大人が思わず眉をひそめたくなるような『タブー』となっているものや
『悪』と認識されているものと安全な形で関わることが、
緊張が強くてなかなか周囲と打ち解けるのが難しい子を
外の世界との関係へと誘い出すのを、何度も目にしています。
それは、他の人の思いやルールを受け入れることにもつながります。
また、周囲はもちろん、自分自身も震え上がらせてしまうような攻撃性を
アウトプットしてしまったり、
「許されないかもしれない」と感じるほどのことをやってしまったりして、
叱られるには叱られたし、泣けるだけ泣いたりしたあとで、
大人のちょっとしたことで揺るがない強さや、地に足がついたどっしりした姿を
肌で感じたときや、
大人がさまざまな視点で物事を眺めていることや、子どもが思っているより
広い視野で考えていることに気づくときも、
子どもは固い殻を破って、自ら外へ歩み出てくるようです。
そうしたプロセスを、経験的にはよく知っているし、わかってもいるけれど、
うまく説明できないもどかしさに苦しんでいました。
そこで、助けを求めるように河合隼雄先生の『子どもと悪』を読み返しました。
河合先生が、「悪の問題を論じるのに、最初に『悪と創造』を論じるのは、
思いきったことのように感じられるかも知れない」と前置きした上で、
冒頭から、悪と創造の関係について語っておられます。
著書の一部を短くまとめて紹介しますね。
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悪には、文化差のようなものが存在して、個人差を強調しすぎるきらいがある
アメリカでは、子どもが他と異なる意見を言おうとするのを教師も応援しているし、
しっかり他人と同調すると「悪」の烙印を押されそうでもあります。
一方、日本においては、創造性が悪に接近して受け止められる度合いが高いのです。
「いい子」を育てようと、教育熱心な社会では、
子どもが創造的であり個性的であろうとすることが、悪と見なされることも
多々あります。
創造性は想像によって支えられていて、想像する力なしに創造はできません。
創造につながっているような想像というのは、表層的なものではなく、
自分の存在全体と関わってくるものです。
想像のレベルが深くなってくると、平素は抑圧している内容が含まれ出すので、
悪とかかわってくることもあります。
悪は大変な破壊性を持っているものだし、理屈抜きに許されない悪があるのも確かです。
しかし、悪とは一筋縄でいかないもので、排除すればいいというものでもありません。
教師や親が悪を排除することによって「よい子」をつくろうと焦ると、
結局は大きい悪を招き寄せることになってしまうのです。
悪は不思議な両義性を持っています。
それを端的に示す例が、「悪と創造性」ということになります。
悪は取り返しのつかない破壊力を持つ一方で、未知のものを秘め、活力に満ち、
古い秩序を解体して、新しいものを生み出そうとする力にもつながっています。
『子どもと悪』河合隼雄/岩波書店
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(今回は、タイトルから少し脱線します)
前回の記事で、「安全な形で悪と関わる」ということを書きました。
具体的な例がないと、わかりにくいですよね。
特別、過敏な性質ではない一般的な子たちの遊びにも、
定期的に「悪の匂い」のするものが登場します。
泥棒、強盗、地獄、お化け、事件、災害にまつわるごっこ遊び。
誰かを驚かせたり困らせるためのいたずら、毒薬作り、爆弾作り、武器作り、汚い言葉。
悪にまつわる想像力が子どもたちを魅了して、そんな遊びに憑きものでもついたように
熱中させる時、それは「安全な形で悪と関わる」という体験になると思っています。
小学校就学など新しい生活がスタートする前後、生活が単調で不満が溜まっている時期、
一人の子がトラウマとなる体験をしたあと、精神的に急成長する時期、
親子関係や友だち関係が刷新される時などに現れやすいです。
つい先日も、年長さんと1年生の女の子たちのグループでこんなことがありました。
この日は、日時の調整の関係で他のグループのAちゃんが参加していた上、
当日、急きょ、妹の付き添いで来ていたBちゃんのお兄ちゃんにもレッスンに
参加してもらうことになったので、狭い教室が定員オーバー気味でした。
でも、たまには、そんなごちゃごちゃざわざわした日も、
それはそれで、そんな日だからこそできることやそこから得るものがあるものです。
お母さんたちが席をはずしたあと、
