King Diary

秩父で今日も季節を感じながら珈琲豆を焼いている

賑わいと007

2019年08月13日 09時33分32秒 | 珈琲

今BSで007シリーズをやっており、気になっては見てみたりしていました。

そうして今『慰めの報酬』を見てダニエル・クレイグの時代になったのですが、

この異形のボンドにかなりの抵抗が世間ではあり、批判サイトが山ほどでき、

抗議が殺到したと評判になり、それでも当時は世間は度肝を抜かれアクションのすばらしさは

そういうものを覆い隠し、中でも象徴的な追跡から最後ロープアクションから転落しながら

ワルサーで射殺するというシリーズのシンボリック的シーンとなり印象に残ります。

 

今までの007が殺しの番号とか殺人許可とか言われてきたものの、英国紳士であり、

洒脱と女好きでエスプリが効いた大人の男という魅力があったのです。ところが

ダニエル・クレイグのボンドは唯の殺し屋という感じで、今までよりアクション重視の

非情の殺し屋の面が強く、かかわる手がかりを事如く殺してしまい、今までのバカらしい

新兵器や女に救われたりするボンドと違いまるで悪役かただの暴力装置のような感じなのです。

 

これは当時のアクション映画がTAXIやジェイソンボーンシリーズやミッションインポッシブル

シリーズがリアルアクション化して007だけがおちゃらけたもっともいそうもない英国紳士を

いつまでも排出していられない雰囲気があり、英国という引退したような国の諜報員がやること

をもう一度示さなければならなかったのでしょう。

 

それでも英国紳士で持ち物や飲み物の趣味とか泊まるホテルの部屋にもこだわるという姿勢は

残っており、時代を感じさせる資源の争奪戦も悪の首魁が環境団体のCEOで慈善事業で寄付を

集めて政情不安の国に取り入り資源を簒奪するという新しいんだか古いんだか解らないような

筋立ても血の復讐のみで取引場所に女スパイが乗り込んで行ったりするのは昔の日本のやくざ

映画そのままです。

 

この映画はシリーズの中でも象徴的な感じでロケで実際のホテルなんだかセットなんだかよく

解らない建物が舞台になっていたり、今までスパイが活躍する場所ではないようなボリビアの

砂漠とか活動を制限されたボンドが関係した引退したスパイを頼り、海辺の別荘で引退生活を

していたのに現場復帰して殺されてしまうというなんともすっきりとしないストーリーが続き

ます。

 

極め付きは『007スカイホール』で色々と批判のあるボンドという制約を一応取り入れてなにかと

ブランドとしての小道具なども愛用はワルサーppkやアストンマーチンという車などという道具立てを

して見せたもののストーリーは野蛮な荒野での打ち合いを連想させる西部劇であり、最後は砦に

籠り一騎打ちするという設定など007としてのこだわりとか制約を受けているんだというアピールと

目新しさのないストーリーなど完全にミッションインポッシブルに面白さを奪われてしまいそれを

凌駕できない限界を示してしまったかのようで非常に寂しい思いをしたのも思い出します。

 

そこで英国ものはもはやダメなのかという懸念の中世界ではダウントンアビーのヒットがあり、

中世の騎士の物語というファンタジーと大河ドラマを合わせたゲームオブスローンズなども

作られました。

 

そういう映像作品もよりパーソナルな供給形態をとるようになり、自ずと作風にもそれが反映され

今までの変なお上品さや不自然な表現の物が増え、最初から会員専用チャンネルやネット配信を

考慮されたものは逆にエロとグロに容赦なく表現されたりと世の中の変化を感じます。不思議なのは

オバマ時代からもそうだったのですが、リベラルで世界平和を推進した政権下でもテレビや映画での

表現はかつての良心がこもる良きアメリカの風習とかがことごとく失われてなんとも殺伐とした台詞

回しが増えた事かという事です。

 

具体的に言うと米のドラマなどで家庭内でshitとかfuckなどという言葉を使うとその家の主が家で

そういう言葉を使うことは許さないとたしなめるというシーンがありました。会話でも瞬間的に

そういう言葉を使うと相手が汚い言葉を使うなと注意するというシーンも最近はなくなったのです。

 

つまり古き良き良識という観念が米でも普段の会話から変わっているという実感とさらにトランプの

登場でより相手を思いやるとかより自分に仕事がなくなったのは中国や日本のせいだという姿勢で

移民を攻撃したり、人種的排斥をちらつかせたり、とにかく今の繁栄やかつての豊かさを保つには

自分以外を攻撃し、相手が嫌だと思うことを優先するという攻撃的な姿勢と過激な自国主義がまかり

とおり、この姿勢を助長させているようです。米のドラマはとにかく台詞が画一的であり、語彙が

少ないのにびっくりします。

 

日常会話などいくつも単語を必要としないのです。形容詞にも先のfuckは多用されます。日本語に訳され

るのはいつもくそだとかくそったれ仕事とか言われるのですが、そんなに米国人はくそ好きかという

のともうそういうのも制止する精神も残っていないのかというのもセリフから感じるのです。

 

まあ昼間はそんな映画の録画などを見てお客様をお待ちしているのですが、最近は夏休暇らしい風景も

見かけられ、土日は市役所の広場でフードフェスというイベントをやっていてこの間の七夕より人が

溢れていました。近所の庭では家族や友人とバーベキューをする賑わいがあったり帰郷してきた人や

お盆らしい風景を見かけます。当店にもこの暑さの中でも観光らしい人が訪れたり、夏を楽しむ人が

普段はドライブで来るがのんびり電車で来たとかそんなことを語る人もいました。

 

