King Diary

秩父で今日も季節を感じながら珈琲豆を焼いている

立体曼荼羅に気づいたことと七夕飾り

2019年08月07日 10時16分00秒 | 珈琲

八月に入り、バスケット市民リーグの試合と鴻巣のコンサートと慌しい

日々に毎夜のランニングと時はあっという間に過ぎていきます。

そんな中、毎年繰り返される行事を見、それに感じる事はその時その時に

違い、さらに昨年まで気が付かなかったことに何十年と生きて今更

知った事とか、新しい見方をするとか必ず発見と気づきがあるというのが

人生の素晴らしいところではないでしょうか。

 

昨日も書いたように今年は夕映えの気付きというのがあり、それを知ってしまうと

江之浦測候所など実に陳腐で金持ちのエゴというか自己主張で別にみるべきものでも

ないもののように感じてしまうのです。

 

特に今回は、視点の変化を知ることで自分の位置をストーンヘッジや伊能忠敬の測量のように

宇宙を測ることで自分の位置を知るという行動は情熱の根源、芸術的背景としても重要

でしょう。

 

しかし、自然を眺めその美しさや特異さに気が付く以上に今回のその景色に自分もいることを

実感することとそれを表現していくことはそもそもの宇宙構造を考える基本です。

 

何年か前に冬の京都に行き、東寺の立体曼荼羅をみるという一つの目的を果たしました。

 

その場に立てば、宇宙を感じ空海が見せたいとした仏教境地を感じられ新たな見識も知見も得られると

思ったのです。

ところが、今年三十三間堂の仏像の位置を変えることになったというドキュメントを見ていて

そもそもなんで立体曼荼羅なんだというところから普通の仏教と密教の違いとか当時の布教とか

説明を聞いているうちに立体ってそういう意味だったのかと意味を初めて知ったのです。

 

もちろん京都に行ったときから立体曼荼羅とは何を立体にしたのか、何を空海は目指したのかは

理解していたつもりです。それが立体といわれるその意味はつい先日にはっきりと理解したと

思いました。

 

そもそも仏教の今までの教えはガイダンスであり、密教というのは実践であると言われます。

空海は各地に伝説を残し、密教の布教というより超能力で諸々の物を解決していく物語が各地で

伝説として残ります。それが紙に何か書いて流したら魚になったとか杖を突いたところから水が出たとか

灌漑用水の湖を作ったとかです。

 

法力で雨を降らす競争をして勝ったとか絵としても残されるものもあります。

 

仏教で法力などの超能力は悟りの邪魔とされ、当然悟った人は様々な力を備えていたという話は経典にも

登場し、でもそれは余禄であり、そもそもの仏の教えではないと言います。ところが密教ではその修行と

超能力を身に付けることを目的にしており、その悟りのイメージも曼荼羅として残されているのですが、

印刷技術が発達した今では簡単にいくらでも作れることです。当時は密教の仏師が砂絵で伝えたものが

書き写されて伝わったのです。そもそもは師から弟子に瞑想する時にビジョンとして渡すイメージを絵画化

したのが発端で絵にした時点で意味は失われています。

 

さらに空海は絵から彫像という立体化を行うのですが、もはやそうなると何をしたいのという世界ですが、

当時の私は美術品の世界、美術的彫像群として是非見てみたいと思っていました。つまり、悟りの境地を

より立体化して一般の人にも視覚化したという本来の立体の意味はさておいていたのです。

 

世界の三大宗教といわれる仏教、キリスト教、イスラム教で世界のほとんどの人はそれに属して

いるといわれています。日本人はその内容は知らないし、どんな思想か興味もありません。そもそも信教分離で

世の社会システムと宗教は別だと教えられて世界の先進各国もそうだと思っています。ところが、イギリスの

国教はキリスト教であり、その総本山のローマと同じかというとそうではありません。先進国なら信教の自由が保障

されており、差別もされないとも思っていますが、それが宗教を選択するとは生き方を選択することと同じという

意味だと知る人は少ないのです。

 

三大宗教は自分の神が唯一無二であり、仏教以外の宗教では異教徒は殺しても良いとされています。日本がキリスト教の国だったら

広島や長崎と二カ所もの原爆の投下もなかったかもしれません。

 

そしてどの宗教も偶像の崇拝は禁止しています。それなのにどの寺院にも宗教的イコンはあり、日本のお寺に

ご本尊がない寺はありません。彫像の本尊がなくても一番最高とする経典のお題目を書いた掛軸とか手を合わせる

存在を持っているのです。どの宗教でも偶像を拝むな他の神を拝むなとしているのに教祖の死後1000年も経って

作られた経典を拝むというのはどんなものでしょうか。

 

タリバンがバーミアンの巨大仏像を破壊して世界の顰蹙を買いましたが、教理的には正しい行動です。

ただし、国際社会とか人類の遺産とか文化遺産と考えたらとても破壊は出来ないのも当然です。

日本人の祭りとか宗教の理解もほとんどがこの理解なのです。税金を投入して各地の神社仏閣が修復され

祭りに補助金がでて、行事にも商店街の祭りにも税金が投入されています。何かと騒ぐ右翼とか左翼とか

ネットに巣食う思想家もこの点に踏み込んできません。

 

今年仁徳天皇陵がユネスコの世界遺産に登録されましたが、これなども右翼とかの人も誰も意見を表明

しませんが、本来は立ち入ることも保存のための作業もされることなく静かに朽ちようがなすがままに

保存するのがよいのかもしれませんが、キトラ古墳のように盗掘穴から壁画の発見があり、色々と発見がされた

事を考えるともっと積極的な調査と保存のためのアプローチもされていいようにも感じます。

 

そんな意味で今年なされた三十三間堂の仏像の移動というのは立体曼荼羅の意味を考えさせ本来の空海の

目指したことを知り、私も立体とはより具象化するための作業だったのかと改めて知り思ったのです。

 

目の前にこれだけ厳然とありこうなんだよといわれても頭に文化財とか美術品としての彼の目指した

世界を理解しようと近づいたのならその真意は永久に理解できないのです。誰でも密教の世界を目に

させようとした彼の作業のなんと単純で純粋な行為だったのか。それなのに現代人の知というフィルター

には全くの別世界が展開していたのでした。

 

それと同時に絵画的美しさ以上に現実の夕景の美しさを訴え続けた私もそもそも夕映えという自分もその

一部になっていたという視点の気付きはまた違った世界に踏み入ったようでここのところ色々と新たな視点で

また俯瞰するような状況になっています。

 

昨日の夜のランニングではまた自宅から13番キヤノン巴川橋を越え公園橋まで登り公園橋秩父神社市役所と

返ってきました。神社から番場通りに入ると車を止めて七夕祭りをやっていました。つい数年前にはもっと

にぎやかだったものが、昨夜は見物人より祭りスタッフの方が圧倒的に多いという寂しい風景でした。走るには

その方がいいのですが、それにしても昨年から比べてもこの寂しさはどうしたことかと思う人出のなさです。

こんなのを見ると毎日何かしらのお祭りがある夏に町内会の子供会やらもう行事が多すぎてやる意味が本当に

問われているのではと思えてなりません。

 

このコースを辿ると信号などで立ち止まるケースが増える地点で歩きになってしまうこの頃でも自宅まで最後まで

走りを続けられるのでした。桜橋から公園橋の三段坂を試されるかのように登り切ると体の回路に完全に走る

ためのシステムにアクセスできその原動力は切れることなく走りを完遂させるのでした。

 

 

 

コメント
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