虹色教室通信

遊びや工作を通して 子どもを伸ばす方法を紹介します。

機能不全家族について  もう少し 7

2013-11-05 08:55:58 | 日々思うこと 雑感

高校の卒業を控えて、(もしかして卒業直後だったかも)

前回の記事で、「大人になってそれらふたりのわたしを統合する必要を感じるまで……」と書いた必要にかられた

自分を徹底的に打ちのめすような出来事がありました。

 

実は、出来事というより、自分の中では事件と呼びたい痛い内容で、

そのせいで未だに母校に顔向けできない状態ではあるし、

親しかった人々との関係を絶って自分の殻に閉じこもっていた時期が長かったので、

それをブログで人前にさらすのはさすがに躊躇して、なかなか決心がつかずにいました。

 

でも、それがまぎれもなく自分や家族への捉え方を転換させる起爆剤となったことは確かだし、

当時、関わって迷惑をかけた人々は、おそらく今は結婚して幸せな家庭を築いているのでしょうから、

わたしの罪もそろそろ時効かな……と思いなおして、

それに話に登場する幼馴染は、大らかでユーモアのある性格なので、

わたしがプライベートなことを書いたことを知っても笑って見過ごしてくれるかな……などと考えて、

(後から削除するかもしれませんが……)

書いておくことにしました。

 

事の発端は、まだ小学校にもあがっていない幼かった日々にまで遡ります。

近所のAくんとわたしは大の仲良しで、外で遊ぶ時はたいていいっしょでした。

Aくんのお母さんはわたしの母の顔を見ると、

冗談混じりに、わたしをAくんのお嫁さんにちょうだい、と言っていました。

理由は、うちのように亭主関白の家庭の子はいいお嫁さんになるから、

というよくわからない古臭いものでしたが、

実際には、Aくんのお母さんは、古臭い人というより、

海外ドラマに出てくる都会のキャリアウーマンという感じのハキハキした外向的な方で、

タッパーウェアーの実演販売の仕事を手広くやっておられました。

 

普段のわたしは、母が期待する良い子の枠組みの中で自分を出していましたが、

Aくんと過ごす時は、ちょっと派目をはずして、

お互いの親から面倒を見るように言われている妹と弟を、

うまいこと家の近くで巻いて、泣きながら母たちのもとに駆けていくのを見送ってから、

危ないからと止められているところまで遊びに出かけたり、

Aくんの家のちゃぼにいたずらを仕掛けてみたり、落とし穴を掘ってみたりと、

やんちゃな遊び方をよくしていました。

 

だいたいのところ、そうした悪さや遊びを思いつくのはわたし、実行に移すのは

Aくんでした。

ある時、3階の団地のベランダからカゴを結びつけたひもを垂らして、

外にいるAくんとおもちゃや手紙をやりとりしようとしたのに、

下の階のベランダのフェンスに引っかかってしまい困ったこともありました。

 

わたしはいつも、Aくんの力や勇気や冒険心や実行力を当てにしていて、

Aくんはわたしの想像力や知恵を当てにしていました。

 

はっきりとした時期は覚えていないのですが、やがてAくんは引っ越して行きました。

Aくんのお母さんは社交的な方だったので、引っ越した後も、

わたしの近辺の人々とのつきあいがあったようです。

高学年の頃、同じクラスの男の子が、

「この間、Aに会ったら、お前のこと好きな人って言ってたぞ、恋人って言ってたぞ」

と言ってからかいました。

その頃のわたしはぶくぶくと太って、ぼけっとした顔をしている可愛らしいとは言い難い子だったので、

その口調には、どうしてこんなやつのことを好きなんて言うんだろう……と呆れるような皮肉るような

気持ちが透けて見えました。

 なつかしさと恥ずかしさと「Aくんはからかわれるのが怖くないんだろうか」という思いが心の中を駆け巡った後で、

「いや、Aくんは強い。からかわれたら、うるさいっと言って笑っているだろう」と、Aくんの気の強そうなどんぐり眼を

思い出して、ちょっと愉快な気持ちになりました。

 

その頃もそれまでも、うちは問題の多い家庭でした。

父の母への暴力はむごいものでしたし、ギャンブルへの執着も

依存症のレベルで、母と妹はぶつかってばかりいました。

それでも、『同じ屋根の下に』というエッセイで書いたように、

まだどこかほのぼのとした空気が、日々の暮らしの中に漂ってもいました。

 

それが、中学の時に父が仕事中、事故にあって、むちうち症で自宅療養を始めて以来、

父のもともと粗暴で攻撃的な性格は、次第に悪魔的で病的なものへと変わっていきました。

母はパートで忙しく、妹は友だちと遊び歩いている中で、

自宅で受験勉強をしなくてはならなかったわたしに対する

父の風当たりは日増しに強いものになっていきました。

 

