フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

12月18日(木) 晴れ

2008-12-19 10:47:58 | Weblog
  8時、起床。ハムトーストと紅茶の朝食。フィールドノートの更新をしてから、大学へ。早稲田に着いて、ファミリーマートで昼食用のおにぎり3個(たらこ、昆布、梅干)を購入。今日は昼休みの時間を研究室で過ごす。3限の大学院の演習は、T君の報告を聞いた後、「カフェゴトー」に場所を移しておしゃべり。1年の終わりという意味もあるが、このあと成田に向かい3月中旬まで南米を旅するT君の送別も兼ねている。珈琲とケーキの送別会だ。
  新宿武蔵野館で中西健二監督作品『青い鳥』を観た。ある中学校でいじめを受けていた生徒が自殺未遂をし、転校していった。休職した担任教師の代役で教育委員会から村内という教師(阿部寛)が派遣されてくる。彼は、転校した生徒のことを忘れてはいけないと、彼の机と椅子を教室の元の場所に戻し、毎朝、「おはよう」と声をかける。生徒たち、親たち、教師たちの間に動揺が走る・・・。阿部寛の主演ということで期待して観たが、実際、佳作とは思うが(とくにいじめた側の生徒の一人を演じた本郷奏多の繊細な演技が光る)、帰りがけにプログラムを購入するには至らなかった。なぜだろうと考えて、それはたぶん私が阿部寛演じる吃音の国語教師の行動やまなざしに一種の狂気を感じたからだと思う。生徒会の役員の会合のとき、彼が「みんな間違っている」と強い口調で語るシーンがある。「みんな間違っている」という判定と、自分の考えは正しいという認識は表裏一体である。そうした彼の認識は、映画の中では、彼が過去に教え子をいじめが原因の自殺(おそらく校舎の屋上から身を投げたのだろう)によって失っていることに由来するものとして描かれている。彼は辛い経験をし、苦しみ抜き、教師は生徒とどう向き合うべきなのかという彼なりの信念をもつにいたったのだ。なるほど、彼はそんじょそこらの教師とは違う。しかし、トラウマチックな経験とある信念が結びつくとき、私はそこに怖さを感じる。トラウマチックな経験には、愛情と同じで、その人の言動を正当化する作用がある。そうした経験のない人間にはその人の言動を批判することがはばかられる。つまりトラウマチックな経験が権力の源泉になってしまうのだ。重松清の原作(小説)では、最後、村内が生徒たちに事件についての反省文(それは教師たちの指導の下で書かされたものである)の書き直しを促し、全員が自分の言葉で反省文を書き直すという「感動的な」場面で終る。しかし、映画では、その場面は、書き直す生徒もいれば、その必要を感じず自習を始める生徒もいる、というふうに描かれていた。非ドラマチックな修正であるが、それは村内を必要以上にヒーロー化しないということであり、原作よりも映画に奥行きを与える効果があったと思う。
  夜、『風のガーデン』の最終回を観た。脚本、演出、役者の演技、どれも素晴らしい。堪能した。とくに主要な登場人物の一人一人に最後の見せ場を作る倉本のいつもながらの配慮には感心した。1月から同じ時間帯で、今度は、山田太一のドラマが始まるという。至福というほかはない。