虹色教室通信

遊びや工作を通して 子どもを伸ばす方法を紹介します。

だんだんややこしくなっていく子、どんどん成長していく子 1

2019-02-14 21:11:14 | それぞれの子の個性と才能に寄りそう

このところずっと、保育士おとーちゃんの子育て日記というブログを読ませていただいています。

現在の家庭の育児の危うさ、保育の危機、虐待について、子どもの人格形成のこと、

早期教育の問題点、日本の子育て文化の落とし穴について……

どれも日々実感していることばかりで深く共感しながら読ませていただきました。

 

特に次の一連の記事は、虹色教室でも常々、頭を悩ませている点で、

(それを解消するために親子同室のベビー~2、3歳児用のグループレッスンを始めた経緯があるほどです)

ぜひ、多くの方に読んでいただきたいと思いました。

 

現代の子育ての落とし穴 「いい子・できる子」

現代の子育ての落とし穴 「いい子・できる子」 2 「抑圧ポイント」

現代の子育ての落とし穴 「いい子・できる子」 3 「抑圧された子」

現代の子育ての落とし穴 「いい子・できる子」 4

現代の子育ての落とし穴 「いい子・できる子」 5 「認可園と認証保育所」

 

今回、わたしが書こうとしている記事は、この「いい子・できる子」という話題とは

ちょっと異なるのですが、

重なる部分も大いにあります。

 

前にも一度記事にしたことがあるのですが、虹色教室にもごくごくたまに

「だんだんややこしくなっていく子」というのがいます。

後の大多数は、「どんどん成長していく子」で、少数ですが

その中間の「ややこしくはならないけれど、あまり成長が見られない子」というのもいます。

 

子どもとたくさん接しているうちについた勘なのか、親御さんの子どもとの関わり方を見ていると、

その先、どれに行きつくのか、特に「これはだんだんややこしくなっていきそう」

というケースは即座にピンとくるようなところがあります。

 

子どもの障害のあるなし、その重い低い、

問題行動の多い少ない、知力の高低に関わらないのが不思議です。

 

子どもがある時点でさまざまな発達上の遅れを抱えていても、

それが非常に深刻なものだったとしても、

親御さんの関わり方を見ていると、「ああ、この子は大丈夫」と

感じることは多々あって、実際、半年なり1年すると

みちがえるように成長していくのを実感しています。

 

でも、「あんまりダメ出しばかりしていると、混乱したり、子育てを続けていくエネルギーが

枯れてきたりしそうだから、言うに言えないけれど、

このままいったらややこしい子に育っていきそう」

とヒヤヒヤしながら見守っている方の場合、

子ども自身はハンディーキャップもないし、知力もしっかりしているという子であっても、

十中八九、すごく扱いにくい子になったり、学習面で伸び悩んだり、社会性の面で幼さが目立つようになったり

していくのです。

 

それなら、その「ややこしい子になりそう」という勘は

何を根拠にどんな基準のもとで

「大丈夫」「危なっかしい」と判別しているのかというと、

それが世間一般の常識的な子育ての良し悪しの判断とはかなりずれている

わたし独自の感じ方であって、上手く言葉にできるか自信がありません。

 

それでも、保育士おとーちゃんさんの言葉を借りなどしながら、何とか説明していこうと思います。

 

幼稚園や保育所、小学校などには「虐待寸前」「子どもをどなったり、叩いたりしてしまう」

「子どもがかわいく思えない」「早期教育に走って子どもを競争に追い立てている」といった

誰の目から見ても

子どもの育て方に危なっかしさを感じさせる親御さんというのも一定数存在していることと思います。

 

でも虹色教室にいらっしゃる方というのは、そんな無茶な子育てをしている方というのはまずいらっしゃらなくて、

問題があると言ったって、せいぜいちょっと甘やかしすぎるか、ちょっと干渉しすぎるか、ちょっと心配しすぎるか、

ちょっと放任しすぎるか、ちょっと期待をかけすぎちゃうか、といった程度のものです。

 

それもたいていは、月に1度とか2ヶ月に1度でも教室に通っていただくうちに

良い具合に接し方の加減をマスターして、

「親子共々成長していってるな~ついでにわたしもそれに便乗して成長させていただいたな」と思っているうちに、

子どもの目を見張るような成長ぶりや個性のすばらしさの発露に

親御さんもわたしも感激し、

子どもは自信に満ちてくるという流れを何度も繰り返し体験してきました。

 

そうした親御さんと、

「だんだんややこしくなっていく子」や

「ややこしくはならないけれど、あまり成長が見られない子」の親御さんに

大差はありません。

 

非常に言語化しにくい事柄で誤解を承知で書くならば、

子どもの成長の足を引っ張りぎみな親御さんというのは、

 

「子育てには興味があるけれど、その子自身にはあまり関心がないようだなぁ」

 

と見えるのです。

子育てブログや幼児教育ブログの文面から

それを感じ取ることもよくあります。

 

「見たところ、子どもに過剰なほど関心があるようでいて、その子が大好きなもの、

その子を笑顔にして夢中にさせるものは

必ず軽く扱うなぁ、幼稚っぽいもの、くだらないものという判断をくだすなぁ」と感じるのです。

 

それこそ、しょっちゅうギューツと抱きしめたり、

子どもの喜ぶ場所にあちこち連れて行ったり、

外遊びをさせたり、子どもをのびのびと育む園を選んだり、より良いおもちゃや服を買いそろえたり

している方なのに、

「この方は子育てには興味はあるし、すばらしい子育てをしようとしているけれど、

その子自身には、その子の内面には少しも興味がないんだな」と感じることがあるのです。

 

案外、「わたしは良い親になれない。叱りすぎてしまう」など悩みつつ子育てしている方には

それほど問題はなくて、

「良い親」と周囲から認められるバリエーションを全てこなして

自他共に良い親をしているとがんばっている方が

わたしの目からすると、その方の子どもに全く関心がないように感じられることって大いにあるのです。

 

子育てが上手くいかないと悩んでいる方の

上手くいかないと感じておられる原因はだいたい次の3つのどれかに当てはまるのではないかと思っています。

 

①親の子育て態度が、子どもに対して強圧的で支配的に振舞っているか、

子どもの言いなりになって振り回され気味になっているか、

そのどちらかに大きくぶれている。

保育士おとーちゃんの子育て日記 では 

相談 「弱い大人」と「強い大人」

という記事で説明されています。

 

②子どもに発達障害や感覚統合の問題などがあるのに気付いていないか、それから目を逸らしている。

障害については理解し受け止めているけれど、障害名に踊らされて、

わが子自身が見えにくくなっている。

 

③子育てや子どもの教育に強い関心がある一方で、わが子そのものに関心が薄い。

世間的により良いとされるものや

自分好みの子育てがしたくて、

わが子の喜びや好みに注意がいかない。自分の子を笑顔にするものに興味がない。

自分が喜んでもらいたい、わが子に好きになってもらいたいと期待するもののものにだけ、わが子の喜びや

興味を感知して、それ以外は無意識にスルーしている。

 

それでも、他の人がいる場では、子どもの喜びが自分の喜びであるような感情表現をしているため、

自分自身さえ自分の子に関心がないことに気づいていない。

 

 

次回に続きます。


眼の記憶、手の記憶、身体の記憶

2019-02-13 21:42:46 | 日々思うこと 雑感

もうすぐ小学1年生になるAくんとBくんのレッスンの様子です。完璧主義で工作が大好きなAくん。

ショベルカーが作りたいというので、教室にあるショベルカーのおもちゃの形を写し取って

作ることにしました。

これまでの工作体験で蓄積した力が新しい作り方を習得するのに

とても役立っているようでした。

そんなAくんの姿を見て、少し前に読んだ内山節の「『里』という思想」が

浮かびました。

私たちには、眼で観るという行為によって得られた「眼の記憶」というべきもの、

さわることや背負うことなどで得た「手の記憶」「身体の記憶」というべきものがある。

現在では、人間の能力や力の低下が問題にされるようになった。

知識はある程度もっているのに、歴史が蓄積してきたものを受け継ぎながら

創造的に生きる力が弱まってきている、といった話でした。

Aくんが2,3歳の頃、いつも教室にある鉄道のおもちゃをセロテープでつなぎたがっていました。

毎回、毎回、遊ぶたびに接続していたんです。

しばらくすると、紙を列車のおもちゃにかぶせて、展開図もどきを作って

列車を作っていました。ひとつひとつは、ただやりたくて、

熱中していたことですが、いつの間にか、それらを統合させて、しっかりと物を作りきるように

なりました。

Bくんは、今、展開図に関心がある様子です。

折り曲げる部分などを切り取ってシンプルな展開図にしたお菓子の箱を写して

何体もレース場を走らせる動物を作っていました。

平面から立体になる瞬間ンがうれしくてたまらない様子でした。

 