町が賑わい人出があることは良い事ですが、当店の主人はとかく行列とかが好きでなく、人と同じも

気に食わないたちなのでつい愚痴などもこぼすのですが、それでもせっかく秩父へ訪れたのですから

その魅力を紹介したり、最近感じた新たな魅力などを紹介して試飲タイムをこなしました。

 

水出し珈琲などは作るのに手間と時間がかかるので事前の連絡をいただくとうれしいです。

 

試飲は三時までとなっています。

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ブッテンブローク家の人々とゲームオブスローンの夏

2019年08月09日 10時09分24秒 | 珈琲

よく大河ドラマといいますが、長い物語というのは昔からあり、夏休みにこの長い物語を

読むようにという教師のアドブァイスはあったのです。

 

その中でも、中年以上の教師の言う若いうちの体力というのは貴重でそれは勉強にも発揮され

長い小説など読めるのは若い時だけだという助言です。これについては今自分もその教師以上の

年齢になり、どういう気持ちで彼らがそういうことを言ったかはわかるのですが、正しいかと

いえばそれははっきりと間違いだと解ります。

 

若い時にこそできないことは確かにあるでしょう。

 

しかし、それは人それぞれの個性であり、誰も立ち入ることができないことでもあるのです。

 

若い時にしかできないとか、若い時にそんなことしたらもったいないとか大きなおせっかいなのです。

 

まず齢とるとできないということも齢をとってからではみっともないからなのか能力的にだめなのか

ということですがそれも人それぞれでありそれを一概に決めつけられないという事です。

 

別に齢とってから世紀の恋に落ちて結婚してもいいし、若い時の勢いで結婚する人もいるでしょう。

 

私自身は若い時の勢いでできた事というのはいくつかあるものの、それがのちにできないかというと

そうでもないと最近は感じています。

 

つまり若い時でしかできないことも確かにあるものの今ではできないのかというとそうでもないと

確信できることです。

 

それを鈍らせるのは周りの干渉だったり余計な人付き合いのためだったりします。自分らしく生きて

こそだと気が付くとそんな余計な雑音も気にならなくなります。

 

今回いつもの夏と違い長い小説を読み出して最初そのための対策を考え家系図とか相関図をネットで

拾って100分で名著的に整理してから読もうとしました。しかし、実際に読んでみてそれは必要もない

ことであり、こういう小説の特長として語り手の視点と物語の主人公というのが一定のようでいて実は

章ごとに違っていて当然読者はそれにより感情移入して物語を辿っていくのでブッテンブローク家の人々の

場合は最初コンズルの長女の出戻りの物語であり、その娘の視点がスタートでこの家系の持つ特性や

副題の家族の没落を体験することになります。

 

だからといってあの時こうすればという対処法を提出するための読書ではなくあくまでその没落を追体験

し味わうことに尽きるのです。

同じく、こちらは仕方なくではあるのですが、『ゲームオブスローンズ』もみはじめ王の手であるエダ―ド・スターク

の物語でその主体としてとらえたストーリーとなっています。しかし、実際にはアリア、ティリオン・ラニスター、

ジョン・スノー、デナーリス・ターガリエンの視点で物語は進みます。各家の存続とか行末とか壮大な物語ですが、

このカメラの移動と各家の関係と各カメラの物語を追っていくことで自然と歴史も性格も理解できるのです。

 

最初から解説番組風の相関図などを頭にしてもこの大河ドラマは面白くなく、やはり各カメラの追うストーリーを

味わってこそ醍醐味がでてくるのです。時にあの話はどこから出てきたことなのかというようなこともあるのですが、

細かいことは気にしないで時には目をつぶるのも拾わぬ伏線も多々あるので良しとします。

 

それにまとめサイトとかあらすじサイトなど見てもよく調べたなあというところよりそれ違うだろうというところ

の方が多く、余計な誤った理解にはいる危険もあります。

 

そして私の今までの読書経験では大河小説でもそれはあくまで一部という事です。歴史ものなどではすごく長いもの

はたくさんありますが、折角全巻取り揃えて楽しみに読み継いでも結局未完などということがよくあり、裏切られたのか

読者放置の姿勢に頭に来たりした経験も多々あります。しかし、それはよくあことであり、豊臣秀吉ものなどでも

天下統一以降を書いたものは少なく、朝鮮出兵や中国征服まで考えていたことなどはテーマとされることはありません。

 

そんな長い物語を読んでみるのも夏の過ごし方としてよいかもしれません。

 

そのお供に飲む珈琲は読書疲れを癒すというよりこれも読書の一部です。

 

 

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深度を測ることと曼荼羅の見え方

2019年08月08日 09時41分49秒 | 珈琲

突如の浅間山の噴火のニュースに台風の接近とまあ毎年色々とあるものだと朝の

ニュースを聞きました。

昨日のランニングで本格的に走りのスイッチが入った体は昨日も最後まで信号で止まってもそのまま

歩いてしまわず最後まで走り切りました。秩父神社から番場通りでは七夕祭りの本番かという盛り上がりを

期待したのですが、私が通った八時頃は既に交通規制の看板も無く、人々がテントをたたみ祭りの片づけに

かかっていました。

 

夜走っているとあちらこちらの公園で模擬店とか夜店風のテントとかビール箱で作った宴会席など納涼会と

銘打った飲み会を見かけるのですが、ただの飲み会でちっとも納涼の風情もなく、普段はホルモン焼きの店で

やっていることを外で大きくやっている感じで何を今更という思いと違和感はいつも持っていたのですが、

これが連日あるとなるともはや一度整理して何を目指していたのかそんなに飲み会が必要か検証の時期なのでは

と思えてなりません。

 

