ナポレオンの登場というのが現在のヨーロッパに多大な影響を与えた一大
時であり、会議が躍るとか映画にもなりました。こんなことを思った背景には人々が
天皇の即位にパレードやらお祭り騒ぎや世界中の君主や元首が集まっているさまを見て
当たり前のようにお祭り騒ぎをしていることに端を発しています。
例え米の大統領就任式でさえ各国元首や君主を招待して一連の儀式やら晩餐会を行ったり
しないのです。ところが今回はあらゆる儀式が前回の平成の時より国家行事として宴会の数から
何から増えているようです。
その王家が集まる即位式の王家がヨーロッパに残るきっかけになった王政復古とはまさにナポレオンの
影響であり、パリの凱旋門は彼のために市民が建てたもので、島流しになった罪人となればそれはもう
とっくに取り壊されて当然なのに、未だに人々は英雄と崇め、豚の名前にナポレオンと付けてはいけないと
法律で禁止したりしています。
このナポレオンの残したものに右側交通があります。これを考えたときになぜアメリカは右側通行なのかと
なり、それはいまだにメートル法でなくポンドやマイル、華氏を使う偏屈な国というイメージが浮かび上がります。
日本にも独自の単位はあり、日本は先進国に追いつくべく進んだものはどんどん導入した経緯があります。
1959年尺貫法からメートル法に倣うため鯨尺の販売を禁止する法律ができました。これに反対したのは
永六輔くらいで彼は縁日などでわざと鯨尺を売り逮捕しろと騒ぎました。日本の尺貫法は優れた大工の技術と
ともにあり、それを法律などで禁止すべきものではないという文化的意味から政府の介入を批判したのです。
文化的にはひどく正しい話ですが、実際に大工が仕事ができなくなったかというとそうでもなく、その後も
うちは作られたし、作り方は時代とともに変化します。
今から一万数千年前の縄文時代にもそのような基本単位はあり、東北の遺跡をみるとそれが35センチであり、
建物の作りがその倍数でできていることが解ります。つまり、その昔から日本人は数の概念があり、掛け算など
の計算もできたのです。
しかし、温度に関しては独自の軽量規則も呼び名もなく、欧米のものを入れたわけですが、なぜか摂氏、華氏と
いう面白い表し方をします。その割にこの違いを調べようとしたり知ろうとする向きはあまりないようです。
アメリカでは華氏を使っているのは知っている人も多いと思います。普段私たちが使っている摂氏はスウェーデン
のアンデルスセルシウスにより考案されたもので水を基準としてその融点沸点をゼロと百にしてそれを当分して
目盛付けしたものです。そのように日常に即したもので合理的なものです。世界も当然これを採用していると
思われますが、華氏を使う国もあります。ところがここで気になったのがそれでも体温計はみんな35度から40度
だよなあということです。
つまり医学的なものは結構メートル法で学んでいたりします。体温計はそれだけ独自に考案された歴史があり、
水の沸点融点の概念の外ということでもあります。
この国ごとに違う単位さえ共通化できず何がグローバル世界かという見方もできますが、これは昨今言われる
おもてなしの表れではないでしょうか。お国柄を尊重するという相互理解の一歩として相手のシステムを尊重する
という精神があえて相手の違う単位も不便であるが享受することで相手の特長を理解することであり、それが
平和を保つ知恵であるとしてあえて残したのではないかと最近思います。