虹色教室通信

遊びや工作を通して 子どもを伸ばす方法を紹介します。

一生懸命がんばっているのに、子育てがうまくいってないように感じる時 12

2012-04-24 08:57:14 | 教育論 読者の方からのQ&A

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公園での親の姿にしても、
児童向け施設のあり方にしても、
そうした施設で子どもたちにリトミックや工作をさせるときの大人の接し方にしても、
幼稚園や学校の先生や施設職員や親の姿にしても、
うちの子たちが幼い頃に比べて、年々、奇妙さが増していて、
行き過ぎや過剰さが当たり前になっている

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そんな風にわたしやわたしの親しくしている人々が感じたところで、

そうした奇妙な現実や行動や感じ方を「普通」と感じる人が多数派となった今では、

ゆったりと「待つ」子育てを実行している側が

無責任で奇異な子育てをしているように映ることでしょう。

 

何でもかんでも、どっちが奇妙か正しいかは多数決……つまり

「みんな」が賛成しているかどうかで判断しがちな日本の社会で

少数派は「自分の感性の方がおかしいのかな?」と口をつぐみます。

 

そりゃ、若いママさんたちの一部が特殊な感性をもって、そういう言動に走っている……

というのなら、祖父母世代や先輩パパママも黙っていないでしょう。

でも、学校の先生も子ども向け施設の職員もテレビの報道番組もこぞって

自分の身体感覚や感情をないもののように扱って

子どもをバーチャル世界のキャラクターのようにコントロールするか、見えない存在のように扱うかしているのですから……

それが「普通」でまかり通っている世の中で、

 

唯一、まだ「ダメ出し」するだけのまともさを持っているのは、

 

子どもだけとなっているのです。

 

皮肉なことに、大人たちの問題行動に対するダメ出しは、

「子どもたちの問題行動」という形でしか表現することが許されていないような

世の中になりつつあるのを感じています。

 

 

 


一生懸命がんばっているのに、子育てがうまくいってないように感じる時 11

2012-04-23 22:40:30 | 自閉症スペクトラム・学習が気がかりな子

汐見先生のおっしゃる「意欲のある、やる気いっぱいの子どもが育つ」 という方法を目にして、

「その通り」とうなずきつつも、

「子どもを見守る」ことが、一個人の親の気持ちでそうも簡単に実行できないような

世界に取り囲まれつつあるのでは……?

環境だけでなく自分の内面までも浸食されているのでは……?

 

そんなざわざわする思いを抱きながら、ずいぶん前に書いた記事を探しだしてきました。

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うちのダンナさん、息子が小学生の時から、
近所の小学校の校庭キャンプのお手伝いをしています。

それがこの数年のキャンプの様子の変わり様に、
怒りを通り越して、ため息をもらしながら、愚痴ることが増えました。

このキャンプ、いつも通っている学校の校庭にテントを建てて、一晩、友だちと過すイベントです。

食事のメニューを決めることから、買出し、テントの設営、キャンプファイアーの進行、友だちとの遊びなど、さまざまなことを、
「子どもたちだけで、相談しあいながら全て行う」
という趣旨のもので、

毎年、地域の子どもたちが楽しみにしてくれています。

それが、「子どもたちだけで!!」「子どもたちに決めさせてください!」「子どもたちに選ばせてください!」「失敗しても、まず自分たちで考えさせてください!」
と、前もって説明会までひらいて、繰り返し、声高に言い続けているにも
かかわらず、
年々、手を出す、口を出す、勝手に決めてしまう、勝手に子どもの代わりにしてしまう……という親御さんが増え続けて、
困ったことになっているそうなのです。

このイベントのメインは、自分たちでするテントの設営です。

数年前まで、班ごとに自由に建てているものですから、
「何だか、ぼくらのテントは屋根が低くなっちゃったね」
「私たちのテントは、ちょっとゆがんじゃった」なんてこともよくあり、
そうして、うまくいかないな~という状況にぶつかってから、
「もう一度やりなおそう!」と元気に建て直したり、
「低いほうが面白いじゃん」とオリジナリティーを自慢したりして、
和気あいあいとそれは楽しそうな時間を過していたそうです。

子どもたちは慣れないテントの設営ということに
チャレンジし終えて、ちょっと凛々しい表情をして、
友だちとの遊びにも熱が入って、いっそう楽しそうだったそうです。

自分たちで問題に気づき、自分たちで解決する。
自分たちで責任を負い、納得して、創造的に解決する。
(失敗した班が、失敗を利用して他の班より工夫したすばらしいテントに、修正することもよくあったそうです)

その伝統が、ガラガラと崩れて……

それが……この数年、
子どもがテントを建て始めるやいなや、

「少し進みが速い班の作っているテント」と
少しでもちがうところがあると、

すっ飛んできて、
そのまねをして直すよう強要する親御さんが、
現われ出したそうです。

「子どもたちだけでさせてください。失敗した後で、自分で考えさせてください」と注意していても、
1から10まで全て、子どもの耳元で、口を挟むのを、少しの間でもやめることは出来ない様子です。

料理中も、「あぶないあぶない」とすぐに包丁を取り上げて、代わりにやってしまう親御さんがいるので、
(学校では家庭科で調理実習をしている年齢の子たちです)
キャンプがきちんと成り立たなくなってきました。

校庭には、最初に建てた子たちの真似をしたテントがずらりと並び、
子どもたちはすっかりしらけて、
やる気も笑顔も失せてしまうそうです。

子どもたちの山でのキャンプを手伝っている知人も、
この数年の親と子の変化に驚いています。
一番目を引くのが、小学校高学年の子どもたちの遊び方が幼くなった
ことらしいです。
手伝いのお兄さん、お姉さんにもたれかかったり、水をかけ続けるなどのちょっかいを出すだけの
遊びに終始する子が多く、
もうすぐ中学生……という年齢の子たちが、
4,5歳児かしら?と思うような遊び以外で、遊べないのです。

また、習い事や家庭学習で忙しく幼児や小学生時代は自由に遊んだことがない……という偏差値の高い学校の高校生、大学生の子たちが、
子供向けのアニメ映画に連れ立って出かけたり、
子どもっぽいテレビゲームに夢中になっていたり、
カラオケやゲームセンターといった形がないと遊べなかったりする……という話を、別の知人たちからよく耳にします。

この急速な親の変化や、子どもの変化……

それぞれ各家庭で、努力したら……何とかなるものではなくなったんじゃないかな?

もう、国が動かないと(ナチュラルな子育てを支援する施設でも作って)、
どうしようもないんじゃないかな?
と頭を抱えてしまいました。

やっぱり国では難しい……?
どこかのクリエイティブな企業に、一肌脱いでもらわないと、
うまくいかないのでしょうか?

前々から、勝手に、

★大阪に(日本に)こんな子供向けの教育施設が欲しい!!
★大阪に(日本に)こんな子供向けの教育施設が欲しい!! 2

という案を練って、勝手にブログで訴えていますが……

これに知人が、「もうひとつ、必要なものがあるわ」と、
「このところの子育ての緊急事態」を打開する方法を考えてくれました。

児童向けの施設などで、親が「手を出さず 口を出さず がまんする」練習をする場を作って、
がまんしてみた後、
子どもがどのようにきちんと自分の問題を自分で解決するか、
自分の目で確認できるように
職員が手助けするというもの……

さすが……ナイスアイデア!

親御さんたちは、どうしても、子どもに口や手を出さないと不安になってしまうので、
口や手を出さないでもうまくいったという成功体験を積んでもらうのですね。
確かに、そういう練習をしないと、
子どもとのちょうどよい距離感がわかりにくいようです。
現代社会の変化のせいでしょうか?

