旅と歴史

全国各地の史跡を取り上げて紹介しています。

熊谷家住宅

2009年07月18日 | 旅 歴史
 今日は山口県萩市大字今魚店にある熊谷家住宅を紹介します。
 熊谷家住宅は明和5年(1768)に新築されたものと伝えられ、広大な屋敷に 主屋のほか離れ座敷、土蔵など10数棟が建ち並んでいます。
 萩藩7代藩主毛利重就は藩の財政立て直しのため宝暦4年(1754)城下の商人の中 から熊谷五右衛門芳充を抜擢して所帯方御用達としました。
 芳充はよく その期待にこたえて活躍し、大阪御用達であった鴻池や加島屋と同格の上方町人格に置かれるようほどになりました。後には市中大年寄にも任ぜられたそうです。
 4代目の五右衛門義比は文化に造詣が深く、学者や文人墨客に経済的援助を惜しまなかったそうです。シーボルトとも親交があり、シーボルト愛用のピアノがこの蔵の中にあります。

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萩キリシタン殉教者記念公園

2009年07月17日 | 旅 歴史
 山口県萩市堀内にある萩キリシタン殉教者記念公園です。
 明治元年(1868)に続いて明治3年(1871)、明治政府はキリスト教弾圧政策をとりました。浦上崩れとよばれ、長崎浦上村の全信徒3800人を全国各地に流刑しました。このうち300人近くが萩に流されたのです。
 信仰篤い彼らを改宗させるために苛酷な拷問などが3年間も課せられたそうです。40人がそのために亡くなり20人が岩国屋敷だったこの場所に埋葬されていました。
 明治24年(1891)萩カトリック教会初代司祭ビリヨン神父によって殉教した浦上キリシタンの墓と祈念碑が建てられたのです。またここにはキリシタン信者であったために藩によって処刑された、熊谷元直と天野元信の殉教碑も建てられています。

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旧周布家長屋門

2009年07月17日 | 旅 歴史
今日は山口県萩市堀内にある旧周布家長屋門を紹介します。
 旧周布家長屋門は旧三の丸北の総門筋にあります。木造平屋建て本瓦葺きで江戸時代中期の代表的な武家屋敷長屋です。
 周布家は萩藩の大組士筆頭の地位にありました。石見国周布郷の地頭職として周布村(島根県浜田市周布村)に居住していたことから周布を名乗ったそうです。
 梁間4m、桁行25mという長い建物です。中央から東よりに通用門を設け、腰部を下見板張りとしています。

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高杉晋作旧宅

2009年07月16日 | 旅 歴史
 山口県萩市呉服町にある高杉晋作旧宅です。
 高杉晋作旧宅は菊屋家の西の菊屋横丁にあります。「高杉春樹(晋作の父)舊宅地」と「高杉晋作誕生地」の2つの石碑が建っています。晋作は安政4年(1857)久坂玄瑞に勧められ松下村塾に通いました。
 文久2年(1862)上海に渡り、中国の植民地化を目のあたりにして帰国しました。その後、品川英国公使館焼き討ち事件を起こし、文久3年(1863)下関で奇兵隊を組織して倒幕運動の中心的存在となりました。慶応元年(1865)下関で挙兵、幕府恭順派をうち破って藩内の主導権を握りましたが、(慶応3年(1867)志半ばで病に倒れてしまいました。29歳の若さでした。

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青木周弼旧宅

2009年07月16日 | 旅 歴史
 今日は山口県萩市南古萩町にある青木周弼旧宅を紹介します。
 青木周弼旧宅は安政6年(1859)新築され、母屋は、来客用と家人用とに分けられています。周弼は、漢方医学を学んだ後に江戸でオランダ医学を修得しました。13代藩主の毛利敬親の侍医でもありました。
 青木研蔵は周弼の実弟で、のちに養子となり家督を継ぎました。明治2年(1869)明治天皇の大典医になっています。周蔵は研蔵の養子でドイツ留学を機に外交官になり、山県有朋、松方正義内閣では外務大臣を務めました。

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円政寺

2009年07月15日 | 旅 歴史
 山口県萩市南古萩町にある円政寺です。
 円政寺は真言宗御堂派のお寺です。大内氏の祈願寺として山口にありましたが、毛利氏とともに萩に移った古刹です。
 門前には「高杉伊藤両公幼年勉学之所」と刻んだ石碑が建っています。石灯篭は県下では最大のものです。
 伊藤博文の母親と円政寺の住職が従兄妹の関係だったので1年半、博文はこの寺に預けられたそうです。当時使用したレンガのすずりやしょいこも展示されています。高杉晋作が肝だめしをしたという大きな天狗の面や、遊んだ木場(神馬)なども残っています。

