虹色教室通信

遊びや工作を通して 子どもを伸ばす方法を紹介します。

ウルトラマンショーの工作 と じゃんけんカード

2012-05-28 13:49:18 | 工作 ワークショップ

 

追加の絵本大好きクラブに参加していただく方の発表は明日させていただきます。

しゃんけんの手のかたちが横上についている

ウルトラマンカード。

お互いに3枚ずつカードを置いて、じゃんけん中です。

 

勝負をしているのは小1の★くんです。

そこで、ゲームを面白くするためと

推理力を伸ばすため、もうひとつルールを付け加えました。

 

お互いにチップを10枚ずつ手にしておいて、

このカードで勝てそうというところに、1~3枚のどれかの枚数のチップを置くのです。

相手は、それに乗って同じ数だけチップをその対のカードのところに置きます。

少しポーカーに似ています。

買ったら、その勝負のための置いていたチップを全てもらいます。

 

こうした遊びをしながら、「どのカードでどのような勝敗がついたときに、

互いのチップの増減はどのようになるか」推理をうながします。

小学生向けの凝った文章題の問題には、この勝負に似たものを表に整理していく問題がよくあります。

幼稚園児の場合、ドキドキする楽しさを加えるためだけに

こうしたルールーを導入するといいかもしれません。

 

ウルトラマンのカードゲームの後は、カードをカラコピーして

ウルトラマンショーを作ることにしました。

★くんのこだわりは、懐中電灯を使って、ショーのライトアップを豪華に演出することです。

箱の上を切り抜いて、セロファンや炎の絵を描いた

透明シートを貼りました。

 

ウルトラマンと怪獣は、

ストローなどで動かして戦わせる仕掛けです。

ビームが出ています。

カラーコピーがない方は、幼児向け雑誌のいらなくなった記事を切り抜いて

こうした作品を作るのも楽しいですよ。

 


学習につまずきのある子のレッスン (人形ごっこで語彙力を伸ばす) 3

2012-05-27 19:40:14 | 自閉症スペクトラム・学習が気がかりな子

学習につまずきのある子のレッスン (人形ごっこで語彙力を伸ばす) 2

の続きです。

●くんとのごっこ遊びの様子です。

わたしに泥棒役をするように指示する●くん。

●くんは、警察署のドールハウスに犬の警察官2匹を置いて、

それらの役をするつもりのようでした。

わたしが、「そうだ、あの家にどろぼうに入っちゃえ。何を盗もうかな。

そうだ、いっそのこと、お家ごと盗んじゃおうかな。

お家を全部、泥棒しちゃおうかな?」と言うと、

●くんはすかさず、警官の人形で泥棒をポカポカ叩いて、

やっつけてしまいました。

 

そんな逮捕劇がひととおり済んだ後で、どろぼう人形とお茶犬の人形に

話をさせました。

「ねぇねぇ、お茶犬くん。泥棒って、どんな格好をしているか

知っているかい?」

「知らないよ。教えてよ。どんな服を着ているの?」

「袖が青くて、身体の部分は白くて、ズボンは青。赤いベルトをしているよ」

「それなら、警察の近くで見たことがあるなぁ」

「いっしょに泥棒を捕まえに行こう」と泥棒に誘われたお茶犬が、警察署に近づくやいなや、

今度もポカポカとやっつけられて、●くんの手でお茶犬も泥棒も牢屋に閉じ込められてしまいました。

●くんはとにかくこのストーリーの展開に夢中になって遊んでいるのですが、

人形同士の活劇には一生懸命ですが、ほとんど言葉は使いません。

そこで、

「●くん、●くん。どうして、お茶犬まで牢屋に入れられてしまったの?」とか、

「●くん、泥棒が牢屋に入ってしまったら、お話しの続きはどうしたらいいかな?」

など、たずねました。

すると、●くんは、必死で言葉にしようとするのですが、うまく言えなくて、

「あのぅ、あのぅ、あのぅ……それは」と繰り返しています。

しまいに、「ふたりで相談していただろ。だからどっちも悪いんだ!」と言ったり、

「続きは、牢屋から逃げて、また泥棒にくるといい」と言ったりしました。

 

●くんは子ども同士で話ている時は、言葉の大切さを少しも

実感していない時があります。

おふざけしながら、何となく、言葉がないままに時間が過ぎていくのです。

勉強している間も、言葉の大切さを理解していません。

分からない時は、「しらない」「できない」と言ってそのままプイッとよよそ見をして遊びだすし、

分かる問題の時は、答えだけ書きこんで黙っています。

お母さんが話しかける時には、「うん」「いや」「そうする」「え~」「できない」くらいの言葉で

会話は事足りると思っているふしもあります。

友好的で笑顔が多く、人と関わる力も高いため、そうした語彙の少なさが

それほど周囲に問題として感じられていないふしもあります。

人形遊びをする●くんは、いくら遊んでも遊び足りないほど楽しい様子で、

●くんにしゃべらせるような質問を何度も投げかけても、

楽しそうに必死になって言葉で言おうとしています。

それを補助するように、

「そうなの。お茶犬は、悪者と相談していたから、泥棒の仲間だと思われているのね。

でも、お茶犬はね、泥棒に嘘をつかれて騙されただけかもしれないね」

「牢屋から脱獄するストーリーにしたいのね。

どうやって逃げ出すのか方法を考えてちょうだい。

●くん、脱獄に必要な道具って。何と何がいるのかな?」

など、大人の言葉でできるだけていねいに会話をしていると、

「脱獄するには~」とか「道具が必要だね」など

本人がそれまで使ったことのない言葉も、会話の中で使い始めます。

 

