旅と歴史

全国各地の史跡を取り上げて紹介しています。

安野光雅美術館

2009年07月24日 | 旅 歴史
 島根県鹿足郡津和野町後田にある安野光雅美術館です。
 津和野町出身の安野光雅の美術館です。原色や派手な色をほとんど使わない淡い色調の水彩画で独創的な作品を生み出しました。
 国際アンデルセン賞を始めとする数々の賞を受賞しています。「ふしぎなえ」「ABCの本」「天動説の絵本」「旅の絵本」「繪本平家物語」などが代表作です。また司馬遼太郎の歴史紀行「街道をゆく」の装画なども手がけました。

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津和野カトリック教会

2009年07月24日 | 旅 歴史
 きょうは島根県鹿足郡津和野町後田ロにある津和野カトリック教会を紹介します。
 津和野カトリック教会は昭和6年(1931)ドイツ人シェーファによって建てられたゴシック建築の教会です。城下町の古い町並みの中に、西洋建築の建物が違和感なく建っています。隣には乙女峠展示室があります。
 江戸幕府のキリシタン禁制を踏襲した明治政府は、明治元年(1868)から翌年にかけて、キリスト教の信仰を公にした長崎浦上村の信徒3千人以上を総流罪とし、金沢、津和野、萩、鹿児島など21カ所に配流しました。
  津和野には、浦上村から153名が連れてこられました。明治6年(1873)まで信徒達は乙女峠(津和野駅西方)の廃寺に収容され、苛酷な拷問などされて改宗を促されたのでした。昭和26年(1951)ドイツ人パウロネ-ベル神父により記念聖堂も建てられました。

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藩校養老館

2009年07月23日 | 旅 歴史
 島根県鹿足郡津和野町後田ロにある藩校養老館です。
 藩校養老館は石見津和野藩8代藩主亀井矩賢(かめいのりかた)により天明6年(1786)に創設されました。後に津和野藩知事になった11代藩主亀井茲監(かめいこれみ)は人材養成に力を入れ、嘉永2年(1849)ここを拡大充実させました。
 西周、森鴎外、中村吉蔵など全国に名を馳せた重要人物を輩出した藩校でした。現在残っているのは武術教場と書庫で建物自体県指定史跡の文化財です。旧剣道教場は民俗資料館になっています。嘉永6年(1853)の大火焼失後安政2年(1855)に再建され、昭和46年(1971)に修復されています。

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太皷谷稲成神社

2009年07月23日 | 旅 歴史
今日は島根県鹿足郡津和野町後田にある太皷谷稲成神社を紹介します。
 太皷谷稲成神社は安永2年(1773)に津和野7代目藩主、亀井矩貞(かめいのりさだ)が藩の安穏鎮護と領民の安寧を祈願するために京都の伏見稲荷を勧請したものです。
 三本松城(津和野城)の表鬼門にあたる東北端の太皷谷の峰に社を創建しました。以来、歴代の藩主の崇敬が篤く、廃藩後は一般庶民も参拝できるようになり中国地方有数の稲荷神社となりました。
 京都の伏見稲荷や茨城の笠間稲荷、宮城の竹駒神社そして九州佐賀の祐徳稲荷と並び日本五大稲荷に数え上げられています。
 近隣の人々のみならず日本全国の人々から特に商売繁盛、開運厄除の神様として信仰されています。それらの人々が奉納した鳥居がトンネルのように山を上って行き「千本鳥居」として有名になりました。

 祭神は宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)です。豊穣を意味する二人の女神を祭ったものだと思われます。
 稲荷神社は全国で約4万社ありますが 「稲成」と書くのはこの太鼓谷稲成神社だけだそうです。大願成就の祈りが込められているため成の字を充てたようです。
 今の社殿は昭和44年12月に建てられたものです。境内からは 山陰の小京都・津和野の町を一望できます。沢村一樹が浅見光彦を演じた「津和野殺人事件」でもロケに使われたところです。
 大祭は2月は節分祭、初午祭が執り行われます。節分祭の時は石見神楽の鬼が殿内に登場するそうです。春の5月15日は鎮座された日の大祭で五穀豊穣と商売繁盛を 願い多くの参拝者が訪れ、境内に太鼓や笛の音が鳴り響くそうです。秋の大祭は11月15日です。