このままだと、子どもたちが大変なことになってしまいますね。

虹色教室通信を読んでくださっている読者の方々も、
「手出し」「口出し」の量を減らす
良いアイデアがあったら、聞かせてくださいね。

今、幼い子を育てている方々は、
最初からこうした環境で始めているので、奇妙で、おかしなことになってきた……と言われても、
何だかピンとこない方がいるかもしれません。
でも、公園での親の姿にしても、
児童向け施設のあり方にしても、
そうした施設で子どもたちにリトミックや工作をさせるときの大人の接し方にしても、
幼稚園や学校の先生や施設職員親の姿にしても、
うちの子たちが幼い頃に比べて、年々、奇妙さが増していて、
行き過ぎや過剰さが当たり前になって、

「家の鍵を閉めたとわかっていても、何度も戻って、鍵を確認しなくちゃ気になって、仕事に出るのに支障をきたすような困った習慣」

にも似た、「病的なこだわり」が、

なぜか、子どもに対してだけ、集中して行われているのをよく見かけます。

「いったい何がどうなっちゃったの?」

「日本中の大人が、テレビ画面の中で動く
テレビゲームの主人公を動かすことだけに気を取られて、
自分のことはお留守になっちゃっているの?」という感じで、

例えば、子どもに「ちゃんと先生の話を聞きなさい。指示にしたがいなさい」と、

耳元でささやき続けながら、ちょっとでも、よそ見しようものなら、
大騒ぎするもの、
「子どもに話しかけないで下さい。」という繰り返される
「大人への指示」は、
聞いていないし、守る気持ちもないという方があまりにも多いのです。


自分と子どもの間には、
「ゲーム内の主人公」と、「外でコントローラーをにぎる人間」くらいに隔たりがあるのです。
ただこの関係は、隔たりこそあるけれど、
「ゲーム内の主人公」=「外でコントローラーをにぎる人間」であって、
ゲームをしている人にとって、同一人物なんですよね。

子どもや、自分にあれこれ注意する人も、やはりテレビ画面の中の
登場人物の一人でしかないので、
何とか子どもに、スムーズにその画面をクリアーさせる方法にだけ気持ちが集中するものの、
ゲーム内から聞こえる自分への声は、
本当の意味では自分の心に届いていません。自分は世界の外に存在しているわけですから。

「はやくはやく~他より高得点をゲットして、次の画面に移らなくちゃ~」という感覚が、ベースにあって、

園のプレであれ、習い事であれ、学校生活であれ、受験であれ、
「ひとりの子の人生の1シーンであり、個性が熟成していく過程」という
従来の親の感覚が失われ、

「ひとつのゲームソフトの完全クリアーを目指すような参加のさせ方」
になってきているのです。

「それのどこが悪いの?」と疑問に思う方もいるでしょうが、
とにかく●●式で賞をもらうとか、習い事で進級するとか、教室では先生から注意を受けないようにきちんと過すとかはバッチリなんだけど、

子どもの中に「自我」と呼べるものが、感じられなくて、

小学校高学年になっても、自分が何が好きなのか、何をしたいのか、
自分はどんな遊びが楽しいのか、大人が褒めてくれなくても、
義務じゃなくてもできることはあるか、自分とはどんな人間なのか、どんな夢や目標を持っているのか、どうありたいのか、誰にあこがれるのか、どのように生きたいのか……

そうしたものがひとつもわからない……

わからなくて不安だから、賞とか進級にさらにしがみつくけれど、どれも年々、

自分にとって無意味なものになっている……(大学受験の年には、

プールの進度なんてどうでもいいことになっちゃうのですよね)

さまざまな情報は、「子どもにこんなものを与えなさい、こんなことを教えなさい、

これを読んであげなさい、話しかけなさい、英語を聞かせなさい、

こんなことをさせなさい、こんなことができるようにしなさい」と煽ります。

でも、その情報からは、
子どもは、自分の頭と身体を使いながら、自分にとって必要なものを探索し、

取り入れ、真似し、精神的なものを向上させながら、
自ら成長していくものだ……
という事実が、スポッと抜けているのですよ。

人間の子どもは、
プリモエルとかファービーちゃんとか、たまごっちとは、

かなり異なる育ちをするんだ、存在の次元が異なるんだってことが、
あいまいになっている……わかりずらくなっている昨今の子育て……
どうなんでしょう?

「自分という中身を抜かれた子」
「ゲーム画面の主人公としてしか生きてこなかった子」が増産され続けているような……。

そうした中で、現実に耳にする成長した子どもたちの姿も、
かなり深刻な問題を帯び始めています。

うちのダンナさんは、将来教員を目指している青年たちなどが、
子どもたちを世話して、リーダーを育成する
ジュニアリーダーを研修するキャンプに毎年参加しています。
それが、こうした場で、これまで考えられなかったような
事態が起こっているのです。
世話する側の青年たち(教員を目指しているような子たちです)が、
かつては非常にしっかりした子たちばかりだったのですが、
最近は、年下の子に対してキレたり、舌打ちしたり、横暴に振舞ったりするので、

研修が研修ではなく、ただのお遊びキャンプになってきているのです。
年齢相応の自覚や、自分としての感覚が乏しく、
幼い子のようにその場、その場の気分に流されて行動しているのです。

でも、変化しているのは、青年たちだけではないのです。
教室の4歳児さんが、市の主催する工作教室に参加したときのこと。
参加した子どもふたりが、
自分たちで懸命に作品を仕上げてもっていくと、主催していた人は、
貼り方がゆがんでいるということで取り合わず、
お母さんが作品を仕上げてしまった子の見本通りできているものを紹介して、
褒めていたそうです。
その工作の場で、自分たちで作っていたのは、
その4歳のふたりだけで、後の子たちは全員お母さんが作っていたそうです。

また、幼稚園でも次のようなことが起こっています。
教室の生徒さんが、親子で参加する美術の集まりに参加していたときのこと、
りすを黄色で塗ろうとした子に、
「りすは黄色ではないから、この色で塗りなさい」と先生が強要し、
子どもが泣いていやがっても、
「他の子がりすは黄色だとまちがってはいけませんから」と取り合わなかったそうです。

そして、うちの近所の児童館や児童向け施設も、変化の波が……。
以前は、子どもたちが職員さんたちとゲームをしたり、

工作をしたり、駆け回って遊んでいたのです。
が、職員の移動が相次ぐ中で、
(児童館とはいえ、子どもと接する仕事が初めてという方が増えてきて)
最近は、おもちゃの貸し出し施設と化しているのです。

今はもう、子どもたちに、楽しそうに創造的に遊ぶ姿も、笑顔もありません。
どのおもちゃを借りるか、飽きたら、どれと交換するか……それを繰り返すだけです。
レンタルビデオ店の雰囲気が、そのまま児童館にコピーされている感じ……です。
遊ぶ子も、個々で、まるで、借りたビデオでも見るように、

おもちゃをちょこっといじっては返し、の繰り返し……。

何だか、子どもをめぐって大変なことになっているのだけど、
このままでいいのでしょうか……?