かくゆう私も立ち返ってみると毎年この時期法事やら同窓会やらと地元に戻る人が多いからと催される会は

あり何かしら行事はぶつかっており、どちらも優先できないなんてものには最初からもう出ないと決めて

いたりその繰り返しが今年は久しぶりになになにしてみるという行動になったりしているのかもしれないと

思ったりしました。

 

立体の意味を知ったという最近の知見の話をしてもどうやら意味が解らない人だらけでさらなる説明が

必要なのようです。

 

世界観とか悟りの世界といわれても全くの興味のない人には関係ない話です。ですが、真理とか普段たどり着けない

心の地図だとかいわれるとなんだか普通の人でも誰でも目にできる掛軸や仏像群なら簡単に知りえるとも感じるかも

しれません。

 

つまりは空海はそれを目指したのでしょうが、そもそもの地図としての曼陀羅は何を表したのかは結局のところ

悟りの深さの地図だったのではないでしょうか。

 

そうなると興味がない人にはさらに関係ない話で自分などは永遠にこの掛軸の関係ない外径点でしかないという

ことになります。その自分とこの曼陀羅との関係を考えることこそが意味するところであり、それが解るのが

見せたかったことなのです。

 

今の時期珈琲を飲もうとするひととその味を想像するということもありそうでないシーンです。

ところがアイスコーヒーを昨日の試飲でだして思ったのですが、私はいつも飲んでいるので目の前の人が今どう

感じてどういう風に受け止めたかは私のイメージを再生し、どの位置かはすぐに理解できるのですが、それが

目の前の人はそう感じてないかもしれないし、全く違うイメージを膨らませているかもしれないのです。

 

それは言葉で言い表してそのイメージを交換しあわないとその差が解らないのです。

 

その師からのイメージが曼荼羅なのです。それを見たら一般の人は自分の曼陀羅を披露してやっとこの距離と

地図の違いにお互いの相互理解が始まるのです。

 

まずは地図の見方から始めて自ら曼荼羅を書いてみる表現の仕方も身に付ければ相互理解まであと一歩です。

 

珈琲で感じてみる曼荼羅という地図の見方もかおりと色と味と一つ一つ捉えてみれば意外と簡単な地図と

共通の曼陀羅に意外と近いと感じられるかもしれません。

 

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立体曼荼羅に気づいたことと七夕飾り

2019年08月07日 10時16分00秒 | 珈琲

八月に入り、バスケット市民リーグの試合と鴻巣のコンサートと慌しい

日々に毎夜のランニングと時はあっという間に過ぎていきます。

そんな中、毎年繰り返される行事を見、それに感じる事はその時その時に

違い、さらに昨年まで気が付かなかったことに何十年と生きて今更

知った事とか、新しい見方をするとか必ず発見と気づきがあるというのが

人生の素晴らしいところではないでしょうか。

 

昨日も書いたように今年は夕映えの気付きというのがあり、それを知ってしまうと

江之浦測候所など実に陳腐で金持ちのエゴというか自己主張で別にみるべきものでも

ないもののように感じてしまうのです。

 

特に今回は、視点の変化を知ることで自分の位置をストーンヘッジや伊能忠敬の測量のように

宇宙を測ることで自分の位置を知るという行動は情熱の根源、芸術的背景としても重要

でしょう。

 

しかし、自然を眺めその美しさや特異さに気が付く以上に今回のその景色に自分もいることを

実感することとそれを表現していくことはそもそもの宇宙構造を考える基本です。

 

何年か前に冬の京都に行き、東寺の立体曼荼羅をみるという一つの目的を果たしました。

 

その場に立てば、宇宙を感じ空海が見せたいとした仏教境地を感じられ新たな見識も知見も得られると

思ったのです。

ところが、今年三十三間堂の仏像の位置を変えることになったというドキュメントを見ていて

そもそもなんで立体曼荼羅なんだというところから普通の仏教と密教の違いとか当時の布教とか

説明を聞いているうちに立体ってそういう意味だったのかと意味を初めて知ったのです。

 

もちろん京都に行ったときから立体曼荼羅とは何を立体にしたのか、何を空海は目指したのかは

理解していたつもりです。それが立体といわれるその意味はつい先日にはっきりと理解したと

思いました。

 

そもそも仏教の今までの教えはガイダンスであり、密教というのは実践であると言われます。

空海は各地に伝説を残し、密教の布教というより超能力で諸々の物を解決していく物語が各地で

伝説として残ります。それが紙に何か書いて流したら魚になったとか杖を突いたところから水が出たとか

灌漑用水の湖を作ったとかです。

 

法力で雨を降らす競争をして勝ったとか絵としても残されるものもあります。

 

仏教で法力などの超能力は悟りの邪魔とされ、当然悟った人は様々な力を備えていたという話は経典にも

登場し、でもそれは余禄であり、そもそもの仏の教えではないと言います。ところが密教ではその修行と

超能力を身に付けることを目的にしており、その悟りのイメージも曼荼羅として残されているのですが、

印刷技術が発達した今では簡単にいくらでも作れることです。当時は密教の仏師が砂絵で伝えたものが

書き写されて伝わったのです。そもそもは師から弟子に瞑想する時にビジョンとして渡すイメージを絵画化

したのが発端で絵にした時点で意味は失われています。

 

さらに空海は絵から彫像という立体化を行うのですが、もはやそうなると何をしたいのという世界ですが、

当時の私は美術品の世界、美術的彫像群として是非見てみたいと思っていました。つまり、悟りの境地を

より立体化して一般の人にも視覚化したという本来の立体の意味はさておいていたのです。

 

