お昼近く、傘を差して散歩に出る。朝食兼昼食は「鈴文」のとんかつ定食。「減量するんじゃなかったのか?」と自問し、「キリがいいから月曜日から始めよう」と自答する。週の始まりを日曜とするか月曜とするか、議論の分かれるところだが、私は月曜派なのだ。
「シャノアール」で食後の珈琲。とんかつの後は珈琲以外には考えられない。緑茶でも紅茶でもダメだ。クリームソーダでもダメだ。持参した吉本隆明「自立の思想的根拠」を読む。昨日読んだ小中陽太郎『市民たちの青春 小田実と歩いた道』の中に、「当時の思想状況を考えれば、学生のうち全学連反主流派の革命的共産主義者同盟(革共同)を支持した吉本隆明の『自立の思想的根拠』は多くの学生の教科書となった」と書いてあったからである。関西学院大学での講演(1967年10月29日)を録音テープから復元したもので、講演というものの性質上、論理展開の緻密さには欠けるものの、言わんとしていることはよくわかる。知識人の役割を論じた部分がとくに興味深かった。彼はまず当時広く流布していた知識人イメージを批判する。
「知識人というのは、農村の出身であれ都市の出身であれ、小市民性というものをもっていて、小市民性というのはなにかといいますと、現在の階級対立、ブルジョワジーとプロレタリアートの階級対立のなかで動揺常なき存在であり、あるいは動揺を逃れるためにいっさい階級的な対立というものに眼をつぶってしまう、そういう存在であるというような、そういう理解の仕方というものが、知識人に対して行なわれうるわけです。そしてそういう前提にたって、知識人の役割というようなものが、つまりそういう課題というものが提起されるわけです。・・・(中略)・・・それはサルトルがよく象徴しているように、さまよえるユダヤ人といいますか、つまり永久的な同伴者というような、つまり階級対立に対して永久的な同伴者として存在するというような機能が最大限の役割であって、階級対立を解消するための、真の主役というものは依然として労働階級というものにあり、知識人はそれにたいして直接的になんの加担もできず、なんの主体性、主導性というものももちえないというようになります。しかるがゆえに、労働者階級の理念にたいして、あるいは労働者階級の理念を象徴すると称する政治勢力にたいして永久的に同伴者の立場でいくのが、知識人のもっとも高度な政治的役割であるというような見解に陥っていくわけです。しかし、こういう見解というものは他立的なものです。それでは労働者階級あるいは労働者階級を象徴している政治的な諸潮流と称するものが存在し、それの動向がきまらなければ、知識人の動向はきまっていかないのです。それはまさに、現在、市民主義運動というものが、ベトナム戦争反対運動で展開している考え方に最大の典型をみいだすことができます。」(「吉本隆明全著作集14」112-113頁)
一般に近代日本の知識人は学校制度の中で学問的立身出世を成し遂げた人々であるが、大正期から昭和戦前期・戦後復興期に社会主義の思想に遭遇した彼らは、自身の出身階層が上層であればそのことに後ろめたさを感じ、また自身の出身階層が下層であればそこから自分ひとりが脱出してきたことに後ろめたさを感じた。そうした後ろめたさの感覚が労働者・大衆に対するある種の卑屈なスタンスとなって日本の知識人たちを吉本のいう同伴者的・他立的存在たらしめてきたのである。そういう下地があるからこそ、戦前のある時期、福本イズム(マルクスの論文をドイツ語で読む能力のある知的エリート=前衛が大衆を引っ張っていく)が知識人やその予備軍(大学生)の間で一世を風靡するという現象も生まれることになる。吉本もまた知識人の地位を労働者・大衆から分離・独立させ、その高峰に、福本和夫とは別のルートを辿って、知識人予備軍を導こうとしている。