しつこいようだけど、国か、企業か、親か……誰かが、
少しずつでも軌道修正していかないと、これから成長していく
子どもたちが、どうなっちゃうのか……?
固唾を呑んで見守っているところです。


アスペルガー症候群の子の興味の範囲を広げたパソコンソフトとの出会い 2

2012-04-23 16:20:19 | 自閉症スペクトラム・学習が気がかりな子

◎ちゃんは4年生くらいまで、「2本の棒の長短を比べる」ということにも

苦心していました。

とにかく繰り返し手順を暗記していくことで

何とか学校の勉強についていっていましたが、

図形に関わることは、

手順を丸暗記するのではなく、直観的に「わかる」ことを求められることも多いため、

極端な苦手さを持っていました。

 

でも前回のレッスンで『バランサー+』で遊ぶ◎ちゃんを見ていると、

同じ形の図形を見つける時には、苦手どころか年齢相応かそれ以上の能力を感じさせるほど

的確に答えを選んでいく姿があったのです。

 

どうも◎ちゃんは、図形が苦手なのではなくて、図形を教わる時の学校の授業にある暗黙のルールや

問題ごとに変わる求められている内容の変化が

読みとれなかったようなのです。

 

図形の細部の違いを見分ける力や

図形がひっくりかえっていても、最初と同じ図形だとわかる力には

かなりしっかりしたものを持っていたようです。

 

今回はバランサーの後で、『ピッケのつくるえほん』という

絵本を作るソフトで遊びました。

 

はじめてすることにはめったに興味をしめすことがない◎ちゃんですが、

この『ピッケのつくるえほん』は自分で顔の表情を変える方法を見つけたり、

文字を打ち込んだり(パソコン画面にスタンプで文字があらわれます。英語を打ちこむこともできます)

拡大縮小したりして作っていました。

印刷して絵本作り。↑◎ちゃんが全て作りました。

 

表紙の見本です。タイトルと名前は簡単に入ります。

(◎ちゃんの作品ではありません)

 


◎ちゃんは『子ども脳機能バランサー+』のソフトのように、

統一している秩序や枠組みがあると、


あいまいさや注意をどこに向けたらいいのかに悩むことなく学習を進めていけるようです。

 

ワークやプリントで学ぶのでは取り組むこと自体が難しかった分野の作業も

同じペースで正解が示されるこうしたソフトでするのだと

きちんとできていました。

角度を学習中。

細部に反応して記憶で答えてしまう◎ちゃんは、

どこからどこまでが180度だかわかるし、3ケタの計算もできるのですが、

↓の黄緑であらわされている角を「70度」と答えてしまいます。

こうした時に、「180度」という時、「百~」と言って人差し指を振り、

「八十」という時、8の指を提示してみせると、

180から引いていることを頭に置きながら答えを出すことができるようになりました。

 

こうした指での提示はイメージできるようになったら早めにやめた方がいいでしょうが、

部分に反応して頭が切り替わりにくい時のガイドになります。

 

次に何をしたらよいのか、そうしたちょっとした視覚的なサインがあると、

最初の思い込みにこだわって先に進めなくなっている状態から

抜け出せるようです。


アスペルガー症候群の子の興味の範囲を広げたパソコンソフトとの出会い 1

2012-04-23 13:21:09 | 自閉症スペクトラム・学習が気がかりな子

この春、小学5年生になったアスペルガー症候群の◎ちゃんのレッスンで。

教室に着くなり◎ちゃんのお母さんから

とてもうれしい報告を受けました。

 

前回のレッスンの休憩時間に『子ども脳機能バランサープラス』

というパソコンソフトで遊ばせてあげたら、他の遊びでは見たことがないほど顔を輝かせて

積極的に取り組んでいたのです。

それをお知らせしたところ、◎ちゃんのお母さんは、

「いつもひとつでもいいからこの子が楽しいと思って

取り組めるものを増やしてあげたいと思っているんです」とおっしゃって、

お家でも遊べるようにDVDを購入なさいました。

そしてお家でバランサーをするうちに、図形の向きが逆さまでも

同じ形だとわかるようになってきたそうなのです。

 すると、これまでは対応する同じ角を見つけるといったことが苦手で、

図形の問題がちんぷんかんぷんだったのに、

5年生の授業で合同な図形を習いだすと、「わかる~!わたし、できる!」と

自信を持って学びはじめたのだとか。

 

また、できないからと避けていたことが、急にできだして

何事にも意欲的になってきたそうです。

5年生に進級してから、自分からクラスのみんなをまとめる役に立候補し、

担任にサポートしていただきながら新しい役割をがんばってこなしているのだとか。

 

◎ちゃんのこうした急激な変化を最初に耳にした時は

ちょっと半信半疑でした。

 が、いっしょにレッスン時間を過ごすうちに、わたしも◎ちゃんの成長を

深く実感することになりました。

 

もちろん、◎ちゃんの急成長には「このパソコンソフトで遊んだからこんなに成長した」というような

単純なものではないはずです。

たまたまいろいろな面で急激に成長する高学年になる時期だったということや、

本人の脳の特徴にピッタリ合う教材で、「できる」という自信につながったということ、

これまでしてきたさまざまな働きかけが、外にアウトプットされつつあることなど、

さまざまな要因が関わっているのでしょう。

 

最初に驚いたのは、工作への取り組み方の変化です。

◎ちゃんの興味の幅はとても狭くて、

動物に関わることとドールハウスの小物を並べることに限定されていました。

何の話をしていても、返ってくるのは動物に関する図鑑で仕入れた知識か、

動物園で観察した動物の話、

遊びたがるのはドールハウスに小物を置いていくという作業と

決まっていました。

 

虹色教室では◎ちゃんの興味の範囲を広げるために、いっしょに動物の世界のジオラマを作ったり、

動物の図鑑を手作りしたり、動物の生活をごっこ遊びに取り入れて遊んだり

してきましたが、

楽しそうにはしていても全て受動的に取り組んでいて、自分から

「こんな風にしたい」「もっと~したい」と言うことはありませんでした。

 

こだわりのある動物以外のことには、

注意を向けていることが難しく極端に無関心なため

理解する力があるはずなのに理解できないものごとがたくさんあったのです。

 

勉強面では、非常に易しく思えるような「どれが直角か探す」といった問題も、

そのままではいつまでも理解することができず、

わたしが直角を文鳥のくちばしに見立ててみたり、

動物が直立して立っている様子を表現して、「直角ってどういうことかな?こんなかな?あんなかな?」と

動物の人形や手で表現しつつ教えて、

ようやく理解していく状態でした。

 

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◎ちゃんとのかばん作りの様子です。

「◎ちゃん、猫の形のかばんを作ってみない?」とたずねたところ、

「鳥がいい。コマドリのかばんが作りたい」と言いました。

 

前回のレッスンで、美しい色つきのガラスのおはじきを集めて

「鳥の巣!鳥が宝物を集めてきてるの」と言って遊んでいたのを思いだし、

透明のシートを鳥の形に切って、脇をテープでとめた下地と、

スパンコールやフワフワしたデコレーションボールやビーズなどをそろえてあげました。

すると、「これを羽根のところでに貼ってもいい?」「裏側にもビーズを貼るときれい」

「持つところにもフワフワの貼る~」と自分で考えたアイデアを口にしながら

熱心に作っていました。

 

指示されたことには、指示された通り、何を自分がしているのかも考えていない様子で

取り組むけれど、

自分から「こういうことをしよう」というイメージを口にして物を作る姿を見たのは初めてです。

 

 

 

それが1つ作り終えても、「まだ、作りたい」「もっと作りたい」と

これまでにない意欲を見せるので、

お家でもひとりで作れるように

コーヒーフィルターに取っ手をつけただけの簡単かばんの作り方を教えました。

それから、デコレーションして遊ぶために

コースターを鳥の形に切ってあげました。

 

 

 

 

 


二等辺三角形が浮き出て見える? 3年生のレッスンで。

2012-04-22 20:51:44 | 算数

小3の★ちゃん、☆ちゃんのレッスンで、角度について学びました。

折り紙で正三角形を作ったり、二等辺三角形を作ったり……。

 

三角形の内角の和が180度ということを知っているだけで、

いろんな角度がわかっていくのはパズルみたいでとても面白かったようです。

 