子どもたちと「今日、どんなことをしてみたいか」を話しあったところ、
「部屋中に、ブロック板や積み木を敷き詰めて、お母さんたちが帰ってきたら
座れないようにしよう」という意見で意気投合しました。
狭い教室内に6人の子がひしめきあっていると、
おもちゃを広げると足の踏み場もないのですが、
いっそのこと、足の踏み場を完全になくしてしまえば、戻ってきたお母さんたちが
びっくりしたり困ったりしてさぞ面白かろう……という逆転の発想。
実はそのアイデアが出るまで、暑さ負けしたのか、「先生、わたしもう、
ドールハウス作りとか飽きちゃったのよ。作りすぎたの」
「何をするかって?何でもいい、でも実験とか嫌。工作も嫌」といった後ろ向きな意見が
続いていました。
が、いったん、「お母さんたちが教室に入れないようにしてやろう、困らせてやろう」
という「悪の匂い」のするアイデアが出たとたん、
集まった子ら全員にエネルギーがみなぎり出しました。
グループきってのいたずらっ子のBちゃんと、
新しい小学生としての生活に不慣れなためか妙に高いテンションのCちゃんが、
「教室の入り口付近にスカイツリーみたい高い高い塔を建てて、
お母さんが入ってきたら、その塔のせいで教室に入れないようにしようよ」
「じゃあ靴を脱ごうとしたら、それが倒れるようにしておいたら?」と
大はしゃぎ。
知能犯のDちゃんが、どこからか細いチューブを見つけてきて、
「塔にこれをつけて、部屋に入ろうとしたら、水がかかるようにしてもいい?」と
聞いてきました。
「それはやり過ぎよ。その代わり、水が出ているってことなら、いいんじゃない?
シャワーみたいに」と注意すると、納得してチューブだけを取り付けていました。
が、少しすると、ねんどをキャラメル包みにしたものを玄関先に置こうとし、
それには、場にいたみんなが、「そーれーはーやり過ぎじゃないの?そんなの踏んだら、
本当に困っちゃうじゃない!!」と、待ったをかけていました。
気の優しいEちゃんだけが、
「お母さんたちに意地悪しちゃおう」というノリに戸惑いながら、
黙々と作品作りをしていました。
↑ 後からビー玉の水を流す予定で、川を作っています。
川の横は田んぼ。ブロックにモールの稲を植えています。
教室中を埋め尽くした作品。川、橋、線路、水族館、
動物園、サファリ、道路、立てかけた椅子に座ると崩れる仕掛けの崖、二階建ての家、
いたずら満載の高い塔などができました。
「安全な形で悪と関わる」といえば、わが子たちが子どもの頃していた遊びも、
大人が規定する善といったものを引っ繰り返すからこそ面白くて、夢中になれて、
自立心を育むものでもありました。
『遊びが育むやる気と問題を乗り越える力』という過去記事を紹介しますね。
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娘が5、6年生、息子が2、3年生のとき、近所の子どもたちと一緒に、
息子を社長にして、「そそそ会社」という架空の会社を立ち上げていました。
娘と娘の友だちは、いつも息子をからかったり、
キツイ言葉をかけたりしているのですが、社長に祭り上げているあたり……
遊びを生み出す発想力に関しては息子のことを一目置いてたんでしょうね。
「この子の思いつくアイデアに乗ってたら、はずれがなく面白いはず」と。
娘と娘の友だちは、いつも社長より一段上の会長職か何か……のような立ち位置にいて、
陰の支配者のようにも見えました。
この会社、子どもたちの思いつくままにどんどん事業を広げて、
(よく思いつくもの……と呆れるうちに……)
テレビゲーム製作部門、おもちゃ製作部門、販売部門、映画制作部門、販売部門、
プレイパークの運営……あげくの果てには、学校経営にまで手を出していました。
それで、近所の低学年を勧誘して、面接試験をし、社員研修までおこなっていました。
この試験とか、社員研修といったアイデアや内容は、ほとんど娘の友だちが考えていました。
「将来はシナリオライター?」と思うほど、おもしろおかしい文章やアイデアがつらつら
出てくる子なんです。
二階で好き勝手に遊んでいるのですが、時々、聞いていると、この「そそそ会社」の
面接試験も、経営している学校の入学試験も、世間の価値観の逆さまなのです。
「トイレに行ったあとで手を洗いますか?」といった質問には
「いいえ」と答えないと減点されて、試験に落とされたりするのです。
本気で試験に挑んでいた子が、泣きながら試験に落ちた~と
私のところに訴えてきたこともありました。
時折、バーッと外に出て行っていなくなったな~と思うと、バタバタ駆け戻ってきて、
また遊びが再開するという繰り返し……でした。