●くんのように発達に少しゆっくりしたところのある子は

言葉が劇的に増える幼児期には、何らかの理由で語彙力が伸びにくかったのかもしれません。

でも、幼児期にはそうした困難さが目立っていた子も、小学校に入った後くらいから、ていねいな会話を心がけて、

会話するシーンを増やしていると、言葉がどんどん増え始める子もけっこういます。

もし子どもがごっこ遊びを喜ぶようなら、

ぜひたっぷり付き合ってあげてほしいです。


年長さんグループの算数タイム

2012-05-27 18:01:30 | 算数

年長さんグループの算数タイムの様子です。

物作りが得意でごっこ遊びなどの世界に豊かさが感じられる子なので、

数への理解もかなり複雑なものまで進んでいるのを実感します。

 

「8より3小さい数よりも1大きい数はいくつでしょう」

 

「6と12のちょうど まん中にある かずは いくつですか」

 

「1から1つ飛ばしに数を言っていきましょう」

という問題にしっかり答えていました。

 

「6と12のちょうど まん中にある かず」については、まちがえてしまった子もいたのですが、

「6の数と、12の数のところから、トコトコトコトコごっつんこ」というヒントをあげると

「わかった!」と了解して解いていました。

 

算数の学習に使うと、とても人気がある小さなドーナツのおもちゃ。

 

5つドーナツを皿に乗せたものを見せて、

「お兄ちゃんに2個、お姉ちゃんに3個ドーナツをあげたら、

これだけになっちゃったの。

最初はいくつあったでしょう?」

と問うと、「10個」とどの子も即答していました。

年中さんの時は、こうした遡って考えるのが難しかったようなのに、

年長さんになると急にそうした思考が得意になってきたようです。

 

子どもたちにも自分で問題を出してもらうと、

最初のドーナツを7つにして、

「お兄ちゃんに2個、お姉ちゃんに3個ドーナツをあげたら、

これだけになっちゃったの。

最初はいくつあったでしょう?」

という問題を出していました。

すると、「12個!」と即座に答えを言う声があがっていました。

 

幼児期の算数は極力、訓練したり教え込んだりせずに、

遊びや日常生活で数に親しむ機会を増やし、

夢中になって遊び込むような体験を大切にしてあげるようにすると

非常にしっかりした数を扱う力が伸びてきます。

 


記憶力ゲーム と  長期間記憶できる方法

2012-05-27 17:43:24 | 虹色教室の教具 おもちゃ

算数クラブの3,4年生の女の子たちと記憶力ゲームをしました。

今回は、方向と動物のカードを記憶できる量を競いました。

写真のような方向のカードを「左、右、右、左、上……」とただ唱えて記憶していくだけでは

その後で、別の種類のカードを何枚か覚えたとたん

記憶があやふやになってしまいます。

 

そこで、簡単なストーリーを作ったり、

並んでいる順番で共通点を見出したりしながら覚えると

時間が経っても思い出しやすいです。

 

上の写真のカードを見ながら、小4の○ちゃんは、即興で

こんな話を作りました。

「左、右、右、左、両手。上を見ていたら、左にスーパーがあった。(それに気付かなかった?)

右にあるコンビニに入って、出てきたら、上から鳥のフンが落ちてきた」

 

漢字や数字も特徴を捉えてストーリーを作ったり、そこから連想できることを考えて意味を与えていくと

記憶に残りやすくなりますよ。


自分のうれしい変化 (重い腰を上げて動き出しました) 

2012-05-27 08:47:26 | 日々思うこと 雑感

この数日間で、自分にうれしい変化がありました。

 

変化のきっかけは、

「このところブログの記事をアップし過ぎているな」と、食べ過ぎ飲み過ぎを自覚するような調子で

自重していたことです。

 

長い記事も喜んで読んでくださるような活字好きの方まで、

「毎日、ブログを楽しみにしています。~の記事は考えさせられました」と声をかけていただくついでに、

「でも、全部は読み切れてないんですけどね。アップされる記事数が多いですから」とひとこと付け加える始末。

(過去記事をアップしなければいいんですが、読んでくださる方々の子どもさんの年齢がいろいろなので、

記事内容が片寄るのも嫌で……)

 

 これじゃ読んでくださっている方々も疲れてくるし、誰のため、何のためのブログなんだか

わからなくなってしまう……そろそろブレーキかけなきゃ……1日新しい記事ひとつと、関連する過去記事をもうひとつアップするなど、

ルール決めてブログした方がいいのかな……?

なんて考えつつ、最近、書く分量が増えているとはいえ、家事や他の仕事への影響ははほとんど変わっていないことにも気付きました。

ブログ始めた当初は、短い記事を書くのに、何時間もパソコン画面とにらめっこしていたものですが、

今はひらめいたことや体験したことを、メモをとるような具合にちゃっちゃと言葉に変えていくようになっているのです。

 

これも毎日、毎日、しつこいほどにブログを書いていた効用でしょうか……。

内容はともかく、書いていくための持久力はしっかりついていたようです。

そう気づいたとたん、テレビで見たバサバサッと大きな羽根を

波打たせるようにして飛び立つトキの巣立ちの映像が、何度も心に浮かびました。

今にも飛び立とうとするトキの姿と、「そろそろ自分の書きたいものが書けそう」という

予感が重なりました。

それでためしに、書こう書こうと思いながら二の足を踏んでいたフィクションに手をつけはじめたところ、

ストーリーを想像していく作業も、それを言葉にしていく作業も、

いつの間にか自分の手にしっくりとなじむものになっていました。

 