「知識人というものを、大衆の生活共同体からの知的な上昇過程というふうにかんがえていきますと、知識人というものの自然過程の像というものがえられます。ところが、知識人というものは、それでもって規定しつくせるかというふうにかんがえていきますと、けっしてそうではないので、本質概念としては、知識人という問題は自然過程ではなくて、意識的な過程というものを包括したときにはじめて知識人概念というものがえられるわけです。大衆の原型というものを想定しますと、日常当面する問題についてしかかんがえない存在です。たとえば魚屋さんならば魚を明日どうやって売ろうかというような問題しか考えないわけです。それで、どうやって売ろうか、こうやって売ってまずかったら、それじゃこうしようじゃないかというような問題を考える、つまり生活のくりかえしのなかでおこってくる問題のみをかんがえるというようなものを、大衆の原像、ユニットというふうにかんがえていきますと、そのユニットというものが、そのユニットを保ちながら現在どういうふうに変化しているかということ、そういう問題を知識人が知的な上昇の地点からたえずじぶんの思考の問題としてくりこむというような課題を、意識的な過程として知識人はもっているわけです。これはけっして、知識人が労働者のそばへいって、なんか応援するとか、じぶんがなっぱ服を着て労働者のまねごとをしてみるとか、そういうことではないわけで、いかにして大衆のもっている原イメージというものをじぶんの知識的な課題としてくりこむことができるかというような、そういう課題を、たえずもつことを意味します。」(119頁)
私がこの部分を読んで思ったのは、吉本はマルクスの影響を受けているだけではなくて、多分にフロイトの影響も受けているなということだった。フロイトの図式を用いれば、「魚屋さん」に象徴される大衆とはイド(無意識)のことであり、知識人とは自我である。自我は無意識のエネルギーを冷静に分析し、社会の発展(人格の向上)に向けてそれを導いていかなくてはならない、そういうことである。もちろん「魚屋さん」とて魚を明日どう売ってやろうかということばかり考えているわけであるまい。家族のことも考えているでろうし、レジャーのことも考えているであろうし、ときどき買い物に来る美人のお客さんのことも考えているであろう。そういうものも全部含めて吉本は日常当面する問題といっているのである。そうした日常当面する問題に埋没しているというか、即自的に対応しているのが大衆で、知識人の仕事はそれを意識的に自分の思考の中に取り込むことであると。そう考える吉本から見れば、小田実らの「べ平連」の活動は、福本イズムに対する山川イズム(大衆の中へ!)の現代版で、大衆迎合的=情況的なものに映ったに違いない。
「すこし感覚的ないいかたをしますと、ある時代というものは、ある精神の位相にじぶんがたちますと、そのひとが好むと好まざるとにかかわらず、現実の情況の問題、社会の問題、あるいは世界の問題というものがいやおうなしにその位相に覆いかぶさってくるというような、そういう位相がからなず存在いたします。そういう位相を発見し、そこに身を置いて避けることをしないということを、つまり逃亡することをしないというような、そういう課題が、知識人の総体的な課題として存在するのです。その課題から逃亡するために、ベトナム戦争に反対するというようなお祭をすることじゃない。そういうことじゃないんです。」(120頁)
講演の最後に、吉本は聴衆(大学生)に向って、次のように語っている。
「おそらく皆さんは、じぶん自身を知識人じゃないとかんがえているかもしれません。けれど、ぼくのいう知識人という本質概念からすれば、皆さんはあきらかに知識人なんです。なぜなら、日常食って生活して、また労働力を再生産してというだけじゃなくて、余計なことを考えているわけですから。」(121頁)
「余計なこと」とは日常生活の外側に存在する問題のことである。1960年代後半の大学はすでに大衆化しつつあったけれども(だから清水幾太郎は1969年いっぱで定年を待たずして学習院大学を去ったのである)、「余計なこと」を考えるゆとりがあったという意味ではまだまだ有閑階級であったのだ。
川崎のビッグカメラ(ラゾーナ内)に出かけて、ミニノートPCを見ていたら(やはり興味があるのだ)、ASUSのEeePCの旧モデル(4G)が3万円を切る値段で売られていたので、これなら買っても損はないだろうと、購入する。蒲田に戻り、ツヤタでパフュームとバンプ・オブ・チキンのCDをレンタルする。
