だと思われるもの」を、
一度、言葉にして整理しておくことにしました。


<幼児に必ず必要だと思われるもの>

★自由な探索活動  (身体で空間を感じ取る体験も含みます)

★五感を使う体験 (感覚統合を育てる体験も含みます)

★愛着

★親と子の濃密なコミュニケーション

★遊び


★想像力と創造力を育む体験


★親愛を込めて、心のこもった言葉で話かけること


★人と交流 友だちとの遊び

★感情を認めること ネガティブな感情も表現させること 感情の処理方法を教えること

★リラックスできる場所と時間

★脳の発達の自然なパターンにそった活動に適切な支援を与えること



<幼児期に適度にあるといいもの>

★絵本の読み聞かせ

★自然との触れ合い

★積み木やブロックのような、能動的に関われるおもちゃ

★身体を使った運動

★日常生活でさまざまなものに出会うチャンス

★感覚的な入力を言葉とつなげるように支援する

★原因と結果を結びつけることができる子どもにわかりやすい体験

★新しいことへの挑戦を励ますこと

★お手伝い

★注意を向けて集中することをうながす課題

★歌う 音楽を聴く リズムに乗る

★絵を描いたり、物を作ったりする。

★身のまわりの不思議への関心をうながす



<幼児に害を与えると思われるもの>

★過剰期待


★親の不安にもとずく過保護(子どものすることを先にしてしまう。ミスさせない。挑戦させない、けがやけんかを恐れすぎる)

★過干渉(つきまとって指示を与える。子どもが自分自身で心的なパターンを形成することができない)

★放任や無視 親の精神的な不安や怒りを子どもに投影する

★忙しすぎるスケジュール

★体罰 言葉の虐待

★過度に窮屈な訓練

★未成熟で不適切な神経ネットワークを酷使させること

★子どもの年齢にちょうど適した体験を与えない

★受動的な体験が多すぎる

★刺激が多すぎる体験









子どもの能力を引き出す幼児教育  ダメにする幼児教育 6

2011-06-01 12:43:41 | 幼児教育の基本
今はレッスンが忙しくしてしていないのですが、
数年前まで、ときどき、子どもを預かる有料ボランティアをしていました。

2歳前後の子を預かるとき、必ず、近所をぶらっと散歩しに連れ出していました。
すると、小学校の前を通るたびに、
正門前にあるゆるやかなスロープを登ったり降りたりしたがって、5、6回はそれに付き合わされていました。

階段を「いっしょ(よいしょ)いっしょ(よいしょ)と登って、後は前にのめりそうになるのを足でふんばりつつ、駆けるように降りて……の繰り返し。
その後、乗っかってゆさゆさと揺らすバネのついた人形の乗り物がある小さな公園があるのですが、
その乗り物に乗せると、急に強気になって危ないほどゆさゆさ揺らして声をあげるのですが、そこで揺らしたいだけ揺らして……。
その後で、滑り台のあるもう少し大きな公園まで行って、滑ったり、
段差になっている縁を平均台を渡るように、ゆらゆらしながら歩いてみたりしました。
その後も、行く先々で、登ったり、降りたり、飛んだり、くぐったり、走ったり、座り込んで砂を触っていたり、小石を拾ったり、ぶらさがってみたり、小学生の遊ぶ様子を観察したり、
犬や亀を見に行ったり、猫を追いかけたり、ゲラゲラ笑って追いかけっこをしたり、疲れてだっこで移動したり、
お年寄りに話しかけられたり、自動販売機や電話機を観察したりして、
帰宅後は手を洗ってから、しばらく水遊びをしたり、小麦粉で作った粘土をこねて遊んだりしていました。

そうして書くと、ずいぶんいろんなことをしているようですが、
1、2歳の子が「んっ!」と真剣な面持ちで指さす遊びに、目的を定めずゆるゆると付き合っていると、
このくらいいろんなレパートリーがあるのです。

どうしてこんな話題を持ち出したのかというと、
幼い子と散歩をするたびに、アフォーダンスや感覚統合に関して
とても興味深い発見があったのです。

といっても、当時の私は、そうした言葉や概念を知っていたわけではありません。
ですから、あくまでも自分が体験としてわかっている知識と勘で
そうした概念に関する気づきを得ていたのですが。

そして「幼児って、学ぶことに関して、天才だな」という感想を持っていました。

というのも、現在、発達上のさまざまな問題を解決するために
経験を積んだ作業療法士の方が、
「姿勢を保ったり、バランスをとったり、スムーズに目を使うためにこんな活動を」とか、
「自分の体を使ってなれない動きをする活動」と考えて、
子どもに最適な感覚統合の体験を準備しようとするようなことを、
まだ2歳に満たない子たちが、
すべて自分で見つけ出して実行してしまうのですから。
「よくそれだけ、多種多様の活動を生み出すものね」とびっくりしていたのです。

とにかく自分のために選び出すレパートリーが
まんべんなくてバランスがいい……。
大人だったら、「バッチイからやめなさい」と言って
やめさせるような砂や小石がらみのプログラムも、
「目で小さなものを捉えて……」とか、「皮膚の感覚を……」とか、その時期に、
とても必要な活動である場合が多いのですが、
幼い子は、そういうのを絶対逃さないのです。

それも、訓練用の運動用具の中から見つけ出すのではなくて、
ただただ歩いて行って、目につくもの中から、
「体の動きや力の入り具合を調整する行為」「形や音を区別するための行為」や、「バランスを取るための行為」や、
「姿勢を保つための行為」や「集中力をつけるための行為」「感覚受容系を構造化する行為」「社会性を身につける行為」などを、
次々ピックアップして、しつこく繰り返して、
スムーズにできるようになるまでするのです。


次回に続きます。