世界の三大宗教といわれる仏教、キリスト教、イスラム教で世界のほとんどの人はそれに属して

いるといわれています。日本人はその内容は知らないし、どんな思想か興味もありません。そもそも信教分離で

世の社会システムと宗教は別だと教えられて世界の先進各国もそうだと思っています。ところが、イギリスの

国教はキリスト教であり、その総本山のローマと同じかというとそうではありません。先進国なら信教の自由が保障

されており、差別もされないとも思っていますが、それが宗教を選択するとは生き方を選択することと同じという

意味だと知る人は少ないのです。

 

三大宗教は自分の神が唯一無二であり、仏教以外の宗教では異教徒は殺しても良いとされています。日本がキリスト教の国だったら

広島や長崎と二カ所もの原爆の投下もなかったかもしれません。

 

そしてどの宗教も偶像の崇拝は禁止しています。それなのにどの寺院にも宗教的イコンはあり、日本のお寺に

ご本尊がない寺はありません。彫像の本尊がなくても一番最高とする経典のお題目を書いた掛軸とか手を合わせる

存在を持っているのです。どの宗教でも偶像を拝むな他の神を拝むなとしているのに教祖の死後1000年も経って

作られた経典を拝むというのはどんなものでしょうか。

 

タリバンがバーミアンの巨大仏像を破壊して世界の顰蹙を買いましたが、教理的には正しい行動です。

ただし、国際社会とか人類の遺産とか文化遺産と考えたらとても破壊は出来ないのも当然です。

日本人の祭りとか宗教の理解もほとんどがこの理解なのです。税金を投入して各地の神社仏閣が修復され

祭りに補助金がでて、行事にも商店街の祭りにも税金が投入されています。何かと騒ぐ右翼とか左翼とか

ネットに巣食う思想家もこの点に踏み込んできません。

 

今年仁徳天皇陵がユネスコの世界遺産に登録されましたが、これなども右翼とかの人も誰も意見を表明

しませんが、本来は立ち入ることも保存のための作業もされることなく静かに朽ちようがなすがままに

保存するのがよいのかもしれませんが、キトラ古墳のように盗掘穴から壁画の発見があり、色々と発見がされた

事を考えるともっと積極的な調査と保存のためのアプローチもされていいようにも感じます。

 

そんな意味で今年なされた三十三間堂の仏像の移動というのは立体曼荼羅の意味を考えさせ本来の空海の

目指したことを知り、私も立体とはより具象化するための作業だったのかと改めて知り思ったのです。

 

目の前にこれだけ厳然とありこうなんだよといわれても頭に文化財とか美術品としての彼の目指した

世界を理解しようと近づいたのならその真意は永久に理解できないのです。誰でも密教の世界を目に

させようとした彼の作業のなんと単純で純粋な行為だったのか。それなのに現代人の知というフィルター

には全くの別世界が展開していたのでした。

 

それと同時に絵画的美しさ以上に現実の夕景の美しさを訴え続けた私もそもそも夕映えという自分もその

一部になっていたという視点の気付きはまた違った世界に踏み入ったようでここのところ色々と新たな視点で

また俯瞰するような状況になっています。

 

昨日の夜のランニングではまた自宅から13番キヤノン巴川橋を越え公園橋まで登り公園橋秩父神社市役所と

返ってきました。神社から番場通りに入ると車を止めて七夕祭りをやっていました。つい数年前にはもっと

にぎやかだったものが、昨夜は見物人より祭りスタッフの方が圧倒的に多いという寂しい風景でした。走るには

その方がいいのですが、それにしても昨年から比べてもこの寂しさはどうしたことかと思う人出のなさです。

こんなのを見ると毎日何かしらのお祭りがある夏に町内会の子供会やらもう行事が多すぎてやる意味が本当に

問われているのではと思えてなりません。

 

このコースを辿ると信号などで立ち止まるケースが増える地点で歩きになってしまうこの頃でも自宅まで最後まで

走りを続けられるのでした。桜橋から公園橋の三段坂を試されるかのように登り切ると体の回路に完全に走る

ためのシステムにアクセスできその原動力は切れることなく走りを完遂させるのでした。

 

 

 

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静かにアイドリングから起動する朝

2019年08月06日 09時22分29秒 | 珈琲

昨日お話した夕映えの話ですが、検索すると夕映えの丘とか夕映え公園というのが

関東にも数カ所存在するようです。

秩父では雲海を見処としてアピールしている人もいますが、これも山の上から盆地の

底にたまった雲を見れば雲海で一興ではあるでしょうが、その雲海の中はどうなって

いるかというとブロッケン現象の様に自身の影がその霧に映ったり、公園橋の上の

川霧を通る時にはまるで天国の門に通じる霧でできた入り口を通るようだったりします。

 

得意になって雲海の写真を挙げている人もその中で起きていることや現象を考えたり

しないでしょう。夕焼けを見ることを推奨していた私も雲の少ない日に真っ赤な夕日が

大きく見えた日に自身がその赤い日に染まっていることまで考えてみませんでした。

 

ベランダにいる当家の猫が真っ赤な猫になったのを見て自分がいつも見えない造形や

色彩に染まる風景になっていることを発見するという体験をしてまた何か面白い発見を

したように感じるのです。山でブロッケン現象で自身の影を霧に移して面白がっている

そんな経験をしてひとつ自分主観から抜け出すことであり、自身を俯瞰してみる視点を

発見して自然をいつも自分を置いて演出してみたり、自然を感じるのでなく演出することも

可能になるのではないでしょうか。

 

そんな意味で自然を感じるスクリーンを作り、それを夕映えの丘とするというのは江之浦測候所

を超える美的感覚になるのではと思います。ひとつには武甲山という巨大なスクリーンを既に

南斜面に持っていることから各地に定点スクリーンと定時カメラ映像をネット中継するもので

アピールしてみるとか作っては壊す屋台のようなスクリーンを各公園に置いて自然の持つ顔を

演出していくとかいくらでも方法はあり、何らかの意味をこれから通年通して訴えていく方策を

とれば過疎化していく秩父にももっと魅力と活力が生まれると感じます。

 

