フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

12月7日(日) 晴れ

2008-12-08 03:13:47 | Weblog
  昨夜は帰宅してからもずっと伊坂幸太郎『ゴールデンスランバー』を読んでいた。それでフィールドノートの更新もできなかった。今日も朝食(ベーコンエッグ、トースト、紅茶)をとりながら続きを読み、ようやく昼前に読み終えた。とてつもなく巨大な闇の組織の工作によって首相暗殺の犯人に仕立てられた平凡な一人の青年が、大学時代の友人をはじめとする市井の人達のサポートを得て、逃亡する話だ。子どもの頃に毎週観ていた、デビッド・ジャンセン主演の『逃亡者』というドラマを思い出す。あのドラマの主人公、リチャード・キンブルが全米に広がる警察の捜査の網の目からなんとか逃亡を続けられたのは、彼の人柄を信頼する人達のサポートがあったからだった。『ゴールデンスランバー』の主人公、青柳雅春の場合も「彼は真犯人ではない」と信じる人達のサポートが存在するが、『逃亡者』の場合と違うのは、『逃亡者』では120話に及んだ逃避行は断続的な個別的サポートによって維持されていたのに対して、『ゴールデンスランバー』の逃亡劇の山場は最初の2日間で、そこに当初は個別的であったサポートがいつしか地下組織的なネットワークを形成し、監視社会のシステムと対抗するという、一種のカーニヴァル的なもりあがり(最後には花火まで打ち上げちゃうのだ)が見られたことだろう。一言でいえば、ヒューマニズムとエンターテーメントを兼ね備えたミステリー小説だ。死人は出るが、後味は悪くない。
  フィールドノートの更新をすませてから昼食(卵焼き、キンピラ牛蒡、ホウレン草の胡麻和え、豆腐となめこの味噌汁、ご飯)。昨日遠出をしたので、今日は外出はなし。

  夜、もりまりこの歌集『ゼロ・ゼロ・ゼロ』を読む。以前、穂村弘の歌論『短歌の友人』をフィールドノートで紹介したとき、その中に彼女の歌が出てきた。こんな歌だ。

    まちがい電話の声さえ欲しがってるから言いそう「待ってた」って

  穂村はこの歌を、他者を激しく希求している歌の例としてあげたのだが、私はそれに対して、この歌は他者を激しく希求すると同時に他者を激しく拒絶している、だからこそ苦しいのだと解釈した。この場合、他者には二通りあり、希求されている他者は大澤真幸がいうところの「他者性抜きの他者」(自分の思い通りになり、自分を丸ごと受け入れてくれる他者)であり、拒絶されているところの他者は「他者性の強い他者」(自分の思い通りにならない他者)である。穂村のいう歌人(現代人)が陥っている「酸欠状態」の苦しさの理由を社会学的に解釈してみせたわけだが、このときのブログをもりまりこさんが読まれていて、先日、メールをくださった。私の示した解釈がずっと頭の中でぐるぐる回っていたが、そうか、そういうことだったのかと、「酸欠状態」がいくらか緩和されましたという内容のメールだった。私は恐縮した。恐縮というのはこういうときにこそ使う言葉だと思う。美術館で連れに目の前の絵の説明をしていたら後ろにその絵を描いた画家が立っていた、みたいなものである。思わずその場で気絶したフリでもしたくなってしまう。私の場合は、気絶するフリをするかわりに、もりまりこさんの歌集(デビュー作)を購入したわけである。

    明日の天気がどうであれ死んでしまう人もいるんだと気づいて

    あらかじめ失われたままの姿で生きてきたのだからいっそ愛して

    誰かの前で裸になるということは運命と手を繋いでいることだと

    膝を抱える形からはじめてみよう 頑なな卵になったつもりで

    今日は育ちのいい雲がでてます もうどこの誰にも似てない形