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木戸孝允旧宅

2009年07月15日 | 旅 歴史
 山口県萩市呉服町にある木戸孝允旧宅です。
 木戸孝允(桂小五郎)の生家は菊屋家住宅の1筋ほど東の江戸屋横丁にあります。孝允が誕生した部屋や浴室、庭などが残っています。
 父親の和田昌景は萩藩医でした。そのため患者用と来客用の2つの玄関があり、当時としては珍しい木造2階建ての家でした。部屋も12あったそうです。孝允は天保4年(1833)に誕生し、20年ここで過ごしたようです。
 孝允は桂九郎兵衛孝古(たかひさ)の養子となり、桂小五郎と称しました。明倫館や松下村塾に学び、西郷隆盛、大久保利通とともに維新の三傑となりました。



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菊屋家住宅

2009年07月15日 | 旅 歴史
 今日は山口県萩市呉服町にある菊屋家住宅を紹介します。
 菊屋家住宅は呉服町にあります。正面は 藩主の通行する御威道(おなりみち)側にあります。西側には菊屋横丁とよばれるなまこ壁の小路が続いています。
 屋敷地には数多くの蔵や家屋が建てられていますが、主屋、本蔵、金蔵、米蔵、釜場の5棟は国の重要文化財に指定されています。
 菊屋家の先祖は、毛利氏に従い広島、山口、萩に移ってきたそうです。萩藩の御用商人となり、萩の町割りも命じられたそうです。
 代々大年寄格に任命され藩の御用達を勤めた豪商でした。屋敷は幕府巡検使の宿として本陣に当てられたほどでした。
 主屋は17世紀中頃建てられたようです。桁行13m、梁間14.9mの切妻造りの建物で屋根は瓦葺きです。前寄り一間半を店にして、奥は土間寄りに役向きの部屋が3部屋設けられています。日本で最も古い大型の町家の一つです。


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萩博物館

2009年07月14日 | 旅 歴史
 山口県萩市大字堀内にある萩博物館です。
 萩博物館は平成16年(2004)に萩開府四百年を記念して開館しました。武家屋敷風の大きな建物です。
 旧萩城内にあたる堀内地区重要伝統建造物群保存地区内の大野毛利家上屋敷跡に建てられています。
 4つの展示室を持っていて、城下町萩の自然や吉田松陰や高杉晋作らが活躍した幕末の資料など500点近くが収蔵、展示されています。


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志都岐山神社

2009年07月14日 | 旅 歴史
 今日は山口県萩市堀内にある志都岐山神社を紹介します。
 志都岐山神社は萩城のあった指月公園の中央に位置しています。境内には維新にかかわる碑が数多く建てられています。
 明治12年(1879)、萩の有志が山口市の豊栄神社(祭神は毛利元就)、野田神社(祭神は毛利敬親)の分社として、建立したものです。
 その後、指月(しづき)神社といわれてきましたが、明治15年、現在の志都岐山(しづきやま)神社となったそうです。
 毛利輝元を主祭、元就と敬親を配祀とし、隆元、輝元、元徳(もとのり)を加えて5柱として、初代から12代まで萩藩歴代藩主を祀っています。社務所は永代家老福原家の書院を移築したものです。
 志都岐山神社前の庭池に架かる石橋は万歳橋と呼ばれ、藩校明倫館の聖廟前のはん水中央に架けられていた橋でした。江戸時代の藩校の貴重な遺構として、萩市の文化財に指定されています。


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萩城址

2009年07月13日 | 旅 歴史
 山口県萩市堀内にある萩城址を取りあげます。
 萩城は毛利輝元が慶長9年(1604)に築城に着手し、4年後の同13年(1608)に完成させた平山城です。指月城(しづきじょう)よばれ、城跡は国の史跡に指定されています。
 慶長5年(1600)、西軍の総大将であった輝元は関ヶ原の戦いに敗れ自国に逃げ帰りました。その結果中国地方8ヶ国の領地を削られ120万5千石から、周防、長門(現在の山口県)2か国のみの36万9千石に減封されてしまいました。
 周防、長門に入った輝元は、関ヶ原の敗戦の責任をとって家督を嫡男の秀就に譲りました。秀就は幼かったため実権は輝元が握ったままでした。居城を築くため徳川幕府に山口、萩、防府の3ヶ所を候補として申請しました。
 外様大名の毛利氏の勢力を削ぐため、幕府からは山陰の過疎地であった萩に許可を出したようです。以後約250年間、防長両国の政治の中心になり、明治維新には歴史的な重要拠点にもなったのでした。
 萩城は日本海に張り出した指月山の詰の丸と、その山麓に梯郭式に本丸・二の丸・三の丸を配し三重の堀を巡らした平山城です。
 外堀の内に三の丸、中堀の内が二の丸、内堀の内に本丸が設けられていたわけです。本丸には、天守閣、本丸御殿、櫓が、二の丸には櫓12棟が立ち並んでいました。
 明治7年(1874)前年に発布された廃城令により天守や櫓などの建物が破却されてしまいました。本丸には高さ14、5mの五層の天守閣がありましたが、今はその台座のみが残っているだけです。
 志都岐山神社前の庭池に架かる石橋は万歳橋と呼ばれ、藩校明倫館の聖廟前のはん水中央に架けられていた橋でした。江戸時代の藩校の貴重な遺構として、萩市の文化財に指定されています。
 現在は指月公園として整備され、旧城の入り口には旧厚狭毛利家萩屋敷長屋(国の重要文化財)が往時の姿を偲ばせてくれます。