算数の学習中は、最れべ1年生の文章題をしっかりと解いていました。


鍋いっぱいのプリン と ひっくりかえったがんもどき

2019-02-13 09:22:59 | 私の昔話 と 物語
母の実家の田舎のだだっ広い家に対して、都会のわが家は、
2Kの団地住まいでした。
2DKだって、4人家族にすれば、狭苦しいわけだけど、
2Kとなると、ダイニングと寝る部屋が昼夜で忙しく入れ替わらなきゃ
ならないわけで、まるで芝居の舞台みたいに、
ひとつの部屋がこたつや布団といった舞台道具で、
キッチンになったり寝室になったりと、忙しい家でした。

そんな狭っ苦しい家に暮らしながらも、
人って幼年期や子ども時代に染み付いた身体感覚が
抜けないもんなんでしょうね……
母は、電子ピアノじゃなくて、どでかい本物のピアノを購入してみたり、
食べきれないような料理を作ってみたりと、
母の実家の9人きょうだい仕様の暮らしを引きずっていました。

私も妹も夏生まれで、誕生会には母のお手製のフルーツポンチが
登場しました。
特大サイズのすいかを、ギザギザした切り口でふたつに分けて、
中身をくりぬきます。その時、アイスクリームをすくう
道具の小型版みたいな、すいかをクリッとした丸い形に抜く道具を
使ってました。
そうして、大きなすいかの容器を作って、中にサイダーや
果物のかんずめを注ぎ込み、丸いぶどうの粒のようなすいかを
浮かべてできあがりです。

よく言えば豪華、正しくは大ざっぱで豪快な料理が母の得意で、
グレープフルーツを半分に切って、中身をくりぬき、
ゼリーの粉や砂糖を混ぜて、もういちど注ぎ込みます。
そんなグレープフルーツゼリーが冷蔵庫によく入っていました。

クッキーの種も、おそらく料理本の材料の3倍は作って、
私も妹もねんどで遊ぶように、クッキー人形を良く作りました。
服にフリルをつけてみたり、帽子をかぶしてみたり、
靴や日傘やペットの犬猫、小鳥まで作って、大きなオーブンで
たくさん焼きました。
食べるときには、あまりの量にたいていうんざりして、
ビニール袋に入れてうろうろするうちに粉々になって、
何だかわからない形のクッキーを、
近所の友だちが「おいしい、おいしい」と食べていた記憶があります。

母は母なりに、都会風のこじゃれたものが作りたい気持ちは
満々だった気がします。
シュークリームやアイスクリームやカルピスやクロワッサンなど、
母のこしらえたおやつは、名前だけ連ねれば、
デパートの屋上のレストランで注文するようなものばかりでしたから。

それがどう間違うのか、
あるとき、プリンを作ったときは、大鍋いっぱいのプリン液を
弱火で煮立てて、それをグラタン皿に注いで冷やしてました。
グラタン皿なんて、そういくつもありませんから、
どんぶり茶碗や、タッパーウェアーや小型のボウルまで総動員させて、
プリンを冷やしてましたから、冷蔵庫の棚という棚が、
黄色で埋まってました。
プリンが大好物の私と妹は、最初こそ、飛び跳ねて喜んでいましたが、
途中から、「一生、プリンなんて名前も聞きたくない!」
ってほど、うんざりきてました。

今もプリンを見ると、大鍋でタプタプ煮つめられていた
黄色い液体が思い出されて、
懐かしいです。母はそんな田舎ものの一面を持ちつつも、
その天然キャラで他人から慕われて、
のんびりまったり自分の生をまっとうしました。
もうじき、母の一周忌です。

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思い出ついでに、過去記事の
<ひっくりかえったがんもどき>もよかったら読んでくださいね。

私の父は、以前の記事にも書いた通り、
粗暴で困った人ではありましたが、
気持ちが優しく、ユーモアがあって、話し上手な一面もありました。
私の父のことを、周囲の人はよく、「芸能人」に似ていますね……と
評することがありました。
若い頃は石原裕次郎にそっくりだと言われ、
年を取ってからは、北野たけしと梅宮アンナの父を足して2で割った
ような感じに見えるそうです。
機嫌が良いときの父は、子どもの頃の話を、面白おかしく、
時にはしんみりとしてくれるときがありました。
そんな話のひとつで、心に印象深く残っているのが、
「ひっくり返ったがんもどき」の話です。

父は兄や姉のたくさんいる子沢山の家に生まれたようです。
でも実際に父が何人きょうだいであるのか、私は詳しく知りません。
一方的に自分の話したいことを話す父の話は、
どれもバラバラのパズルのピースのように断片的で、
何年たっても肝心の部分がわからないところもあるのです。

父の家は豆腐屋を営んでおり、
ペットなのか食用なのかわからないたくさんの動物…
やぎやら、にわとりやら、たぬきやらを飼っていたそうです。
そんなごちゃごちゃした家には、
変わり者で乱暴な父親や頭の良い美人の姉や、
知恵の遅れた兄など、さまざまな人が暮らしていました。

くわしいことはわかりませんが、今で言う知的障害であったろう兄は
ゆりちゃんという女の子のような名前でした。
近所の幼い子からもからかわれ、ばかにされ、
当時の父にはふがいない兄であったようです。

そのゆりちゃんは、いつも乱暴者の父親のもとで、
豆腐屋の手伝いをさせられていました。
そのころは、子どもが家業を手伝うのは当たり前で、
父も学校から帰ったら、
揚げ終わった厚揚げやがんもどきをならべさせられたり、
使いっ走りをさせられたりしていました。
そんなときにも、覚えが悪く手先が不器用なゆりちゃんは、
始終父親のげんこつをくらったり、どなられたりしていて、
父は要領よく立ち回りながら、びくびくしていたのだとか。
父は何も言っていませんでしたが、もしゆりちゃんが、
この厳しい父のもとから逃げ出したいと思った日には、
乞食しか、今でいうホームレスになるしか、
生き方が残っていないように感じていたふしがあります。

あるとき、ゆりちゃんと二人で、店番をさせられていた父は、
慌てていて、がんもどきの入っていたケースを、
床にぶちまけてしまったそうです。
それは、うっかり1個落としてしまっても、殴られる、
大事な商品でした。
が、箱ごとひっくりかえした……となれば、
検討もつかないような損害です。
父親がどれほど怒るものか、想像すらできなかったでしょう。
殺されてしまうかもしれない…と感じたかもしれません。

すると、いつもはぼんやりで、
頭の働きが悪そうなゆりちゃんが、
「おれがひっくり返したことにするから、何も言わんでいい」
と言ったそうなのです。
その後、ゆりちゃんは、殺されるほど、父親に叱られたそうです。
でも決して、本当のことを言おうとはしなかったのだとか。

父はあったことを話すだけで、自分がどう感じたのか……
といったことは、いっさい話しませんでした。
が、時々、思い出したようにこの話をしていました。

父は非常に毒舌で、
いやみや皮肉を言わない日はないくらいでしたが、
知的障害かと思われる人と、ホームレスの人の悪口だけは、
決して言いませんでした。
母と結婚して間もない頃、橋の下で、凍えているホームレスの
人を見たとき、まだ買ったばかりの布団の一式を
橋の下まで持っていってしまい、
母が大変な思いをしたことがあります。
父を突然、そういった行動に駆り立てたもの……は
ゆりちゃんという兄との思い出だったのかもしれません。
 
写真のイラストは『どんどんやまのどんこさん』という絵本を作った時の山であるどんこさんの姿です。

お塩の足りないスープ鍋

2019-02-13 09:03:34 | 番外(自分 家族 幼少期のことなど)

まだ発達障害の子への支援の制度が整っていなかったわたしが子どものころの出来事です。

現在は制度そものもはさまざまな形で整いつつあります。

でも、いくら制度が整っても、人の心が昔と同じや昔よりも冷やかなものなら、

結局、ハンディーのある子どもたちを特別に支援し教育する場は、授業を妨害する子を

排除して、追い込む場所にしかならないのかもしれません。

かつての恩師の小塩先生なら、今の教育現場でどのような対応をされるのだろう、と

思いながら書いた文章です。 ↓

 

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小学校の2、3年生の頃の話です。

クラスの一人の男の子が
今思うと発達障害を持っていたようでした。
落ち着きのない行動や
友達への乱暴で
(怪我をさせるほど ひどいものではありませんでした。)
目立っていました。

クラスの子の親や
先生からの苦情を受けて
その子のお母さんが
ある時から 教室の後ろで
毎日 参観するように なりました。

時々 振り向くと 
その子のお母さんが
困惑しきった悲しそうな様子で
立っていました。

といっても 私もクラスの他の子も
ちょくちょくその子と遊んでいましたし
本当は それほど乱暴だとも
嫌な子だとも 感じてなかったのだと思います。

けれども 何となく 一人の子を
特別な子で悪い子なんだ…
と 信じる奇妙な空気が
どんどん広がって 
みながそれぞれ 根拠もないのに
その子にいじめられた 
と訴えるようになっていきました。
悲しい顔のお母さんを さらに悲しませたいような
残酷な気持ちが感染していました。

ある日 先生がクラスのみんなに
机に伏せるように言いました。
そして
「○○君にいじめられた事のある人は
前に出てきて
黒板にされたことを
書きなさい。」と言いました。

