この朗読劇のポスターを見かけたのは六月頃いつも市民大会の会場になる
文体センターで見ました。会場はうちの近くの伝承館です。興味があったので
伝承館でチケットを聞くと詳細は解らず、肝心のポスターも貼ってなかったのです。
というわけでポスターにある問い合わせ先に電話してチケット入手先などを聞くと
前売りはしてなくて、当日渡すから会場前に来いというなんともおかしい対応だった
のです。
何カ所かでこのポスターを見かけるようになり、当店の珈琲の卸先でも貼ってあったので
券はどうなっているか聞くと知らないというのです。券を売るためのポスターかと思えば
その問い合わせの電話番号でしか受け付けていないようで、そもそも券の前渡しも前売りも
しないという事でした。席数200席のイベントで開場と同時に券の売り捌きもしようとするのか
とても当日の対応に不安を覚えて不信感を募らせたのですが、対応先はここだけだという
電話口の態度は頑なで大丈夫かと思いながらも券を予約したのでした。
そして当日、券は売り切れ満席という表記の所で予約してあると名前を言い券を受け取り
席に着きました。前回の鴻巣クレアがとても寒く、いつもより一枚余計に着込んできましたが、
伝承館は冷房が効きすぎることもなく、クレアより若干広い天井も高くてゆったり感があります。
劇はおもむろに始まり、普通なら舞台登場とともに拍手で主役を迎えるはずが、もともと舞台袖が
ない構造で楽屋口のドアから中村敦夫が登場し、それも中腰で手に持った機械をピーピーいわせ
舞台中央スタンドとマイクまで来てそのまま劇は始まりました。
登場したのが中村敦夫本人なのかスポットライトもないままマイク前でいきなり台本を読み出し
ますが、それがどこの方言なのか解らないけれど帽子をかぶってリュックをしょった姿はあの
紋次郎というより普通のじじいでしかなく、芸能人のオーラもなく、セリフ回しは田舎の爺さんの
語りそのままです。設定としては福島第一原発に配管工として勤めその現場の杜撰さを指摘したら
辞めるように言われ飯館村にて有機農業とゲストハウスを経営することになり、作物も実りよいよ
というときに妻が脳梗塞で入院した時に震災が起きて飯館村に防護服を着た人が線量計で計測している
人がいたのを発見し、数値を教えるように迫ると逃げるようにいなくなったので技師時代の荷物から
線量計を取り出し測ると針がビンビンと振れるので、これはいけないと妻の病院に向かいやっと
到着するとすでに妻は強制転院した後でそれを追うという展開。とまあなかなか当時のどたばた
ぶりを思い返すような進行で、東電の事故の隠ぺい体質やうそだとか原発マフィアとよばれる
企業体質とか福島第一のマークワンといわれるジーエム製の原発が欠陥品だったとか、お友達作戦
の米軍が被ばくして五人は死んだとか語られるが、これらはあくまで中村敦夫の創作した台本での
話で、現実に働いていた原発作業員の声でもなければ証言集を集めたものでもないのです。
これが気になったことで、これは確かにひどい事故でそれに懲りずに再稼働が進むという現実に
たいして果たして有効なことなのかという気もするのです。
政府や東電にはこれだけ嘘や欺瞞に満ちていたという世論を醸成し原発はやめなければならないと
いうのであれば、もっと別な方法でやって感情ではなく、きちんとした科学的な理論として脱原発を
訴えなくてはならないのではないかと考えてしまいます。
確かにお友達作戦といいつつ、米軍が東北地方の救援に回った時わざわざ日本海を周って青森経由で
仙台に到着したことは明らかに放射能を避けての行動で後に知った時にはそこまでひどいと認識しても
お友達作戦などという実働可能能力のほんの数%の活動しかしなかった人たちが被ばくして死んだ人も
いたのかは知りようもありません。しかし、ニュース等で軍の命令でがんになったと訴訟になったケースは
報道されています。
この様に私の知る事実以上にひどいことであるとする糾弾する声には果たしてどの程度正確かという懸念も
ありました。増え続ける汚染水や取り出してもどこにもやりようもない燃料デブリなど本当に取り出す
気なのかとか、チェルノブイリと同様石棺で閉じ込めるのがいいのではないかという疑問もあります。
つい先日福島第一と第二も廃炉というニュースがありましたが、取り出せないデブリがあり続けると
いう事実は廃炉などとい名目が付いたところで現実に変化はなく、何の意味もありません。
最終処分場にしろ誰も自分の住んでいる近くにそんなものを置かれたなくはないのですから、決まる
はずもありません。ただし、それを言ってしまうと何故そんなものを作ったというとりとめもない話も
出てきてしまうため、本音としては誰も認めることなく今後も移転先のない仮置き場なり、処分場なり
はつづき、原発があるところから使用済み燃料など運び出すこともできず、再処理施設やらできもしない
リサイクル施設はきまっていてもできないと言ってしまったら新たな搬入は出来ないからリサイクルの
方向の看板は下ろすわけにもいかず、事故やら不始末だらけの燃料リサイクルや再処理はつづけられて
いるのです。
オリンピックで蓋をしてという表現が出てきましたが、それは目くらましどころか先日の報道では
補修が必要な橋とか施設が70%もあるというものがあり、それなのに新国立競技場を作ったり
オリンピック施設などを作るより先にやるべきだったんじゃないのかというのは誰もが思った
はずです。どこかの高速道路の天井がまた崩落して死者でもでないとそんな議論もされないのでしょう。
秋田と山口に配備のイージスアショアも結局日本国民の生命と財産を守るためよりアメリカのための
施設だというのがばればれでそんなもの作る金があるのならという思いを強くするだけです。
日本も米のいいなりをやめいうべきことは言う時なのではないでしょうか。米軍基地の負担増をいうのなら
どうぞお引き取りをといっていい時期だし、地位協定も見直して主権国らしい態度を持ってもらい
たいものです。
とまあこれだけの不安要素や問題があるのに世の人は選挙にすら行かず京アニのニュースなどが
連日流れるのです。
それでもこの朗読劇が需要があり、日本全国80箇所にも上る上演があり、今後も続いていくとの
ことなので、決して忘れてしまった人ばかりでもないんだという気もしてそれなのによい方向性
とか原発を止めようとか議論も上がりそうもなく、どこでどう人々の声は消えてしまうのかまったく
謎なのでした。