突如の浅間山の噴火のニュースに台風の接近とまあ毎年色々とあるものだと朝の
ニュースを聞きました。
昨日のランニングで本格的に走りのスイッチが入った体は昨日も最後まで信号で止まってもそのまま
歩いてしまわず最後まで走り切りました。秩父神社から番場通りでは七夕祭りの本番かという盛り上がりを
期待したのですが、私が通った八時頃は既に交通規制の看板も無く、人々がテントをたたみ祭りの片づけに
かかっていました。
夜走っているとあちらこちらの公園で模擬店とか夜店風のテントとかビール箱で作った宴会席など納涼会と
銘打った飲み会を見かけるのですが、ただの飲み会でちっとも納涼の風情もなく、普段はホルモン焼きの店で
やっていることを外で大きくやっている感じで何を今更という思いと違和感はいつも持っていたのですが、
これが連日あるとなるともはや一度整理して何を目指していたのかそんなに飲み会が必要か検証の時期なのでは
と思えてなりません。
かくゆう私も立ち返ってみると毎年この時期法事やら同窓会やらと地元に戻る人が多いからと催される会は
あり何かしら行事はぶつかっており、どちらも優先できないなんてものには最初からもう出ないと決めて
いたりその繰り返しが今年は久しぶりになになにしてみるという行動になったりしているのかもしれないと
思ったりしました。
立体の意味を知ったという最近の知見の話をしてもどうやら意味が解らない人だらけでさらなる説明が
必要なのようです。
世界観とか悟りの世界といわれても全くの興味のない人には関係ない話です。ですが、真理とか普段たどり着けない
心の地図だとかいわれるとなんだか普通の人でも誰でも目にできる掛軸や仏像群なら簡単に知りえるとも感じるかも
しれません。
つまりは空海はそれを目指したのでしょうが、そもそもの地図としての曼陀羅は何を表したのかは結局のところ
悟りの深さの地図だったのではないでしょうか。
そうなると興味がない人にはさらに関係ない話で自分などは永遠にこの掛軸の関係ない外径点でしかないという
ことになります。その自分とこの曼陀羅との関係を考えることこそが意味するところであり、それが解るのが
見せたかったことなのです。
今の時期珈琲を飲もうとするひととその味を想像するということもありそうでないシーンです。
ところがアイスコーヒーを昨日の試飲でだして思ったのですが、私はいつも飲んでいるので目の前の人が今どう
感じてどういう風に受け止めたかは私のイメージを再生し、どの位置かはすぐに理解できるのですが、それが
目の前の人はそう感じてないかもしれないし、全く違うイメージを膨らませているかもしれないのです。
それは言葉で言い表してそのイメージを交換しあわないとその差が解らないのです。
その師からのイメージが曼荼羅なのです。それを見たら一般の人は自分の曼陀羅を披露してやっとこの距離と
地図の違いにお互いの相互理解が始まるのです。
まずは地図の見方から始めて自ら曼荼羅を書いてみる表現の仕方も身に付ければ相互理解まであと一歩です。
珈琲で感じてみる曼荼羅という地図の見方もかおりと色と味と一つ一つ捉えてみれば意外と簡単な地図と
共通の曼陀羅に意外と近いと感じられるかもしれません。