いすをガタガタひく音や
黒板に向かって歩いていく足音が
次々としました。
私も何ひとつ浮かばないのに
自分も前に出て行って書かなければ
仲間はずれになるような
妙なあせりを感じました。
顔をあげていい と言われた時
黒板は びっしりと文字で埋まっていました。

それから少しして その子は引っ越してしまいました。

6年生になった時
クラスの知的障害のある女の子のことで
再びクラスの子の親から
学校に苦情が届くようになりました。
その子は
時々 教室を飛び出していくことがあり
先生が追いかけていく間
授業が中断してしまうのです。

その時の担任は小塩先生とおっしゃいました。
小塩先生は 参観日で親たちが集まった日に
黒板に2つの鍋の絵を描かれました。
そして
1つの鍋を指差されて
「これは 味付けがちょうど良くできているスープ。」
とおっしゃいました。
そして もうひとつの鍋を指されて
「これは 味付けが足りないスープ。
みなさんは どちらの鍋にお塩を足しますか?」
親たちがざわざわ
しゃべりあう声が聞こえました。
先生は「私は よい味のスープは見守ります。
お塩の足りない方には 塩を足します。」
と毅然としておっしゃり
障害を持つ子に心を配ることは
クラス全体にとっても大切なことだ というようなことを
私たちにもわかる言葉で説明してくださいました。

それからも苦情はあって
大変だったでしょうが
それからも先生は 
優しくて強い 私たちにとっても
その子にとってもいい先生でした。

算数や国語の授業時間が数分減ったかわりに
かけがえのない大切なことを教えていただきました。

この2つの思い出は
いつも私の心から消え去ることはありません。
自分も含め大人たちが みな 表面的な損得に惑わされず
子どもにとって本当に いいものを与えていけるように
願います。

イラストは「数えきれない太陽」(詩画集を作りました)から。「私が私にかえる日」


子育ての悩みと問題はこんがらがってくるほど多種多様

2019-02-12 21:18:47 | 日々思うこと 雑感

虹色教室では、赤ちゃんから小学生までの
さまざまな年代の子の成長を見守りながら、
その都度、親御さんの悩みや迷いに耳を傾けています。

子育てには、悩みと迷いがつきもので、
「何学年も先の学習も楽々こなして、聞きわけがよくて、友だちもたくさんいる」
といった悩みようがないような子を育てている親御さんにしても、
常に新しく現われてくる障害物に頭を抱え込んでいる現状があります。

そうした問題は、親御さんの「考えすぎ」というより、
現代の子どもをめぐる環境と深い関わりがあるものが多いです。

ですから、安易に問題から目をそらしたり、不安な気持ちに蓋をしたり、
その都度、流行の解決法を盲信したりするのではなく、

ひとつひとつの問題にきちんと向き合って、
心の整理をしていく必要があると思っています。

そうでなければ問題と問題が複雑に絡み合って雪ダルマ式に膨らんでいって、
簡単には解決しない問題に発展することがめずらしくないからです。


幼児を育てている親御さんが悩んでいるとき、

★子どもにハンディーキャップがある場合

★子どもにハンディーキャップがない場合

のどちらかで、考えの整理の仕方も対応方法もずいぶん異なるはずです。


といっても、このふたつのケースは簡単に線引きできるものではなくて、

「子どもに明らかな障害が見て取れて、病院で診断も出ていて、
療育の環境も整っていて、
親御さんの心が子どものハンディーキャップを受け入れている」方と、

「子どもの発育が良好で、発達そのものには何ひとつ気がかりがない」方の
間には、

「周囲の子に比べて気になるところはたくさんあるし、検診や園で指摘を受けているけれど、ハンディーがあるとは受け入れたくない」方とか、

「気がかりな点は多々あるけれど、個性の範囲内。
トラブル続出で悩みがつきない」方とか、

「子どもにハンディーはなさそうだけど、親子の相性が悪いために、
子どもの問題行動が多い」という方とか、

それは多種多様の立場で悩んでいる方がいらっしゃるはずです。

「子どもには まったく問題はなく、周囲からもそう言われるけれど、
親の不安や心の問題が投影されて、しじゅう子どもに問題があるように感じられる」という方もいます。

「子どもが常に周囲の子よりもダントツによくできて、何一つ欠点がないという状態でないと、(普通のレベルだと)子どもに問題があるように感じる」という方もいます。

そうしたそれぞれの違いをあいまいにしたまま
ぐるぐる悩み続けたり、
誰かにアドバイスを求めても、
その問題は解決したとしても、解決法そのものが次の問題の火種になったり、
問題を先送りにして深刻化させるだけだったりするものです。


子どもの問題にぶつかるとき、問題そのものは似通っていても、
それにぴったりあった解決法はそれぞれ異なります。


★ 親御さんが悩みを言葉にして、リラックスして、
子どもへのまなざしのあり方や言葉のかけ方を変えると解決するケース。

★ 子どものハンディーキャップを受け入れ、障害特性を学んで、
対応法を改善すると解決するケース。

★ ママ友同士の関係や子どもに過剰な期待を抱いてしまう癖といった
親の問題が子どもの問題のように感じられていることに
気づくと解決するケース。

★ 現代の子育て環境の中で、子どもの運動量が減っていて、
一般的な子の身体や脳の発達不全が原因で問題が起こっていて、
十分、暴れまわる時間を作るなどすると解決するケース。

★ 手と目を協応させる作業を増やすと、解決するケース。

★ 「泣く」「怒る」といったネガティブな感情を
表現することを許されて、子どもが自分の気持ちを言葉にできるようになると解決するケース。

★ 子どもの性格タイプにあった働きかけを増やすと解決するケース。

など。


問題が起こったとき、解決法を模索することも大事なのですが、

現代の子育て環境が原因で起こっている問題は、
事前に予防することも大切だと思っています。

「幼い頃から発達が良好で、幼稚園にも習い事にもすぐに適応できました。
友だちも多いし、学習課題も年齢よりずっと先のものまでできています」

という子を育てている親御さんが
小学校に通い始めたわが子のことで悩んでいると聞くと、
「なんと贅沢な……悩まなくてもいいことで過剰に悩んでいる」という
印象を受けるかもしれません。

でも、現代の子育て事情では、
小学生を育てている親御さんの非常に多くの方々が、

「すぐに疲れた、疲れたと体をくにゃくにゃさせて、家に帰ればゲームかテレビ。
意欲や向上心が見えず、時折りびっくりするような幼い言動が目立つ」

わが子の姿に悩みを抱えているのです。

そうした子のほとんどは、
上で紹介したような
「幼い頃から発達が良好で、幼稚園にも習い事にもすぐに適応できました。
友だちも多いし、学習課題も年齢よりずっと先のものまでできています」
という経歴の持ち主で、
今現在、学校での勉強や友だち関係で何か問題があるのかというと、
皆無に等しい子らなのです。

だったら、気にする必要はないのか……というと、
親なら誰もが、子どもが毎日疲れ果ててヘナヘナ~と崩れそうになって生活していれば、やはり気にかかるし、
意欲や向上心が見られなくて、
愚痴や苦情ばかりつぶやいていたり、ちょっとしたことでキレたりしていれば、先々のことが心配になるものです。

それなら、どうすればいいのかという対応法を考える前に、
その原因のひとつ思われる子どもの大脳の活動の働きの変化について
お話しますね。

日本体育大学で、子どもの「大脳新皮質」の覚醒水準や前頭葉の活動のようすを調べる実験をしたところ、次のような結果が出たそうなのです。

大脳活動の働きは基本的には「興奮」と「抑制」の過程から成り立っています。
本来、 刺激に対してあまり興奮もしないが抑制もできないという「そわそわ型」は、幼児には多いけれど、小学校に入ると減ってくるのがこれまでの傾向だったそうです。
それが、90年代中ごろになると、小学校に入学したあとも5割をこえる高い水準になって、高学年になるにつれて増えていく傾向もみられるようになってきたのだとか。

このような子どもたちは、先生の話を聞き続けられるのはせいぜい1分間ぐらいです。
そうした困った脳を持っている子がクラスの多数派になっている現状では、
いくら「これから習う漢字や計算はできている」状態で
子どもを学校に送り込んだところで、
子どもの教育に関する悩みから解放されるのは難しいのです。

人は成長するにしたがって
「何かあれば十分に興奮できるし、必要なときには抑制もできる」という「活発型」の要素を身につけ、発達していくものなのだそうです。

それが、ごく普通の多くの子どもたちが
「集中力が弱く、落ち着きもない」という「そわそわ型」の脳のまま小学校生活を過していて、
それが高学年になるにつれ増えていっているとすれば、
当然、だんだん学力が下がってくるという問題にもぶつかるでしょう。

そのとき、塾に行かせるとか、通信教材を取るといった解決法で上手くいくのかというと疑問なのです。

「何かあれば十分に興奮できるし、必要なときには抑制もできる」という「活発型」の脳は、平均的な割合では幼稚園年長児で15%前後なのだそうです。
でもある幼稚園ではこの「活発型」の子が55%もいるのだとか。
その園では、毎朝30分、友だちといっしょに、じゃれつきあい、転げまわる「じゃれつき遊び」という遊びを実践しているそうです。

