「自閉症」とか「広汎性発達障がい」という診断を受けている子たちといっしょに
遊び込んでいると、
こうしたハンディーキャップを持った子たちが
昨日と今日、先週と今週で、別人のように激変していく
「ある重要な時期」があることを感じます。
この「ある重要な時期」について説明する前に、
ちょっと遠回りなのですが、それとよく似た「ある重要な時期」を通過していく
一般的な幼い子たちの姿について書かせてくださいね。
わたしはふだん、ブロックをしたり、工作したり、
お人形遊びをしたり、ゲームをしたり……とそれはさまざまな種類の
遊びを通して、0歳、1歳、2歳、3歳といった幼い子どもたちと関わっています。
もちろん、ブロック遊びといったって、0歳や1歳の子でしたら、
こちらが、「カッチャン、カッチャン」と言いながらはめていくブロックを奪い取っては、
バラバラに崩していくだけだったり、
ゲームといったって、「せいので、ハイ!」のかけ声に合わせて、カードを出したり、ベルを押して「チリン」と
音を立てるだけだったりします。
それでも、何となくブロック遊びもどき、工作もどき、お人形遊びもどき、ゲームもどきの
遊びを繰り返していれば、ある時、そうした遊びの質が劇的に変化していく時期に差し掛かります。
その時期の変化の仕方というのが、
どの子にも共通した特徴のある流れのようなものがあって
面白いのです。
先日、『1歳児のこころ』(近藤 直子 ひとなる書房)
という本を読んでいたら、わたしが面白いなぁ、と感じている
「どの子にも共通した特徴のある流れ」について
3年間もかけて実験をした結果が載っていました。
ただ、虹色教室で子供たちの成長する姿を見ていると、遊びの体験が豊かで
親子の気持ちのやりとりが活発な子らは、
データーとしてある月齢よりずっと早い時期に
そうした課題ができるようになるとは感じたのですが。
その実験というのは、次のようなものです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
プラスチックでできた中が見える箱に、2.5立法センチの赤い積み木を8個入れて
「ナイナイ」とフタをして見せ、子どもにも同じものを提示して
「○○ちゃんもナイナイしてね」と指示したときの反応の変化をみる。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
この課題は、
「8個の積み木を入れる」と「箱にフタをする」の2種類の行為でできています。
「ナイナイする」というおとなのことばが意味するプロセスをモデル通りに再現できるかを
調べています。
実験した結果、1歳の初めごろ、過半数の子が、
2種類の行為のうち1種類だけしていたのが、
2種類の行為をするようになったはいいけど、
どこかちぐはぐで、お手本を見せている人とは似てもにつかない結果となっています。
1歳5ヶ月を過ぎると、完璧とはいえないまでも、
お手本通りにしようという意図がはっきりしてきて、
1歳7カ月頃には、お手本を見せている人が何を求めているのか、
その意図を理解していることが明瞭にわかるようになっていました。
その姿を『1歳のこころ』では次のような一文があります。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
モデルの意図を理解して取り入れるというよりは、
モデルの使った対象を取り入れ、その後対象に対するモデルの行為を取り入れることで
結果として、モデルの提起した「ナイナイする」という意味を取り入れ、
モデルの意図を理解することになるのです。
このモデルを使う対象の取り入れにあたって、1歳3ヶ月~1歳4カ月の間に
興味深い現象が見られます。
一人ひとりの反応で見ていくと、9人中7人の子供で、積み木を箱に入れるという
一種類の行為の取り入れ反応で占められていた時期から、
初めて2種類の行為が開始する直前の週に「モデルに働きかける」反応が
見られています。
具体的には(1個ずつ積み木を箱に入れ、3個入れると私を見て、フタを差し出し、
さらに積み木も差し出す)というように、箱と積み木だけでなく、
次の週に行為対象とするフタを差し出しているのです。
子どもが行為対象を広げる上では、いったんモデルに引き寄せられる必要があると
言えそうです。
『1歳児のこころ』 近藤直子 ひとなる書房
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
上の文章の終わりに、「子どもが行為対象を広げる上では、いったんモデルに