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山口県立萩美術館・浦上記念館

2009年07月13日 | 旅 歴史
 今日は山口県萩市平安古にある 山口県立萩美術館・浦上記念館を紹介します。
 山口県立萩美術館・浦上記念館は萩出身の実業家、浦上敏朗氏のコレクションの寄贈を機に開館した美術館です。
 萩の町並みを連想させる横長の平面や土塀を暗示する石の造形で、古い面影のある近代的な建物に仕上げています。
 歌川広重の「東海道五十三次」をはじめ、安藤広重、葛飾北斎、歌川国芳、喜多川歌麿らの浮世絵約5000点を収蔵しています。また中国や朝鮮の陶磁器や青銅器類など500点も収蔵展示しています。

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明倫館

2009年07月12日 | 旅 歴史
 山口県萩市江向にある明倫館です。
 明倫館は享保4年(1719)に5代藩主毛利吉元(よしもと)によって萩城三の丸に創建された藩校です。
 明倫館の名称は吉元の侍講、山県南周が命名しています。孟子の中の「皆人倫を明らかにする所以なり」からとったそうです。   
 嘉永2年(1849)に13代藩主毛利敬親(たかちか)によって現在の場所に移したそうです。敷地は約5万m2もあり、藩校としては水戸の弘道館、鹿児島の造士館と並ぶ大規模なものでした。
 聖廟を中心に、初等から高等までの学問施設、医学所、武芸修練場など、大小47棟があり、設備、教育内容ともに全国有数で、多くの人材を輩出しました。
 敷地内には現在の明倫小学校があります。観徳門や坂本龍馬が試合をしたという逸話のある剣術場と槍術場を移転して拡張した有備館が残っています。
 有備館の奥には玄武岩の石垣で築いた水練池があり、水泳や水中騎馬の練習が行なわれたそうです。わが国に残存する唯一の遺構です。
 明倫館は、水戸藩の弘道館、岡山藩の閑谷黌と並び、日本三大学府の一つと称されたそうです。

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藤原義江記念館

2009年07月12日 | 旅 歴史
 今日は山口県下関市阿弥陀寺町にある藤原義江記念館を紹介します。
 藤原義江記念館は昭和11年(1936)に建てられた旧リンガー邸を使っています。英国系商社ホーム・リンガー商会の社長令息のために建てられた住宅でした。リンガー商会の支配人であったスコットランド人のネール・ブロディ・リードと琵琶芸者であった坂田キクとの間にできたのが義江でした。
 藤原義江(1898-1976)は日本にオペラの基礎を創りあげた世界的オペラ歌手でした。幼少の頃、父からは認知されず、母と共に各地を転々とする苦しい時代を送ったようです。 


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長府毛利邸

2009年07月11日 | 旅 歴史
 山口県下関市長府惣社町にある長府毛利邸を取り上げてみます。
 長府毛利邸は明治36年(1903)に長府毛利家14代当主の毛利元敏(もうりもととし)の邸宅として建てられたものです。
 9900m2もの敷地と1100m2の館は、長府毛利氏の威光を示す最後のものです。また長府毛利氏遺跡のうち唯一現存するものです。
 廃藩置県後、華族は東京に住むことを義務付けられていました。毛利元敏も東京に住んでいましたが、天皇の許可を受けて長府に帰り、明治31年(1898)屋敷の新築に着工しました。 
 完成間近の明治35年(1902)11月には、明治天皇が、熊本で行われた陸軍大演習を視察され行在所(あんざいしょ)として使用されました。この部屋は当時のまま残されていて往時を偲ばせてくれます。
 白壁に囲まれた敷地は約1万平方mと広く、池泉回遊式庭園、枯山水庭園、書院庭園の3つの庭園があります。
 池泉回遊式庭園は本館より南に出て竹垣や土塀で仕切られた石段を下りていくとあります。いたるところに石組の趣向が凝らされ、船着石などは水深の深さによって見え隠れする趣向を取り入れています。
 枯山水庭園の中心は203cm高の立石です。この石は滝を象徴し、この枯滝を基点に渓谷美のを形成し、築山の中頃よりのゆるやかな流れを下流で合流させています。
 書院庭園では縁先手水鉢と沓脱の花崗岩、飛び石とのつながりに意匠を凝らしていて庭全体の風格を高めています。

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