一昔前の子なら、きょうだいや近所の子と四六時中していたと思われる
じゃれつき遊びを30分するだけで、
学んだり、我慢したりすることが疲れずにできるような脳に発達していく子が
そんなに増えるなんてびっくりしますよね。
 「とっくみあい」や「おしくらまんじゅう」など昔ながらの「接触型」の遊びには、こうした「活発型」の脳にしていく効果があったのではないかと見直されているそうです。

関連があるのかはわからないのですが、虹色教室で、
ゲラゲラ思いきり笑うとか、自由に友だちとふざけあう時間を持つだけでも、
その後の学習時間に、「えー」「わかんない」「何?」といった半分寝ているようなぼんやりした反応が減って、問題を解くときの集中力が増すことがあります。

これも関連があるのかわからないのですが、
豊かな自然に囲まれて海外で暮らしている子が教室に来ると、
キラキラした目の輝きや体中にみなぎっているやる気や好奇心に
ハッとするときがあるのです。
一方、お勉強や集団でのしつけを売りにしている幼稚園に通い出すと、
それまでいきいきとして頭の働きが良かった子が、
ぼんやりとしていることが増えたり、
会話を交わすとき体をくねくねさせて返事が遅くなったりすることが
気になっています。


話をもとに戻しますね。

「すぐに疲れた、疲れたと体をくにゃくにゃさせて、家に帰ればゲームかテレビ。
意欲や向上心が見えず、時折りびっくりするような幼い言動が目立つ」

という小学生を抱える親御さんの悩みは、
一朝一石には解決しないのかもしれません。

でも、幼児期に、
自然と触れあいながらゆったり外遊びをさせたり、
自由遊びの多い園を選んだり、
家族でじゃれあって遊んだりすることは、
そうした問題の予防にきっと役立つのではないでしょうか。

 

 

子育ての悩みと問題は、だいたい次のようなものに
分けられると思います。

★ 子どもが、今、他のみんなと同じようでない

★ 子どもが、今、自分の期待通りではない

★ 自分が設定した子どもの目標と、子どもがあっていない

★ 自分が、今、親として自分の理想通りではない

★ 子どもの環境が(幼稚園、学校、友だち、教育、教師、遊び場など)自分の期待通りではない

★ 自分の環境が(ママ友、夫、祖父母、子どもから離れる時間、肉体的疲労、精神的ストレス)期待通りではない

★ 具体的に解決方法を模索したい問題がある

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こうした悩みのひとつひとつは、
正確に「誰が、何を、どうしたい悩み」なのか
把握しておかないと、
もやもやとくすぶらせたままで、見当違いの解決法に走ると、
次々と別の悩みを連鎖的に生み出す原因となってしまいがちなのです。

どうして、「誰が、何を」なんて点を明らかにする必要があるのかというと、
この悩みには「子ども」という
親とは別の人格なのに、
親の一部とも延長線上にあるものとも錯覚してしまいがちな存在が
関係しているからなのです。

たとえば、親が「うちの子はみんなと同じではない」と悩みを抱いたとします。そこで、「みんな」と感じているのは、親子がいっしょに付き合っている
同じ月齢の3,4人の子どものことなのかもしれません。
はっきりさせると、自分が近視眼的になっていて、
見方にゆがみがでていたことに気づくかもしれません。

「同じでない」と感じているのは、
知的な能力のことかもしれないし、
乱暴、臆病すぎといった気質のことかもしれません。

この悩みをいったん言語化して客観的に眺めてみると、
子どもの発達の順序や時期にはずれがあるので、大きな時間の流れで物事を捉えれば解決するかもしれないし、
実際に、何らかのハンディーを知らせるサインかもしれず、
情報を集めたり、病院で診断を受けるきっかけになるかもしれません。

気質の問題だとすると、
親がママ友との仲に固執するあまり、
その子の気質にあった子と遊んでいないという問題かもしれません。

「誰が」をはっきりさせるというのは、
本当に「子ども」が困っているのかという見方で見直すと、
「子ども」にとっては、自分よりしっかりしたタイプの子が多い中で過しているおかげで、最適の成長を促されているので、
とても良い状態である場合もあるのです。

でも、そこで、「子どもが、今、他のみんなと同じようでない」という悩みをあいまいにしたまま、子どもに期待をかけると、
「子どもが、今、自分の期待通りではない」という新たな悩みがはじまります。また安易に、目標を定めて改善しようとすると、
「自分が設定した子どもの目標と、子どもがあっていない」という悩みも加わり、そこで子どもを叱ったり、冷たい態度を取ったりすると、
「自分が、今、親として自分の理想通りではない」という悩みも生じます。
そうして悩み出すと、子どもと自分を取り巻く環境全てが
うらめしく思えて、環境が悪いので自分の悩みは改善しようがないという気持に陥るかもしれません。

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幼児を育てている親御さんが悩んでいるとき、

★子どもにハンディーキャップがある場合

★子どもにハンディーキャップがない場合

のどちらかで、考えの整理の仕方も対応方法もずいぶん異なるはずです。
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ということを、書きました。

私はもともと 子どもを「障害のある子」「ない子」で分ける捉え方が
好きではありません。
特に発達障害の子の場合、名前の中に「障害」などという言葉が入っているものの、
実際には「育ち方の個性が強い子」「対応にちょっと工夫がいる子」
といった言葉の方がしっくりくる気がしています。

実際に子どもたちと接していて、ハンディーキャップをもっている子は、ない子に比べて、ある面で苦手なこともあるけど、得意もあるし、短所も目立つけど、磨けば輝く長所も際立っていると感じています。

ただ、気にかかる面がいろいろある子に対して、
「子どもには個性があるものだから、
何かができないからといって、障害うんぬんの話をするのはおかしい。」と
決め付けて、発達障害等に情報を全て遮断してしまうのはどうなのかと思うのです。

変なたとえですが、アトピー性皮膚炎のある子を育てながら、
なぜアレルギーが起こるのかという情報を知ろうとしなければ、
皮膚のかぶれを悪化させたり、
薬を誤用して副作用によって後々苦しむことになったりしますよね。

それと同じで、子どもに気になる点が多いとき、
発達障害についての情報に目を通して、

「知らないことが原因で、誤った対応をする。子どもの困った態度をより悪化させるような対応や2次障害を起させるような対応をする」

ことを避けるだけで、

気になっていた問題はどんどん消えていき、
発達障害かどうかといったことで悩む必要がなくなるケースは多いのです。

ですから、子どものことで悩んでいるとき、
「いろいろ気になることはあるけれど、この子に障害なんかない」
という気持ちで、子どもに厳しく当たったり、周囲の対応に不満を感じたりするよりも、

「発達障害かどうかはわからないけれど、まず情報にだけは目を通して、
今の気がかりな問題に、取りあえず正しい対応をしておく。」と、
悩みが悩みではなくなり、
解決することが可能な具体策へと変わってくるはずです。

以前、「(今の社会に)発達障害児は多すぎるのでは?」という意見をいただいて、それに対するお返事の記事を書いたことがあります。
過去記事で長くなりますが、興味のある方は読んでくださいね。

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最近、ちょっと問題を感じたらたいしたことない子まで発達障害という名前をつけて、騒ぎすぎる……

と考えておられる方によく出会います。

昔は、そんな診断しなくてもちゃんと育った……

そうおっしゃる年配の方々もよくいます。

ここで注意が必要なのは、

かつての小学校では、今、発達障害と診断されるような子もそんな診断名はつけられずに普通に育っていたし、
そんな診断つけて騒ぐから問題のある子になるんだ……

という考えの盲点です。
現在、非常にたくさんの子が不登校となり、
たくさんの若者がひきこもりとなっています。
また、就職したくてもできない、就職しても続かない若者がたくさんいます。


もちろん、不登校やひきこもりの子がかならずしも
発達障害を持っているわけではありません。

けれども幼稚園や小学校で、周囲とうまくなじめなかったり、
攻撃的だったり、不器用すぎたり、言葉の理解にたくさんひっかかるようなところがあったり、授業中立ち歩いたり妨害したりする子……
というのは、親も先生も何らかの対策をとって
ていねいにその子に向きあっていかないと……

当然、子供同士の関係悪化や「先生に自分だけ叱られる」「勉強がわからない」といった理由で、
不登校になるリスクは高くなるのではないでしょうか?