引き寄せられる必要があると言えそうです。」とあります。
自閉症の子の場合、この「モデルに引き寄せられる」という状態が
自然には生まれにくいですよね。
わたしには、こうした人の行為に引き寄せられることの少なさが、自閉症の子たちが
さまざまなことを習得していく困難さの原因のひとつのように見えます。
でも、会話をするのも困難な自閉症の子でも、
接しているこちら側の言動を調整していくことで、
この「モデルに引き寄せられる」という状態が生じやすくなることを
実感しています。
そうして、「モデルに引き寄せられる」という状態を経ると、
それから間もなく、その子の行為の対象に広がりが見え始めるのです。
わたしは、どうすればそうした状態が生じやすいか、
またどのような時、生じにくいかといったことも
子どもたちと過ごす中でいろいろな気づきを得ています。
-------------------------------------
会話をするのも困難な自閉症の子でも、
接しているこちら側の言動を調整していくことで、
この「モデルに引き寄せられる」という状態が生じやすくなることを
実感しています。
------------------------------------
と書いた内容について、もう少しくわしく説明しますね。
わたしの体験からすると、
自閉症の子たちは、外から見える以上に怖がりで、
「この人は怖くない人だ」と身体で感じることが、その子の内面の大きな変化につながる
カギを握っています。
やっかいなのが、「この人は怖くない人だ」という判断の基準が、
あまりにも微細な変化に左右されているため
何年もいっしょに過ごしていた親ですら気づかない場合が多いということです。
また自分の不安感を外の人に伝える力が弱いために、
本人の動揺の大きさに対して、
サラッとした表情でご機嫌で過ごしているように見えたり、
鈍感に何も感じていないためもう少し刺激が必要かも……という周囲の人にさらなる
怖がらせる行為を誘発してしまう点です。
また普段は甘えている母親相手でも、コロコロ印象が変わって、
ある何気ない場面では恐怖の対象となっているようなのです。
わたしが、どうしてそんなことに気づくのかというと、
虹色教室には感覚過敏を持っている子や神経過敏な子がたくさんいるので、
子どもたちがどのような場面でどのような恐怖に囚われるのか、
「よくこんなものを怖がるもの……」と呆れるようなものまで
網羅しているからでもあります。
たとえば、時計は大好きなのに、
秒針がカチカチ動くのが怖いから
といってフリーズしてしまい、その後の全ての活動がストップしてしまう子(ハンディーのない子たちにもけっこういます)
というのは、
笑い話でも、オーバーな話でもないのです。
そうした子はさまざまな場面で原初的知覚に振り回されるために、
恐怖心から問題行動を起こしているように見えます。
自閉症の子の場合、親御さんのちょっと強めの口調や、二度繰り返す言葉などに
誘発されて、
自分の世界に入りこむことで、外の世界にバリアを張って防御する子らがいます。
わたし自身がADD傾向があるので、
他の人々は拾わないような微細な変化や情報まで全て感受してしまうせいで、
そうした敏感な子らといっしょにいる時は、
その子が感じている外の世界に圧倒されるような感覚や、呑み込まれるような恐怖心、その子の内部に侵入して
主導権を奪い取るような人の気配を
自分のことのように感じてもいて、寒気やチクチクする感じや押さえつけられるような息苦しさを覚えるのです。
自閉症の子たちが「この人は怖くない人だ」と思う決め手となるのは
遊びの場面、場面で、
その子が主導権を握れるように
こちらの言動をコントロールすることです。
ひとりごとや常同運動が多い子ほど
その基準は見えにくく、「えっ、そんなことを?」と思うような
自分の筋肉への力の入れ具合や興味の移り変わりのスピードでさえ、
子どもの不安材料になっているように思います。
自閉症とか広汎性発達障がいと診断される子たちは、
モデルとなる人に働きかけることが少ないためでしょうか、
ひとつひとつ意味でつながっていないバラバラの行為に
興じたまま、なかなか発展しない場合があります。
たとえば、以前、記事で紹介した広汎性発達障がいの男の子は、
「数の大小はわかる」
「サイコロを振って出た目はわかる」
「数の大小で勝ち負けが決まることはわかる」
という状態にも関わらず、
「自分は1~6までの数が書いてある普通のサイコロを振っていて、
わたしは1しか出ないサイコロを振っているので、
何度、サイコロを振り合って勝負しても、その子が勝つ結果に終わる」