子どもって、親が選ぶ「良いこと」だけでは育たないな~と
子どもが大きくなるにつれて感じます。
子どもの気持ちを前向きでチャレンジャーにしてくれるのは、
失敗したってどうってことない、飽きたら次を考えれば済む~という
環境のゆるさだったりします。
「新しくこんなことしてみたい、自分の全力をこれに傾けてみたい」とひらめいたとき、
一瞬の迷いも、大人への遠慮も、罪悪感もなく、
自分をその中にどっぷり投入できる……。
それが子供だけでする自由な遊びのよさですよね。
思い通りにいかないことが多いこと、頭をしっかり使わないとすぐ退屈すること、
きょうだいも、友だちも、自分から働きかけて、一生懸命、説得するなり、
ぶつかりあうなりしないと、親や大人たちのように、簡単に折れてくれないこと……。
とにかくジレンマを感じる場面に何度もぶつかるし、
考えてもみなかった事態に遭遇することもよくあります。
でも、それが、「どうしてもこれがやりたい!」という気持ちに駆り立ててくれるし、
退屈ついでの言い争いが、多少のことにくじけず、あきらめず、
どうすればいいのか考え続ける挑戦し続ける姿勢を作ってくれるのです。
私は毎日の子どもの生活に、退屈や無駄やけんかや、
大人から見ると「無意味で非効率的」なことがたくさんあるといいな~
と感じています。また、親の私が正しいと思う考えとは対極にあるものも
チラホラあるのがいいな~とも。
実際、子どもたちがかなり大きくなってみると、私が価値をおいていなかったものが、
子どもたちを鍛え成長させてくれていたことがよくわかります。
ふるまりさんの記事にもうひとつリンクさせていただいて↓
★「輪ゴムをひっかけてあそぼう」オモチャ
タロウくんが地団駄を踏んで、「これがしたいんだ~」「これじゃなきゃダメなんだ~」
と訴えて、その熱意におされて、しぶしぶ工作準備に手を貸す様子が描かれています。
これを読んで、そうそう~、もし最初から、
「お母さんはいつでもあなたの工作に手を貸しますよ、スタンバイしてますよ」
だったり、
「子どもに工作をしてほしいのは、本人よりお母さんかもしれない」って
状況だったり、
「工作教室で、きちっと材料が整っていて、今工作の時間ですよ」
だったりしたら、それほど工作に熱が入るのか……。
工作以外のことまで、貪欲にやりたいがんばりたいという気持ちが起こるのか、
疑問だな……と感じました。
こうしたところに、子どもをやる気にさせる、主体的にさせる原動力が生まれる
瞬間が潜んでいて、それは大人が「がんばって」作ろうとすると
すごく難しいことだなと感じるのです。
まず、本気で交渉すれば相手が動くという経験なり信頼感がベースにあって、
それでいて、まあまあ手ごわかったり、思い通りいかなかったりして、
軽いジレンマや、必死に、あの手この手でぶつかる時間があって……
つまり、時間に追われていないことが大事で、
その後、人と人との間で自分の思いが達成できたという満足感が残るという経験。
そうした繰り返しのなかでこそ、
自分の知力や、技術力や、体力や、精神力の限界が把握できるし、
自分が何がやりたいのか、内面から湧き上がってくるものを実感できるのですよね。
2歳くらいの子でも、新しいおもちゃを渡しても見向きもしなかったりするのに、
お友だちが持っていると欲しくなる、取り合うとさらに欲しくなって、
ものすごくやってみたくなる、
いつもならすぐに飽きてポイなのに、渡したくないからおもちゃに熱中するという
瞬間がありますよね。
そうやって人と人との間でジレンマを抱きながら、
自分の気持ちがワーっと湧いてくるから、
いろんなことに夢中になれるようになるのですよね。
もちろん勉強だって、大人の期待に応える形ではなく、
また級とか賞とか、プレゼントとか関係ないところで
「自分自身の心が強く強く何かを欲した経験」がベースになって、
がんばれるようになるのだと感じます。
うちの子たちの小学生時代のことを思い返すと、何が良かったのかって、
大人の価値観に真っ向から反抗して、好きなように無駄をやりつくして、
ひとつも「大人のため」が入っていない世界で、自分のしたいことをした、
やりたいことのエネルギーがいくらでも湧いてきたという経験なのでしょうね。
そこで、すっきりとゼロの自分になって、
自分の人生にどんな計画を思い描こう、
この人生に自分の知力、技術、体力、精神力の全てを投入して何をやってやろう!
って力が湧いてきたのでしょう。
そして、今度は、一歩、現実の世界にも足を踏み入れて、その力を勉強なり、
人との関係の構築なり、使い出すのだと思います。