子どもなんてそんなもの……
発達障害などという考えを追放してしまえば
昔と同じように子どもはきちんと育つ

と考えるのは、ある意味「無策」でもあって、今後、さらに子どもや若者の問題を増大させていくように感じます。
子どもの発達障害について切り出すと、
「最近の親はしつけもせずに、何でも病気のせいにして……」と厳しい
批判を加える方がいます。
「個性よ。個性。昔は、発達障害なんて言葉はなかったし、
きちっと叱れば子どもなんてどの子もちゃんと育ったものよ」と言い張る方もいます。

多少対人関係に苦手があっても
親の仕事を継いだり身内の職場で雇ってもらえたりした時代なら、
親は安心して子育てできたはずです。
人付き合いが極端に下手でも、それはそれで素直に親の指示に従えて
良いと考えていたかもしれません。

しかし現在の厳しい就職事情のもとで、
社会人としてひとりで自立して生きていくためには
社会性のハンディーは死活問題です。
また貧しかった時代とちがって、だらしない服装をしているというだけで、
アルバイトで雇ってもらうことすら難しいのです。

偏屈で人嫌いで身なりに構わない人も
世間にはいろんな人間がいる~と、
それなりに仕事をして社会に受け入れられて生きていけた時代……

そんな時代なら、たとえ発達障害がある子であっても
成長過程のでこぼこを、個性とあきらめて育てていけばよかったのでしょう。
叱られても叱られても悪い癖がなおせずに、
しまいに2次障害になってアルコール中毒やギャンブル中毒になっても、
男とはそういうもの……男らしさのひとつの形として
理解されていた時代なら良かったのです。

しかし現在に生まれた発達障害を持った子は、
定型発達の子でも仕事を続けていくのが難しい社会を
自分ではコントロールできない部分に振り回されながら生きていかなければ
ならないのです。

子ども時代なら、親が親身になって、
克服しなければならないことを乗り越える手立てをしるしてもらえます。
だからこそ勇気のある親たちが
力を振り絞って病院に出かけたり、診断を受け入れたり、子どものためにできることを真剣に考えているのです。

子どもの言動がわからないところだらけなのに、発達障害についてわかってきた過去の貴重な知識の集積をあてにしないで、一個人の親が思いつくしつけ法で、何ができるといえるのでしょう?

叱ったり、罰したりするうちに
親子ともども追い込まれて、
たくさんの親子が繰り返してきた悪循環の渦にのまれるだけではないでしょうか?


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上の文に次のようなコメントをいただきました。↓
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今は親ともに安らぐ子育てはしてはいけないのですか?昭和の時代の子育てはジャイアン症候群とかのび太症候群なんて病気はありませんでした。ジャイアンのような子はガキ大将として、のび太のような子は、優しい子として周りは接してくれていました。しかし今は少しでも着替えが遅いと病気ガキ大将的存在の子は病気、何か苦手な分野がみつかると、病気!病気!病気!何なんですか?!大人の手をやかせる子はみんな病気なんですか!
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昭和の時代は、ある意味、おおらかで生きやすい時代でしたよね。

昭和の時代は、確かに病名こそつかなかったけれど、虐待に近いしつけもまかり
通っていたはずです。また明らかな差別もありました。
理解できないものは、追い払う、排除する、という人権を無視した行為が
行われても、だれも疑問も持たないような空気もあったのです。

「窓際のトットちゃん」がちょっと落ち着きがないからと、
小学校をやめさせられたことを
知っている方はたくさんいますよね。

私が小学生のころも、クラスに、今なら発達障がいと診断を受けるような子がいたのですが、親たちの苦情と、先生の無理解のなかで、転校していきました。☆お塩の足りないスープ鍋
という記事で書いています。

私が中学生だったころも、今思うと発達障害があったと思われる子が保健室で体育の先生からボコボコに殴られるなんて日常茶飯事でした。

それこそ、中学3年間、最高の「悪さ」が、廊下を早足で歩いた程度という
まじめ一筋の私や友人でも、廊下で少しふざけていたという理由で、
体育教師から思い切り平手打ちにあったり、頭をげんこつでなぐられたりしたことが何度もあるのです。
教室で態度が悪い子がいるからと、英語の教師が教室内で竹刀を振り回したこともありました。
でも、どんな理不尽な出来事も、テレビのニュースで取りあげられることもなければ、親たちが騒ぐこともありませんでした。

また、当時は医学的な知識がなかったので、自閉傾向を持つ子の母親は、育て方が原因とされて周囲から責め立てられ、
それは辛く苦しい思いをして子育てをしていました。
きちんとさせようという責任感が、子どもへの虐待行為に
なっていたことも多かったと思います。

実際、大人になって発達障がいがあることに気づいた方が、
子ども時代を振り返って、辛い記憶を告白するとき、
先生から汚いもののように扱われたり、裸に近い格好をさせられたり、
「また学校に来たのか?よく来るな…」といやみを言われたり……
と信じられないようなお話をたくさん耳にすることがあるのです。

それでも、昭和の時代は、大人が今のように子どもを監視する習慣はなかったので、
どこか間が抜けていて、すき間だらけで、
やんちゃで乱暴な子にも、いじめられっ子にも、居場所があったような気もします。
また、確かに、小学校が、親たちから文句を言われない完璧さを
保とうと今のようにピリピリしたところがなかったのでしょう。

大人の手をやかせる子はみんな病気なんですか? 

という疑問の『病気』という言葉は、
今、親や教師や療育関係者や社会が理解しようとつとめはじめた
『発達障がい』という言葉があらわしている概念と重ならなくなってきているように感じます。

確かに、最初、発達障がいは、病院という場で、子どもの不適応や不登校や情緒的な問題を分析する中で、体系化されてきた歴史はあるのでしょう。

そのように障害として見ることからスタートした
発達障がいに関する知識の蓄積は、
現在、発達に、ある特性がある子、
一般的な発達の順序とは少し異なる育ち方をする子、
脳のタイプが多数派ではない子というかつてより幅広い捉え方で、
子どもの困り感に寄り添おうとする親や教師たちの
情報源となっているように思います。

昭和の時代のように、差別するためにレッテルを貼るという発想は、どんどん社会から失われているのです。それよりも、違いはある、できるできないはある、
といった運命に対するあきらめを含んだ態度から、

ひとりの子の人権、可能性、幸福、最適の教育、教師のあり方を
模索していく個にフォーカスしたひとりひとりを大切にする発想が、
支持されつつあるのだと思います。

現代の学校は、確かに問題もたくさんあるのでしょうが、
かつてより、ひとりひとりの子どもを大切にしていることも事実なのです。

発達障がいの知識は、けっして、検品作業の中で、一部の子を
粗悪品として除外するために使われている訳ではないはずです。

さまざまな個性を尊ぶ、人権が大切にされつつある世の中の動きのなかで、

かつては、読字障害のある子は、知能の遅い子とみなされたり、
一生できないまま終わっていたところを、
方法さえ探ればできるようになる可能性を与えたり、

かつては感覚過敏の苦痛を訴えればわがままとして、
ただ我慢させられたり、鍛えられたり、わがままと叱られるだけで終わっていたのを、
感覚過敏を理解し、最低限の暮らしやすさを約束してあげることにつながったり、

多動ゆえに、知能に問題がないのに教育から恩恵が受けられなかった子に、
教育のチャンスを与えたり、

不登校、家庭内暴力、ニート、鬱、離職といった、発達障がいの2次障害の問題が起こらないようにする

ことに役立ってきたのです。

科学にしたって、最初は錬金術からのスタートです。
同じように、発達障がいをめぐる問題は、
最初こそ、障害を研究することからはじまったのでしょうが、今は障害という概念を越えて
さまざまなレベルの子の困り感に役立っていると感じています。

妙な例で、例えると、肩こりは病気って呼べるでしょうか?
言えませんよね。
しかし、肩こりという痛みや困り感を軽減するのに役立つ知識は、
病気の研究から出発して蓄積されたものですよね。
(そんな肩こりも、病院で薬をもらって直そうとすると、「●●●障害」なんて、
えらくかしこまった名前をつけられるかもしれません。)

それと同様に、今、発達障がいについて、正確に知りたいという方が増え、
その知識の蓄積が
子どものさまざまな問題の解決に役立ち始めた現代は、

子どもの可能性をできる限り伸ばそう、
「できない」とあきらめていたことも、解決法があるのではないか……

といった期待のもとで、発達障がいについて考えていく方が増えたのだと思います。

教師が、発達障害では?と子どもに疑問を抱くとき、「変な子だな~」と思って、親を傷つけるために、そうした考えを持つことはめったにないと思います。
どう教えてもできるようにならない子も、
きちんと正しい手順を踏めば……方法を学べば……解決法を探れば……
できるようになるのではないか?
そうした思いで、発達障がいについて学び始める方がほとんどだと思います。
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発達障害の当事者の方から
次のようなコメントをいただきました。↓
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「何が何だかわからない安心できない世界」の中で生きているということは、社会に対する基本的信頼が形成されにくいということでもあります。
教師の言葉に従って行動したら、学級で自分ひとりだけ違うことをしていたとか、友達と話し合って決めたことを実行したら、自分以外誰もそうしていなかったとか、そういうズレを多数経験すると、何を信用していいのかわからなくなることがあります。
客観的には本人が相手の言葉の意図や場の状況を把握できなかっただけのことですが、本人の主観では虐めに遭ったのと区別がつかない場合もあります。
しかし、どのように生まれつこうと、心的向こう傷のない人生は有り得ないですし、すべてを理解しあえることも有り得ません。
自閉スペクトラムという概念を知って、自分のズレが招いた様々なことに何年かかけて納得した時、社会に対する恨みが減少しました。
ほどよく諦めがついたのが、建設的に作用したのだと思います。
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私は、できるだけ早い時期に 発達障がいの可能性に気づいて、
親や周囲の大人は、
そうした知識に目を通すだけでもしておいた方がいいと考えています。