そういえば、今から1年ほど前に、朝方見た夢に催促されるような気持ちになって

↓のような記事を書いたのでした。

それからずいぶんと経った今になって、ようやく重い腰を上げて、

日々の記録(ブログ)とは別の文章を書き始めています。

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このところ、「自分の心の深海部に沈んでいた夢」が、

海上の空気のあるところ……

つまり意識の領域まで引き上げられるような出来事が

繰り返しありました。

 

まあ、どれも出来事というほど、たいしたことではないのです。

娘、息子、事務Kちゃんが、それぞれ自分の将来について本気で思い悩んでいる時期で、

そうした相談に乗ることが続いていたということもひとつ。

つい熱くなって言い合っていたら、息子の「ぼくは物作りが命だから。ぼくが生きている意味は作品作りにあるから!」という

強い言葉にぶつかったり、娘の「何かひとつ自分にはこれっと思えるもの、本気になれるものが欲しい」というつぶやきを聞いたり、

事務Kちゃんの未来に向けていろいろ情報収集する姿を見たりするにつけ、

知らない間に、自分自身が揺さぶられていました。

 

一方、数日前から「断捨離」をはじめていたので、

捨てる本を選別していたこともあります。

高価な本もさっぱりと手放せるものもあるし、ただの紙切れのようなものも

捨てられないものもありました。

そうした作業を続けるうちに、関心が高いもの順に並べている本棚に「飛ぶ教室」(児童文学の雑誌)が

復活していました。

 

押し入れの整理中に見つけた『ドーン』という絵本・児童文学研究センターが出している

2005年度の冊子に、

ファンタジー大賞の選後評が載っていて、選考委員の河合隼雄氏が次のような嘆きが

目にとまりました。

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期待を持って作品を読ませていただくのだが、今回も大賞はなかった。

と言うよりも、もっと失望の念が大きかった。毎回同じことを言っているようだが、皆さんが

「ファンタジー作品」というのを誤解しているのではないか、と思う。

エンターテイメントとしてのファンタジー作品というのもあるらしいが、

そんなものに少し目を通すだけでも、こんなことで

エンターテイメントされる人は、よほどの暇人なのだろうと思う。

こんなのを読むぐらいなら新幹線の車窓から景色を

ぼうっと見ている方がはるかに楽しいと思う。

一言で言えば、ファンタジーは人間のたましいから生みだされてくるものであって、

頭でつくりだすものではない。

                  (『DAWN 13号』より)

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数年前にこの文章を読んだ時、

「わたしは子どもの頃からいいファンタジー作品にたくさん出会ってきたから、

河合氏のおっしゃる人間のたましいから生み出されてくるファンタジーというのが、

どのようなものなのかはわかる。

わたしのたましいのなかには、将来、ファンタジー作品へと成長してくれそうな

お話の種もたくさんある。

でも、わたしには、それを紡ぎだすだけの言葉がない。

自分の考えを表現していくだけの文章力がない。

最後まで書きあげるだけのパワーもない。

でも、何年かかっても河合氏が認めてくれるほどのファンタジーを書きあげたい。

お話の書き手になることが、幼稚園のころからの私の夢だったから。

とにかく書いて、書いて書くことを身体になじませたい。取りあえず、

書くことに苦痛を感じない自分を作ることを目標にして、

日々の出来事を綴っていこう」

と強く心に決めたのでした。

そうして2年ほどは、家族の出来事をエッセイ風に書きとめていき、

2007年からブログをはじめて、教室でのした取り組みや気づいたことなどを、

毎日、文字にして打ち込んできました。

 

さすがに、毎日書いていると、書くことへの抵抗は薄れてきます。

質はどうであれ書きたい言葉はよどみなく出てくるし、

言葉が自分が本当に表現したい内容に近づいてもきます。

といっても、今、書いているのは実際体験した出来事で、

それを見聞きして、その場で思い浮かんだことを書き写すだけですむ作業ですが、

ファンタジーを書くとなると、見えない世界の物語を紡ぎだしていかなければなりません。

年を追うごとに教室の仕事がたまらなく楽しくなってきて、

自分の日々に満足している今、

「いざ、ファンタジー作品を書き始めよう」と思うと

二の足を踏んでいる自分がいました。

 

知人と岸田劉生展 に行ってきました。

人は何かを創造するためにこれだけのエネルギーを注ぎ込むことができるのか……と、

美術館を出るとときには、感動を通り越して自分の底が抜けたような奇妙な浮遊感を覚えていました。

1枚、1枚の絵を目にするたびに、こちらの内面の深いところまで

杭を打ち込まれたかのようなズンッという衝撃が深まっていくんですよ。

麗子像は、ポスターではなく実物を見ることができで本当によかったです。

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一昨日の朝方、妙にリアルで鮮明な夢を見ました。

 

虹色教室に通ってくださっている親子10組ほどに、

学校の教室のようなところで待っていてもらっている間に、

わたしはそこに向かおうとして

四苦八苦しているという夢でした。

 

この夢は、夏休みのユースホステルでのレッスンを下敷きに作られたらしく、

わたしの心には「泊まりがけのレッスンなのに、がっかりさせるわけにはいかない」という焦りが

浮かんでいました。

 

夢ですから、舞台設定はむちゃくちゃで、

上の階の教室に向かう階段は、

デパートの衣料品売り場のようなところにつながっています。

 

