7時半、起床。ピーマンの肉詰め、トースト、冷麦茶の朝食。フィールドノートを更新し、授業の準備をして、10時半に家を出て大学へ。
昼休みの時間、文化構想学部の1年生が2人、SさんとIさんが研究室にやってきた。2人はそれぞれ私の違う講義(「日常生活の社会学」と「現代人間論系総合講座」)を履修しているのだが、語学の授業が同じとのこと。今日は飛び込みではなく、事前にメールで面談の申し込みを受けていた。論系進級を念頭におきながら、話を聞いてみたい教員の研究室を訪問しているようだ。こういう積極さはいい(われわれが作成した基礎演習のガイドブックでも研究室訪問を勧めている)。面談とはいっても、堅苦しい話ではなく、授業にまつわる雑談のようなものである。先週の「日常生活の社会学」で電車内(公共空間)での人々の振る舞いを取り上げたのだが、Iさんは最近、電車のシートに座って千羽鶴を追っている50代くらいのサラリーマンを目撃したそうである。電車の中でする行為としては珍しいが、それを見たIさんは、きっと娘さんに頼まれて彼女の友人(難病で入院中)に贈るための千羽鶴を折っているのだろう、優しいお父さんだと考えたそうだ。なるほど、そういう物語を想像しますか。一方、Sさんも、電車で向かいのシートに座った人たちの人生について、どんな仕事をしているのだろう、どんな人と結婚してどんな家庭を築いていくのだろうと、想像をめぐらすことがよくあるという。儀礼的無関心が支配する空間の中で、偶然そこに居合わせた人々の頭の中では、活発な相互作用が展開しているのだ。一種の「想像の共同体」、いや、「妄想の共同体」というべきものである。
3限は講義「日常生活の社会学」。今日のテーマは「職場の中の相互作用」。NHKのTVドラマ「グッジョブ」の第一話を取り上げて、職場におけるジェンダー、そして感情労働について話をする。DVDの操作に少々手間取り、感情労働の話を展開させて、バラエティ番組「ザ・イロモネア」における「笑わない観客」の話にもっていきたかったのだが、これは割愛する。
4限は空き時間。最近できた教員ロビーの無人販売所でミニドーナツを購入(代金100円は箱に入れる)、自販機の紙コップの珈琲を飲みながら、授業で使う文献に目を通す。
5限は基礎演習のレポート指導。先週から始めたもので6、7人の小グループごとに研究室で行っている。強調している点は2つ。第一に、書き出しのところで、テーマについてちゃんと説明すること。具体的には、テーマの意味と、なぜそのテーマに君が関心をもったのかを、明晰に(前者)、そして熱く(後者)語ってくれということ。目を閉じて、百科事典を開いて、たまたまその頁に載っていた項目をテーマにしましたみたいなレポートだけは書くなということ。第二に、文献からの引用を上手に使うということ。引用をすれば字数をかせげるということもあるし、引用を使って、自分の考察に「はずみ」をつけることができる。自分の言いたいことを引用で代弁させるのではなく、引用した文章に「コメントをつける」ことで自分の思考に表現を与えるのである。当然のことだが、引用をするためにはまず文献を読まねばならない。読書の夏だ。
6限・7限はゼミ。教室に向う途中で教育学の山西先生と一緒になる。手にケーキらしきものの入った箱を提げているので「ケーキですか?」と尋ねると、「はい、今日が誕生日の学生がいるものですから」とのこと。えっ、そんなことまでやっているのですか! 私のゼミでも授業当日が誕生日という学生がいたことがあったが、「今日はNさん、誕生日だね」と私がアナウンスをして、みんなで「おめでとう」と拍手をしたが、それだけである。誕生日のケーキまでは考えが及ばなかった。社会学者と教育学者の違いというべきか。山西先生は私の2つ隣の教室を使ってゼミをしている。私のゼミもけっこう遅くまでやっているが、山西先生のゼミはさらに遅くまでやっている。「何時までやられているのですか?」と尋ねると、「10時過ぎになっちゃいますね」とのこと。わぉ!