理由に気づけませんでした。
それで、いつも勝つか、同点なので、
すっかり有頂天でした。
このゲームの後で、この子のわたしへの信頼感は
急激に増しました。
確かにそうでしょう。
バラバラな知識がバラバラなままで
つながりあっていないとすると、
もし普通に勝負して、
自分が負けるようなことがあれば、突然、理由もなく「負け」を宣告されて、
自分が不利な立場に追い込まれて、ひどい目にあっていると
感じることでしょう。
相手に対して、突然、自分に嫌なことをしてくる悪い人という印象を持つかもしれません。
「サイコロを振り合っていると、自分が勝つこともあれば、相手も勝つことがある」
という事実と、
「勝負の結果、負けたのであって、自分の感じている不快感は、相手の
悪意や良し悪しと関係ない」ということが、
つながっていなければ、
突如、相手がひどい人物になり、自分を迫害してくるといった感じ方をしても
仕方がないのです。
この子とのサイコロ勝負で、わたしは常に1しか出ないサイコロを使っていました。
もともとサイコロではなく、6つの面のどこにもひとつ穴が空いている積み木を
サイコロ代わりに使っていたからですが、
こんなささいな出来事が、
この子とわたしとの距離を急速に縮めるきっかけとなりました。
広汎性発達障がいの子たちは、このように、
世の中にあるルールや世界のあり様にも
圧倒され、不安を覚えているように感じます。
先の記事に次のようなことを書きました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
わたしの体験からすると、
自閉症の子たちは、外から見える以上に怖がりで、
「この人は怖くない人だ」と身体で感じることが、その子の内面の大きな変化につながる
カギを握っています。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
わたしがどうしてそんな風に感じるのかというと、
これまで遊んだ自閉傾向のある子たちはどの子も
わたしがその子を怖がらせないように少し配慮するだけで、
「こんなささいなことが、この子にはこんなにも重要なの?」と驚くほど、
その後からわたしに対して友好的な態度を取り始めるこのを何度も
体験したことがあるのです。
何度も「怖がらせない」ことに気をつけていると、
強くこちらに惹きつけられるようになり、
心と心がしっかり共鳴しあったという体験をした後は、
わたしが提示することを真似よう、こちらの意図するものを
読みとろうとする姿もあらわれてくるのです。
その後、数ヶ月の間にコミュニケーション能力が劇的に変化していった子も
たくさんいます。
どのような配慮をして、怖がらせないようにしているのか、
具体的なシーンを取りあげて紹介していきますね。
(鎌倉で……)知力、能力、意欲を引き出すってどうするの? 4
(鎌倉で……)知力、能力、意欲を引き出すってどうするの? 5
という記事で、トムくんとわたしの水遊びの様子を書いています。
こうした遊びのシーンで、わたしは瞬間、瞬間で、トムくんの注意力や意欲に合わせて
誘う態度やこちらの言動を決めています。
たいていの場合、親御さんにするとわたしの態度は物足りないものかも
しれません。
その子自身が何もしようとしない時、
わたしは子どもの興味をひきたてるような楽しい雰囲気を作るわけでもなく、
子どもに近づいて働きかけるわけでもなく、何かすばらしいことをやってのけるわけでも
ありませんから。
こうした場面で、わたしは少しずつその子の嫌なものを環境から
取り除いてあげます。興味を引きそうなものをそっと近くに置くこともあるし、
本人にできそうな面白い活動を見せることもあります。
でもあくまでも本人の活動のリズムに侵入していくほど
いきいきと動くことはありません。
わたしの活発で活動的な姿に引き込もうとすれば、
それはそれで従う場合もあるでしょうし、
楽しんでいるように見えることもあるでしょうが、
おそらく内面では「逃れたい」「不安で怖い」という気持ちが高まっているにも関わらず、
そうした緊張感に操られていっしょに活動しているのでしょうから。
そのようにわたしが何かすることよりも
どんな小さな動きでも、本人が自分から動いたことに関しては
ひとつも見逃さないほどていねいに
対応するようにしています。
時間を有効活用しようと思わないこと。
時間の無駄を気にせず、ゆったりその場で
リラックスして過ごすこと。
「わたし」の発信することの重要性を下げて、
「相手」の発信することの重要性を上げること。
そうしたことに気をつけて過ごしていれば、