それを変だとも疑わずに、ひたすら親子のお客を待たせていることを気にしながら、

植物園のようなところに迷いこんで行きました。

珍しい植物をかきわけて、速足で進むうちに

茂みに尻もちをつきました。

ここは夢のおかしなところで、目の前に展開するおかしな光景には頭がまわらないのに、

「これではとうていレッスンには間に合わない。集まっているお母さん方が待ってる間、

おしゃべりするとか、ひとりが遊びを提案するとかして楽しんでくれていたらいいんだけど……。

せっかくのお泊りレッスンの半分がふいになってしまった。そうだ、残りの半分、

この植物園でレッスンするっていうのはどうだろう。」

と、どうして最初からこんないい計画を組み込んでおかなかったのか……

こんなうっとりするほど美しい植物園は見たことがない……子どもたちをここに

連れてこないなんて考えられない……そんなことを抜かりなく

考えています。

尻もちをついたズボンのお尻のあたりには、ひっつき虫のたぐいのハート型の小さな植物が

びっしりついていて、それをはがしはがし、

待たせている親子のもとへ急ぎました。

すると着いたところは図書館のような広間で、遅れたことを謝るわたしに、

「本を読んでゆっくり過ごしていましたから、かまいませんよ」と親御さんにひとりに

笑顔で返してもらったところで、

目を覚ましました。

 

小中通して、遠足といえば服部緑地。

母のパート先の江坂にあるガラス張りのビル内が

植物園のようだったこと。

そんな記憶のパッチワークか、わたしの夢には数年おきに植物園が登場します。

 

夢のなかは夢のなかで、でたらめなりに発達の法則にそって展開しているのか、

10年ほど前に夢で見た植物園の植物は、どれもひょろひょろとしおれていましたが、

年々、緑の生い茂る立派なものに変化してきているようです。

ひょろひょろした植物園の夢を見た当時のわたしは分不相応にもアーシュラ・K・ル=グウィンのような

世界的なファンタジーの書き手になりたいと強く切望しているわりに、

作品と呼べるようなものを書く力はありませんでした。

唯一の救いは自分の能力のなさに気づけるほどに知恵がなかったことくらいでした。

でも、当時の眠りのなかの夢はわたしの実力をお見通しだったんでしょうね。

貧相な朝顔のつるだけでできているような

植物をいまだに覚えています。

 

それからも数年おきに植物園の夢を見て、しだいに緑が濃くなり、

太い幹のある樹木や絡み合った植物でできたトンネルや、めずらしい花や実のなっている植物も

登場するようになってきました。

そして今回の夢に出てきた植物園はというと、

尻もちをついた先のひっつき虫風の雑草くらいしか覚えていないのですが、

「そうだ、ここに子どもたちを連れてきてあげたい」と閃いたときの

意気揚々とした気分と自分を取り巻く魔法にかかったような雰囲気だけが

目覚めた後にも、はっきりと残っていました。

 

すぐに夢のことなど忘れて過ごしていたのですが……

あの魔法にかかったような植物園に空気は、

昔、『秘密の花園』や『ムギと王様』や『みどりのゆび』を読んだときに

イメージの世界で吸った空気だった、

間違いない、子どもの頃しか行けなかった、でも確かに子どもの時には存在した

生々しいほどリアルな空想の世界の庭だった……と思い当りました。

すると、懐かしさがこみあげてきて、

「それならいったいこの夢は何を意味しているんだろう」という想像をめぐらせました。

 

夢のなかでは、わたしは「子どもたちに楽しい実体験をさせてあげたい」

くらいに考えていたのですが、

目覚めた今、思い返すと、わたしが子どもたちを呼びたいと願っていたのは、

自分が子どもの頃遊んだファンタジーの庭だったんだと

はっきりわかりました。

するとこのところ、娘や息子や事務Kちゃんたちの相談に乗るたびに、

自分のなかで、もやもやとくすぶっていたものの正体が

ハッと腑に落ちました。

わたしはやっぱり自分のペースでいいから、ファンタジーを書きた

かったんだ、と。

 

そうして、自分の今の仕事や暮らしを大事にしながら、

これからは尻込みしないで向き合っていきたいこと、

自分が本当にやりたかったことをするにはどうすればいいんだろう

と考えました。

20代に繰り返し読んだ『ずっとやりたかったことを、やりなさい』を

押し入れから引っぱりだして、こんな文章と再会しました。

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創造性は人生そのものと同じように暗闇ではじまる。

そのことをよく知っておく必要がある。

(略)

アイデアもまた、心の子どもだと考えるといいかもしれない。心の子どもも、普通の赤ん坊と

同じように、創造の子宮から時期尚早に取りだすべきではないということに

私たちは気づいていない。

アイディアは鍾乳洞や石筍のように、意識の暗い闇の中で徐々に形成されていく。

それらは何かを積み上げることではなく、

したたりおちる滴によって形成されるのだ。

           『ずっとやりたかったことを、やりなさい』 ジュリア・キャメロン著 サンマーク出版

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懐かしい文章に目を通しながら、

私にとって教室は、

わたしの持っているものを子どもたちに伝えたり、ふるまったり、

子どもたちの持っているものをわたしが引き出したり、広げたりするだけではなくて、

物語が孵化する前の卵のような空間でもあるんだな、と感じました。

遊びや会話やアイデアが、

浮かんで、消えて、生まれて、飛び交って、散り散りになって、まとまって、ふくらんで、

最後にわたしのなかに

無邪気な何かが残っていますから。

そこからしたたる滴を言葉にしていくのは、それほど孤独な作業でも、かしこまるような作業でも

ないのかもしれません。

言いわけしたり、逃げたりせずに、自分の抱いてきた夢をこれからも育んでいこうと思いました。


直観の優れた子に「アウトプットする手段を設ける」ということ

2012-05-26 22:42:24 | 初めてお越しの方

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うちの子供は二人とも直感のような気がします。

新しいことに興味を示し、同じ作業をするのが苦手です。

最近、気にしていることが、先生のプログに
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とにかく次々と興味が移るので、放っておくと、いろいろやりつくしたけど、