勉強をやらせまいとする嫌がらせは日常茶飯事で、

自分の中に溜まっているイライラを発散したいためだけに、理由もなく怒りを爆発させて

暴れていました。

母は母で、非行に走った妹のことを気に病んで、おそらく鬱にかかっていたと思われるのですが、

いつ自殺未遂をするかわからない状態でした。

そのため、何とかふんばって希望校に合格したものの、

高校受験を終えた時には、わたしはすっかり陰気な性格になって、

自分への自信も信頼も失っていました。

食事を取るのも苦痛を感じるほどやつれ、ぶくぶくと太っていた身体は痩せこけていました。

 

 そんな状態で始まった高校生活でしたが、それなりに楽しいこともいろいろありましたし、

自由で明るくのびのびした校風は家の呪縛を解いてくれるようでした。

 

 次回に続きます。


機能不全家族について  もう少し 6

2013-11-03 21:00:36 | 日々思うこと 雑感

先の記事で、こんなことを書きました。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

今、自分が「絶対にそうだ」と信じていることも、

これから先、「そういう一面もある」という全体の一部へと変化していくかもしれない

と予感して、よくよく考えた上で結論が出たら、

その考えをいったん保留にしておく習慣を身につけていきました。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

こうした考え方を身につけたのは、

反面教師としてですが、

父や母の影響が大きいのかもしれません。

 

父にしても母にしても、自分の感情を揺さぶるような何かを前にしたり、

動揺する出来事にぶつかると、

現実をていねいに検証しようとせずに、

最初に「こうだ」と飛びついた考えに、

ずっと、しがみついていることがよくありました。

 

趣味や遊びのルール上では、物事を緻密に分析し計算高い父が、

同じ趣味や遊び上の

「それは本当に確率的に得なのか」といった疑問には、

まるで自分がクジを引いたら一等しか当たらないと信じている幼児のように

バカげた期待に執着していました。

 

母は母で、本当に心が柔軟で気持ちの優しい人なのに、

妹や親戚の一部の人に対しては、

どんなに説得しても、

初めにつけた色眼鏡をはずして、相手の身に自分を重ねてみようとは

しませんでした。

 

それは、子どもの目にも、

「たったひとつの考え」が、

「他のたくさんの可能性を考えない」ために利用されているように映りました。

 

また、ただの思いつきや決め付けのような「根拠のない考え」も、

繰り返し心に刻み、自分に信じ込ませていけば、

後から得たどんなに有力な証拠や疑いようのない現実も黙らせてしまうほど

力を持つことがあるのを感じて、恐れました。

 

そうした両親の姿に胸を痛めるうちに、

わたしは自分が見たり、感じたり、考えたりしていることを

できるだけ言葉にして整理しながら、

先の記事に書いたように即断を避けて、いったん考えを保留しておくようになりました。

後でさまざまな別の視点から眺めなおしてみるためです。

 

子ども時代を通して、わたしが一番関心を持ち、

何度も何度もさまざまな角度から

観察し続けていたのは、

自分の感情や思考の動きです。

 

児童文学の作家になりたい気持ちが強かったので、

ピアニストを目指している子がピアノの練習に明け暮れるように、

自分の心の中を移ろい続ける感情や思いを

とにかく言葉にしなくちゃいけない、言葉で表現しなくてはいけない、

言葉に変換する練習をしなくては作家になれない、という焦燥感に突き動かされながら

自分の心と対峙していたのを覚えています。

そうした癖は、ずいぶん小さい頃からあったのですが、

それはわたしの自分の心を守る自衛手段でもあったからなのかもしれません。

そんなわけで、現実の世界で泣いたり笑ったりして生きているわたしの背後には、

常に自分の心の中身をスケッチしようとしている観察者としてのわたしがいました。

 

大人になってそれらふたりのわたしを統合する必要を感じるまで、

幼稚で、逃避的で、ぼんやりと空想に浸っているか、感情に流されて衝動的に動いているか

している自分と、

クールで大人びていて、いつも冷静沈着で、一風変わった考え方をする自分が、

 互いにあまり交わらずに、ひとつの身体に同居しているようなところがありました。

 

昔からささいなチャレンジにも尻込みして、やってみようともせずに逃げてばかりいる一方で、

周囲の大人たちも茫然とするような困り事にぶつかった時には、

『長靴をはいた猫』という童話の猫のように

何事も先回りして策を練っておいたり、

 『3枚のお札』という昔話の和尚さんのように、

鬼婆をモチでくるんで飲みこみながら冗談を言ったりするような

途方もないアイデアやユーモアで解決を図ろうとする自分の別の一面が、

突如、顔を現していましたから。

 

