8時半、起床。9時に近所の耳鼻科に診察券を出しに行く。すでに前に10人ほどいるということで(これは予想していた)、診察券だけ出して一旦自宅に戻り、朝食をとり、部屋の片付けなどをしてから、1時間後に再び耳鼻科へ。目算を少々誤り、すでに名前を呼ばれていた。少し待ってから、診察室へ。帯状疱疹が疑われた左耳は、外耳道や鼓膜の赤味もだいぶ薄くなっていて、これなら心配いらないでしょうとのこと。元々、帯状疱疹に特有のピリピリした痛みもないので、たぶん単純な外耳炎だったのではないかと思う。月曜日にジムへ行ったとき、シャワーを浴びて(そのとき耳の中によく水が入るのである)すぐに寒い戸外へ出たのが原因ではなかろうか。症状は改善されたものの、例の高額の抗ウィルス剤をあと数日服用するよう処方される(成人の帯状疱疹では7日間の服用がセオリーなのだそうである)。思わぬ散財だ。
昼食は「鈴文」で。今年のとんかつの食べ納めである。年内の営業は29日のランチまで、新年は3日からとのこと。ご主人に「よいお年を。来年もよろしくお願いします」と挨拶すると、満面の笑みで応えてくれた。8月にご主人の体調不良で閉店となったときは、もう二度と「鈴文」のとんかつを食べることはできないのだと思っていた。望外の幸せというのはこういうことをいうのだろう。
昼過ぎ、昨日注文した液晶テレビとブルーレイーディスクプレーヤーを届けに電気屋さんがやってきた。店長と2人の店員(一人は店長の息子さん、もう一人は店長の弟さん)でテキパキと搬入、設置の作業を進める。これまで私の書斎のTVに付けていたケーブルテレビのチューナーを新しいTVに付け替えてもらう。いままでリビングにあったTVは1階の母の和室へ。その和室にあったTVは1階のダイニングキッチンへ。店長さんは大変お若くみえるが来年70歳と聞いてびっくりする。60歳前後だと思っていた。同様に、20代後半くらいと思っていた息子さんも37歳と聞いてびっくりした。若く見える家系なのだろう。このあとに行く家はアンテナの設置の作業があり(私の家はケーブルテレビなのでアンテナはない)、それも勾配のきつい滑りやすい屋根なのでいまから緊張していますとのこと。落ちたことはあるのですかと尋ねたら、もし落ちていたらこうして仕事はしていませんと笑っておられた。実際、落ちて亡くなる同業者もいるとのこと。どうぞお気をつけてと見送る。さっそくデジタル放送を観てみる。やはり綺麗だ。アナログ放送も観ることができるが、液晶画面でアナログ放送を観ると従来のTVより画像が荒くなる。わざわざこちらで観る人はいないだろうと思うが、デジタル放送の美しさを再確認するために観るのかもしれない。ツヤタで借りておいた『かもめ食堂』のDVDを観た。液晶テレビ+ブルーレイディスクプレーヤーのシステムで観る最初のDVDだ。映像も綺麗だが、画面の横幅があるので映画らしい感じがするのがいい。
夕方、DVDの返却がてら散歩に出る。駅ビル西館のパン屋で食パンを、無印良品でスタンドファイルボックス(3個)を購入し、「カフェドクリエ」で一時間ほど読書。メアリー・C・ブリントン『失われた場を探して ロストジェネレーションの社会学』(NTT出版)。筆者はハーバート大学ライシャワー研究所教授で、30年以上にわたって日本社会を研究のフィールドにしている。最近、久しぶりに東京にやってきて、最初は、「意外なことに、なにも変わっていないように見えた」という。しかし・・・、
「ある訪問先に向かうために東京の地下鉄に乗ったとき、はじめて気づいた。
なにかがおかしい。
このとらえどころのない居心地の悪さはなんなのだろう。
しばらく考えて、ようやく思い当たった。地下鉄の車内がやけに静かなのだ。他愛のないおしゃべりの声も聞こえないし、ほかの乗客と視線が合うこともない。誰も彼もが黙りこくって携帯電話をいじり、ちっぽけな画面を見つめている。最新の携帯電話でゲームに没頭し、自分の世界に入り込んでいるのだろうか。あるいは、同じように静かな電車の中や、混み合った街中やオフィスにいる誰かに、携帯メールを打っているのだろうか。そのどちらにしろ、自分のすぐそばの人たちと人間らしい接触もなく会話もない静まり返った車内の光景に、私は強烈な違和感を覚えた。