何もその子の手の中に残っていない(確かな力がついていない)……
という状態にもなりやすいのです。
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アウトプットする手段に枠組みを設けるのです。
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と書いてありましたが、どのようにすればいいのか、もう少し詳しく教えてください。

ブロックも紙工作も好きではあるのですが、続かないのです。
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「ブロックも紙工作も好きではあるのですが、続かない」という気がかりは、

親心としては、

ブロックや紙工作をするからには、
外からの評価されるような
技術的な向上や作品としての完成度を高める方向に進歩することを望んでいるのに、
いつまでも「好き」のレベルのまま変化しないことへの心配ではないでしょうか?

こうした たいていの方が陥る
「物作りに対する固定された価値判断の基準」は、
直感が優れている子たちにとって
百害あって一利もないものです。

直観が優れている子たちにとって、
アバウトにいい加減に作るからこそ
そうした行為が意味や価値を生むことが多いからです。

直観が優れている子たちにとって物作りは、
算数の文章題を解く時に簡単に図を描くことや、図形問題を解く時に
アバウトに補助線を入れる行為に近いものです。
また、それに直結したものでもあります。


思考を助ける補助道具として、
あくまでも思考を優先しながら、
具体的に目からのフィードバックを得ながら
何かを考えたり、アイデアを実現してその可能性を追求したり、
問題点を見つけて改善したりするためにあるのです。

美しい完成品を作って
他の人々から賞賛を受けるために
物を作っているわけではないのです。

ですから、
「ブロックも紙工作も好きではあるのですが、続かない」という状況そのものは、このタイプの子にとって、
「自分にとってハードルが低めですぐにできる」ことを持っているという

「ある枠組み内でアウトプットする手段を手にしている」良い状態を指してもいます。

私の場合は、その「好き」な状態の上に、
このタイプの子が次々持つ興味を、このブロックや紙工作上で
実現するにはこうすればいいのよ」という具体的な見本が
たくさんあると良いなとおもっています。


そうした見本と大量に出会うことを目的に、工作のワークショップ開いているのですが、
現実には、それぞれの親御さんが自分の価値判断のもとで工作を眺めていて、
それ以外の意味や価値をないものであるように遮断してしまっていてるところもあります。
子どもは感受性が優れているので、
それに直接アクセスして、
しっかり吸収しているのですが、
親御さんの価値判断の影響で、だんだんそれが鈍くなっている印象もあります。

直観が優れている子に、その子の能力を最高に高めてくれる
「アウトプットする手段の枠組みを設け方」は、ちょうど、web拍手に
すばらしいアイデアをコメントしていただいていたので、
それを紹介させていただきます。

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息子はまさに直感型だと思われます。細かな分類は分かりませんが、

とにかく新しい物大好き、小さいころから床でも天井でも道ばた

でも穴があればのぞき、引き出しがあればあけて、というタイプでした。

好奇心旺盛で他の子が見向きもしない小さなことにも興味を示す。

そんなところが息子の良さだと思いつつも、やはりそのために困ることもあり・・。

でもこれは息子の個性で、好奇心の旺盛さはつけようと思ってもなかなかつく物でもなく、

だけどこのまま放っておいていいものか。それはいつも親として思っていました。

でもどうしていいのかわからずにいたのです。今日の記事を見て、息子なりのアウトプットの方法・・。

7歳になったばかりの息子は、ごっこ遊びが大好きです。

7歳でごっことは少し恥ずかしい気もしますが、年々進化しており、

事前準備(自分でチケットやチラシを書き作る)もして相変わらず熱中しています。

私も正直、ごっこ遊びの相手はうんざり、とも思っていましたが、

息子が好きで熱中できる物、それはやはりごっこ遊びです。今まで嫌々、

そして時々だけ付き合っていたごっこ遊びを進化させて、

チラシやチケット作りを好きなだけさせて、私ももっと息子に付き合おうと思います。

ごっこは一人じゃつまらないですし。息子なりのアウトプットの方法を探りつつ、

大好きなごっこ遊びを進化させていきたいと思います。
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直観が優れている子に対して、
「いつも繰り返し遊んでいるごっこ遊びの中で
アウトプットできるように手助けしてあげる」というアイデア、
なかなか前々回の記事から連想できるものではないですよね。
このアイデアに気づいた親御さんは、
わが子の落ち着きのなさにほとほと疲れているという現状を
何度か相談してくださっていたのですが、
この発想が出てくるあたり、息子さんと同様に優れた直感の持ち主なのかもしれません。

ごっこ遊びは、新しいタイプの企業といったビジネスにも、
小説や作文の創作にも、映画作りにも、
社会の仕組みを理解するのにも、文字や計算の訓練にも(チケット作り等で)
役立つ本当にバカにならない遊びだと思います。

