
『矛盾だらけの禅』は前回紹介しましたが、
コメントについては禅についてのエッセイで
あると書きそれで止まっていましたが、
スピチュアル系というだけで毛嫌いしたり、
もういんちきだと決め付けてしまいがちな世の中にちょっと
待ってくださいという意味でもう少し書いてみます。
まず、この著者の書き方が斬新で現在と過去とが複雑に
行きつ戻りつしていて、何かを説明するといったもので
はないのです。
つまり、禅の矛盾を追及したり、自分の悟りを開陳したり
するものではないのです。
本の中に出てくるように、アメリカ人が禅を始めるきっかけ
は、LSDだったりヒッピーのコミュニティみたいなものから
だったりと世の中から離脱した人の吹き溜まりの文化みたいな
ものだったのです。
『太陽を曳く馬』にも宗教に惹かれてしまう人々が出てきますが、
彼らの事を評して自我の拡張を図る人々と評され語られます。
しかし、この本では座禅をして取り組んでいるのは自我を取り払い
そして見えてくるものが見性であり、目的であるのです。
太陽を…ではあえて彼らの事を悟りのための自我を解放する事を
目的にしていた人を自我の拡張と揶揄していた事を改めて知らされる
のです。
そんな事はできないのにという伏字の部分まで聞こえてくるほどに。
著者の友人のジェミーがその見性に至る最後の試験の時に、失敗
して精神病院に入院させられるところはひとつの物語の山場となって
います。
気がつけば、行きつ戻りつしている話の現代軸の話として常に
語られる球童老師の話といつも失敗している禅へのアプローチ。
彼の師はことごとくいんちきだったり、怒りと落胆の内に崩壊
していくのです。
日本人の禅堂がセクシャルハラスメントで崩壊したり、空手の
道場の先生がエネルギー注入しても何の効果がなかったり、
西海岸から進出したゆるい団体の設立の理事になったり、みんな
ことごとく悟りへの道としては失意の別れへと繋がります。
ただ、この本が読み終わるととてもほっとして読後の爽快感が
残るのは、ずっと同時間軸で語られる球童老師との修行には
修行の失敗とかいんちき行為とか落胆の指導者というものがなく
最後まで師としての信頼関係が続いているからでしょう。
折からサイババの死が伝えられたり、玄侑宗久氏が復興会議の
メンバーになったりと大災害に因んでスピチュアルな話題は
気にかかるのです。
今日経の朝の連載小説は等伯で、日尭上人の悟りの件の時に
この本を読み終わり、世の中人の悟りとか魂の説伏とか普通に
出てくる時代になったんだなあと変な関心をしました。
でも、スピチュアルな世界とはやはりいんちきであり、それを
信じて行動する人が実に多く、世の混乱を深くさせていると
いう認識に変わりはありません。
宗教にはまったり、変な水を買わされていたり、手で病気を
治す人にだまされる前にせめて本を読めばそれらが人の依頼心
から来ている事に気がつくはずです。