秩父の聖地の曼陀羅だったり、温泉の曼陀羅だったり、古代地層の曼陀羅なりいくらでも

スクリーンから考えられる秩父のシーンは考えられます。

 

夕映えというなんとも無責任な言葉のその先に秩父を愛する人の心が問われているかのような

夕焼けを眺めている自分も赤く染まっていることに気が付くそんな時秩父だけでなく、自身が

自然とシンクロしたような感覚と真っ赤に染ま心地よさを一度味わい感じてみていただきたいと

思います。

 

こんななにげないことが連綿と続いているなにかと一緒になった感じが何かを気付かせてくれ

今まで見えてない曼陀羅も感じさせてくれるのかもしれません。

 

そんなことを体中の筋肉痛とおいそれと動けない各部の痛みの中で珈琲とともに考えたのでした。

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バッハの境地

2019年08月05日 09時37分21秒 | 珈琲

季節と珈琲を語るこのブログ。

そして、日々の移ろいと人生の意味などを考えるのですが、ときに

すごい発見をしたような悟りに近づいたような気付きをしたかと思えば

そんなことかとそれがまたつまらないことに思えたりと人生の進歩などは

人のなしてきた歩みからしたらなんとつつましやかなものかと思う日々です。

 

これは個人の思惑や幸福追求などでは決してなしえない進歩を人類は果たしており、

AIの発展でまたそれが劇的に変わろうとしているときに、ふと思うのは科学がこれだけ

発達してきたいろいろの知識の集積もこの宇宙の成り立ちからしたらほんの望遠鏡をのぞいた

数億キロの事しか知りえていないのです。それも我々の構成している物質などは宇宙の全体

からしたらほんの4%ほどであとはダークエネルギー、だとかダークマターだとか

だといいいます。それもつい最近言われ出したことで、少し前の宇宙論の本では

ボイドという空白部分が延々と続くのが宇宙で、星があるところは固まってあると

いわれていました。

 

その宇宙もものすごい速度で膨張しており、そもそもビックバンからそれは始まっていて

遠くの宇宙ほど早く膨張しているといいます。それが解ったからといって我々の生活が明日から

どう変わるともいうものでもないのですが、数千年という知の歴史の成果と見ればこれは

科学的知見が人類にとってもっと明るいものをもたらすのではないかという希望のようにも

感じるし、反面同じ地球上に昔ながらの採集狩猟生活をする人々もいるのです。

 

そういう人が人類の知恵の恩恵を受けていないと言い切れるでしょうか。時間やお金に使われる

ようにあくせくと働かされて昔より長生きする人生が本当に幸せなのか、平原やジャングルに生き

明日のことなど気に病むこともなく明日の食糧がどうなるかなども気にしない人達とどれだけの差が

あるのかとどうしても考えてしまいます。

 

ネットでつながり、AIにより様々な恩恵を受け、やがて人間の職業にも自動化がとってかわられ多くの

人の職を奪うだろうと予測される今、それにAIは人類より賢くなり、人間にとってかわる存在になると

予測する人が多くいます。一方私もそうですが、人間の意識とか人格の核になっているものは電子化で

作り出せるものだろうかという疑問を呈する人もいます。

 

それのひとつに物を創造するという行為なのですが、実は自動作曲プログラムとかAIによる小説など

創作活動にもAIの進出はすすんでいます。

 

そうするとすぐにロボットによる支配がはじまるとかSF的映画や物語が溢れるわけですが、

そんな科学万能な社会のはずなのに実際にはまだ超自然の事を信じていたり、なにかと神や

仏とてをあわせるのが人類です。

 

なぜこんなことを書いているかといいますと、よく音楽家の人の発言の中でバッハが音楽的になしたこと

とは考えられる音楽理論とか作曲理論をすべてやって見せてくれてもはや彼を越えていくことはないのでは

という事を見たり聞いたりします。しかし、今でも作曲家の人はいて、映画やCMなど常に新しい音楽を必要と

して日々曲は作られています。

 

20世紀には前衛芸術が一般人には理解不能なものを美の象徴としその後どう変化していくのか全く見えない

具象と抽象と混在するものとなっています。

 

思想的にも文学的にも何か表そうとするともうすでにそういう考え方はあったという事はあり、知の集積と

いう進歩はもはやないのかという思いに捉われるのです。しかし、機械にない発想は今後もあるでしょうし、

発見や思想の発展もAIのディープラーニングの力を借りてなされて行くはずです。そうすると人間にしか

出来ないこともやがてクローズアップされそれはそれでまた新たな地平につながるのではないでしょうか。

 

今月の季節のブレンドは『百夏』です。

 

いつもなら『夕焼け』でこれからの秩父の夕焼けは実に見事で夕日の落ちる様をしばらくみとれてしまう

季節になると言い続けていたのです。

 

先日NHKで不思議な番組をやっていてそれはドロミテのエンロサディラという現象を追うというもので

つまりこれは日本で言うところの赤富士であり、昔から絵画主題になっています。

登山用語のようになにかと横文字でアーベントロートとかモルゲントロートとかいいますがみんな同じ

太陽が低いところにいる光のショーです。

 

昭和の人はそんな当たり前のことをはっきりと大声で言ってしまうので山頭火とか永六輔とか夕焼けを

追いそれだけの番組とか旅をしてきました。しかし、いつの間にかそんな当たり前のことをはっきりと

いうのはカッコ悪いとされ夕焼けを愛でる人や月の美しさを言う人も珍しくなりました。

 

