今年は喪中の葉書がたくさん届く。そう思っていたら、加藤周一が亡くなった。今朝、新聞を広げて知った。89歳という年齢を考えれば、不思議なことではないが、志賀直哉が88歳で亡くなったとき(1971)と同じように、「長生きはしても、結局、人間は死ぬのだな」と思った。学生時代、進路を決める上で影響を受けた人物が二人いる。一人は清水幾太郎で、大学院で社会学を専攻したのは彼の影響である。もう一人が加藤周一で、学部の2年生の秋、人文専修に進級したのは彼の影響である。加藤周一は専門分化の趨勢に抗して「非専門化の専門家」を志した人だった。そのひそみに倣おうと、私もあれこれ手を出したが、その癖はいまも残っている。
昼食は「鈴文」で。朝食抜きで、開店時間の11時半に行ったら、すでに3人先客がいた。ランチのとんかつ定食を注文して、持参した伊坂幸太郎『ゴールデンスランバー』を読む。しだいに客が増え、私が食べ終わる頃にはほぼ満席になった。支払いのとき、店員さんに「繁盛ですね。みんな待ちかねていたんですよ」と言ってみた。ご主人には直接言いにくいので、間接的に言ってみたのである。他の客たちが思っていることを代弁したつもりでもあった。
食後の珈琲を「シャノアール」で飲みながら1時間ほど読書。さて、これからどうしよう。自宅に戻って読書というのにはもったいない晴天だったので、電車に乗って少し遠出をしてみようと思った。そうすれば電車の中でしばらく本が読める。移動と読書、一石二鳥だ。神奈川県立美術館(鎌倉)か、千葉市立美術館(千葉)、どちらかにしようと考えて、後者に決める。京浜東北線で品川まで行き、そこから横須賀線+総武線快速で千葉まで行く。ゆったり読書がしたかったのでグリーン車を利用。休日のグリーン券は550円(乗車前購入)。「ルノアール」のブレンド珈琲と同じくらいだ。私は戦後派だが、親が戦中派なので、子どもの頃から「贅沢は敵だ」という家庭環境の中で育ってきた。しかし、先月、雀宮(宇都宮の一つ手前)にいる友人を訪ねたときに普通車グリーン車を使って味をしめたのである。もう非グリーン車的生活には戻れそうにない。
千葉市立美術館は千葉駅東口から徒歩15分ほどのところにある。中央区役所と合体したビルは、区役所側から入るか、美術館側から入るかで、様相を異にする。前者は機能的で後者は装飾的だ。現在開催中(12月14日まで)の展覧会は「国立美術館所蔵による20世紀の写真」。東京都写真美術館の「ヴィジョンズ・オブ・アメリカ」展で見た作品と同じものが何点か展示されている。同じ作品が同時に異なる場所に存在するのは複製芸術である写真ならではである。アンドレ・ケルテス、ドロシア・ラング、ウォーカー・エンバスンらの作品の前でやはり足が止まる。芸術としての写真と記録としての写真の融合を実現した写真家たちの作品だ。初めて見る作品では、杉本博司の海の写真に強く惹かれた。「南太平洋、マラエヌイ」「ティレニア海、コンカ」「イギリス海峡、ウェストン・クリフ」と題された3作品なのだが、ちょっと目にはまったく同じものに見える。中央に水平線が配置され、空は平坦に白く、海は平坦に黒い。タイトル(固有名詞)を付けることが一種の皮肉にさえみえる。しかし、よく見ると、海の表面のあるかないかの波の模様が違う。一度それに気づけば、ランダムに3つの作品を示されても、それが南太平洋かティレニア海かイギリス海峡かを正確に言い当てることができるだろう。タイトル(固有名詞)にはまっとうな意味があるのだ。最初はただの機知に支えられた作品かと思ったが、永遠の中の一瞬を切り取るという行為がもっている宗教性のようなものを感じずにはいられない作品である。それと似た感覚は、トーマス・シュトゥルートの「渋谷交差点、東京」(1991)を前にしても感じる。あの渋谷駅前の広場にカメラを据えて撮った大判の作品で、たくさんの通行人一人一人の顔が判別できる。実に鮮明な画像なので、カメラは三脚でしっかりと固定されているに違いない。だからまったく同じ構図で何枚も撮影されたうちの一枚だろう。たくさんの人生がその日たまたま渋谷の交差点で接近したその一瞬を捉えた作品だ。眺めていると、愛しさとでも名づけるほかないような感情がこみ上げてくる。ソートン・ワイルダーの戯曲『わが町』の中で、死んだ女性が幽霊(他者には見えない)になって自分が生きていた頃の町の戻ってきて人々の生活を眺める場面があるが、たぶん彼女もこんな気持ちだったのではなかろうか。売店でカタログを購入し、11階のレストランでガトーショコラと紅茶で一休みしてから、駅までの道を戻った。帰りは千葉発の電車なので、座れることは間違いなかったが、やはりグリーン車を利用した。車中ではずっと『ゴールデンスランバー』を読んでいた。