うちの子たちも、小学校の6年間を通して、年がら年中、
ごっこ遊びもどきをしていたな~と思い当たりました。
↓過去記事にその様子を書いています。

ジェネレーションギャップ  と 『コピー』で遊ぶ子ら

直感の優れている子は、自分自身で、
「アウトプットする手段に枠組みを設ける」遊びを見つけ出して繰り返すことも多いです。
それを周囲がバカにしたり、もっと生産的な何かに変えようとしなければ、
一生役立つ思考の補助道具を手にいれることになります。
私自身の失敗体験を目にして、子どもの好きな活動に
親はどこまで介入してもいいのか、
距離の取り方を学んでくださいね。


番外 白い紙と えんぴつと…

私は典型的な内向的直感型の子として成長しました。
大人になって、徐々に他の機能も発達してきて、
今は劣等機能である感覚とぼちぼち付き合いながら、いろいろ学んでいるところです。
客観的に物を眺められるようになった大人になってはじめて自覚したのですが、内側に向かう直感ってかなり変わっています。
自分の子どもの頃を思い出すと、
ある面、「目が見えていないんじゃないの?」と呆れるほど、馬鹿なところが多々ありました。
他の人と見えているものや、見ているものがちがうというか、
リアルな現実にはほとんど関心がなく、身の回りの世界の大部分が視界からも意識からもこぼれ落ちているのです。
ですから、ただただその場その場を半睡状態で過ごしているような
ところがありました。

ですから外から見た目はずいぶんお馬鹿さんだったろうし、
現実にあまり賢くなかったのですが、
自分が自由に動き回れるフィールド内では、
常にシャキッと目が覚めてる状態で、
たったひとつの見落としもありえないほど研ぎ澄まされた感性で観察していました。
自分が自由に動き回れるフィールドというのは、
リアルな世界の空間を指しているのではなくて、
子ども時代の私が常に注意を向け、計測し、観察し、分析していた
「目には見えないけれど感じられる何か」という世界についてです。

「目には見えないけれど感じられる何か」なんていうと、まるでスピリチュアルな不可視な世界について語っているようですが、
そういうものではなくて、
それはそれで目で見えはしないけれど、目で見えているものを通じて感じ取る現実にある何かで
見えているものの背後に隠されている雰囲気や違和感や予兆や原因といったものでした。

たとえば、私は幼稚園くらいのときも、自分の母親や幼稚園の先生の言動や考えや行動が、
何を根拠にしていて、どのような価値観のもとで生じていて、
どういう行動としてアウトプットされるのか、
まるで色や空間の広がりとして目で見て確かめられるものであるように
毎日計測しては、そのデーターを記憶していました。
ですから、幼稚園に毎日、忘れずに何を持っていかなきゃならないのか……
なんてことは、通い出して一年経っても
頭からすっぽり抜けているのですけど、

自分の住んでいる地区の人々が、ある理念には重要性を与えて
ちょっと強い口調で語り合いながら、
その理念と同じ内容でありながら別のことになるとまるでそこにないもののように無視しているような場合、それに気づかないということはありえませんでした。

幼稚園児なんですが、そこにピンポイントで集中しているのです。

そこから何か不協和音を感じ取って、
その背後にあるそうした心のあり方を作り出している何かに気づいて、
それについて延々と考え続ける……
ということをいつもしていました。

はっきりいって、私がそれにどれだけ力を注ごうと、現実の生活で役立つことはあまりありませんでした。
ちょっと間が抜けた感じの見た目になるくらいで。

でも、今になると、当時、そのような目で計測しながら観察していた記憶が、
過去を振り返っていろいろなことを考えるのには役立っています。
そういえば、今の仕事にも役立っていますね。

今の年齢になって、当時の自分を眺めると、
「絶妙なタイミングで怠けていて、親の思い通りに育たないでいて、
えらい!えらい!よかった~よかった~」という感想を持っている自分がいます。親からすれば怠けにしか見えないことも、
私にすれば最も得意な分野の開発に余念がなかった
わけでもあるのです。

もし、私が親の勧めるピアノやそろばんで完璧を目指すような子だったなら、
今の私の生きていく術となる特技なんて
大人になるまで残っていたのだろうかと感じるのです。

人生の長さを思うと、
私は、結局、「私」でしか生きていけないのです。

周囲に無理につけてもらった飾り物の能力が
いくつあったところで、
私にとって邪魔でこそあれ、きっと必要のないものだったでしょう。


子どもたちと接していると、
4歳くらいの子でも、当時の私ととても似た感じ方や行動の仕方をする子に出会って、

「性格のタイプって後から身につくものではなく、生まれたときから
持っているものだな」と面白さや感動を味わいながら、
再確認しています。


学習につまずきのある子のレッスン  (人形ごっこで語彙力を伸ばす) 2

2012-05-26 19:00:10 | 初めてお越しの方

遊びというとふざけて追いかけあうとか、

おもちゃを出すだけ出して少し触るとおしまい……

という状態で過ごしていた子が、

小学生になってようやくごっこ遊びや人形遊びや工作に興味を持ち始めることがあります。

 

小学生ともなると、帰宅は遅くなるし、宿題もさせなきゃならないしで、今さら

ごっこ遊びやお人形遊びに付き合うのもどうかな……と感じる親御さんも多いことと思います。

 

でも、「幼児期にごっこ遊びや人形遊びや工作をほとんどしなかった」という子は、

想像を膨らませて見えないものをイメージの中で操作したり、

論理的に物事を考えたり、

そうして考えたことを言葉で表現することがかなり苦手なケースがよくあるのです。

 

子どもの発言に耳を傾けていると、「うん」「ううん」「いや」「そうする~」以外の言葉をほとんど

使っていなかったり、

言葉の使い方が間違っていたり、語彙量が極端に乏しかったりすることが多々あります。

 