わたしもずっと夕焼けの美しさを言い募ってきたのですが、あれこれを忘れていたというのが夕映えです。

 

二階のベランダから見る夕焼けを見ている我々は実はその光に照らされて真っ赤に染まっているのです。

その様をその美しさを言い表さなくていいのかと先日思ったらすぐにそれは夕映えだなと言葉があることに

気付き、そんな名前のスナックが秩父にあったなあと思いました。羊山に夕映え用のスクリーンを

張り、夕映えスポットにしたらいいのではないかと考えたりしました。月を見るために色々と造園は

されても夕映えの舞台というのはないぞと少し興奮しました。

 

杉本博司の江之浦測候所は冬至や春分の日、などの特異点を作庭に盛り込み能舞台などをつくりましたが、

それはあまり美術的ではないことに気が付きます。それは確かに宇宙の中の自分を確認する手法ではあり、

ストーンヘッジの古代の遺跡にも見られるものですが、それは宇宙の中の自分を確認するより自然の循環に

囚われたことを意味していることになると思います。

 

自然の移ろいの中で自由にいるのに月を見る舞台や夕映えを楽しむ舞台こそが本当は美の作庭なのではと

感じたのです。

 

夕焼けの美しさをただ眺めるのでなく、その赤い日を全身に浴びて自然の一部になった感覚を味わってみる

そんな舞台を秩父に作ればよいのでは。そんな考えがあれば芝桜の丘なんてものにはならなかったでしょう。

 

もっと生活と美が混然とあり、自然の移ろいがすべて映えるそんな生活の舞台を築いてこそなのだと

この真夏は考えるのでした。これも百夏のテーマである基本的な珈琲ブレンドの味につながります。

 

秩父の夕日を受けに秩父に来てみませんか。あなた自身がエンロサディラになるのです。

 

 

 

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『万引き家族』鑑賞

2019年08月04日 23時54分55秒 | 映画

地上波初放送を録画してみました。樹木希林さんが亡くなりこの映画も

再びクローズアップされたりしました。ただ見てみたら演技と表現に見事な

ところはあるものの、作品のテーマや実際に起きた事件の事を考えると

違和感が募りました。

 

つまり映画では血のつながっていない家族が本物の家族以上に寄り添い

絆が強いというものですが、今や引きこもりだとか労働人口の減少とかと

取り残され孤立する社会システムからはじかれた人は多く、それをどうするかとか

そのもとになっている貧富の差とかが重要でどう対処していくかが求められている

ときに犯罪をして集まる人達とは今社会問題化しているハングレという反社会集団と

同じなのではと思います。

 

シチリアのファミリービジネスが麻薬の密売で、それがファミリーの財源で

輸出産業となり、イタリア人街とかチャイナタウンとか現れるもとになった

のと考えると人の結びつきとか犯罪とか貧困とか武器とかのテーマでなく

家族に絞ったことで日本らしい物語とはなりましたが、どうしてももとの

事件とかが気になり、社会がなすべきこととかただの弾かれて底辺の家族

としてみていいのか同意できない思いが取り残されたのでした。

 

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鴻巣で『ヴィルトゥオーゾ』を聞く

2019年08月03日 23時53分54秒 | ライブ・コンサート・展覧会

鴻巣でまた魔界のヴァイオリンを聞きました。佐藤久成のコンサートがあると聞き、

この近さならと予約したのです。会場のクレア鴻巣はかつてクリスマスに清志郎が

コンサートを行った地であり、埼玉ではここと所沢のミューズと私にとっての聖地の

ひとつです。

 

プログラムを記しておくと

モーツァルト ヴァイオリンとヴィオラの二重奏曲第一番KV423

A.ロッラ ヴァイオリンとヴィオラの二重奏曲

パガニーニ モーゼ幻想曲

休憩

西村朗 モノローグ~独奏ヴァイオリンのための

西村朗 <鳥の歌>による幻想曲~ヴィオラ独奏のための

イザイ 無伴奏ヴァイオリンソナタ第6番

シベリウス ヴァイオリンとヴィオラの二重奏曲 ハ長調

ヴィニアウスキ 華麗なるポロネーズ第1番

アンコール

ヘンデル ハルヴォルセン パッサカリア

 

佐藤久成を芸大の同級生ということで大江のぞみさんが共演を望んで実現したということで、

どんな演奏スタイルか全くの予備知識なしで行きました。会場に演奏会の看板はなく、

まったくの夏の静かな土曜日の午後の佇まいで人気はなく清志郎以来のクレア鴻巣は

あの時の記憶のままに立っていました。駐車場が無料でたっぷりとある施設で聞けるのは

とても幸運で都内なら端から車移動を諦め電車で暑い中移動しないといけません。

 

クラッシックの演奏会だから人気はそんなにないのは仕方ないのかもしれませんが、いつも

聞く地元でのコンサートと同じく人出は少なかったのですが、熱心なファンはいるようで、

開演前から入場口に行列ができていました。全席自由席だからいい席を確保しようという

表れなのでしょう。

 

ホールは映画館のような折り畳み椅子で多目的ホールらしくテーブルも引き出せるようになっていて

伝承館のように木と鉄の階段と舞台はなく平坦なアリーナ状の平坦な板張りの上に楽譜台が6台広い

V字に並んでいました。何人でやるのかと思っていると結局ヴィオラとヴァイオリンの一台づつで

主にヴィオラの大江さんがしゃべり曲の説明をして普通ならピアノとチェロとヴァイオリンのトリオを

ピアノパートなどをヴィオラに編曲してヴィオラは伴奏という形でやったもののようです。

 

しかし、シベリウスの二重奏曲では主旋律をバイオリンとヴィオラで交替したりして決して伴奏しかできない

楽器ではないんだようというのは鳥の歌でも見せました。

 