それを、何でもかんでも「病気」と決め付ける行為とは
思っていません。

そうして、いくつかの対応をとってみたら問題が消えて、
気にしすぎだったな~と笑えるときがくると、
とてもうれしいです。

どうして早めに発達障がいかも……という気づきが得たいかというと、

知能に問題がないのに、発達障がいによる2次障害が原因で、
勉強についていけなくなる子や、
不登校になる子を減らしたいからです。

また、子どもがいじめを受けたと感じて傷ついているときに、
親や教師といった大人たちまでも「おまえが悪い」と決め付けて、取り返しがつかないほど子どもを傷つけてしまうようなことをしたくないからです。

そうして、困り感を減らすうちに、発達障がいなどという
言葉がそぐわなくなったなら、
それほどうれしいことはないのです。

子どもに、「何が何だかわからない安心できない世界」の中で生きているという
そんな辛い思いだけは抱かせたくない
と心底 思っています。


2種類のビー玉コースターのエレベーター

2019-02-12 12:01:37 | 工作 ワークショップ

もうすぐ1年生になるAくんとBくんのレッスンでビー玉コースターを作りました。

Aくんがビー玉が転がっていく先に2つ穴をあけたところ、1つの穴にばかり落ちていました。

「こっちの穴に落ちないんだよ」と真剣に悩んでいたので、なかなか落ちない方の穴を

指さして、「こちらに落ちたら、失敗、ゲーム終了、ということにしたら?」と

いうと、「そうする!」と喜んでいました。

が、何度やっても、失敗しないことに不満の様子。

しまいにAくんは、何度やっても失敗しないことについて、説明書きをすることに

していました。

うまくビー玉が下まですべるようになると、今度は、「下まで来たら、

エレベーターで元のところに上がって、またすべる、ってなるようにしたい」と言いました。

そこで、どんなタイプのエレベーターにするか、空き箱を探しながらいっしょに考えました。

Aくんが選んだのは引き出し式の箱を使ったエレベーターです。

ビー玉がすべりおりて、箱にある穴に入ると、引き出しをひっぱります。

下の写真のように引き出しを引き上げると、レールの手前で、引き出しにある

穴からビー玉が出てきます。これでエンドレスループの完成です。

 

Bくんは、小さな箱にビー玉が飛び込むようにしました。

 

ビー玉の重さでエレベーターが下がると、もう一方の絵が描いてあるエレベーターが

上に少しだけ上がる仕掛けです。

 


IQの高い子の脳の不思議

2019-02-12 09:54:16 | 教育論 読者の方からのQ&A
「子どもの脳が学ぶ時」戸塚 滝登  高陵社書店
に興味深い研究が載っていました。

ラポポート博士とジード博士は、全米から集められた
1800名に子どもたちひとりひとりについて、4歳から21歳になるまで
定期的に脳スキャンを行い、
継続観察しています。
ラポポート博士は、子どもの脳発達とIQとの関係を追跡しました。

ラポポート博士は6~19歳まで307名の子ども達を、
●普通のIQの子ども達、
●ややIQが高い子ども達、
●最もIQが高い子ども達(IQ121~149)
の3つのグループに分けました。
脳画像を見ながらIQテストも実施し、
13年間分の脳画像データーとIQデーターを
比較してみたのです。

すると最もIQが高い子ども達の場合だけ、
奇妙な現象が見つかったのだそうです。

その子たちの脳では、灰白質の増え方が著しく遅れていた
のです。

灰白質層には、ニューロンと呼ばれる神経細胞が、約1000億個も
つまっていると言われています。
ララポート博士は、この灰白質層の厚みが成長するにつれて
どう変化するかを調べました。

灰白質層は成長するにつれて厚みを増しました。
普通のIQの子ども達は、厚みは6歳で最大に達しました。
ややIQの高い子ども達は、9歳頃に最大に。
もっともIQの高い子ども達はだけは、
11歳を過ぎても最大に達しなかったのです。
この実験でわかったのは、IQの高い子どもの脳ほどゆっくり成長するということです。
IQの高い子どもの脳はスローペースで成長し、思春期がやってくるまで
成長をやめませんでした。

一方ジード博士も不思議な発見に突き当たっていました。
脳の神経細胞「ニューロン」のくっつきあっている部分をシナプスと呼びます。
このシナプスのシナプス密度が成長するにつれてどう変化していくかを追跡したのです。

シナプスは誕生するなりどんどんシナプスを作っていきます。
が、生後一年にも満たないうちに、
今度はシナプスを捨て始めるのです。

この床屋さんのような仕事を「プルーニング」と言うそうです。
ジード博士たちは「前頭葉」と呼ばれる
脳の先っぽにある思考や判断力をつかさどる部分のシナプスの密度が、
どう変化していくか追跡しました。
5歳くらいでストップするだろう…って思っていたのに……。
シナプス密度は成長し続け、思春期にさしかかる直前に
最大に達したそうです。

ところが思春期にはいったとたん減り始めました。
またもや床屋さんのようなプルーニングが始まったのです。
こんどは長い!!なんと20代に入るまで、
脳は工事中でした。

思春期の脳の中では、よく使うものは強化し、
使わないものは切断すると言う脳の機能強化がおこっていたのです。

脳と言うこの宇宙一複雑な生物機械は、
自分で自分の構造を変えてしまう「可塑性」を秘めていたのです!!

20世紀最大の物理学者、アインシュタインの脳は、
著名人や科学者の脳を保存している「ブレイン・バンク」に
送られ、分析されています。

アインシュタインは、子ども時代に発達の遅れがあり、言葉をしゃべるのも、
読み書きを覚えるのも遅かったそうです。

アインシュタインはいわゆる「眼で考える子ども」で、
視覚的な思考力に優れ、言葉や文字よりも、
図や記号に頼って考えを進めるのが
得意だったのです。

アルベルト坊やは、伯父から数学の初歩の手ほどきをしてもらい、
ユークリッド幾何学にぞっこんになったそうです。
その後、知恵遅れとみなされていたアインシュタインは、
すばらしい才能を伸ばしていきました。

アインシュタインの脳は、分析したところ、未分化の部分があり、
それがニューロンとシナプスの結線を豊富に形作っていたそうです。

虹色教室にも、言葉の発達等に遅れがあって
教室に見えるお子さんがいますが、「眼で見て考える」タイプの子が
多いです。
また育てにくいお子さんのなかには、知能の高い子がよくいます。

脳の科学が教えてくれること…おもしろいですね。

               引用は 「子どもの脳が学ぶ時」戸塚 滝登  高陵社書店

拡充学習と教室の活動のまとめ

2019-02-11 19:10:27 | それぞれの子の個性と才能に寄りそう

レンズーリは、子どもの潜在能力を伸ばすために「拡充の三つ組モデル」と呼ばれる

組織化のモデルを用いています。

 

<拡充の三つ組モデル>

 

タイプ1 一般的探索の活動


全生徒が対象。一般的探索の活動からなり、普通カリキュラムではあまり取り上げられないような、

新しくておもしろいトピックや考え方、学問分野に子どもが触れられるように計画されている。

その活動は、さまざまな種類やレベルの継続学習への「招待」だと子どもが自覚している。

多様な種類の継続学習のために、種々の機会や物的資料、奨励がある。

 

 

タイプ2 集団訓練の活動


広範囲の「処理技能」を発達させるように計画されている。

①認知的訓練(分析、組織化、批判的思考、創造性)

②感情的訓練(内省的、対人的、人生の危機への対処)

③学習の仕方の学習(聴く、認識する、ノートをとる、要約する、面談・調査する、データーを分析する、まとめる)

④研究と参照の技法

文章や口頭、視覚的手段による発表技法。

 

タイプ3 個人、小集団による現実の問題の探求


子ども個人や小集団の興味にもとづく必要がある。

子どもは自分が探求しようとする現実の問題を「抱え」なければならない。

発表相手に糸した結果をもたらすような、本物の成果を発展させる。

種々の学習スキルを自分で使えるように向上させる。

課題への傾倒、自信、達成感、人とのやりとりなどの感情面のスキルを発達させる。

 

三つ組モデルの特徴

 

<一つ目> 自然なやり方で学習する

「外的な刺激」「内的な好奇心」「要求」、あるいはこれら三つの出発点となるものの

組み合わせによって、あるトピックや問題、研究分野への興味を伸ばす。


<二つ目> 部分の合計より多い

三つのタイプの拡充間の「相互作用」が、それぞれのタイプの拡充や

それらの合計全体と同じように重要であること。


<三つ目> 個人的知識

子どもが自分自身の能力、興味および学習スタイルについて

「個人的知識」を得るように計画されている。

 

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 虹色教室では、小さな教室でできる範囲なのですが、このレンズーリの拡充の三つ組モデルを参考に主な活動(算数レッスンの時間以外の活動)を行っています。

そうすることで、最初に子どもとする活動が、簡単な影絵遊びのようなものでも、

その活動に触発されて興味を深めていく子らによって、大きなスクリーンで映画を映す活動になり、

手作りのプロジェクトマッピングとなり、月の満ち欠けを影絵を使って発表する機会となり、

深海の世界を影絵で表現する取り組みにもなりました。

また虫眼鏡を覗く遊びも、生き物の目の仕組みへに関心やレンズや望遠鏡作りや

地下の生き物への興味などにつながりました。

形を楽しむ工作も、歴史的建造物への興味や図形の探求、

コンパスを使ったさまざまな工作や手作りコンパス、折りたたむしかけ、形を利用したからくりへの

興味へと発展しました。

大阪城へみんなで出かた後には、女の子も男の子も戦国武将や忍者などに夢中になる子が増えました。

 

ほんの一部ですが、日々の活動が、どのように個々の継続的な探求へとつながっているのか、

過去記事を、紹介しますね。

 

<形の発見>


 形は面白い!