今、囲碁にはまっている★ちゃんは、ひと目みるとパパッと

形が浮き出してくるように感じて答えがわかるみたいです。

すっかり気に入って、角度の問題ばかり解きたがっていました。

 

角度の問題を解くための助っ人 の 二等辺三角形の小人です。

どうやったらこの小人が作れるかという工作の段階の理解ができると、

「重ねて切って広げるとできるわけだから、小人の足と足の角度が同じだ」

と察することができるようになります。

それから、この小人を逆さまにしてみたり、太った小人を作ったりすると、

たちまち二等辺三角形通に~♪

 

そうして二等辺三角形の小人が

最初の問題のなかに、忍者のごとくどのように

隠れているのか……?と探してみると、

正三角形以外に3つも見つかるのです。

二等辺三角形を見つけたら、小人のくつが同じサイズだったことを思いだし、

答えがでます。

 

他にも折り返した角度から角を求める問題などは、折り紙遊びをしていると

楽しく解けます。

 

かばんを作ったり、実験したり、割り算のストーリーをハムスターで演じたりして、

楽しみました。

↑10円をお酢につけてピカピカに~。

実験データーを表にする方法について

いっしょに考えました。


ハイコンセプト 「新しいこと」を考えだす人の時代

2012-04-22 19:18:58 | 番外(自分 家族 幼少期のことなど)

ここで紹介するような話は幼児を育てている親御さんには、遠過ぎて興味が湧かない内容かもしれません。でも、子どもたちが成長して社会に出て行く年齢になるまで、今の時代は今の時代のままではありません。

うちの子が幼かったころには周囲の裕福なお宅の親御さんは、
「子どもは歯医者にするか、薬剤師の免許さえ取らせてあげたら、一生安泰で食べていける。
今いくら教育費がかかったとしても、遊び時間を削ったとしても、
このどちらかの道に進めるよう何でもする」とおっしゃっていました。
それが、その子たちが社会にでる今となって、人気の職業だったどちらも
なり手が多すぎて十分な収入がないという方々もけっこういるのです。

ですから、まだ子どもが幼くても、社会の将来に向けて、少しだけ興味のアンテナを向けておくことは、とても大事なことだと思っているのです。

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『ハイコンセプト 「新しいこと」を考え出す人の時代』
ダニエル・ピンク 大前研一(訳)  三笠書房

には、日本人がこれから一番身につけなければならない
★「右脳を生かした全体的な思考能力」
★「新しいものを発想していく能力」
と、
★その実現の可能性を検証する左脳の役割

などについてわかりやすくまとめられています。

この著書が、これまでの時代を象徴する能力、すなわち「情報の時代」を引っ張ってきた「左脳的」能力は、今日も必要だが、それだけでは十分ではない。
これまで軽視されてきた創作力や共感、喜びといった「右脳的」な特質が重要になるとと主張している理由は次の3つです。
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●過剰な豊かさ

「左脳主義的思考」によって生じた豊かさ(多くの人が車、電化製品、多様な物を所有している)は、その重要性や価値をさげ、手ごろな価格で十分な機能が備わっているだけでは売れない時代となった。
それほど合理的ではなく、右脳的感覚に訴えるもの、つまり美しさや精神性、感情といったものに、より大きな価値が見出されるようになった。

●アジア

高校でよい成績を修め、有名大学でエンジニアリングかコンピューター・サイエンスの学位を所得し、ソフトウェア企業で働き、銀行や航空会社向けのコンピュータ・プログラミングを開発しているインドで働く人々は、年収160万円に満たない年収で働いています。
こうしたインド各地やフィリピン、中国などで同様の職業についている人々が、北アメリカやヨーロッパのソフトエンジニアや左脳的職業につく人を大いに脅かしています。

アウトソーシング(間接業務の国境を越えた委託)問題は、
今日のナレッジワーカー(ドラッカーの言葉で、学校で学んだ知識を生かして収入を得ている人々のこと)たちに、「業務を処理すること」「人間関係を結ぶこと」「ルーチンワークをこなすこと」よりも、
「斬新な課題に取り組むこと」、「全体像をまとめあげること」といった「右脳主導型」の能力を活かすよう課題を示しています。

●オートメーション

典型的な左脳思考型の3つの職業、コンピューター・プログラマー、医師、弁護士について考えてみる。

イギリスの小さな会社が、ソフトウェアを書くことのできるソフトウェア開発し、一般的なプログラマーが一日にする仕事を、1秒で仕上げてしまうようになった。単純作業は機械がやることになるので、エンジニアやプログラマーは、「処理能力」より「創造力」、「技術マニュアルで得られる知識」より「潜在的知識」、「細かい部分にこだわること」より「大きな全体像を描く脳力」がますます求められるようになった。

オートメーションによって医師の仕事も変わりつつある。一連のデンジョンツリー
(「乾いた咳か、たんのからむ咳か?」「T細胞の数は標準以下か?以上か?」など)をたどることで病気を診断する手法が使われてきた。
二者択一ロジックのデンジョンツリーなら、コンピューターは人間が足元にも及ばないほどの速さと精度で処理できる。そこで患者がコンピューター画面の問いに答えていくだけで、医師がいなくても予備診断を下せるソフトウェアやオンラインプログラムが登場してきたのである。

同時に近年、医療健康関連の電子情報データーバンクが飛躍的に増えてきている。
こうした技術の発展によって、医療活動の中で、定型的で分析的で情報に基づいた作業から、患者と共感し、語り合う医療や全体的なケアへ移行しつつある。

同じパターンは法曹界にもあらわれている。
海外のあるウェブサイトでは、安い金額で離婚にかかる手続きを処理してもらえる。こうした変革に生き残れる弁護士というのは、非常に複雑な問題に取り組むことができるデーターベースやソフトウェアにはできない仕事をこなせる人である。

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『ハイコンセプト』の中で語られていることは、けっしてオーバーな妄想などでなく、すぐ目の前に迫ってきている現実なのだと思います。

 

『ハイコンセプト 「新しいこと」を考え出す人の時代』には、
これから成功する人物像のひとつに、

「二つの文化に通じ、ハードな面の知識とソフトな面の知識を兼ね備え、
ときには対立することもある異なる集団の間を外交官さながら如才なく行き来できる人」

が挙げられていました。
異なる文化の橋渡しをして、創造的な何かを生み出していくという仕事は、
海外でだけ必要とされているわけではないな。
同じ日本人同士でも、人の能力と人の能力を橋渡しをする力に秀でた人がいると、
新しい価値がもっと生まれてくるはず……

そう感じたきっかけは、先日、右脳的な特質が今後の成功のカギと書いてあったとつげたときの、「右脳かー!ぼくはどっちかっていうと右脳寄りだし、右脳派を応援したい気はあるよ。でもさ、じゃあ、右脳が大事だって人ばかりでいろいろやり出すと、やっぱり左脳派の人で回っていた時期より悪い状態になって、もとの状態に逆戻りってなるんじゃないかな?」という手厳しい息子の反応からでした。
右脳的なものが大事になると言っても、右脳的なものだけではビジネスは成り立たないのでしょう。(それは『ハイコンセプト 』でも強調されていました。)

デザインに敏感で、共感することができ、物語を生み、遊び心があって、全体の調和を大切にし、「モノ」より「生きがい」に価値を置く

そうした右脳的といわれる特徴を持った平成生まれの子どもたちは、
どこででも見かけます。

うちの子どもたちも、特に娘はそういう資質に優れているように感じます。
娘は自分のそうした資質を軽視しているけれど、
私はその繊細な能力のクオリティーの高さにいつもうなってしまうのです。