逆にヴィオラでここまで伴奏ができるんだというのもあり、ピアノの伴奏との違いで楽しむこともでき

ました。

 

聞いていてバッハのシャコンヌの事をまた思い浮かべられずには

いられませんでした。たった一台のヴァイオリンでもあの音の伽藍が構築できる荘厳な表現と目にするかのような

その構造の美しさ。なぜこうも立体的に積み重ね合わせられるのかというような視覚的な音の構造物にただ圧倒され

それでいてそこにあるものは無であるという哲学的なものを見るようです。

 

パガニーニの幻想曲は何度か超絶技巧曲として聞いていますが、本当にG線だけで弾かれるのを目の当たりにしたのは

今回初めてだったように思いました。それは伝説で楽譜すら完璧の物はなく、絵画ではG線だけを弾くパガニーニが残されて

いますが、それは虚構の上の事だと思っていました。それが現実に可能であり、曲としてこうも聞けるものとして

目にしていることにこれは奇跡なのではと思えてくるのでした。それも曲芸的に弾くのではなく普通になんともなく

曲として弾きしかも曲として表現するまさに演奏家の技であり特質なのだと。

 

世に難曲は数多くあり、あくまで人間でありながら神業的に弾ける聞かせることができると演奏されるのは

当然として、淡々と演奏するのでなく曲を完全に自分の物として読み込みまた吐き出させているのとは自ずと

聞かされる身にも当然伝わるものがあるのです。

 