また、理由を推測する力や

質問にきちんと答える力が育っていなかったりします。

 

学校の勉強がはじまると、計算はできるか、時計は読めるのか、

九九は暗記したか、漢字はかけるのか、といったことが

気になりますし、そうした訓練をたくさんさせると

勉強に遅れることはないように錯覚しがちです。

 

でも実際には、使える言葉が極端に少なくて、論理的に筋道を立てて考えることができないままで

授業を理解していくのは困難なのです。

 

想像力を使って頭の中でイメージできず、

理由を推理するのが苦手で、質問されると問いからずれた答えばかり言っているとするとすれば、

それはそれで学習のつまずきの大きな原因となるはずです。

 

発達のでこぼこの凹の部分を絵本で補う 1

発達のでこぼこの凹の部分を絵本で補う 2

という記事でも書きましたが、(この記事の続きは近いうちに書きますね)

「本来、幼児期に通っていく現実を論理的に理解していく過程がスポッと抜けたままに

なっているんじゃないかな?」と推測される状態にある子に

学校の勉強だけを繰り返し訓練していっても、

あるところまで進むと、頭打ちになってしまう可能性があるのです。

 

それなら、どうすればいいのか?というと、

わたしは次のように考えています。

 

小学生になってからも、「絵本読んで!もっと読んで!」と言い始めた子には、

たっぷり読んであげて、いろいろおしゃべりし、

ごっこ遊びや人形ごっこをし始めた子とは、ストーリーを展開させ、会話をたくさん交わしながら

いっしょに遊ぶのです。

工作をしたがるようになった子には、道具と環境と時間と適切な手本を与えてあげます。

そして、工作をしている最中にも、「どんなものが作りたいのか」

「工夫した点はどんなところか」「もっと良い作品にするんはどうすればいいと思うか」など

たくさん会話をするのです。

実際に手や頭を使いながら、大人とたくさん会話をしていると、

間違って覚えていた言葉が修正され、理由について正しく考えるようになり、

想像力が徐々に向上していきます。

 

子どもの論理的に考える力や想像力を伸ばすための会話の例は次回に書きますね。

 

 


学習につまずきのある子のレッスン  (人形ごっこで語彙力を伸ばす) 1

2012-05-26 16:22:43 | 自閉症スペクトラム・学習が気がかりな子

小学2年生の●くんは普通級で学習している

さまざまな面で少し発達がゆっくりしている男の子です。

個別で細かいサポートをしていると何とか学年相当の問題を理解できるけれど、

学校での授業の進行についていくのは

次第に難しくなっているようです。

<7時半の時計の絵>から、3時間 たった 時こく

を問う問題のように、

「時計の絵から何時何分かを判断する」ということと、

「その時間から3時間たった時こくが何時何分になるか考える」ということの

2つの作業をする場合、

手も足も出なくなって、「わからない」と投げ出す姿がありました。

 

「まず、何をしたらいいのかな?ほら、時計を読むんだよね。ここに何時何分か書いておこう」と

言って時計の横に枠を作ってあげると、「7時30分」と書くことができました。

 

また、「次は何をするのかな?問題をよく見てね。時計で時間がわかったら

その次にすることは何かな?」とたずねると、

「何時の方に足すの?何分の方どっち?」とはたずねてきましたが、

意味はそこそこわかっているようで「10時30分?」と自信なげに答えました。

 

そうしてようやくわかっても、

同様の次の問題になると、

時計の絵の時間を読むというところから、何をしたらいいのか

わからなくなっていました。

 

●くんは最近まで、ワーキングメモリーが極端に弱い上、時系列でものごとを考えていくことが

苦手でした。

そのため、お家ではお母さんから一度にひとつだけ指示を出してもらって、

それを実行するようにして過ごしてきました。

 

この頃は、ワーキングメモリーにしても、時系列にものごとを考えるのにしても

わずかずつですが向上しています。

 

レゴの作品作りやピッケの絵本というパソコンソフトで遊ぶ時のように

好きなことをしている時は周囲がびっくりするほど少し前にした作業を記憶しながら

目的を持って新しい作業をこなしていくことができるようになっています。

 

ところが、勉強となると、「問いに答えるためにしなくてはならない手順を考えて、

ひとつひとつ実行していく」という作業が

さっぱりできなくなってしまうのです。

 

問題をいっしょに見ながら、「何をすればいいと思う?ひとつめは何かな?ふたつめは?」

と指を1本ずつ立てて見せながら考えさせても

●くんは困惑したまま黙っています。

 

物作りのように好きなことなら何をすべきか計画したり記憶を保っておいたり

できるのに、

勉強だと手も足も出なくなってしまうのは、

嫌なことをやりたくないからではなさそうです。

 

●くんは視覚優位の子なので、ブロックの手順のように

画像だけで予測したり、記憶したりするのは

それほど難しくないようなのです。

けれども言葉を使って、何と何をすべきなのか考えるのは

至難の業なのかもしれません。

 

●くんは教室に着くなり、ドールハウスをいくつか配置して

家の中の家具をていねいに設置していきました。

少し前までドールハウスを出しても、ありったけの人形を部屋に詰め込んで

ふざけて遊ぶだけだったのですが、

今回は「先生、どろぼうのねずみの役して!」と言ってました。

(↑学校を覗く黒いマスクのどろぼうねずみ)

きちんとストーリーを演じて

遊びたい気持ちが芽生えてきたようです。

 

次回に続きます。

 