しかし、右脳的な特徴を持っていると、飽きっぽかったり、ミスが多かったり、ハングリー精神が弱かったり、
仕事が遊びの範疇から抜け出しにくかったりと
それはそれで社会に通用するわけではないのです。

これまででしたら、社会に出たとたん、そうしたタイプの子の弱さもろとも、
良い右脳的な資質も世の中に叩きつぶされてしまったことでしょう。

それが、『プロウ゛ォカティブ・シンキング 面白がる思考』  3で取り上げた、「三日月百子(みかづきももこ)」という創業12年で年商28億円の売り上げる300円均一ショップの物河昭社長の

『直感でビビビッと感じて動く女の子たち』と

『大きな売り上げを誇るビジネス』の間に橋をかける知恵のすごさに驚いてしまったのです。

この社長は、まさに右脳的なものだけで考えているような女の子たちに仕入れまで任せているわけですが、そこには、この子たちの弱い部分を補い失敗させない工夫をうまく盛り込んでいるのです。

「仕入れ額はすべて150円、それ以上高くても安くても契約しない」
というルールです。
どこがすごいのかと言うと、右脳で判断する子らは、まさに一瞬見たときの「カワイイ!」のあるなしで、買う買わないを決めています。
そこに深い理由はありません。けれどもそこには今の時代に響くデザインや遊び心といったものを的確に見分ける勘が存在します。

ただ、150円という決まりがあると、無理を言う売り手に若い女の子たちも断る口実ができるし、安い値段設定に気持ちがゆらいで本来の直感的な「カワイイ」が働かなくなることもありません。
右脳的な力だけが突出した子たちも、考えず、感性と感情だけで
仕事ができるようにする社長の工夫なのです。

この社長の知恵に触れて、
「これからは互いに相手の弱点を責め合って、足を引っ張り合う時代ではないんだな。
互いの長所を全面に出して、調和させ、弱点を補い合って新し物を生み出していく時代なんだな」
と感じました。

前々回、『創造的で生産的な何かを生み出す会話って?』という記事を書いたので、過去記事から、会話から新しい創造的なものが生まれてきた出来事を見つけてきました。↓

 

わが子が、小学生だった頃、
もっとも大切にしていたのは、
ワークをさせることより、何かを教えるよりも、
まずよく「会話をする」ことでした。

マンガを読んだり、
テレビゲームをしたり…子供たちは自由に過すことが多かったので、
していることの質はどうか…???
というと実に怪しい時もありました。
しかし、子どもが、「どうかなぁ…?」
と思う遊びに傾倒しているときも、
その内容について、親子で深い部分まで掘り下げて
討論するようにすると、
それはそれで、子どもにとって、
すばらしい成長をもたらしてくれたように思います。

小学校中学年頃、
娘の場合、きちんと机に向かうことも多かったのですが、
息子はとにかくゲームをすることが好きで、
今日のところは勉強には目をつむっておこう…
という日も よくありました。

そこで、ワークをさせるかわりに、
息子の大好きなゲームについて語り合ったり、
調べたりしました。

当時、私は、娘や息子の言葉をできるだけそのまま
記録して残しておきたいという思いがありました。
そこで、日々の出来事や家族会議の様子を
会話を中心に書き残していました。(原稿用紙にして何百枚…)

その頃は、あまり深く考えずしていたのですが、
今になると,その時期その時期の 心や知能の成長の記録として
大切な宝物になっています。
乳幼児さんも写真だけでなく、おしゃべりも記録しておいてあげてくださいね。

それで、この調べ学習というのも、
息子と私が、ひとつの疑問について会話を膨らませていった
過程の記録が中心になっています。

息子が小4の時の家族の会話です。

家族でゲームをしているとき、
息子が、どうして将棋ばんは、9×9マスなのか?
ということに疑問を持ちました。

息子 「チェスもオセロも8×8マスなのに、どうして…
将棋はなんで…9なんて2つに割れない中途半端なマス目をしているんだろう?
戦うとしたら、領土がきちんと半分ずつ分かれた方がいいんじゃないかな?
不思議だ。」

母「もしかして他の国の領土に侵入していくような戦い方を
する人々と、決闘場をもうけて戦ったとか?
将棋がどうやって生まれたか知りたいわ。」

父「奇数っていうのは、覚えやすいからだよ。きっと。」

息子「覚えやすいって?」

父「将棋のこまの位置を暗記して、頭で動かすとき、
偶数より奇数の方がごちゃごちゃになりにくいと思うよ。」

  数日後 なにやらひらめいた息子

息子「9は3で割り切れる数でしょ。
自分の陣地、相手の陣地、中心の戦いの場が、まったく同じになるんだよ。
それから、オセロが64マスなのは、
こうじゃないかと思うんだ。
オセロは黒と白の多さで決着するから、マスは偶数でなくちゃいけない。
でも100マスでは多すぎる。
次に小さいマス(でちょうど良いのは…)は8×8の64なんだ。」

父「それは、おもしろいアイデアだ。」

母「本当によく思いついたね。
うちの家族は、推測したり仮説を立てたりするのは好きだけど…
そう、実験するのもすきだよね。
でも、きちんと理由をたしかめて、くわしく調べることはめったになかったでしょ。
今度、図書館を使った「調べる」学習賞コンクールって
いうのがあるらしいから、納得がいくまで調べてみない?」

息子「ぼくは、ずっと前からさいころがなぜ6までなのか、トランプがどうして52枚なのかと不思議に思ってきたし…
ゲームと数の秘密について、もっと知りたくなった。
チャレンジしてみるよ。」

…という会話からスタートした、調べ学習でした。

で、調べる段になって
息子「ぼくの考えは仮説だから、本当のことをしらべてみなくちゃってお母さんは言うけど、本にのってることも仮説の場合があるんでしょ。
いろんな人が、いろんな別の仮説を立てている場合とか…。
大昔のことなんて実際見た人いないんだもん。」

母「でも、思いつきの仮説とたくさんの事実にもとづく仮説は、別物よ。」

息子「ぼくさ、さいころってだれがつくったか不明だと思うよ。
昔の人が、石ころころがして表とか裏とかしていて、自然にさいころになったのかも。
だから、本当に作った人とかいるのかな?」

…つづく。
こんな風に、小学校時代は、勉強させるより、
いっしょに会話を楽しむことが多かったです♪
今になると、かなりプラスになっている気がします。
調べ学習のヒントになるかと思うので、少し続きを書きますね。

息子といっしょに調べ学習をする時、私たちは、
本を見て表にまとめるのではなくて、
最初に「表の枠」を作って、
あとから本を調べながら整理していきました。

そうすると、表に空白ができて、きれいに仕上げることは、できません。
いくら調べても、資料がないことも多いからです。

しかし、その空白が好奇心を刺激し、
たくさんの本に接する機会を作ってくれました。
もしこれが、すぐれた資料を
ただ整理し、要約する形でまとめていたら、
調べが、わくわくする体験にならなかったのではないでしょうか?

はじめに、インドの象棋(しょう棋は、インドで生まれたそう。ただ、日本では
象に乗って戦う習慣がないので、当て字の将がつかわれたのだとか…。)
チェス
中国象棋
日本の将棋
のマスの数、図、ルール、ルーツ、特徴について、
表にまとめました。

そこで、息子が驚いたのは、9×9マスは、
日本人が考えたとばかり思っていたのに、
子ども用の中国象棋で7×9マスの写真を見つけたことでした。

息子との会話の中で、
東洋的な考え方から、マスに奇数のアイデアがもたらされたのではないか?
という新しい仮説が生まれました。
東洋の過去の「家」制度からいっても、
チェスのように女王が戦場に出てくるゲームは受け入れられなかったのでしょうか?

つまり、チェスのようなゲームから、
女王が除かれて 奇数になったのか…??

