汐見稔幸監修の『発達障害の再考』という本の前書きにこんなことが書かれています。
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「発達障害」は今や一般用語になりつつあります。「発達障害者支援法」ができ、「特別支援教育」が始まり、「早期発見・早期対応」が叫ばれる世の中ですが、
では、この社会は、発達障害を持つと言われる人たちにとって、以前より生きやすい社会になっているのでしょうか?
そもそも、発達障害を持つと言われる人たちは、本当に「早期に発見され」「早期に支援され」なくてはならない人たちなのでしょうか?
そこに、多様性を忌避するこの社会の歪みを感じるのは私だけでしょうか。
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この数年、わたしも同様の思いを心にくすぶらせています。
発達障害をもつといわれている子たちについてもそうですが、実際に発達障害を持っているかどうかはまだ疑いの段階で、「成長過程でちょっと気になるところがある、発達の順序に偏りがある」という子についてはなおさら、何の疑問もさしはさまずに療育し、支援することを最善手ととらえていてもいいものか迷いがあります。
9年前、わたしがブログをはじめた当初は、今なら重度の自閉症と診断されるほど特徴がきわだっていても診断名がつかず、保健所に相談に行っても、療育等の紹介をしてもらえない、という話をよく聞きました。
それから年を追うごとに、育て方に悩んでいる親御さんに手が差し伸べられるようになってきたな……と安心していたら、最近は、「えっ、この子が療育に通っているの?ただ内向的で敏感なだけじゃないの?」
「えっ、この子も療育に?ちょっと体験不足は感じるけど、ごく普通の子では?」と親御さんの話を聞いて、びっくりすることが増えてきました。
療育も支援もプラスの行為なのだから、やって悪いはずがないともいえるけど、「子どもを早期に判別し、気になるところがあれば療育へ」というシステムがあたり前になるほど、
親も子どもも社会も園も学校も家庭も、それに付随する子ども観や人間観に影響されていくように感じもします。
といっても、ほとんど問題なしと見える子でも、小学3年生くらいの想像力や抽象的な概念を扱う学習に入ると手も足も出なくなる姿を目にしているので、
ただ過剰診断と片付けて、発達障害の情報を切り捨てたらいいとも思えないのです。
の記事でとりあげたコメントのなかにこんな言葉がありました。
<息子は「決められたレール」「外の評価」を求めることが人一倍苦手で、且つ、興味を持ったことに熱中できる性質は、障害と呼ばれるかもしれないのですが、私は「才能」だと思っていて、大切にしてあげたいです。
また、先生がブログでかかれていたように、苦手がある分、「得意」を伸ばすことで社会生活を活き活きとすごしてほしいと心から思っています。>
これを読んで、以前、虹色教室通信で書いた、苦手がある分、「得意」を伸ばすことで社会生活を活き活きとすごしてほしいという言葉とは別の捉えで、普段、感じている『苦手』についての思いを言葉にしてみたくなりました。
日々、たくさんの子どもたちと接していると、『苦手』というものについて、常識的な捉えとは別の意味を感じることがよくあります。
一般的には、『苦手』はできるだけ早く克服すべき弱点であり、よくないもの、なおすべきもの、その人の価値を下げるものととらわれがちです。
でも、テストの点で振り分けるように子どもを眺めるのではなく、それぞれの子の個性的な成長の軌跡に根気よくつきあっていると、『苦手』は必ずしもその子の足を引っ張るだけのものではないことに気づかされます。
『苦手』は、ときにその子の『得意』をはぐくみ、『得意』が失われてしまわないための一時的な防御壁の役割をはたすことがあります。
たとえば、性格タイプのちがいによって、発達する順序に早いもの遅いものの違いが出ますが、ゆっくり発達する面は、個性的な強みを伸ばす仕事に一役買っていて、
わざわざ好機を狙っていたかのように、得意が確立したところで発達しはじめるのをよく目にします。
感覚が優れている子たちは、利発な子でも、新しい概念に触れると、急に物分かりが悪く見えるときがあります。
いったん習得すると、自在に扱えるようになるほど上達するのに、直観や思考が優れている子なら瞬時に理解することにわかるまで非常に長い時間を要するときがあるのです。
高い知力を感じさせる子が、ひき算を習っても、なかなかできるようにならないということも起こります。
発達障害等の疑いはなくても、感覚が優れている子たちは、新しいチャレンジに消極的だったり、切り替えが苦手だったり、
