祇園祭の中継を見ていて日本中でこんな夏祭りが
行われているんだなあと思いました。
京都は昔の都ですから、当然当時の諸々を盛り込んでいる
はずです。
何かあると都を遷してそれこそ復興を果たしてきたのでしょう。
日本は、忘れているかもしれませんが、バブル景気後の失われた
10年からすでに20年も経っていて、その上1000年に一度の大災害まで
受けてしまったのです。
今朝の新聞に中国の翳りだした経済の記事がありましたが、人々が
自身で稼いだ金を自由に使い出した国の経済と国民の四分の一がお年寄り
の国とでは勢いが違う話なのです。
日本はまだ何かまだ昔の景気復活のような事を考えているようですが、
大きく状況が変わった事に気がついていません。
昨日ビデオでとっておいたゲド戦記を見ていたら、真の名前とか永遠の
命とか魔法で鍛えられた剣とかかつてはどきどきとして聞いたテーマも
もう既に手垢だらけでまたアニメにしてもどうなのと言う感じを受けました。
秩父のミューズパークにはパルテノン神殿と言う建物があります。
もちろんギリシャの本物の威光を借りた命名なのでしょう。
なぜ秩父の山の中の公園にギリシャ神話をモチーフにしたり、宇宙創成の
ビックバンがデザインに使われているのかいつも不思議に思うのですが、
これがバブルの遺産というものなのでしょう。
本家のパルテノン神殿は世界的な観光地であり、その独特の構造で
世界からお客さんが見に来ますが、その名を付ければ何も世界から
お客が呼べると思ったはずもありません。
中国人が日本のアニメのキャラクターを勝手に使って世界中から顰蹙を
買っているのと似た構図があるのかもしれません。
ただし、こちらは知的所有権についてはクリアしているのです。
ただ、名を付けるあつかましさは中国人と同じと言わなければなりません。
段々止まる原発が増えて脱原発が実現性をましていますが、日本は
企業が出て行ってしまうとか熱中症で人々が死ぬとか脅される前に
核物質がひとたび人間界に出てくるとどうなるか現実にしる日々と
なっています。
観光地では人がいなくなり、しらずに核汚染された牛肉を食わせられたり、
仕事場もなくなり、故郷から移住すると言う現実がのしかかっているの
です。
それでも我々に迫られるものは復興と言う名にかこつけた増税だったり
被災地の為の募金などが突きつけられます。
かつて募金した義捐金などはいまだに被災地の人に配られる事もなく、
支援物資も何十トンと積み上げられるままになっているのです。
この先復興といわれるものも東北地方のインフラの整備に留まらず
日本の都市機能分散だったり、財政の復活だったり景気の復活を含んで
の復興であり、かつての輝きをみんなが望んでいるのです。
しかし、それら積みあがった援助物資にしろ配られない義捐金にしろ
たびたび襲い復興の経験を蓄積しているはずなのにまるで進歩のない
対応と言うのは人々の思いとは乖離がありすぎるように思います。
それは手垢のついたテーマをうまく料理できなかったゲド戦記に通じる
ものを感じました。
行われているんだなあと思いました。
京都は昔の都ですから、当然当時の諸々を盛り込んでいる
はずです。
何かあると都を遷してそれこそ復興を果たしてきたのでしょう。
日本は、忘れているかもしれませんが、バブル景気後の失われた
10年からすでに20年も経っていて、その上1000年に一度の大災害まで
受けてしまったのです。
今朝の新聞に中国の翳りだした経済の記事がありましたが、人々が
自身で稼いだ金を自由に使い出した国の経済と国民の四分の一がお年寄り
の国とでは勢いが違う話なのです。
日本はまだ何かまだ昔の景気復活のような事を考えているようですが、
大きく状況が変わった事に気がついていません。
昨日ビデオでとっておいたゲド戦記を見ていたら、真の名前とか永遠の
命とか魔法で鍛えられた剣とかかつてはどきどきとして聞いたテーマも
もう既に手垢だらけでまたアニメにしてもどうなのと言う感じを受けました。
秩父のミューズパークにはパルテノン神殿と言う建物があります。
もちろんギリシャの本物の威光を借りた命名なのでしょう。
なぜ秩父の山の中の公園にギリシャ神話をモチーフにしたり、宇宙創成の
ビックバンがデザインに使われているのかいつも不思議に思うのですが、
これがバブルの遺産というものなのでしょう。
本家のパルテノン神殿は世界的な観光地であり、その独特の構造で
世界からお客さんが見に来ますが、その名を付ければ何も世界から
お客が呼べると思ったはずもありません。
中国人が日本のアニメのキャラクターを勝手に使って世界中から顰蹙を
買っているのと似た構図があるのかもしれません。
ただし、こちらは知的所有権についてはクリアしているのです。
ただ、名を付けるあつかましさは中国人と同じと言わなければなりません。
段々止まる原発が増えて脱原発が実現性をましていますが、日本は
企業が出て行ってしまうとか熱中症で人々が死ぬとか脅される前に
核物質がひとたび人間界に出てくるとどうなるか現実にしる日々と
なっています。
観光地では人がいなくなり、しらずに核汚染された牛肉を食わせられたり、
仕事場もなくなり、故郷から移住すると言う現実がのしかかっているの
です。
それでも我々に迫られるものは復興と言う名にかこつけた増税だったり
被災地の為の募金などが突きつけられます。
かつて募金した義捐金などはいまだに被災地の人に配られる事もなく、
支援物資も何十トンと積み上げられるままになっているのです。
この先復興といわれるものも東北地方のインフラの整備に留まらず
日本の都市機能分散だったり、財政の復活だったり景気の復活を含んで
の復興であり、かつての輝きをみんなが望んでいるのです。
しかし、それら積みあがった援助物資にしろ配られない義捐金にしろ
たびたび襲い復興の経験を蓄積しているはずなのにまるで進歩のない
対応と言うのは人々の思いとは乖離がありすぎるように思います。
それは手垢のついたテーマをうまく料理できなかったゲド戦記に通じる
ものを感じました。