「シャノアール」で食後の珈琲。とんかつの後は珈琲以外には考えられない。緑茶でも紅茶でもダメだ。クリームソーダでもダメだ。持参した吉本隆明「自立の思想的根拠」を読む。昨日読んだ小中陽太郎『市民たちの青春 小田実と歩いた道』の中に、「当時の思想状況を考えれば、学生のうち全学連反主流派の革命的共産主義者同盟(革共同)を支持した吉本隆明の『自立の思想的根拠』は多くの学生の教科書となった」と書いてあったからである。関西学院大学での講演(1967年10月29日)を録音テープから復元したもので、講演というものの性質上、論理展開の緻密さには欠けるものの、言わんとしていることはよくわかる。知識人の役割を論じた部分がとくに興味深かった。彼はまず当時広く流布していた知識人イメージを批判する。
「知識人というのは、農村の出身であれ都市の出身であれ、小市民性というものをもっていて、小市民性というのはなにかといいますと、現在の階級対立、ブルジョワジーとプロレタリアートの階級対立のなかで動揺常なき存在であり、あるいは動揺を逃れるためにいっさい階級的な対立というものに眼をつぶってしまう、そういう存在であるというような、そういう理解の仕方というものが、知識人に対して行なわれうるわけです。そしてそういう前提にたって、知識人の役割というようなものが、つまりそういう課題というものが提起されるわけです。・・・(中略)・・・それはサルトルがよく象徴しているように、さまよえるユダヤ人といいますか、つまり永久的な同伴者というような、つまり階級対立に対して永久的な同伴者として存在するというような機能が最大限の役割であって、階級対立を解消するための、真の主役というものは依然として労働階級というものにあり、知識人はそれにたいして直接的になんの加担もできず、なんの主体性、主導性というものももちえないというようになります。しかるがゆえに、労働者階級の理念にたいして、あるいは労働者階級の理念を象徴すると称する政治勢力にたいして永久的に同伴者の立場でいくのが、知識人のもっとも高度な政治的役割であるというような見解に陥っていくわけです。しかし、こういう見解というものは他立的なものです。それでは労働者階級あるいは労働者階級を象徴している政治的な諸潮流と称するものが存在し、それの動向がきまらなければ、知識人の動向はきまっていかないのです。それはまさに、現在、市民主義運動というものが、ベトナム戦争反対運動で展開している考え方に最大の典型をみいだすことができます。」(「吉本隆明全著作集14」112-113頁)
一般に近代日本の知識人は学校制度の中で学問的立身出世を成し遂げた人々であるが、大正期から昭和戦前期・戦後復興期に社会主義の思想に遭遇した彼らは、自身の出身階層が上層であればそのことに後ろめたさを感じ、また自身の出身階層が下層であればそこから自分ひとりが脱出してきたことに後ろめたさを感じた。そうした後ろめたさの感覚が労働者・大衆に対するある種の卑屈なスタンスとなって日本の知識人たちを吉本のいう同伴者的・他立的存在たらしめてきたのである。そういう下地があるからこそ、戦前のある時期、福本イズム(マルクスの論文をドイツ語で読む能力のある知的エリート=前衛が大衆を引っ張っていく)が知識人やその予備軍(大学生)の間で一世を風靡するという現象も生まれることになる。吉本もまた知識人の地位を労働者・大衆から分離・独立させ、その高峰に、福本和夫とは別のルートを辿って、知識人予備軍を導こうとしている。