そう考えるうち、何時代に将棋や囲碁が日本に入ってきて、
どのように遊ばれていたかを調べないと、
こんがらがってきました。

そこで、息子は、はじめて「歴史年表作り」にチャレンジしました。

そうして進んだ調べ学習は、
さいころのなぞに取り掛かり始めたとき
最高にわくわくするものになりました。

当時の息子の作文です。

「さいころのすごいなぞ」 4年○組○○○○

図書館でとりよせてもらった本は大人向けの専門の本だった。
けれどびっくりするような写真がいっぱい載っていて、ぼくは夢中になった。
一番驚いたのは、紀元前8世紀のアッシリアのさいころ。
他の資料では、ずっと、後になっても、
ぼうの形や動物の骨のさいころを使っているのに、
なぜかこんな昔に立方体のさいころが。
おまけに絵のさいころじゃなくて、今とおなじ玉の数を
あらわしている。
写真をじっと見ていたら、横の面に大きな穴のようなものが見える。
なんだろう。
「この数なんだろう。」とお母さんが言ったので、
ぼくは急いで自分のさいころを持ってきて、
面と面をくらべてみた。
4のはずだ。
でも、穴はひとつみたいだけど。
「昔のサイコロは、今とおなじ玉の位置とは限らないよ。」と
お姉ちゃんが言った。
ぼくは、さいころのなぞを考えるのが、おもしろくておもしろくて、
こういうことを調べる学者さんになりたい、
と思ったくらいだった。
でも前からなりたかったゲームをつくる人になる夢も捨てがたい
ので、「将来はゲームをつくる人になって、
参考のために、そのなぞを調べたりする人になりたい。」と言った。



うちの息子は、何をするにも、たらたらぐずぐすする性格で、
宿題に取り掛かるのも、明日の準備をするのも、とにかく
あとまわし…。
ねころがってゲームの攻略本を何時間も眺めていたり、
休みになると食事に帰るのも忘れて遊びほうけていたりしました。
1つくらいは習い事をさせたいと思っていたのですが、小学校の6年間、
頑固に拒絶して、何もせず…。
それでも、こうした作業をいっしょにしてみると、
そうした子の中に広がるイマジネーション溢れる世界に触れたような
心地がしました。
それぞれの子に、それぞれの個性…わが子もその通りです。
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一生懸命がんばっているのに、子育てがうまくいってないように感じる時 10

2012-04-22 06:46:37 | 教育論 読者の方からのQ&A

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では、汐見先生は、どうしたら「意欲のある、やる気いっぱいの子どもが育つ」

とおっしゃっているのでしょう。

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の答えは、「子どもなら誰もがもっている好奇心の芽を、摘まないようにして

あげればよい」です。

 

『親がキレない子育て』には次のように書かれています。

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最近は、子どものやる気になさが問題になっていますが、子どもはもともと好奇心とか

自主性の可能性をたくさんもっている存在です。

それを上手に引き出してやればいいだけなのですが、

そのコツをわきまえていないと、

せっかくの可能性も十分伸ばせなくなってしまかもしれません。

 

好奇心を引き出したり自主性を育てるのに最も大事なのは、子どもの先回りをしないで、

「少しうしろからついていく」ことです。

具体的にいえば、子どもが「これ、なんだろう?」と思っているようなときには、

満足のいくように自由に探索の体験をさせてやることです。

お母さんは危なくないようにサポートしてやり、子どもの必要や求めに応じて

対応してやればよいのです。(中略)

 

好奇心を満足させてやり、自主性を育てる育児というのは、言いかえれば、お母さんが

ゆったりした気持ちで子どもに接し、子どもの求めを存分に満足させてやる育児

ということになります。

     『親がキレない子育て』  汐見稔幸  サンマーク文庫

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さまざまな情報が氾濫するなかで、「あれも大事」「これも大事」という情報に踊らされるうちに、

こうした子どもの本当の姿や本質的な性質に基づいて発信されている情報も

数ある情報のひとつとして軽く扱われてしまうきらいがあります。

 

情報を受け取る側が、

何が本物で、何が誇大広告なのか、

何が大切で、何が自分のエゴをくすぐっているだけのものなのか、

何が必要で、何が強迫的な社会に煽らされているだけのものなのか、

を見分ける力を失いつつあるからかもしれません。

 

ここまで自分で書いておきながら、それをくつがえすようなのですが、

「それだけの問題なんだろうか?」という

もやもやっとした疑惑が自分のなかに渦巻いています。

 

言葉でさらっと書いて、

そういうことが言いたかったのね~と納得してもらって終わることができないような

何かが、自分の伝えたいことの背後にはあって、

それを言語化する難しさに

長々とあれこれ書いた後でくすぶってもいます。

 

このテーマで記事を書き始めた時に書きたかった

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「優しくて常識的な普通の親とごく普通の子」のペアにしか見えないのに、

親のひとつひとつの言動が、

子どものセルフエスティームを下げ続けることがある

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

という

「現代特有の」とした親子関係のこじれとは、先に書いたようなようなことを

含みつつも、

また別のわたしの感覚では理解できないような種類のものを

背景にしてもいるのです。

それは言葉で表すよりも、以前、わたしが遭遇した日常のひとこまを紹介した方が

何がいいたいのか気付いていただけるのかもしれません。

 

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息子の用事で出かけた帰り、大きなショッピングセンター内にある本屋に寄りました。
本屋の中を小学3年生くらいの塾かスポーツ教室帰りらしい3人の男の子が
走り抜けようとして、2人めと3人めの子が身体を本に引っ掛けて、
バサバサと数冊、床に
落としました。

引っ掛けた男の子ふたりは
いっしゅんとまどったような顔をして振り向き、本を見てから、
先に走っていった友達を追いかけました。
レジそばのマンガコーナーで、今度はマンガの上に身体を持たせかかって、
知っているマンガを奪い合っています。
ちょうど雑誌を買う予定でレジに近づいた私は、
さっき本を落としたまま走っていった男の子たちに、
「さっき本を引っ掛けて、落として行ったでしょう?売り物よ。お店は遊び場ではないからね。」と注意しました。
すると、男の子たちは口々に、
「ぼくじゃない~」と言い張ります。そして、さ~っと逃げ出したかと思うと、
今度はマンガ雑誌を平積みしているコーナーの上に
身体を押し付けあって、じゃれて遊んでいました。

私が注意している様子と、子どもたちが本の上に乗ったり落としたりしている
様子を見ていた本屋の店員さんは20代前半くらいの女の子ふたり。
まったく何も聞こえず何も見えずといった機械のような対応で、
眠そうに「ありがとうございました~」と私の雑誌の清算をすませました。

その無関心ぶりがバーチャル世界の人物そっくりなのです。

自分のバイト先の商品に乗っかって、商品を床にバサバサ落としている目の前の子たちが見えない、聞こえないように、ルンルン~と仕事しています。

そして、新品の商品だろうと、お店というお金が行き来する遊び場ではないところだろうと、はちゃめちゃにふざけあう小学生たちの姿も、
常識的な外からのまなざしのないバーチャルな世界で
飛び回る子どもたちのようです。
見るからに子どもたちは特別な問題児ではありません。お家や習い事先では
素直にいうことを聞くごく普通の小学生に見えます。

この光景を妙に気味悪く感じたのは、
子どもも大人に無関心で、まなざしを感じておらず、
大人も子どもたちに驚くほど無関心だったことです。
無関心どころか、まったく見えないといった様子……。

こうした世界で、いじめや万引きのような行為が生まれるんでしょうか?