そうした自分の別の一面が顔を出す瞬間を感じた

8歳か9歳の頃の印象深い思い出があります。

 

母方の田舎で海水浴に行った際、

ビーチボールごと波にさらわれて、

ひとりで沖に出てしまったことがありました。

流されている原因である大きすぎるビーチボールを手放して、

海底に足が届くところまで泳いでいく決心がつかないうちに、

必死で水を蹴る力をはるかにしのぐ波の力に運ばれていました。

事の深刻さに気づいた時には、浜辺に戯れる人々の姿が小さすぎて、目で確認するのが難しいほどで、

周囲は無音の世界でした。

それは流されているわたしがあちらからよく見えないこと、

いくら大きな声で叫んでも、あちらには聞こえないことを意味してもいました。

足元には奈落へ落ちる裂け目のような黒い海がありました。

 

海面に巡らされたオレンジ色の浮きが作る境界線を目にした時、どうあがいても

助かる見込みはないと悟った瞬間、

わたしは泣き叫んだり、怖がったりするのをやめて、

突然、頭を、ひどく合理的で冷淡にも思える考え方に切り替えてました。

 

「おそらくわたしは、このスイカ柄のビーチボールの空気が抜け次第、

しばらくもがいて力つきて死ぬ。

死ぬのはとも怖いし、水が鼻や口の中にどんどん入っていく時は苦しくてしょうがないはず。

でも、泣いても、叫んでも、怖がっても、経過も結果も同じなら、

万にひとつでも生き残れた時に

将来書く小説の一部に書き加えられるように、

今の自分の目が何を見ていて、頭が何を考えていて、心が何を感じているのか、

調べて言葉にしておこう」

そう考えて、

浜辺を眺めると、小さな無数の光が、

まるで夜景のキラキラした街の光の粒を切り抜いて、海と浜の隙間に埋め込んだ

ように輝いていました。

 

「水をたくさん飲んで苦しんだ後には、

もし天国とかあの世とかいう場所があるなら、黒い海の底でもう一度、

こんなキラキラした光を見るのかもしれない。それともずっと死んでしまったままなのかな?

わたしが死んでしまっても、この世界は今まで通り、そのままあるんだろうけど、

わたしが死んだ次の日に、この世界が爆発して消えて無くなったところで、

わたしからすると、どうでもいいこと、何でもないことになってしまうのは不思議だな。

生きている時はこんなに大切な世界なのに。

死んでから、今のこの世界があるのかないのか想像しようと思ったら、

生きているわたしがあの世があるのかないのか

想像するのと同じになってしまうのかな?」

 

空は青く澄んでいて、自分が牧場にいて、草を踏みしめながら空を眺めているだけなんだと、

信じようと思えば、信じてしまえるほどのほがらかさでした。

 

その時、ふいに海水浴場の監視に回っているらしいボートが近づいてきて、

わたしを引きずりあげるようにしてボートに乗せると、浜まで送ってくれました。

 


「心が大きく広がり始めた♪」 うれしい成長 4

2013-11-02 17:35:22 | 自閉症スペクトラム・学習が気がかりな子

「心が大きく広がり始めた♪」 うれしい成長 の続きです。

前回の記事から、レッスンの様子を書いている★くんについて、

お母さんからこんなコメントをいただきました。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

いつもお世話になり、ありがとうございます。
また、★の事を書いてくださり、ありがとうございます。

昨日、地域の文化祭がありました。
★の通う幼稚園も出し物をするとの事で見に行って参りましたが、★のクラスの出し物はダンスでした。
家ではたまに踊ったり歌ったりする★ですが、幼稚園では全然踊らず、

今までかつて運動会や発表会では棒立ちするか走り回る★を悲しい気持ちで見つめるのが母の勤めになっておりました。

ところが!!!
昨日は完璧ではないまでも、ほぼ全部歌いながら踊ってくれていたのです!!!