今回演奏の後に佐藤久成氏と話す事が出来、ヴァイオリンでは堂々としているものの会話では挙動不審な

おじさんのようでそのギャップに驚かされました。来年の3月にまた再会できることを確認し秩父に帰りました。

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『ブッテンブローク家の人々』読書中

2019年08月02日 09時11分21秒 | 読書

なにかと水分を摂れだのエアコン使えだのとおせっかいな近頃のニュース

ですが、そんな時に畑で死んでしまうお年寄りの気分とはどんなかと想像するに

何の悲しみもわずらわしさもなく日常の中逝ったという事でそれはそれで最高の

生き方なのではと思ってしまいます。

そんな真夏に読む小説として今読んでいるのが『ブッテンブローク家の人々』です。

ドイツの古い小説なので型ぐるしく矢鱈人が出てきてわけのわからない物語を想像

していました。よくご存じのように朝の連続テレビ小説になった『楡家の人々』は

この小説に触発されて北杜夫が書いたというのは有名な話で知られています。

そもそも北杜夫がドクトルマンボウ航海記を書いたのはトーマス・マンの墓をお詣り

するために当時渡航がそんな簡単でない中果たす方策としてマグロ調査船の船医を募集し

ていてそれに応募し、夢を果たしたのです。その資金の返済などのためにふざけて書いた

航海記がまさかの大ヒットとなり人気作家となるのですが、本人はあくまで文学的に

行動してマンの精神に触れたいという欲求がその航海をさせたという事を思うとそれほど

トーマス・マンという作家のすごさに触れてみたいと思うのも無理なからんところ。

私の中学時代ドクトルマンボウ航海記は教科書に載っていたと思います。面白いと思い

直ぐ本屋で買って読みました。同じように教科書に載っていた小説は坊ちゃんとか明治の

文豪のものです。当時、三島由紀夫とか川端康成が世界的注目を集めているときに多感な

少年には昆虫好きでユーモアのある作家というのはちょっと魅力的なおじさんであり、

大人への入り口を示してくれる存在でした。その作家が憧れて墓を見たいとまで思い

焦がれる作家とはとずっと気になっていたのがトーマス・マンです。

当時は時代とか世界情勢とか文化的進展とかまで知識が深くなく、西欧キリスト教文化にも

そんなに理解がない中、とにかく西欧の文化はすすんでいるとか先進国の小説としてどんな

世界なのかというものはあったもののずっと読まずに来た本でした。

ところが、昔から本棚にはあり、もしかしたら読んでいたのかも知れないと思うように

なったのは今読み出してほとんど知った物語だったのです。

まず、楡家の人々のようにいろんな人が出てきて騒がしく結局何が言いたいのかという

物より、自分の出自を記録しておくという事なのかという読んで面白く、また自分の精神背景史を

記すというテーマが重要なのかという感じもしてくるこういう物語は他にも多く読んでおり、

自分の自伝的小説というのはどの作家も書いています。

宮崎輝の流転の海シリーズみたいに人生の折々で読み継いだ本もあります。

皆作家としては私小説は残したい履歴書のようなもので書かずにはおかれないものなのでしょうか。

数年前イギリスでダウントンアビーが大ヒットしたのと同じでただ、歴史がずっと前の産業革命が

人々の生活も社会システムまで変えたころの話だという事です。

革命があり、貴族階級などが没落して新たな市民という階層が出来て社会を動かしていくその前夜の

話であり、ダウントンアビーも貴族社会がどんな社会かという興味よりその貴族の果たした役割とか

それが成立していたそのままを人々は愛したのであり、もちろん現在の法の下の平等、国民主権、基本的人権

と私有財産の保証など個人の自由と国家のありかたに何の不満も疑問もなく、より平等で先進的な国を目指して

いるのは間違いない事ながら、古き昔の人々の織り成す暮らしの豊かさとその事件の驚きのうねりをもう一度

体験してみたいという欲求がこういう物語の鑑賞にはひそんでいるのでしょう。

今の時代とは違うとかもう過去としてこれからは作り替えることができるけれどこれらは起こってしまった厳然として

ある事実であり、変えることも忘れることもなく、それは自分たちが受け入れて変えていかなくてはならない課題

そのものなのです。

しかし、当時の社会がどんなシステムなのかという事よりとかく誰々の結婚は財産目的で破綻したとか

本人は働き者で頭もいいという人の事業がことごとく失敗して行くさまや革命として貴族社会がなくなろうと

する様などどうしてそれが起き、どうしてそのようなことになったのかというシステムの変更についての考察は

実はおざなりなのです。当然私たちは歴史を見ており、産業革命で得たものとなくしたものもしっています。

ただ、こういう小説を読むうえで書かれていないシステムとか社会の習いというものをもっと知り理解すると

いう事も必要なのです。

それは唯、コンズルの娘の社交界でのうごめきとかゴシップは楽しいし、あの恋ばなはどうなったのかという

恋愛事情も愛のない結婚も面白いけれどその時に果たされた社会構造とか経済構造は果たして十分検証可能で

小説からも読み取れるのだろうかという事です。例えば北杜夫が夜と霧の隅でで芥川賞をとった夜と霧とは

フランクルのユダヤ人虐殺の歴史ですが、それがなぜどうしてどのように起きたかについてはちゃんと書かれて

いないのです。ユダヤ人はキリストを殺した人たちで、キリストを認めなかったからその後差別され定住の場所も

なくいつも差別されているというイメージしかありません。現在それがイスラエルという国を持ちそれも聖書に

書かれたのと同じところに住み、米のお墨付きまで付いているという地位も誰も疑問視しないし、なぜそうなった

のかどんな借りが彼らにあったのかと思わないでしょうか。日本を始め世界は政教分離で超自然の力から放たれ

政治の世界で動いていて神の意志や神の加護といったことで動いているのでなく宇宙の循環で動いているとその

公式や構造を示す方程式も原理も確立しており、キリストやモハメッドや仏陀とは別の次元で決していると

人々は思っているでしょう。しかし、ついこの間まで天皇陛下万歳といって大勢の人が死んでいった国としては

宗教が人々を殺す理由になっていることに注目しないわけにはいきません。

信教の自由と表現の自由が当たり前の現代でさえ未だに超自然の力が人々の心を支配し死んだあとのことを

理由にしていたり、現実には目にしない超自然の力をいまだに信じて生きている人は多いのです。

そういうものを改めて目に見えるものとしてくれるのがこういう昔の小説なのではないでしょうか。

ダウントンアビーもなぜドイツの暴走を許し戦争と混乱を当時起こしたのかというのは人々はときに

思い出し、現在に生かしていかなくてならないのです。

相手に有無を言わせず意のままにする唯一の手段として今だに軍備に多大な国力を注入するのは今も変わらずで

それが本当に人類のためになり、豊かな社会になっているのか実際に何百万もの死者をだしてしまうそういう

争いを起こそうというのか人々は今までの人類の成果としてこういう歴史小説にもっと見つめていかなくては

いけないでしょう。

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今月の季節のブレンドは

2019年08月01日 09時25分47秒 | 珈琲

梅雨明けから厳しい暑さが続く日本列島です。38度とか暑いところを

順番にあげる今のニュースにそんなの必要かと昨日書きました。

誰もそんな一番を競うことを望んでいないし、暑いところが解っても

そこに行こうとは思わないでしょう。

 

なぜ、今日の軽井沢は27度だったというようなニュースが流れないのか。

 

熱中症にならないように水分をとれとかエアコン使えとか余計なおせっかいでしょ。

今の高原のさわやかさとか高地の涼しさをもっと宣伝して夏休みに出かけたらと

誘う方が筋なのではと思えてならないのです。

 

実は、梅雨明け以降の秩父はお祭りラッシュでどこかで花火がなっています。

 

夏休みを子供とどう過ごすかというスケジュールと少年団とか行事が多い今の

子供たちのスタイルと親がそれに振り回されて付き合うシステムとかでもう

汲々とした状態です。しかし、子育てと仕事に忙しい現役世代も減っていて

子育てを終えてこれからの人生を考える人の方が多いのです。

 

それがお年寄りや子供に水分をとれとか朝早くウォーキングしろとか余計な忠告しか

ないのです。実際には畑で倒れて死ぬ年寄りが相次いでいるし、それはそれで本望

なのかもしれません。

 

テレビでは今でも必ず夏といえば混雑する海水浴客を映しますが、実際には海水浴も

スキーと同じで年々減っています。混雑してきたないという今時のレジャーとして

受け入れられていないのに、夏の定番というイメージから今だに脱け出せていないのです。

 

昨日の『ダイアナザーディ』のムーン大佐が米を攻撃したら米の核でやられるとムーン将軍

に軍事行動に消極的態度をとるとそれに反発して殺されてしまうというシーンで、現実の

社会では米に攻撃されないように核を備えるという選択になったのをみると今の北の戦略は

生き残るための数少ない選択なのか考えさせられます。国際社会はその選択にどのような

対応をするのか007やイーサンハントがいなくても核の拡散は防げるのか気になりますね。

 

さて、今月のブレンドはいつもなら夕焼けなのですが、また夜のインスピレーションにより

煩いセミやうだるような暑さに負けない夏を乗り切るものとして本来のあるべき味にして

珈琲を楽しみ夏に負けない珈琲本来の味を楽しめるものとしました。名前は『百夏』で

当初、早夏、青夏ときてそろそろお終いときたら白い夏かと思いましたが、ハクカというのは

何とも間抜けたイメージで締りもインパクトもないと思い浮かんだのがヒャクカという響き

です。そうか白に一をたしてヒャクかなるほどと妙に心に落ちるところもあり、採用しました。

 

バランスよく味と香りが本来の珈琲の醍醐味を教えてくれるそんな深くてコクがあり、

うまみも十分に与えてくれるそんな味です。

 

お楽しみください。

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