子どもたちがお店の中を遊び場にしてかけまわるとき、
親のしつけについてうんぬん言ってもしょうがないような気がします。
おそらく親御さんは、子どもが友だちと自由に出歩くように
なるまでは、
できる限りのしつけはしていたはずですから……。

そんなことより私が暗い気持ちになったのは、

子どもたちが少し親離れしはじめた時期の健康的な遊び場の少なさです。

かつては豊富にあった野山も球技ができる遊び場も
卓球などができる小中学生が出入りできる
子供用施設もどんどん減っています。
(幼児期にショッピングセンター内で過すことに慣れすぎて育った子たちは、
たとえそうした遊び場が豊富にあっても
お店の中で過したがるでしょうが……)

また、社会全体が自分の損得以外に無関心なので、
子どもを正しい方向に育てていく力を失ってしまったことも残念です。
子どもが間違ったことをしていても
だれも教えないだけでなく、
誤った常識を刷り込むようなシステムになっているのです。

本屋の帰り、息子が友だちのことで面白い話をしていました。
息子によると、友だち思いで気がきくな~という友だちは、
先生に理不尽な要求をされると必ず反発する子らでもあるそうです。
そうした子らの親は
たいていある部分、放任で、
自分で判断していろいろしているので、相手の立場に立てるのだとか……。

息子とその友だちが苦手としているのは、
先生の話はとにかく文句ひとつ言わず受け入れてしまうタイプの子ら
なのだそうです。
親もあれこれ制約が厳しそう~なのだとか……。
そうした子のどこが苦手かと言うと、
他人の目があるところでは、ルール厳守なのに、
他人の目がないところでは、どんな悪いことでも平気でするからなのだそうです。
それに突然、しょっちゅうキレるそうです。
そのキレどころ……というのが、クラスに成績が悪い子がいたりすると、
怠けてるとか、バカだとか……もう抑えきれないほど
怒りを燃やすのだそうで……
息子にすると、その心理状態がよくわからないみたいです。

その話を聞いて、外でもきっちりするようにしつけたら、
本屋で見たような問題が解決するのか……といったら
そうではない気もしました。
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バイトの店員さんであれば、こうした子どもの行動への無関心さや

ある種の(叱らないという)優しさや

マニュアルさえ実行していれば他は見えないという態度も

わかる気もするのです。

 

それが子育て中の親御さんだった場合……そこで育っていく子どもが

まるで地球の地を踏んで生活していないような

特殊な心のあり方で成長していくのを目にすることに

わたしはとまどいを感じているんだな、と思っています。

 

 

 

 

 

 

 


一生懸命がんばっているのに、子育てがうまくいってないように感じる時 9

2012-04-21 21:20:09 | 教育論 読者の方からのQ&A

前回の記事に次のようなコメントをいただきました。

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現在の子育ては、いろんな情報が氾濫しているし、しつけのできていない子と思われない

ようにきちんと育てなきゃ・・・という強迫観念にとらわれがちだと思います。

みんな何かにすがりたく、信じる人の「すべてうまくいく」

神のひと声を求めたいのだと思います。私も、よく分かります。

でも、結局、子育てにマニュアルや答えなんてないし、親も悩みながら、

ああでもない、こうでもないと自分の頭で考えながらやっていくしかないのですよね。

子どもも幼児時代を過ぎ、もっと「ああすればよかった」などと思うこともありますが、

結局あのときの私にはあんなふうにしかできなかっただろうなあという思いでいますし、

これからも失敗もするだろうと思います。そうやって、親も子も、

互いに認め合って許しあいながら成長していけばいいのかな、と。


それが、自分も子どももまるごと受け入れることにつながるのではないでしょうか。甘いですかね。

-------------------------------------------------------------------------

コメントをくださった方はさまざまな体験にしっかり向き合ってこられて、自分を見つめる勇気を持ち、

深い愛情を持って子育てしてこられた方なんですね。コメントをいただきありがとうございます。

 

確かに現在の子育て環境で、親御さんたちが強迫観念にとらわれてしまうのは仕方がない面があります。

誰かにすがりたくなるのがあたり前で、失敗するのがあたり前で、

ああでもないこうでもないと悩むのがあたり前だと思います。

 

ただ今現在、強迫観念にとらわれて、「こうしなくちゃ!ああしなくちゃ!」と

何かに煽られるように子育てしている方がいるとしたら、

それは必ずしも逃れられない道ではないことを伝えたいとも

思っているのです。

 

もっと気楽にワクワクする思いで心を満たしながら、

子どもが自発的で感性豊かで賢い子に育っていくような子育ての道を

選ぶこともできるのですから。

 

一生懸命子育てしている親御さんたちに

ダメ出しするのは気が引けます。

 

でも傷つけることを恐れて、言葉をオブラートに包んでやんわり遠まわしに伝えるうちに、

修復不可能なほどに親子関係をこじらせてしまう方がいることにも

心を痛めているのです。

 

白梅学園大学学長をしておられる汐見稔幸先生は『親がキレない子育て』という

著書のなかで、

「意欲のある、やる気いっぱいの子どもに育ててやりたいとは、誰もが望むことですし、

それ自体は本来そんなに難しいことではありません。」

とおっしゃっています。

 

それ自体、そんなに難しくないなんて……本当かな?

と疑わしく感じた方がいらっしゃるかもしれません。

 

実際、こんなにもたくさんの情報が氾濫し、

誰もがこれほど必死になって、子育てに力を注いでいるにも関わらず、

意欲のあるやる気いっぱいの子ども……どころか、

世間では意欲のないやる気ゼロの子どもの話ばかりが

あちこちから耳に入ってくるのですから。

 

では、汐見先生は、どうしたら「意欲のある、やる気いっぱいの子どもが育つ」

とおっしゃっているのでしょう。

それもそんなに難しくない方法で……。

 

長くなったので次回に続きます。

 

 

 

 

 

 


平面から立体へに変化してびっくり!

2012-04-21 16:01:39 | 工作 ワークショップ

小学2年生になった子らのグループレッスンで。

新しい学年の生活にも慣れてきたようで、終始、笑顔がこぼれていました。

 

「かばんが作りたい!」「平たいのではなくて、こんな風に底があるやつ!」と

教室にある底のある立体的なかばんを指して言いました。

 

そこで、100円ショップで買ってきたビニールシート(テーブルクロスです)を切って

かばんを作ることにしました。

長方形に切って半分に折って、両端をテープでとめます。

それから底を広げて折り紙をするように角を三角に折って

マチを作ります。

 

作り方を教えた瞬間、「ワー!!本当に底ができる!」「わーすごーいすごーい!」

「わたしも作りたいー!」と子どもたちから歓声が上がりました。

友だちと2人ずつペアになってマチを作っています。

「デコろうっと!」と言って、シールで飾り付けをしはじめた★ちゃん。(1番下)

かばんの中央に縦一列に小さなシールをていねいに貼ってあります。

そこから左右対称におしゃれにデコレーション。

「あっ、★ちゃん、おっしゃれ~。まるで中学生のお姉さんみたいにおしゃれな感性ね。

真ん中に小さいシールを一列に貼って、後は左右対称に貼ったのね」と褒めると、

「そう、幼稚園の子とかだと、てっきとうに貼るでしょ。あっちもこっちもべたべたとね。

可愛くなるように貼らないとさぁ~」という返事が返ってきました。

 

それを見た他のメンバーも負けていません。それぞれオリジナリティーを発揮して、

工夫したポイントをアピールしてきます。

 

工作大得意の●ちゃん。バインダーに挟む用紙や袋を作るための

穴がたくさんあるシールをかばんの縁に貼って、

それにリボンを通して、「まるで売り物?」という立派な作品をこしらえていました。(1番上)

 