すごくすごくびっくりして、すごくすごく嬉しかったです。

本人はまるで当たり前のように涼しい顔をしていました。

これからもこうやって今までできなかった事が、当たり前にできるようになってくれたら…と願っています。
そんな当たり前のシーンが増えていきますように、今後もよろしくご指導をお願いします。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

★くんと○くんのレッスンの話題に戻る前に、

虹色教室のレッスンでしていることを簡単に説明させていただきますね。

 

虹色教室でしていることを、ひとことで表すと、

子どもに「成功させる」ことです。

大人が「できるようにさせたい」ことを、できるように訓練するのではなくて、

子ども自身が、「できた」と感じる瞬間をたくさん味わえるように

物的環境や人的環境を整えています。

 

コミュニケーションが取りにくい子には、

本人が「うまく誰かと通じあえた。やりとりができた。」と感じるような

場面をたくさん作っています。

 

遊びが成り立ちにくい子には、

本人が「上手に遊べた」と感じるような

体験をたくさん作ります。

 

想像力が弱くてごっこ遊びをあまりしない子には、

「想像を膨らませながらごっこ遊びをしてみたら楽しかった」という

気持ちを何度も味わえるようにしています。

 

作るといっても、

こちらが何もかもお膳立てして、

劇に子どもを参加させるように作っていくわけではありません。

 

自閉の度合いが大きい子で、本人の内発的な動機が見えにくい時にも、

本人が、自分からやってみようとしたことや興味を抱いたことを

出発点にするようにしています。

その子が何をしたがっているのか、何を望んでいるのか、何が必要なのかを

見出す技術のようなものを周囲の大人が持つようにしています。

 

作るというのは、そうして本人の心が外に向かって表現したがっていることが、

現実の世界でちゃんと実行できたと確認できるように

本人を動かすのではなくて、

その子の周囲の環境や人を動かして、その子が気づきやすいようにしてあげることです。

 

レッスンの話の続きは明日にでも書きますね。


機能不全家族について  もう少し 5

2013-11-01 13:26:23 | 日々思うこと 雑感

先の文章にこんなことを書きました。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

父も母も妹も、自分の親と自分自身がプログラムした思考の罠が

自分の人生を蝕んでいくことから

どんなにあがいても抜け出せなかったのに、どうやってわたしはそこから出たんだろうと考えると、

いくつか思い当たる理由があります。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ひとつ目の理由として、多くの親以外の大人たちから可愛がられてきたことを書きましたが、

自分が囚われている認知の歪みから解放されるためには、

それとは別に

自分が長年培ってきた技術のようなものも

役立ったと感じています。

 

子どもの頃のわたしは、とにかく高いところに登るのが好きでした。

当時は、三輪車に乗っているような子も、団地の前の自転車置き場の屋根の上を

遊び場にしていましたから、

それはわたしに限ったものではなかったでしょうが、

子ども時代の記憶の半分くらいは、どこか見晴らしのいい場所から、

眼下を俯瞰して眺めた光景で占められています。

 

 わたしの住いは、山を切り開いて作られた公共団地で、

周辺の道はたいてい斜面でした。

坂を上へ上へと登って行って、もうこれ以上登れないというところに着くと、

突然、パアッーと視界が開けます。

 

それまでは見えなかった反対側の景色や

下からは見えるはずもない団地の屋根や

建物で刻まれていない空が目の前に広がるのです。

 その瞬間がたまらなく好きで、来る日も来る日も、どこかに、何かに、

登っていた記憶があります。

 

わたしは、そうやって何度も何度も高いところに登りながら、

「高いところに登るまで見えている風景は、自分の目で確かに確認し、できるだけ詳細に正確に捉えたところで、

見晴らしのいい場所に着いたとたん、

それまで見てきたものも信じていたものも、

それは全体の一部に過ぎない。

自分が歩いている場所から見える景色が限られていたから、それが全てを覆っているように

見えていただけなんだ」

ということを意識していました。

 

そうやって、高いところに登りながら身体で感じ取っていたものは、

あらゆる物事を考える際にも影響して、

「わたしが見ていること、感じていること……は、実際に自分の五感で捉えているから、

信用できる。自分の感覚が信じられないわけじゃない。

わたしは、自分の周りで起こっていることを見落としなく確認していく自信があるし、

それについて客観的に判断をくだすこともできるはず。

その正誤が問題なのではない。

ただ、今という経過点で、自分が感じて、考えて、こうだと信じているものは、

もう少し見晴らしのいいところに着くまで保留にしておかなくてはならない」

と、考えるようになっていました。

 

そんな風に考えるようになったのには、むさぼるように読んでいた児童文学の世界に依るものも

あるかもしれません。

 

児童文学の世界の主人公たちは、一生懸命、今を生きていて、

真剣に自分で感じて考えて、世界にぶつかっていきます。

しかし、ほとんどの場合、いつしか、

最初に信じていた小さな世界観を打ち砕かれて

より大きな視野から世界を眺めるように成長していくのです。

 

わたしはそうした主人公たちに自分を重ねながら、

今、自分が「絶対にそうだ」と信じていることも、

これから先、「そういう一面もある」という全体の一部へと変化していくかもしれない

と予感して、よくよく考えた上で結論が出たら、

その考えをいったん保留にしておく習慣を身につけていきました。

 

 

次回に続きます。