7時半、起床。
個人的には、今週から夏休み的日常生活に入る。
10時に予約している歯科医院へ。上の奥歯周辺の歯石の除去(下の奥歯周辺は来週)。歯間ブラシを怠ってきたせいで、奥歯周辺の歯茎が腫れ気味である。帰りにドラッグストアーで歯間ブラシを購入。歯間ブラシの習慣を夏休み的日常生活の一部とすること。
鶯谷の菩提寺に墓参りに行く。本来は先週に行くべきだったのだが、諸般の事情で今日になった。この暑さ故、母は留守番で、私一人で行く。
墓参りを済ませて、その足で大学へ。寺のそばに日比谷線の入谷の駅があり、入谷→茅場町(東西線に乗り換え)→早稲田というルートで行ける。神楽坂で途中下車して、「トンボロ」で朝食兼昼食をとる。
2年生の秋学期からアメリカに一年間留学し、この秋学期から3年ゼミの一員となるUさんが帰国の挨拶にやってくる。Uさんがいたのはシアトルで、シアトルは雨の多い都市として知られている。雨が多いと言ってもザーザー降りではなく、しっとりとした雨とかで、雨に濡れた木々は「シアトル・グリーン」と呼ばれているそうである。
ゼミでこれまでやってきたこと、これからやることを説明する。そうやってアカデミックに始まった面談は、なぜか最後はUさんの恋バナを聞いて終わる。不思議だが、こういうことはしばしばある。思うに、面談の途中、お茶とスイーツを出すあたりで、研究室的雰囲気からカフェ的雰囲気へスイッチが切り替わるのであろう。
春学期のクラス会補助費の領収証を整理して、事務所に持っていく。必修基礎演習と論系演習に付いている予算で、学生一人あたり500円。私はこれをお茶菓子代に使っている。ちょとしたお菓子でも、教室の空気をほぐして、ディスカッションがしやすい雰囲気を作る効果がある。500円の範囲で、学期中に数回そういうことができる。必修基礎演習では多くの教員がこの予算を活用しているが、論系演習の方はほとんど使われていない。知らないのだろうか。もったいない話である。
5時に仕事を終える。
帰宅の途中で「SKIPA」に寄る。夕方は少し風が吹いて、しのぎやすくなる。
とえあえずビールならぬ、とりあえず梅ソーダ。
今日は朝からトーストとお八つのスイーツしか食べていないので、小腹が減っている。ホットドッグとアイスチャイを注文。
宙太さんとのんちゃんは夏休みをのんちゃんの実家(新潟の寺泊)で過ごしたそうである。毎日温泉三昧だったそうだ。お土産の「しょうゆの実」というのをいただく。冷奴に掛けたり、キュウリに付けて食べると美味しいらしい。ありがとうございます。
「梅花亭」の麩饅頭と、「大野屋」の鯵フライとスコッチエッグを買って帰る。
月曜日は見ているTVドラマはない(今季の「月9」は早々に見切った)。
TVドラマを観ない日は、小説を読む。そういう形で物語を補充する。今夜はアニー・エルノー『シンプルな情熱』(早川書房、1993)を読んだ。いつかどこかの古本屋か古本市で100円で購入した本だ。フランスの著名な女性作家が自らの激しい恋の体験を描いた自伝的作品で、原作は1991年の刊行で、フランスでは記録的なベストセラーになった。激しい恋に落ちることは、個々人の人生においてはそうたびたび起こることではないが、世の中を広く見渡せばそこここで起きている出来事であり、それを描いた作品もたくさんある。この小説の特徴は、激しい恋に落ちるという経験を記述する、その記述の冷静さにあるだろう。
「昨年の九月以降、私は、ある男性を待つこと―彼が電話をかけてくるのを、そして家へ訪ねてくるのを待つこと以外、何ひとつしなくなった。なるほど私は、スーパーマーケットへも、映画館へも行ったし、衣類をクリーニング屋へ持って行きもした。読書も欠かさず、生徒たちのレポートや答案の添削・採点をすることも忘れなかった。以前と少しも変りなく動いていた。けれどもそれは、長い年月のうちに身についた習慣だからできたことで、そうでなかったら、よほど自分を鞭打たないかぎり不可能だったと思う。自分が惰性で生きていると感じたのは、とりわけ、人と話をしているときだった。個々の言葉や、それを連結した文、また笑いさへも、私の口をついて出るには出たが、これといった考えや意志には裏打ちされていなかった。それに私は、自分のしたこと、見た映画、会った人々を、ほんやりとしか記憶していなかった。おしなべて私の行動は、上っ面だけのものだった。自分の意志で、自分の願望にしたがって、人間j本来の知性ともいえる何か(先を見越すとか、プラス・マイナスや結果を推し量るとかいった能力)を働かせてした数少ない行為はことごとく、その男に関連していたい。」(8-9頁)
「私の情熱がどこから生まれてきたのかについては、私はその答えを、自分の人生の遠い過去の出来事、精神分析医なら私に再構成させるであろうような出来事や、最近の出来事に求める気はしないし、また、自分が子供の頃から今日までに影響をこうむった、感情のモデル(『風と共に去りぬ』や、ラシーヌ作の悲劇『フェードル』や、エディット・ピアフのシャンソンは、エディプス・コンプレックスと同じくらい決定的だ)のうちにも、見出そうとするつもりもない。私は、自分の情熱を説明したいのではなく―説明したいとすれば、それは取りも直さず、自分の情熱を、引き受けることを回避しなければならないようなひとつの錯誤もしくは変調とみなすことになろう―、単にさらけ出したいのだ。
たぶん考慮したほうがいい前提があったとすれば、それは物理的なこと、つまり、私が、自分の情熱を生きるための時間と自由に恵まれていたいということに尽きると思う。」(36-37頁)
自分の情熱を、説明したいのではなく、単にさらけ出したいのだということ、この下りを読んで、私はブログ仲間のTさんの先日のブログのことがすぐに頭に浮かんだ。