「知識人というものを、大衆の生活共同体からの知的な上昇過程というふうにかんがえていきますと、知識人というものの自然過程の像というものがえられます。ところが、知識人というものは、それでもって規定しつくせるかというふうにかんがえていきますと、けっしてそうではないので、本質概念としては、知識人という問題は自然過程ではなくて、意識的な過程というものを包括したときにはじめて知識人概念というものがえられるわけです。大衆の原型というものを想定しますと、日常当面する問題についてしかかんがえない存在です。たとえば魚屋さんならば魚を明日どうやって売ろうかというような問題しか考えないわけです。それで、どうやって売ろうか、こうやって売ってまずかったら、それじゃこうしようじゃないかというような問題を考える、つまり生活のくりかえしのなかでおこってくる問題のみをかんがえるというようなものを、大衆の原像、ユニットというふうにかんがえていきますと、そのユニットというものが、そのユニットを保ちながら現在どういうふうに変化しているかということ、そういう問題を知識人が知的な上昇の地点からたえずじぶんの思考の問題としてくりこむというような課題を、意識的な過程として知識人はもっているわけです。これはけっして、知識人が労働者のそばへいって、なんか応援するとか、じぶんがなっぱ服を着て労働者のまねごとをしてみるとか、そういうことではないわけで、いかにして大衆のもっている原イメージというものをじぶんの知識的な課題としてくりこむことができるかというような、そういう課題を、たえずもつことを意味します。」(119頁)
私がこの部分を読んで思ったのは、吉本はマルクスの影響を受けているだけではなくて、多分にフロイトの影響も受けているなということだった。フロイトの図式を用いれば、「魚屋さん」に象徴される大衆とはイド(無意識)のことであり、知識人とは自我である。自我は無意識のエネルギーを冷静に分析し、社会の発展(人格の向上)に向けてそれを導いていかなくてはならない、そういうことである。もちろん「魚屋さん」とて魚を明日どう売ってやろうかということばかり考えているわけであるまい。家族のことも考えているでろうし、レジャーのことも考えているであろうし、ときどき買い物に来る美人のお客さんのことも考えているであろう。そういうものも全部含めて吉本は日常当面する問題といっているのである。そうした日常当面する問題に埋没しているというか、即自的に対応しているのが大衆で、知識人の仕事はそれを意識的に自分の思考の中に取り込むことであると。そう考える吉本から見れば、小田実らの「べ平連」の活動は、福本イズムに対する山川イズム(大衆の中へ!)の現代版で、大衆迎合的=情況的なものに映ったに違いない。
「すこし感覚的ないいかたをしますと、ある時代というものは、ある精神の位相にじぶんがたちますと、そのひとが好むと好まざるとにかかわらず、現実の情況の問題、社会の問題、あるいは世界の問題というものがいやおうなしにその位相に覆いかぶさってくるというような、そういう位相がからなず存在いたします。そういう位相を発見し、そこに身を置いて避けることをしないということを、つまり逃亡することをしないというような、そういう課題が、知識人の総体的な課題として存在するのです。その課題から逃亡するために、ベトナム戦争に反対するというようなお祭をすることじゃない。そういうことじゃないんです。」(120頁)
講演の最後に、吉本は聴衆(大学生)に向って、次のように語っている。
「おそらく皆さんは、じぶん自身を知識人じゃないとかんがえているかもしれません。けれど、ぼくのいう知識人という本質概念からすれば、皆さんはあきらかに知識人なんです。なぜなら、日常食って生活して、また労働力を再生産してというだけじゃなくて、余計なことを考えているわけですから。」(121頁)
「余計なこと」とは日常生活の外側に存在する問題のことである。1960年代後半の大学はすでに大衆化しつつあったけれども(だから清水幾太郎は1969年いっぱで定年を待たずして学習院大学を去ったのである)、「余計なこと」を考えるゆとりがあったという意味ではまだまだ有閑階級であったのだ。
川崎のビッグカメラ(ラゾーナ内)に出かけて、ミニノートPCを見ていたら(やはり興味があるのだ)、ASUSのEeePCの旧モデル(4G)が3万円を切る値段で売られていたので、これなら買っても損はないだろうと、購入する。蒲田に戻り、ツヤタでパフュームとバンプ・オブ・チキンのCDをレンタルする。