他の子のしていない方法ですてきな作品が作りたいと頭をひねっていた☆ちゃん。

取っ手に使用した袋の柄を切り抜いてオリジナルシールにして

かばんの中央部分にバランスよく貼っていました。(上から3番目)

 

手芸好きで几帳面な○ちゃん。リングのシールを貼ってから

毛糸で縫うように縁取りし、シールをそれに沿わせるように貼っていました。(上から2番目)

 

工作の後で溢れるほどの自信とやる気がみなぎっていた4人の新2年生さんたち。

算数の問題もしっかりがんばっていました。

 

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1組の 男の子は、1組の 女の子 より 4人少なくて20人です。

2組の 男の子は、1組の男の子より 3人多く、

2組の女の子は 2組の男の子より 2人 多いそうです。

3組の 男の子と 女の子は 2組の女の子同じ人数です。

1組から3組までの せいとは、ぜんぶで何人ですか。

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絵を描いて、文に書いてあることを整理することを大事にしています。

工作が得意になってくると、こうした文章を整理して読んでいく作業を

らくらくこなしていけるようになる子らが多いです。

 

「簡単、簡単」とすぐに解いてしまって、他の問題まで全て答えを出していた子、

ちょっと考え込んで、「あ~わかった、わかった。」と図を描いて解いていた子、

ゆっくりじっくり取り組んで最後まで解き終えてから、

すぐに次の問題にチャレンジしていた子、

「20人」をクラス全員の人数と勘違いしてしまい、混乱して困ってしまった子と

いろいろでした。

 

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ゆう子さんは、もっていた おはじきの 半分を なくしてしまいました。

そして、のこりの うち 17こを

友だちに あげると 24こになりました。

ゆう子さんは、はじめに おはじきを 何こ もって いましたか。

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この問題は想像するのが難しそうだったので、先に全部の問題を解いてしまった子以外の子らには、

みんなで劇をしながら考えてもらうことにしました。

 

おはじきの代わりにハムスターが登場。

ハムスターを籠に入れて運んでいる最中、半分が脱走したというストーリー。

半分脱走したのにも関わらず、17匹もお友だちにハムスターをプレゼントした

ゆう子さん。

「優しい子……?なくしたのに、さらにあげるって……」と友だちにあげた理由は

わからないけれど、籠に残ったハムスターは24匹。

 

さて、ゆう子さんは最初にどれだけたくさん籠にハムスターを押し込んでいたのか?という問題。

 

その重さと運びにくさについて

想像をめぐらせながら、みんな前のめりになって考えていました。

 

 

 

 


一生懸命がんばっているのに、子育てがうまくいってないように感じる時 8

2012-04-21 07:43:25 | 教育論 読者の方からのQ&A

「にゃーにゃーよ。これはクマさんよ」と懸命に名前を教えるのはダメで、

「気持ちいいね」「つんつん、痛そうね」と情緒的・感覚的な反応で返すのがいいと聞くと、

「なら、こういう場合はどうすればいいの?」「こういう場合にはどう返事を返せばいいの?」と

たずねる方がいらっしゃいます。

 

また こうした話題を目にすると極端なほどモノの名前を教えないように努めて、

形容詞を中心に「~だねぇ」と子どもに共感を求めるような話し方ばかりするようになる方も

おられます。

 

 そうたずねる気持ちも話し方が偏ってしまう気持ちもわかるのですが、

言葉を使っている大人が自分の感情から切り離された「自分」という人間がない状態で、

「こういう場面ではこう言えばいいんだったわ」

「こう聞かれたら、こう答えるんだったわ」と暗記したセリフを

子どもに返そうとしていること自体に

ちょっとどうなんだろう……?

という疑問が残るのです。

 

前回の記事で、「知的なカリキュラムに洗脳されてさえいなければ……」などという

ちょっと失礼ともいえる条件を挙げさせていただきました。

 

わたしが「知的なカリキュラムに洗脳されている」と表現する

親御さんにはちょっと困った癖があるのです。

 

どのような癖かというと、「こういう時にはこう言えばいいんだわ」

「これで遊ぶ時にはこう言えばいいんだわ」「子どもにこうたずねられたら、このように答えればいいんだわ」

「子どもは~秒抱きしめて、このように接しなきゃいけないんだわ」

といった具合に、子育ての一場面ごとに「正しい方法」があると信じ込んで、

自信満々で知育カリキュラムのマニュアル通りの対応をしてしまうということです。

 

職場でそつなく合理的にものごとを進める習慣が身についている方ほど、

その実行の仕方に人間的なほころびや漏れがないだけ、

極端に走ってしまいがちです。

 

(愛情を表現するという点でも)外からは文句のつけようがないように

きちんと子育てしているように見えるけれど、

極端に表面的な接し方を続けて、

子どもを慢性のイライラ状態にさせたり、無気力にさせたり、

思考停止状態にさせたりしている姿を目にすることがあるのです。

 

ついつい構い過ぎてしまう、一方的に質問ばかりしてしまう……というくらいなら

どの親もしてしまいがちなことで、さほど問題はないでしょうが、

そうした方法を「正しい」と信じて、

意識的にマニュアル通りに対応しようとする場合、

子どもとの関係のこじれ方は深刻なものになるように思います。

 

 

親が、その時、その時、その時間にその場面で体験していることに、

自分の気持ちや考えに基づいて対応していたら、

子どもはそれから自然にさまざまなことを学んでいきます。

 

知識を注ぎ込もうと、わざわざ不自然な態度を子どもに取り続ける

必要はないのです。

 

『自閉症のDIR治療プログラム』には、

障害のない一般的な幼児のコミュニケーションと思考の発達について

次のように整理してあります。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

◆ 0歳4ヶ月~10ヶ月以降

 

<双方向コミュニケーションと意志>

意図を伝達するための感情表現や、手のジェスチャー等を用いた

相互交流が、ある程度できるようになるとしています。

 

◆ 0歳10ヶ月~1歳6ヶ月以降

 

<社会的問題の解決と感情と行動のコントロール、自己意識の形成>

社会的、感情的な相互交流が問題解決のために整然と

行われるようになる。

 

◆ 1歳6ヶ月~2歳6ヶ月以降

 

<シンボルの創造と言語と観念>

意味のある単語や文章を使い、両親や養育者との間でごっこ遊びを繰り広げる。

 

◆ 2歳6ヶ月~3歳6ヶ月以降

 

<感情的思考、論理、現実感覚>

意味のある考えを論理的に結びつける。

 

             ( 『自閉症のDIR治療プログラム』S.グリーンスパン S.ウィーダー 著  

                         広瀬宏之訳  創元社)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

教室で0歳児からのさまざまな月齢の子らと接していると、

自閉傾向のある子らは先に挙げた「幼児のコミュニケーションと思考の発達」のさまざまな

段階でつまずきがあるものの

ハンディーがないと思われる子らは適切に対応すれば、

月齢に見合った反応が返ってきます。

 

ただ、子ども自体は月齢相応にコミュニケーションと思考の面での発達を遂げているように

見えるのに、

親御さんの側が毎回一方通行のステレオタイプなコミュニケーションに陥ってしまうというか、

癖になっているというか……

 

特にお金のかかる知的なカリキュラムに傾倒している方は

強迫的にひとつのコミュニケーションのパターンにこだわっていたり、固執していたり……するので、

 

親御さんが話しかけ始めると、あらぬ方向を見てそわそわしはじめて、

しまいにフラフラ歩きだす子がかなりたくさんいるのも事実です。

 

また、自分に都合のいい場面ではかなりしっかり頭を使える子が、コミュニケーションの場面では、

決まり文句のように

「できない~」「え~」「おかあさんやって~」「ん~」と

いつもはっきりしない返事を返していることもよくあります。

 

次回に続きます。