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大岡家老門・多胡家老門

2009年07月22日 | 旅 歴史
 島根県鹿足郡津和野町後田殿町にある大岡家老門・多胡家老門です。
 大岡家老門は、かつて津和野藩の家老を務めた大岡家の門です。かつては、津和野町役場でしたが、現在は津和野町役場津和野庁舎になっています。津和野町役場は日原町に移転したためです。
 多胡家老門は県文化財に指定されています。多胡家は、津和野藩の筆頭家老職を藩主亀井家11代にわたり務めました。
表門は、薬医門で養老館と同じく一度は焼失し、その後再建されています。
 構造、意匠とも簡素な造りですが、威厳のある江戸時代中期の武家屋敷門の建築様式を今に伝えています。

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森鴎外記念館

2009年07月22日 | 旅 歴史
 今日は島根県鹿足郡津和野町町田にある森鴎外記念館を紹介します。
 森鴎外記念館は平成7年(1995)4月にオープンしました。津和野町出身の森鴎外の生涯を映像や著書、直筆原稿などを使ってわかりやすく紹介しています。
 夏目漱石とともに、「明治の文豪」と称される森鴎外は文久2年(1862)1月19日に津和野の藩主の御典医の家に生まれました。10才で父に伴われて上京したのでこの場所にいたのは短期間でしたが、死ぬ間際に「石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」という遺言を残したので愛着があったのでしょう。
 明治14年(1881)東京大学医学部卒業後、軍医の道を進み、明治17年(1884)から21年(1888)までドイツヘ留学し教養と見識を深めました。
 ドイツ留学後発表された「舞姫」や「即興詩人」の翻訳は鴎外の名声を高めました。日清、日露戦争に従軍し、明治40年(1907)軍医総監陸軍省医務局長に就任し、軍医としで最高の地位(中将宮相当)官につきました。
 明治42年(1909)雑誌「スパル」の創刊を契機に再ぴ文作活動に力を入れ、「半日」「ヰタ・セクスアリス」「雁」「青年」等を発表し、小説家として確固たる地位を築きました。
 鴎外には作家と軍医という二つの人生がありました。明治天皇崩御、乃木殉死を契機に歴史小説も手掛け、晩年には史伝文学という新しい分野を開いていきました。大正11年(1922)7月9日、60歳の生涯を終えました。
 国指定史跡に指定されている森鴎外の旧宅が森鴎外記念館の南側に隣接し、鴎外旧宅を展示物の一部として取り込んでいます。


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津和野町郷土館

2009年07月21日 | 旅 歴史
 島根県鹿足郡津和野町森村にある津和野町郷土館です。
 津和野町郷土館は大正10年(1921)、当時、島根県唯一の郷土歴史博物館として設立されました。津和野の縄文時代から現代までの歴史資料約千点を展示しています。藩校養老館の教科書や武芸書、津和野の生んだ偉人たちに関する資料,藩政資料、乙女峠のキリシタン殉教関係資料など貴重な資料を所蔵しています。
 文久2年(1862)に津田真道、榎本武揚らとともにオランダ留学した西周(にしあまね)がオランダで買い求めたという顕微鏡などもあります。西周は森鴎外と同じ医者の家系で大政奉還前後においては、徳川慶喜の政治顧問をつとめました。