今日のゼミの前半(発達心理学)はアタッチメントをテーマにした文献の報告。他の資料にもあたって文献のわかりずらい部分を補っていたところがよかった。課題文献は全員が事前に読んできているので、プラス・アルファがどれだけあるかが腕の見せ所なのである。ディスカッションは、育児や幼児教育について、経験的・実践的水準で(つまり自分が子どもの頃をふり返って、自分が親になったときのことを想定して)活発に行われた。
本日の甘味は今川焼き
後半の社会学のテキストの報告は、福祉がテーマ。テキストの内容をたんに圧縮した報告ではなく、自分の言葉に変換して「腑に落ちる」報告にしようと努めていたところがよかった。抽象度の高い文章を読む場合は、そういうことが大切である。ディスカッションは、自己決定をめぐる問題について、映画にもなった「余命一ヶ月の花嫁」のドキュメンタリー版を見ながら行なった。当初は番組の一部をみせるだけのつもりであったらしいが、それは無理というもので、どうしたって結婚式当日の場面まで見てしまう。9時半、終了。
これはまったくの余談だが(以下、R-18指定)、ゼミの学生の一人が郷里(鹿児島)の母親にゼミの様子を話したときに、私のブログのことも伝え、以来、その学生の母親は私のブログの読者になったのだが、5月20日の記事の中で、帰宅時間を知らせる私からのメールに対して、妻から「ラジャー」という返信があり、それに対して私が戯れに「ブ」を付けて返信したらなんのツッコミ(返信)もなかったというのを読んで、近所の奥さん仲間でこれにどういうツッコミ入れたらよいかを話合ったそうなのだ(暇だなあ)。その結果、「外して・・・」というのはどうかという結論に達したそうだ。はい、あると思います!(天津木村の口調できっぱりと)。
昼休みの時間、文化構想学部の1年生が2人、SさんとIさんが研究室にやってきた。2人はそれぞれ私の違う講義(「日常生活の社会学」と「現代人間論系総合講座」)を履修しているのだが、語学の授業が同じとのこと。今日は飛び込みではなく、事前にメールで面談の申し込みを受けていた。論系進級を念頭におきながら、話を聞いてみたい教員の研究室を訪問しているようだ。こういう積極さはいい(われわれが作成した基礎演習のガイドブックでも研究室訪問を勧めている)。面談とはいっても、堅苦しい話ではなく、授業にまつわる雑談のようなものである。先週の「日常生活の社会学」で電車内(公共空間)での人々の振る舞いを取り上げたのだが、Iさんは最近、電車のシートに座って千羽鶴を追っている50代くらいのサラリーマンを目撃したそうである。電車の中でする行為としては珍しいが、それを見たIさんは、きっと娘さんに頼まれて彼女の友人(難病で入院中)に贈るための千羽鶴を折っているのだろう、優しいお父さんだと考えたそうだ。なるほど、そういう物語を想像しますか。一方、Sさんも、電車で向かいのシートに座った人たちの人生について、どんな仕事をしているのだろう、どんな人と結婚してどんな家庭を築いていくのだろうと、想像をめぐらすことがよくあるという。儀礼的無関心が支配する空間の中で、偶然そこに居合わせた人々の頭の中では、活発な相互作用が展開しているのだ。一種の「想像の共同体」、いや、「妄想の共同体」というべきものである。
3限は講義「日常生活の社会学」。今日のテーマは「職場の中の相互作用」。NHKのTVドラマ「グッジョブ」の第一話を取り上げて、職場におけるジェンダー、そして感情労働について話をする。DVDの操作に少々手間取り、感情労働の話を展開させて、バラエティ番組「ザ・イロモネア」における「笑わない観客」の話にもっていきたかったのだが、これは割愛する。
4限は空き時間。最近できた教員ロビーの無人販売所でミニドーナツを購入(代金100円は箱に入れる)、自販機の紙コップの珈琲を飲みながら、授業で使う文献に目を通す。
5限は基礎演習のレポート指導。先週から始めたもので6、7人の小グループごとに研究室で行っている。強調している点は2つ。第一に、書き出しのところで、テーマについてちゃんと説明すること。具体的には、テーマの意味と、なぜそのテーマに君が関心をもったのかを、明晰に(前者)、そして熱く(後者)語ってくれということ。目を閉じて、百科事典を開いて、たまたまその頁に載っていた項目をテーマにしましたみたいなレポートだけは書くなということ。第二に、文献からの引用を上手に使うということ。引用をすれば字数をかせげるということもあるし、引用を使って、自分の考察に「はずみ」をつけることができる。自分の言いたいことを引用で代弁させるのではなく、引用した文章に「コメントをつける」ことで自分の思考に表現を与えるのである。当然のことだが、引用をするためにはまず文献を読まねばならない。読書の夏だ。
6限・7限はゼミ。教室に向う途中で教育学の山西先生と一緒になる。手にケーキらしきものの入った箱を提げているので「ケーキですか?」と尋ねると、「はい、今日が誕生日の学生がいるものですから」とのこと。えっ、そんなことまでやっているのですか! 私のゼミでも授業当日が誕生日という学生がいたことがあったが、「今日はNさん、誕生日だね」と私がアナウンスをして、みんなで「おめでとう」と拍手をしたが、それだけである。誕生日のケーキまでは考えが及ばなかった。社会学者と教育学者の違いというべきか。山西先生は私の2つ隣の教室を使ってゼミをしている。私のゼミもけっこう遅くまでやっているが、山西先生のゼミはさらに遅くまでやっている。「何時までやられているのですか?」と尋ねると、「10時過ぎになっちゃいますね」とのこと。わぉ!
今日のゼミの前半(発達心理学)はアタッチメントをテーマにした文献の報告。他の資料にもあたって文献のわかりずらい部分を補っていたところがよかった。課題文献は全員が事前に読んできているので、プラス・アルファがどれだけあるかが腕の見せ所なのである。ディスカッションは、育児や幼児教育について、経験的・実践的水準で(つまり自分が子どもの頃をふり返って、自分が親になったときのことを想定して)活発に行われた。
本日の甘味は今川焼き
後半の社会学のテキストの報告は、福祉がテーマ。テキストの内容をたんに圧縮した報告ではなく、自分の言葉に変換して「腑に落ちる」報告にしようと努めていたところがよかった。抽象度の高い文章を読む場合は、そういうことが大切である。ディスカッションは、自己決定をめぐる問題について、映画にもなった「余命一ヶ月の花嫁」のドキュメンタリー版を見ながら行なった。当初は番組の一部をみせるだけのつもりであったらしいが、それは無理というもので、どうしたって結婚式当日の場面まで見てしまう。9時半、終了。
これはまったくの余談だが(以下、R-18指定)、ゼミの学生の一人が郷里(鹿児島)の母親にゼミの様子を話したときに、私のブログのことも伝え、以来、その学生の母親は私のブログの読者になったのだが、5月20日の記事の中で、帰宅時間を知らせる私からのメールに対して、妻から「ラジャー」という返信があり、それに対して私が戯れに「ブ」を付けて返信したらなんのツッコミ(返信)もなかったというのを読んで、近所の奥さん仲間でこれにどういうツッコミ入れたらよいかを話合ったそうなのだ(暇だなあ)。その結果、「外して・・・」というのはどうかという結論に達したそうだ。はい、あると思います!(天津木村の口調できっぱりと)。