自閉傾向のある子と関わるときに気をつけていること 2

2012-05-26 08:33:30 | 自閉症スペクトラム・学習が気がかりな子

「自閉症の子と関わるときに気をつけていること」というタイトルで

記事を書くことにしたのは、次のような理由があります。

 

自閉傾向のある子たちは、記憶力の良さゆえに

一度嫌な体験として刷り込まれると

後々までそれを引きずってしまうことがあるからなのです。

そのため、関わる側が「気をつける」という点で、慎重すぎるほど注意していてちょうどいいくらいだと

感じているのです。

本人が傷つくのは何気ない一瞬ですが、

それを元に戻すには並々ならぬ努力が必要です。

でも、だからといって、他の子や新しい体験から隔離して、成長の幅を狭めてしまうのも

よくないと思っています。

そのさじ加減がとても難しいです。

 

(真似したい気持ち) 言葉が遅い 目が合わない……成長に気がかりなところのある子のレッスン

の★くんにしても、(まだ病院で診断を受けているわけではありませんが)

目が合わない、コミュニケーションする力が極端に弱いという特徴を持っている子

特有の一度体験した出来事をいつまでも引きずるところがあります。

こんなことがありました。

少し前に、同年代の子らと同じ場で遊んでいた時に、

自分が手にしていた電車のおもちゃと女の子が手にしていた電車のおもちゃが

軽くぶつかったらしいのです。

すると、相手の女の子がワーッと泣き出したのだとか。

 

その泣き方があまりに激しかったので、★くんのお母さんは★くんが悪気がなかったのを承知しながらも

周囲への手前、★くんに少し厳しく注意したそうです。

 

すると、それ以来、★くんは電車のおもちゃで遊んでいるときに、他の人も電車で遊びだすと

遊びを中断して、その場から離れるようになったそうです。

また、積極的にいろいろなことをしてみようとする態度の多くが、

傍観したり、取り組みを避けたりする態度に変わったようです。

わたしが反対側から「ガタンガタン」と電車で近付いて、

「ゴツン」と軽く電車同士を衝突させるようなふりをすると

★くんは半ばパニックを起こしかけて、こちらが電車を動かすのを見ただけで

スゥーと場所を移動して避けていました。

★くんがそれを極端に嫌がっているのはわかるのですが、

電車がぶつかりあっても怖くなかったし、むしろ面白かったという体験をしなおして

もらいたかったので、注意深く

「怖くない感じ」や「楽しい感じ」を含めながら

電車と電車がごっつんこという遊びをしてみせようとしましたが、

それ自体は最後まで避けていました。

が、不思議なことに、その後で、クーピーペンシルで

「ずんずんずんずん」と真向かいの場所から線を描いて互いに近づいていく

遊びは、

★くん自らやりはじめて、何度も繰り返していました。

★くんは、直線を描くのはその時はじめてだったようです。

 

次回に続きます。

 

 

 


自閉傾向のある子と関わるときに気をつけていること 1

2012-05-26 06:53:42 | 自閉症スペクトラム・学習が気がかりな子

自閉傾向のある子たちと関わっていると、

その子たちが外から見える姿よりずっと賢い一面があるのに驚くことがよくあります。

 

そうした潜在的な能力を自分で向上させる力を持っていることや、

そうした向上に対する強い意欲を維持させていく力にも

「あれっ」と感じる時があります。

 

なぜ「あれっ」と感じるのかといえば、外から見たところただぼんやりとフワフワと過ごしているように見え、

何かさせようとすると激しく抵抗したり、

すぐさまどこかに行ってしまうような子でも、

そうした見え方と真逆の性質を内に秘めていて、

それをアウトプットしやすい環境がそろうと

到底できるはずがないと思われたことが簡単にできたり、しつこいほど何度も練習してみたり

するからです。

その熱心さというのは、2,3歳の幼児の敏感期における熱心さと

似ています。

そのため、何かがその子にヒットすると、

ほんの数ヶ月で数年分の成長を遂げたように感じることがよくあります。

 

 

自閉傾向がある子たち特有のそうした潜在能力を

一番感じるのは、自閉傾向がない知的障がいの子と過ごしている時です。

自閉傾向がない知的障がいの子は

何を言われても、「うんうん、そうだね~!」とニコニコしてうなずくなど、

相手が何とでも受け取ってくれるような受け答えをしたり、

意味がわからないながらに適当に周りの子の行動に合わせていたりして、

外から見ると困り感が見えにくい子がいます。

が、実際には、見たり聞いたりすることを記憶にとどめる力が極端に弱かったり、

物を触りながら直観的にその意味を察するのが苦手な上、熱心に仕組みを探求していく

好奇心が不足している場合が多々あるのです。

 

一方で、自分の世界に没頭しがちで身辺自立ができるようになるかどうかが主の課題であるように

思われているような自閉症の子であっても、視覚的な記憶力が非常に良かったり、

自分で物を通して学んでいく力が高かったり、自発的に繰り返しチャレンジしようとするしつこさがあったりするのです。

その子にとって理解しやすい枠組みの中で学ぶ場合、

できるはずがないと思われたような

想像を膨らませたり、論理的に考える必要があることも、できるようになることがあります。

 

『ピッケの絵本』というパソコンソフトで絵本作りをする時は、

会話する力は2,3歳レベルという広汎性発達障がいの子たちが、

知力がしっかりしている一般的な小学生の子よりも

すばやく操作を覚えて、根気よく絵本作りに取り組むことがあって、

不思議に感じたことが何度かあります。

 

次回に続きます。