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松陰幽囚ノ旧宅

2009年07月21日 | 旅 歴史
 山口県萩市大字椿東にある松陰幽囚ノ旧宅(しょういんゆうしゅうのきゅうたく)を取りあげてみます。
 安政2年(1855)吉田松陰は保釈されて父親の預かりとなり一年半、この杉家の4畳半の幽囚室で講義を始めたそうです。その後松下村塾で一年間教え高杉晋作を初め久坂玄瑞、伊藤博文、山県有朋などを育てました。
 吉田松陰は文政13年(1830)長州藩の下級武士の杉百合之助の二男として萩の松本村に生まれました。松陰には、他家に養子に行き家督を継いでいた長州藩の兵学師範(山鹿流兵学)であった吉田大助と松下村塾を興した玉木文之進という二人の叔父がいました。大助に跡継ぎがなかったため吉田家へ養子に入りました。大助が急死したため6歳にして吉田家の家督を継ぎ、藩校明倫館の兵学師範になる宿命を背負ったのです。
 山鹿流免許皆伝であった玉木文之進の厳しい教育で11歳の時に、藩主毛利敬親の前で山鹿流「武教全書」を講義し天童と言われたのでした。
 嘉永7年(1854)1月、ペリーの2度目の来航の際、金子重之助とともに密航計画を企て野山獄に幽囚、その後この幽囚室と松下村塾で講義を続けました。老中の間部詮勝の暗殺を企てたことで捕らえられ、江戸に送られ帰らぬ人となりました。

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松陰神社

2009年07月21日 | 旅 歴史
 今日は山口県萩市椿東松本にある松陰神社を紹介します。
 松陰神社は、維新の原動力となった幕末の思想家で教育者でもあった吉田松陰を祭神とする神社です。現在の朱塗りの本殿は昭和30年(1955)に建てられたものです。
 明治23年(1890)松陰の実家である杉家の邸内に松陰の実兄の杉民治が土蔵造りの小祠を建て、松陰の遺言により愛用していた赤間硯と松陰の書簡とを神体として祀りました。
 明治40年(1907)松下村塾出身の伊藤博文と野村靖が中心となって神社創建を請願し、萩城内にあった鎮守の宮崎八幡の拝殿を移築して土蔵造りの本殿に増築させ、県社に列格しました。
 創建当時の土蔵造りの旧社殿は「松門神社」として、松陰の門人であった人々の霊を祀っています。
 松陰神社は萩市で学問の神として最も尊敬を集める神社であり、正月には多くの初詣客が訪れます。

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松下村塾

2009年07月20日 | 旅 歴史
 山口県萩市船津にある松下村塾です。
 松下村塾というのは松蔭が子供の頃に叔父の玉木文之進が開いていた塾です。文之進が藩から抜擢されたので松蔭の外叔の久保五郎左衛門があとを継ぎました。安政4年(1857)松蔭がそのあとを継いだのでした。
 この時、松蔭は幽囚の身であったのです。嘉永7年(1854)1月、ペリーの2度目の来航の際、金子重之助とともに密航計画を企て野山獄に幽囚されたあとでした。
 高杉晋作を初め久坂玄瑞、伊藤博文、山県有朋、吉田稔麿、前原一誠など、維新の指導者となる人材を教え育てました。門弟がふえたことから8畳の建物から10畳半の二間に増築しています。
 安政5年(1858)年7月には藩から家学教育の許可もでましたが、幕府が勅許なく日米修好通商条約を結んだことで、老中の間部詮勝の暗殺を企て再び投獄されました。安政6年(1859)5月江戸に送られ、安政の大獄により処刑されてしまいました。29歳という若さでした
 この松下村塾は、杉家の物置小屋を改築したもので、質素な小さな建物です。藩が作った学校である明倫館へ入学できないような下級武士の子弟が多く学んだことも有名な話です。