集団での活動に無関心だったりしがちです。
それらのひとつひとつを、〇〇認知力は何点、社会性は何点と数値化するならば、感覚が優れている子たちのそういった面は、能力の凹のところであり欠如部分でしかありません。
でも、工作、カードゲームやボードゲーム、頭脳パズル、実験、算数の学習、自由遊びなどさまざまな場面で子どもを観察していると、感覚が優れている子の『切り替えの悪さ』は、他のタイプの子にない集中力や持続力と表裏でつながっているのがわかるのです。
新しいことへの慎重さは、新しい刺激に目移りせずに、ひとつのことを完璧に習得するまでやり続けための時間を保障する助けとなっています。
それは、感覚タイプの子のわかるまで時間を必要とする性質は、わかりきったことも身体で納得するまで繰り返そうとする持続力と関連があるのかもしれません。
早い段階で「わかった」と全体を把握するのが苦手なところは、飽きずに細部のデーターの蓄積できるという長所をもたらしてもいます。
感情が優れている子たちは、じっくりと考えていく作業や、記号化されたものを嫌がるところがあります。
これはこのタイプの子らの苦手なところといえるけれど、それは周囲の意見と衝突せずに上手に空気を読みながら対応していく姿と表裏一体でもあります。
確かに物事を正確に分析しようとしたり、時間をかけて自分の考えを追っていては、環境に臨機応変に対応するのは難しいのかもしれません。
感情が優れている子たちの『苦手』は、人とかかわりながら感覚的な作業をすることや生活の中で直観を使って問題を解決したり、友だちとゲームに興じたりするなかで、ゆっくりと克服されていきます。
ゆっくり克服されることで、アカデミックな世界にあるものが、実生活に根差したものとつながりやすくなります。感情が優れている子たちは3年生くらいで好んで高学年向けの物語の本を読むようになることが多いです。
直観が優れている子たちの次々と新しいことに手を出してはすぐに飽きてしまうところや持続力のなさやコツコツと努力して積み上げることに苦手さを生んでいますが、それは裏を返すと、
好奇心が強さた、短期間にやさまざまな経験をつないで類推する力の高さにつながっています。
大雑把にざっくりと作業し、ていねいにデーターを検討したり、正確に物事をちぇっくしたりするのが苦手なところは、直観が優れている子たちの欠点ではあるけれど、
その苦手のおかげで、想像力で未知の部分を補ったり、これまで試されなかった方法で難題を解決したりします。
思考が優れている子たちはぐずぐずと考えていて慎重すぎて行動できなかったり、気難しかったり、自分の考えに夢中で、社会性の面ではゆっくりしている印象があります。
それは思考が優れている子たちの苦手といえるけれど、他者の目に自分はどのように映っているか頓着しないおかげで、問題を解いているときにミスしても、「まちがえた」と思ってしゅんとしたり、
大人や友だちの視線を気にして頭をフリーズさせたりせずに、正しい答えに行き着くまで考え続けている姿をよく見ます。
周囲の変化に影響されにくいことが、(非常に敏感で、影響されやすいから、頑固な態度で影響されない場を作りだす子もいますが)熟考していく上での持久力につながっているように感じます。
生き物は進化の過程で自立や成長を遅らせることで、高等な力を身につかせるという戦略をとってきています。
生まれてすぐに立ち上がり、短期間に自立して生きていく生き物がいる一方で、人間の赤ちゃんは周囲に完全に依存して暮らす未熟な時期がとても長いです。
ゆっくり育つ部分があること、苦手を持っていることが、高度な能力を発達させるための助けとなっているのです。
生物のそうした奇妙な進化の戦略を思うと苦手とは何なのか、ゆっくり育つもの、遅れがある部分とは何なのか考えさせられます。
そういえば、夏に出版した本を……
PHP研究所の方々にお世話になっているというのに……がんばって、宣伝しなくては……
どうぞよろしくお願いします。
PHP研究所から本を出版させていただきました。
詳細はこちらで見てくださいね。(購入もできます)
http://www.php.co.jp/family/detail.php?id=83303
初めての出版でドキドキしています。どうぞよろしくお願いします。
ご購入を検討してくださった方に心から感謝します。
書店での購入やアマゾンでの購入ができないため送料がかかってしまい申し訳ありません。
※一般書店では購入できません。こちらのHPよりご注文いただけます。
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