半分の半分の半分の半分

 

基礎的な発見 <三角形の不思議>

基礎的な発見 <90度を作りだす>

 

基礎的な発見 14 <正方形の対角線は長い>

 


<回転への興味>


基礎的な発見 <回転>

基礎的な発見 12 <丸い形>

 

基礎的な発見 9 <回すのは楽しい 回転はすごい>

 

 <重さの利用>


基礎的な発見 1  <重い>


基礎的な発見 <自動的にエレベーターを上げる方法> 

 

基礎的な発見 11 <一方が下がるともう一方が上がる>

 

基礎的な発見 3 <位置をずらす>

<「処理技能」を発達させる>


 

基礎的な発見 16 <すでに身につけている技術を別の場面で利用する>

 

基礎的な発見 15 <自分が発見したことを報告する>

 

 

<アイデアを練り、実現する>


 

基礎的な発見 13 <貨車に荷物を積み込む方法>

 

<磁石の不思議>


基礎的な発見 10 <磁石で浮かべる>

 

基礎的な発見 4 <磁石の働き>

 

<ビー玉コースター(ピタゴラスイッチ)遊びでの発見>


 

基礎的な発見 7 <長くしてみる 高くしてみる>


基礎的な発見 8 <傾き と 出口の高さ>

 

基礎的な発見 6 <引っかける> と 「基礎的な発見」のカテゴリーについて

 

 

2階建てのビー玉コースター

<光と影>


基礎的な発見 5 <光を通す 通さない>

 

年中グループ 影絵のポップアップ絵本作り と 算数学習

<折りたたむ>


基礎的な発見 2 <折りたたむ>

 

新選組の池田屋事件のポップアップ絵本

 

<電流の流れ 電気の基本>


 

ポケモンゴーのゲーム作りが流行中 (音がでます♪)

 


「もう1回!」と「もっと!」の気持ちがはじける瞬間

 

<大きな数>

 

 

100円のひゃくってどれくらい? と 無限大数

 

ブログの過去記事にいただいたコメントについて

2019-02-10 09:46:24 | 番外(自分 家族 幼少期のことなど)

わが家は今、転機を迎えています。

一昨年、娘が結婚し、来年は息子が就職して家を出る予定です。

(関西で就職してくれたら自宅から通勤するかもしれないです)

そこで、過去に書いたうちの子記事を発掘してアップ中です。

整理して同一カテゴリーにしようかと集めています。

うちは娘と息子のふたりっ子で、写真や子育てマンガなど個人的な記録は

娘のものが断然多いのですが、ブログでアップしている子どもとの会話は、息子のものが

ほとんどです。理由は、娘との会話だと人間関係の話題が主になるので、

プライバシーの問題が出てしまうのと、

頼めばたいてい、「あっ、いいよ」と許してくれる温和でゆるい息子の性格によります。

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以前書いた

  8万人が同時に「ポケモン」ゲーム 「無政府状態」か「民主主義」か

という記事に、コメントをいただきました。

実はこの記事、教室にいらした親御さん方から、「どういう意味かよくわかりませんでした」という感想を

寄せられていたので、「伝わりにくい書き方になっているのかな」と思いつつも、息子との会話をそのままの形で残しておきたかったので

そのまま放置していたものなのです。

そんないわくつきの記事にていねいなコメントをいただいたのがうれしくて、

後でまた読み返せるように記事としてアップさせてもらうことにしました。

 

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私は“責任をもって自分の人生をおくると大切なことが見えてくる”と実感していますが、逆に“責任をもって自分の人生を生きていない”とはどういう状態なのだろうと考えていました。そして、ここのところ、責任をもって自分の人生を生きていないとは、どこか他人として生きていて、多数派を良とする考え方、集合体の一部であり、場の分割として生きている状態であると考えるようになりました。
少し前に河合先生の本を読んだことをきっかけに、日本はリーダーに力を持たさないで場を大事にするなど、突出したものを良とせず、暗黙の了解で多数派が占める考えを優先し、討論(争い)を嫌う民主主義タイプ、対して欧米はリーダーが全体を牽引するけれども、その過程で突出した個の意見があがってきたら討論する民主主義タイプという構図を意識するようになりました。

欧米での考えは実際のところわからないのですが、少なくとも今の日本の子育ては、子育てをめぐる場の雰囲気に自分の子育ての方向性をゆだねてしまって、自分の考えをないものにしているということに気がつきました。
そんなことを考えていると、以前先生が書かれた、息子さんとポケモンゲームと民主主義についての対話の記事を思い出しました。


「大多数が正解でないかもしれないことを、いつも忘れちゃいけないんだと思う。ゲームにしても、投票制にしたとたん、個人個人が自分で思考して進めようとするのではなく、全体の流れに乗って、合わせていくことに慣れてきて、自分の発想で問題を解決したり、別の視点から考えてみようとしたりしなくなるから。政治でも今のシステム方の中で、個人個人が自分の意見をどう扱うか、どう向き合うか、どう責任を持つか、捉えなおす必要があるんだろうな」


「多数決が暗に力を持ち出すと、創造的ないい意見が埋もれていることもよくある。 でも、本当にそれが問題なのは、自分の意見と自分が同調している多数派の意見との境目が薄れるにつれて、自分の精神が本来持っている可能性とかが、力がないもののように感じられることじゃないかな。ゼロから何かを作り出すことなんかできない、個人の精神から何か生まれてくるなんてありえない、なんてスタインベックの人間観とは真逆の思考に陥るってことだけど」


つまり、多数派が正解であり、自分の意見には力を感じない現在の社会に身をおくと、“責任をもって自分の人生を生きていない”につながりやすいのだろうなと気がつきました。


気がつくのは簡単でも、抜け出すのが難しい。子どもの将来の問題、自分自身の仕事、

老後の暮らし、経済的なものも含めて将来のことを考えると、先が見えなくて、すっきりしない不安感がある。

どうにかなるよと超越しきれずなにか軸となるものが欲しくて、大多数に合流したり目の前に

ある強力なメソッドにすがりたくなる。私自身を見つめるとよくわかります。私の中にそういう自分がいますから。

(少し違うかもしれませんが、子どもが難題を目の前にして、

くじけそうになるときも、きっと同じようにざわざわしているのでしょうね。)

でも私はそういう自分も抱えつつ、生きていくしかないだろうと考えています。

要所要所でバランスを取りつつ、本当の自分をみつけるしかないと考えています。

それが自分に責任をもった生き方なのだと考えています。

また、個々が創造的な意見を持つようになるよいきっかけはないだろうかと考えました。


先生は「トーク・トーク カニグズバーグ講演集」を引用されていましたが、私の今のところの考えは、
“本に限らず、魂が揺さぶられる、身体の奥に届くものとの出会い(柳田邦男さん?の言葉)が、

潜在的にもっている個々の考えを解き放ち、創造的な生き方につながるのではないか“というものです。
最近、河合先生や柳田邦男さんの本を読むことがありました。その中で、私自身、心が震えたり

、身体の中に奥行きを感じる体験をしました。すると、本の内容とは直接関係ないことで、

私の中の創造性が動き出しているのを感じたのです。
私は本を読むことが創造性につながることが多いのですが、誰もがそのような何かを持っていて

、きっと子供の頃夢中になった損得を考えないような一次体験をすることが、

個々の創造性を自由にして、自分が求める自分を生きることにつながるのではないかと考えました。

少し話しが変わりますが、「人間は創造力をもった唯一の種である。

(略)音楽においても、芸術においても、詩においても、数学においても、哲学においても、

有効な協力というものはない。ひとたび創造の奇跡が起これば、集団はこれを組織だて、

拡大することはできるが、集団が何かを創造することは決してない。

尊いのは個々の人間の独自の精神である」とスタインベックの引用がありました。

ここでいう創造力とは少し違うかもしれませんが、自分を生きている人たちの集合体の中では、

対話がうまれ、集団による創造がおこることもあるのではないでしょうか。 息子さんが

“奇跡的に切り抜けたときに絆が生まれるのは、大勢で何かするときの、一人でプレイするときの正誤とは別の価値”とおっしゃっていましたが、集団の中で奇跡的な絆がうまれたとき、集団の創造も不可能でないと考えました。