ここには「場」がない。
周囲の空間や人々との結びつきがない。
とても奇異な感じがした。
「それがどうした」と言われるかもしれない。たしかに、まわりの空間や人間との深い結びつきを失いつつあるのは、日本人だけではない。東京の声なき地下鉄で私が感じた違和感は、世界中で起きている現象の一つのシンボルにすぎない。私たちは、テクノロジーを介してほかの人と結びつくようになって、足元や周囲の現実と結びつきをなくしはじめているように見える。
しかし日本の社会にとっての「場」の喪失は、アメリカやその他の先進国とはまったく違う意味をもっている。・・・(中略)・・・日本の社会では、学校や職場、家庭生活などの安定した「場」に属することが人々のアイデンティティーや経済的な成功、心理的な充足感の源泉としてきわめて重要な意味をもってきた。日本人にとって、「場」の喪失がもつ意味は大きい。」(6-8頁)
社会学の用語で、人が学校・職場・家庭・地域社会といった集団から離脱していく、あるいは排除されていく過程を「個人化」と呼ぶ。この個人化という現象は、不登校や学級崩壊の広がり、失業者や非正規雇用者の増加、未婚率や離婚率の上昇、町内会・自治会の機能低下という形で現われているが、子どもから大人の世界へ移行途中の若者たちにとって、とくに深刻な影響があるとブリントンは考える。日本人の人生というものは、高度成長期を中心として、「場」から「場」への移行として標準化(パターン化)されていたが(卒業→就職→結婚→子どもの誕生)、近年、その仕組みが崩れることによって、経済的な面だけでなく、心理的な面においても人々は不安にさらされている。ブリントンが焦点をあてている「ロストジェネレーション」とは、日本社会の仕組みが大きく変化した1990年代に子どもから大人への移行の途上にあった世代(現在、20代後半から30代後半の世代)のことであり、彼らは寄る辺なき漂流者である。まったく新しい社会環境の中で、彼らが如何に悪戦苦闘しているか、如何に適応しようとしているか、そして彼らのために(=それはわれわれのためにでもある)どのような政策が必要で有効なのかをブリントンは論じている。ゼミで取り上げる文献のリストに加えることにしよう。

町の電気屋さん
昼食は「鈴文」で。今年のとんかつの食べ納めである。年内の営業は29日のランチまで、新年は3日からとのこと。ご主人に「よいお年を。来年もよろしくお願いします」と挨拶すると、満面の笑みで応えてくれた。8月にご主人の体調不良で閉店となったときは、もう二度と「鈴文」のとんかつを食べることはできないのだと思っていた。望外の幸せというのはこういうことをいうのだろう。
昼過ぎ、昨日注文した液晶テレビとブルーレイーディスクプレーヤーを届けに電気屋さんがやってきた。店長と2人の店員(一人は店長の息子さん、もう一人は店長の弟さん)でテキパキと搬入、設置の作業を進める。これまで私の書斎のTVに付けていたケーブルテレビのチューナーを新しいTVに付け替えてもらう。いままでリビングにあったTVは1階の母の和室へ。その和室にあったTVは1階のダイニングキッチンへ。店長さんは大変お若くみえるが来年70歳と聞いてびっくりする。60歳前後だと思っていた。同様に、20代後半くらいと思っていた息子さんも37歳と聞いてびっくりした。若く見える家系なのだろう。このあとに行く家はアンテナの設置の作業があり(私の家はケーブルテレビなのでアンテナはない)、それも勾配のきつい滑りやすい屋根なのでいまから緊張していますとのこと。落ちたことはあるのですかと尋ねたら、もし落ちていたらこうして仕事はしていませんと笑っておられた。実際、落ちて亡くなる同業者もいるとのこと。どうぞお気をつけてと見送る。さっそくデジタル放送を観てみる。やはり綺麗だ。アナログ放送も観ることができるが、液晶画面でアナログ放送を観ると従来のTVより画像が荒くなる。わざわざこちらで観る人はいないだろうと思うが、デジタル放送の美しさを再確認するために観るのかもしれない。ツヤタで借りておいた『かもめ食堂』のDVDを観た。液晶テレビ+ブルーレイディスクプレーヤーのシステムで観る最初のDVDだ。映像も綺麗だが、画面の横幅があるので映画らしい感じがするのがいい。