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萩カトリック教会

2009年07月20日 | 旅 歴史
 山口県萩市土原3区にある萩カトリック教会です。
 明治24年(1891)ビリヨン神父によって殉教した浦上キリシタンの墓と祈念碑が建てられました。ビリオン神父は明治22年(1889)に「パリ外国宣教会」から山口に派遣されていたのです。
 明治28年(1895)、萩に赴任されたビリオン神父は、市内平安古の民家を教会して萩カトリック教会初代司祭になりました。
 1965年、ヴイエラ神父が今の聖堂を建て、1994年には三浦神父がキリシタン墓地と祈念碑を改修し、「萩キリシタン殉教者記念公園」と名付けたのでした。

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野山獄跡・岩倉獄跡

2009年07月20日 | 旅 歴史
 今日は山口県萩市古今萩町にある野山獄跡・岩倉獄跡を紹介します。
 安政元年(1854)海外密航に失敗した吉田松陰は野山獄に入れられ、一緒に行動した弟子の金子重輔は隣の岩倉獄に入れられました。
  野山獄は上牢として上級武士を、岩倉獄は下牢として庶民が収容されていたそうです。
 この場所には萩藩藩士野山家と岩倉家の屋敷がありました。道をはさんで建つ両家は、ともに萩大組で禄高は200石取りでした。
 正保2年(1645)、酒に酔った岩倉孫兵衛が、野山六右衛門の家族を切ったため、両家とも取りつぶになりました。屋敷は藩に没収され、牢獄になったのです。
 野山獄跡には十一烈士の碑、岩倉獄には重輔絶命の詩碑と松陰が重輔に与えた詩碑が建てられています。


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常念寺

2009年07月19日 | 旅 歴史
 今日は山口県萩市下五間町にある常念寺を紹介します。
 長栄山常念寺は浄土宗のお寺で、天文元年(1532)吉見家の家臣であった阿部家貞を開基として創建されています。
 毛利輝元が、関ケ原の役後、萩築城の際に宿舎にしたそうです。その縁で表門を寛永10年(1633)に寄進されました。この門は輝元が豊臣秀吉から拝領したもので、京都の聚楽第の裏門だったそうです。国の重要文化財に指定されています。
 この表門は本瓦葺きの屋根をもつ四脚門で、蟇股に豪放な桃山時代の特色の特徴が見られます。またこの寺には吉田松陰の屍体処理をした藩医飯田正伯などの墓があります。


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旧萩藩御船倉

2009年07月18日 | Weblog
 山口県萩市東浜崎町にある旧萩藩御船倉です。
 御船倉は藩主の御座船(ござぶね)を繋ぎ留めておいた場所です。慶長13年(1608)萩城築城後、まもなく造られたとみられます。
 間口8.8m、高さ8.8m、奥行き27mの大きな建物です。両側と奥を玄武岩で覆わせ、立派な屋根を葺き、前面はお城のような頑丈そうな木製扉です。
 もとは大船倉を中央にして小船倉が左右にあったそうです。明治初期に壊されてしまい、現在は中央の大船倉だけが残っています。
 この浜崎には、 御船倉という役所が置かれていたそうです。御船倉は萩藩主の乗る 船を格納するだけではなく、 浜崎宰判(さいはん) という行政区域を治める代官所でもあったのです。



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旧萩藩御船倉

2009年07月18日 | 旅 歴史
 山口県萩市東浜崎町にある旧萩藩御船倉です。
 御船倉は藩主の御座船(ござぶね)を繋ぎ留めておいた場所です。慶長13年(1608)萩城築城後、まもなく造られたとみられます。
 間口8.8m、高さ8.8m、奥行き27mの大きな建物です。両側と奥を玄武岩で覆わせ、立派な屋根を葺き、前面はお城のような頑丈そうな木製扉です。
 もとは大船倉を中央にして小船倉が左右にあったそうです。明治初期に壊されてしまい、現在は中央の大船倉だけが残っています。
 この浜崎には、 御船倉という役所が置かれていたそうです。御船倉は萩藩主の乗る 船を格納するだけではなく、 浜崎宰判(さいはん) という行政区域を治める代官所でもあったのです。



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