昨年の今頃というと甲子園などいつもは見ないのに金足農業の快進撃で
ブームとなり私もテレビで観戦したのでした。今年も大会屈指の投手が現れ
またその再現かと思われましたが、そもそも予選の時にも話題の投手を出さずに
予選を負けたことで議論が勃発してそれを批判した名物番組コーナーがまた話題に
なったりしました。
その議論の中で当然出てきたのは球数制限です。出す出さないでもめるなら明確な
ルールとすべしというのです。これは至極当然明確な解決策のようにみえますが、
それは中央で物を見ている人の視点でまるで地方の事を思ったこともない人の意見です。
まず甲子園に出てくるような高校は練習環境も整っていて人材も豊富でプロ野球のような
複数ローテーションも可能な状況がみられます。ただ、同じ土俵には田舎の公立高校もあり
選手が登録ぎりぎりしかいないという高校もあるのです。
今や部活の選手などバスケットでは選手五人しかいないなんて部活も沢山いて、そのチームが
ベスト8くらいでも残っていたりします。
部活で高校生活一度も試合に出ない選手もいたり、ベンチにすら入れなくても部活で全国大会に
参加したという人もいるでしょう。
私も今までバスケットを続けてきて試合に出てわかる事とかゲームを通して
やるべきこととか競技のあるべき技術とか実際に気が付いたこともやってみて思ったこととか
やはり経験してみないと解らないことはあり、また気付けた喜びも長くゲーム参加してきた
からだと最近思います。
何も競技をして全国一になるだけがスポーツでなく、好きな競技をずっと続けて楽しむ環境が
あるというのが大事で、競って一番になることが目的ではないのです。
しかし、何かと勝つことが求められ遊びとスポーツは違うとか何か勘違いが世間を覆っていて
本来のスポーツを楽しむこととは違っていないかと思うことが多いのです。例えばこの夏で部活を
辞めて引退という人が多いと思いますが、そうするともう二度とその競技をしない人が大半で
ましてプロなどという環境に行く人は甲子園に出ている人でもその数人だけです。
そしてその数人がまた人々の記憶に残る活躍を続けられるかというとこれもまたほんの数人と
いう厳しい世界です。
しかし、現実には誰もが自分を主人公にした物語の中にいてそれはもう勝てなくなったから引退
という事はないのです。生きている以上その主人公の物語は続き、誰からも注目され祝福される
事も他人に知られることさえもない物語が毎日繰り返されているのです。そしてその物語の幕は
毎日毎日繰り返し、どんなことがあろうとどんな注目や観客がいなくても続けられるのです。
それが一部の人だけ注目を集め話題となり、一番以外はダメというような社会をよしとして
いますが、その社会とは実はダメな人たちの物語の集合なのです。
そんなダメな人たちが日々努力して仕事した成果がだめな人たちに供給され食糧であれ、着るもの
であれ、みんな人の手により成り立っているという意識がないとそもそも人をおもんばかるなどと
いう事はないでしょう。政治家の不祥事や暴言などこの人たちがどれだけの人の期待を背負って
今の地位に押し立てた結果か知っていれば当然起きないことです。
昨日は突然の大雨やら途中にしたゲームオブスローンズの考察などで時間を使い、予定の仕事を
終わらせることが出来なくてまた今日もあわただしいことになってしまいました。
夏なんて騒いでいてももう季節は既に秋の気配が漂い、農産物でもその品ぞろえの変化をみせて
います。桃やブドウやナシなどうれしいもらいものもこの季節ならではでナス食べるとかキュウリが
余ってるとか顔を合わせる度何か食べろといわれるのも実りって良いなあという気にさせます。
何かにつけてひとの手と手間というのは私も珈琲豆を焼くという生産者なので良く解ります。
人の手間を理解するというのは自分の大変さも知ってこそで時間が限られているというのも
日々感じて生きていかねばなりません。それなのについ余計休んだり、やれどこに行って
温泉に寄りたいとかつい考えてしまうのです。こんなに毎日暑く、台風がきたり、突然の雷雨など
に見舞われてもまだ平然と悠久の時間の上に自分があるかのように悠然と休んでそのうえに
佇んでみたいと考えるのですから贅沢なものだと思います。それもみんなが毎日一生懸命なんら
かの手を尽くしているからなのです。今日の珈琲タイムはそんなことを思いました。
今日もまたととのいました。