夕方、DVDの返却がてら散歩に出る。駅ビル西館のパン屋で食パンを、無印良品でスタンドファイルボックス(3個)を購入し、「カフェドクリエ」で一時間ほど読書。メアリー・C・ブリントン『失われた場を探して ロストジェネレーションの社会学』(NTT出版)。筆者はハーバート大学ライシャワー研究所教授で、30年以上にわたって日本社会を研究のフィールドにしている。最近、久しぶりに東京にやってきて、最初は、「意外なことに、なにも変わっていないように見えた」という。しかし・・・、
「ある訪問先に向かうために東京の地下鉄に乗ったとき、はじめて気づいた。
なにかがおかしい。
このとらえどころのない居心地の悪さはなんなのだろう。
しばらく考えて、ようやく思い当たった。地下鉄の車内がやけに静かなのだ。他愛のないおしゃべりの声も聞こえないし、ほかの乗客と視線が合うこともない。誰も彼もが黙りこくって携帯電話をいじり、ちっぽけな画面を見つめている。最新の携帯電話でゲームに没頭し、自分の世界に入り込んでいるのだろうか。あるいは、同じように静かな電車の中や、混み合った街中やオフィスにいる誰かに、携帯メールを打っているのだろうか。そのどちらにしろ、自分のすぐそばの人たちと人間らしい接触もなく会話もない静まり返った車内の光景に、私は強烈な違和感を覚えた。
ここには「場」がない。
周囲の空間や人々との結びつきがない。
とても奇異な感じがした。
「それがどうした」と言われるかもしれない。たしかに、まわりの空間や人間との深い結びつきを失いつつあるのは、日本人だけではない。東京の声なき地下鉄で私が感じた違和感は、世界中で起きている現象の一つのシンボルにすぎない。私たちは、テクノロジーを介してほかの人と結びつくようになって、足元や周囲の現実と結びつきをなくしはじめているように見える。
しかし日本の社会にとっての「場」の喪失は、アメリカやその他の先進国とはまったく違う意味をもっている。・・・(中略)・・・日本の社会では、学校や職場、家庭生活などの安定した「場」に属することが人々のアイデンティティーや経済的な成功、心理的な充足感の源泉としてきわめて重要な意味をもってきた。日本人にとって、「場」の喪失がもつ意味は大きい。」(6-8頁)
社会学の用語で、人が学校・職場・家庭・地域社会といった集団から離脱していく、あるいは排除されていく過程を「個人化」と呼ぶ。この個人化という現象は、不登校や学級崩壊の広がり、失業者や非正規雇用者の増加、未婚率や離婚率の上昇、町内会・自治会の機能低下という形で現われているが、子どもから大人の世界へ移行途中の若者たちにとって、とくに深刻な影響があるとブリントンは考える。日本人の人生というものは、高度成長期を中心として、「場」から「場」への移行として標準化(パターン化)されていたが(卒業→就職→結婚→子どもの誕生)、近年、その仕組みが崩れることによって、経済的な面だけでなく、心理的な面においても人々は不安にさらされている。ブリントンが焦点をあてている「ロストジェネレーション」とは、日本社会の仕組みが大きく変化した1990年代に子どもから大人への移行の途上にあった世代(現在、20代後半から30代後半の世代)のことであり、彼らは寄る辺なき漂流者である。まったく新しい社会環境の中で、彼らが如何に悪戦苦闘しているか、如何に適応しようとしているか、そして彼らのために(=それはわれわれのためにでもある)どのような政策が必要で有効なのかをブリントンは論じている。ゼミで取り上げる文献のリストに加えることにしよう。

町の電気屋さん