きっと複数で絵本を創作するときや、音楽活動の場では、集団での有効な協力による創造の

奇跡が起こっているのではと考えました。
最近私自身言葉を口にしたり、文字にしたりするときに、立体的なものにして伝えようと

していると感じることがあります。また子ども達を中心とした集団の中で絆がうまれている場では、

原因と結果など平面的な伝言とは違う、もっと奥行きのある、私たちそれぞれの生き方考え方や

自覚していないもっと多くのものも乗せて、立体的に伝えることができるのではないかと考えています。

実際に人類の進化の過程、文化の伝承や科学の進歩などの現場では、現世代までの集団に

おける創造の連鎖を次世代の創造につなげているのだと考えています。

ですからある意味私も集合体の中での創造の現場にいるといえるのではないかと考えています。

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< 8万人が同時に「ポケモン」ゲーム 「無政府状態」か「民主主義」か >の記事も下に紹介しておきます。

 

8万人が同時に「ポケモン」をプレー?配信サイトで大実験……と

CNNニュースでも取り上げられているゲーム映像配信サイト『ツウィッチ』の実験が

数日前からおこなわれています。

 

ゲームボーイ用ソフトのポケモンを「社会実験」と称して

改造した人がいるらしい。

 

主人公のレッドをチャット欄にコマンドを書きこむと動かせるようになっています。

レッドは、参加者が増えるにつれ、動きが取れなくなっていました。

 

その混乱ぶりを見た作成者が、75%の賛同を得たら

現状通りのコマンドが反映される「無政府状態」モードか「民主主義」モードに

切り替えることができる、という修正を加えたのだとか。

 

その話題を耳にして以来、わたしもこの「ポケモン」ゲームの行方が

気になりだして、朝、息子と顔を合わせる度に、

「ポケモン、どうなってる?クリアできそう?」とたずねるようになっていました。

 

この実験が始まった当初から、日に数回、このサイトに加えて

この話題で盛り上がっている海外と日本の掲示板の両方をチェックしている息子が、

「まだまだ、クリアするのは無理かもな」と答えてから、

こんなことをつけ加えました。

 

息子 「無政府状態が行き詰ってにっちもさっちも行かなくなると、

大勢が民主主義に傾くんだけど、少しするとそれが窮屈になってまた無政府状態に

戻るのを繰り返しているからね。

 

これ、海外でプレーしているからこんな流れになっているけど、

プレイヤーのほとんどが日本人だったら、「無政府状態」か「民主主義」かモードが

選べるようになった時点で、デモクラシー派がずっとゲームを引っぱってくことに

なって、あっという間にクリアーしてしまうんじゃないかな?

掲示板見ていても、ほんとに、日本人というか、アジア圏の人は真面目だな。

 

 どっちがいいか正しいかってのは抜きにして……

つまり、ぼくは無政府状態がいいとはちっとも思っていないわけだけど……それでも、

日本の掲示板で誰もかれもが一致団結して、「民主主義」モードに切り替えて

より短い時間でクリアすることだけを当然視する様子を見て、

多数決の状態で、より早くクリアすることを目指すんだったら、

一人でプレイするのとどう違うのか、疑問を感じたよ」

 

わたし 「そうよね。多数決で進むゲームなんて、少しも面白くないわね。

プレイするにしても、見るにしても」

 

息子「そうなんだ。より効率的にクリアーすることだけを最高善としてしまうと、

何万人もの人がプレイすることの意味が見失われそうでさ。

日本の掲示板では、誰も少数派を安易に切り落とすデメリットを口にしないし、

投票制で多数決することに慣れすぎて、

デメリットがあることすら忘れているようでもあるよ。

 

そういえば、中学の時、こんなことがあったんだ。

K先生が体育館クラス全員で一斉に手を打たせてから、

初めてみんなの心がひとつになったと言ったんだ。

自分は、初めてこの「パン!」を聞いたときに心の底から感動した……とも。

でも、ぼくは、それは無理矢理に強制されたから指示に従っただけで、

みんなの心が一つになったという表現はちょっと違うな、と感じたんだ。

 

何万ものがプレーしている状態で無政府状態を続けると、

大多数が正しく効率的にゲームが進行することを望んでいても、自分勝手に振舞う

人や他人の意見を聞かない人がめちゃくちゃにしてしまうのは事実だよ。

 

でも、この実験が、

どんなにひどいことが起きても裁かれないような状況でも、

奇跡的にうまくいくことがあるってことも示しているんだ。

結果として同じでも、

そんな風に個人個人が自由意志のもとで行動した上で先に進むのと、

1人の指示……それが多数決という指示だったとしても、

それに従って、先に進むのでは、ずいぶんちがうんじゃないかな」

 

息子 「実際に完全に多数決派に主導権を譲らない限り、

ゲームに決着がつくのかすら怪しいんだから、

日本の掲示板の意見は正しいといえば正しいんだろう。

海外のゲームの進行具合は無茶苦茶といえばその通りだしね。

ぼくも、どっちがいいって思ってるわけじゃないんだ。

 

ただ、今までツウィッチで起こってきたことを見て、

絶対絶命のピンチに直面したときの、向こうの人の切りかえの早さというか、

柔軟性にはびっくりしたよ。

日本人が同じ実験をしていたらもっと早くクリアしていたかもしれないけど、

ここで行き詰ってしまったら投げ出してしまうだろうなって場面があるんだけどね。

みんなが自由意志で自分勝手にプレイしながらも、そうした緊急事態に

やたら強いというか、何とか持ちこたえていくところがすごいと思ってさ。

 

これまでも、みんなで同時にポケモンゲームをするのと同じようなことを、

日本でも真似ようとしたことはよくあったんだけど、

いつも盛り上がりに欠けて、失敗していたんだ。

 

それって、やっていることの根本にあることを理解しないで、

形だけを真似ようとしてきたからかな、って感じたよ。

 

今回の実験で言うなら、ゲームだからより短時間にクリアするという

唯一の正解とそれ以外の不正解という捉えではない

どうして何万人なのか、このゲームにどんな意義があるのかも

考えてみるということだけど」

 

わたし 「何万人もの人が同時にプレイするとなると、

もし、最終的にクリアできなかったとしても、クリアできない状態が

長引けば長引くほど、ある意味、シュミレーションの結果としては面白いわね。

何万人もの人が、一人ですればすぐにクリアできるようなゲームに

多くの時間を浪費するとしたら、

その価値は確かに短時間にゲームを終えることではなく、

良いことも悪いことも含めた、ゲームのプロセスで起こったことのはず」

 

息子  「そうだよ。といっても、事件がたくさんあるほどいい、

大勢でやるから上手くいかないほうが盛り上がるってことじゃないんだ。

 

統率が取れたり、取れなかったりして先が見えない状態が続けば、

不満が出てくるのは当然だよ。

そうしたストレス下にあるときや、それを奇跡的に切り抜けたときに絆が生まれるのは、

大勢で何かするときの、一人でプレイするときの正誤とは別の価値といえるのかも。

 

これがゲームであるからには、多数決状態に固定されたまま心を一つにしていると

錯角して意識通り進んでいても、不満はあるはずだしね」

 

わたし 「民主主義は大事だけど、多数派が必ずしも正しいわけじゃないし、

たとえ多数派の意見の方が本当に正しかったとしても、

小数派の意見をないもののように切り捨てていいわけじゃないわ。

 

そういうこと、親子間でもよくあると思うのよ。

特に相手が幼い子の場合には。大人と子どもは多数派と少数派のような

力関係ができてしまうから、そこで優位にある大人側が正しさを振りかざして、

まるで子どもに自由な意志などないかのように扱ってしまうこともある」

 

息子 「ゲームを早くクリアしたい気持ちと同じように、

何歳までに何ができて、何歳までに何ができるか、ということだけを正解と

思ってしまうと、そうなるのかな」


続きを読んでくださる方はリンク先へどうぞ

 

8万人が同時に「ポケモン」ゲーム 「無政府状態」か「民主主義」か 3

8万人が同時に「ポケモン」ゲーム 「無政府状態」か「民主主義」か 4

 

ピタゴラスイッチのブラックボックス人問題を真似てみました♪

2019-02-10 09:31:01 | レゴ デュプロ ブロック

 

先日、たまたまテレビをつけたらやっていた、

ピタゴラスイッチの『ブラックボックス人問題』。

「これは子どもたちといろいろ作って遊びたいなぁ」と感激しました。

 

さっそくブロックで問題をひとつ作ってみました。

 

黒いトンネルを通ると、上の写真のように後ろ向きにトンネルに入っていった人形が……。

 

前向きに出てきます!!


「トンネルの中はどうなっているのでしょう?」という問題。

 

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<答え>

短い突起に引っ掛かって、身体が横向きになります。

 

もう一度、少し長い突起に引っ掛かって、人形が前を向きます。

 

こんなふうに出てきます。