何も発信していないように見える子も、
さまざまなことに好奇心をくすぐられているし、意欲の芽生えが
見えることがわかってきます。
ただそうした好奇心や意欲は、最初のうちは、身近な大人が、「~してみる?」と
強い期待を込めて何か提示すれば、
たちまち「怖い」「逃げたい」「不安」に転じてしまうような弱弱しいもののはずです。
ひとこと言葉を発するのにも気を使って、
そっと、こちらがまるで自然の一部や物であるほど
相手を脅かさない動きで、その子のなかで動き出している
好奇心や意欲を受け止めてあげる必要があります。
といってもビクビクと不自然に気を使って相手をするのではなく、
一方では、いたずらっぽく楽しく
新しい冒険をしかけてみるのも大事です。
この水遊びの日も、わたしのこんなことをさせよう、あんなことをしてあげよう、という意図が
見えないくらい自然に過ごすようにしていました。
しまいには、家族のみなが別の場所に移動し、わたしとトムくんだけが
ベランダに残された時などは、
お互いに何もせず、何の言葉も発しないまま
ずいぶん長い時間を過ごしていました。
そうした静けさのなかで、トムくんはそれまではしようとしなかった
(ちょっと前に見せた)魚釣りのまねごとをしはじめて、
わたしの「トイレはどこ?教えてください」という依頼に対して
決心したように立ちあがって、わたしの手を引いてトイレの前まで歩いていったのです。
この時期、トムくんは他人に瞬間的に注意を向けていることも難しい状態でしたし、
人を人として認識しているかすら怪しいような印象がありました。
その日、わたしは妹のジェリーちゃんをモデルとして使って
「トイレはどこ?教えてください」とたずねて連れて行ってもらう姿を
何度も見せていたとはいえ、ちらりともそちらに視線を向けない上、
その言葉の表している意図を理解できるとは
わたしはもちろん、家族の方も誰も思ってはいませんでした。
でも、トムくんがわたしの手を引いてトイレの前まで連れて行ってくれた時までに、
わたしとトムくんの間には何度も何度も、
わたし側からは、トムくんが怖がらないようにという細かい対応をしていて、
トムくんはそのたびに、「あれっ?」というささやかな驚きの反応と
信頼感を表すようなかすかな変化が見られたのです。
こうした心の内面と内面の約束事を交わすような気持ちの交換を繰り返したおかげか、
その数ヶ月後にトムくんに会いにいった時には、
次のような変化があったのです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
4ヶ月前には、トムくんの目には他人が透明人間のように映っているかのようでした。
トムくんのまなざしが私を見ていることを感じたのは、ブランコに乗っていて、足先を私にぶつけようとして、
ゆらゆらしている瞬間くらいだったのです。
それが今回は、
人への興味が強くなっていて、
関わりたい! いっしょに遊びたい! 甘えたい! 自分の要求をかなえて欲しいという気持ちが全身からあふれるように見えることがたびたびありました。
一番驚いたのは、
トムくんが、ひとりで廊下に設置してあるブランコをこいでいたときに、
何メートルか離れた位置にいる私を目にとめて、
「な~お~み~せんせ~い、いっしょに遊ぼ~!」と大きな声で
呼んだときです。
この「な~お~み~せんせ~い、いっしょに遊ぼ~!」は、妹ちゃんが
私の滞在中、四六時中連呼していた言葉なので、口真似と言えばそれまでなのですが、
私が近づいてくるのをワクワクしながら待っている表情をしていて、
実際、自分が呼んだ言葉が通じて
私が来たことを確認すると、
トムくんは、ブランコから落ちんばかりの喜びようで、私の手足にじゃれて遊びだしました。
その姿を見て、
yoshikoさんも、トムくんがただのオウム返しではなく
自分の内面の要求を言葉にしはじめていて、
それが通じた喜びを体中で感じ取っていることを実感していらっしゃいました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
こうしたことを書くと「この人は怖くない」と感じる態度ってどんなもの?
と不思議に感じるかもしれません。
失礼にあたるかもしれないのですが、わたしの目から見ると、
一部の方を除いてどの親御さんも、それこそ腫れものに触るように接している方もそうした態度のせいでいっそう
こうした過敏な子どもを怖がらせているように見えます。
習い事の先生や学校の先生方も
外から見て正しく仕事をしているように見えなくてはならない
ゆえに、怖がらすことも多いと思います。