昼食は「鈴文」で。朝食抜きで、開店時間の11時半に行ったら、すでに3人先客がいた。ランチのとんかつ定食を注文して、持参した伊坂幸太郎『ゴールデンスランバー』を読む。しだいに客が増え、私が食べ終わる頃にはほぼ満席になった。支払いのとき、店員さんに「繁盛ですね。みんな待ちかねていたんですよ」と言ってみた。ご主人には直接言いにくいので、間接的に言ってみたのである。他の客たちが思っていることを代弁したつもりでもあった。
食後の珈琲を「シャノアール」で飲みながら1時間ほど読書。さて、これからどうしよう。自宅に戻って読書というのにはもったいない晴天だったので、電車に乗って少し遠出をしてみようと思った。そうすれば電車の中でしばらく本が読める。移動と読書、一石二鳥だ。神奈川県立美術館(鎌倉)か、千葉市立美術館(千葉)、どちらかにしようと考えて、後者に決める。京浜東北線で品川まで行き、そこから横須賀線+総武線快速で千葉まで行く。ゆったり読書がしたかったのでグリーン車を利用。休日のグリーン券は550円(乗車前購入)。「ルノアール」のブレンド珈琲と同じくらいだ。私は戦後派だが、親が戦中派なので、子どもの頃から「贅沢は敵だ」という家庭環境の中で育ってきた。しかし、先月、雀宮(宇都宮の一つ手前)にいる友人を訪ねたときに普通車グリーン車を使って味をしめたのである。もう非グリーン車的生活には戻れそうにない。
千葉市立美術館は千葉駅東口から徒歩15分ほどのところにある。中央区役所と合体したビルは、区役所側から入るか、美術館側から入るかで、様相を異にする。前者は機能的で後者は装飾的だ。現在開催中(12月14日まで)の展覧会は「国立美術館所蔵による20世紀の写真」。東京都写真美術館の「ヴィジョンズ・オブ・アメリカ」展で見た作品と同じものが何点か展示されている。同じ作品が同時に異なる場所に存在するのは複製芸術である写真ならではである。アンドレ・ケルテス、ドロシア・ラング、ウォーカー・エンバスンらの作品の前でやはり足が止まる。芸術としての写真と記録としての写真の融合を実現した写真家たちの作品だ。初めて見る作品では、杉本博司の海の写真に強く惹かれた。「南太平洋、マラエヌイ」「ティレニア海、コンカ」「イギリス海峡、ウェストン・クリフ」と題された3作品なのだが、ちょっと目にはまったく同じものに見える。中央に水平線が配置され、空は平坦に白く、海は平坦に黒い。タイトル(固有名詞)を付けることが一種の皮肉にさえみえる。しかし、よく見ると、海の表面のあるかないかの波の模様が違う。一度それに気づけば、ランダムに3つの作品を示されても、それが南太平洋かティレニア海かイギリス海峡かを正確に言い当てることができるだろう。タイトル(固有名詞)にはまっとうな意味があるのだ。最初はただの機知に支えられた作品かと思ったが、永遠の中の一瞬を切り取るという行為がもっている宗教性のようなものを感じずにはいられない作品である。それと似た感覚は、トーマス・シュトゥルートの「渋谷交差点、東京」(1991)を前にしても感じる。あの渋谷駅前の広場にカメラを据えて撮った大判の作品で、たくさんの通行人一人一人の顔が判別できる。実に鮮明な画像なので、カメラは三脚でしっかりと固定されているに違いない。だからまったく同じ構図で何枚も撮影されたうちの一枚だろう。たくさんの人生がその日たまたま渋谷の交差点で接近したその一瞬を捉えた作品だ。眺めていると、愛しさとでも名づけるほかないような感情がこみ上げてくる。ソートン・ワイルダーの戯曲『わが町』の中で、死んだ女性が幽霊(他者には見えない)になって自分が生きていた頃の町の戻ってきて人々の生活を眺める場面があるが、たぶん彼女もこんな気持ちだったのではなかろうか。売店でカタログを購入し、11階のレストランでガトーショコラと紅茶で一休みしてから、駅までの道を戻った。帰りは千葉発の電車なので、座れることは間違いなかったが、やはりグリーン車を利用した。車中ではずっと『ゴールデンスランバー』を読んでいた。