マラソン大会での参加者の心肺停止はこれは一定の確率で起こりうる。これはもうこのマラソン大会ブームになってからすでに明らかな事実である。ということは大会主催者はいかにしてこれら傷病者に遅滞なく(1分遅れれば10%救命率は累積で低下していく)、かつ居合わせた一般市民(ランナー)がすぐに蘇生に参加できる体制を整えて、そしてすぐにAEDが現場に到着できるようなシステムを作っておくことが主催者の義務となる。これなくしては救命は不可能である。
ということでこのアンビリバボーの脚色はいけないのである。たまたま一人二人とランナーの中から看護師や医師や救命士が集合したというこの「奇跡」が、そして中々AEDが到着しないので白バイの警官に依頼してAEDを探し届けてもらったという「連携」が・・・これらがつながったからこそ救命できたと(事実なのであるが)強調されていた。
この救命されたという事実をたまたま幸運な出来事が積み重なったという奇跡にしてはいけない。それを脚色して強調してもいけない。視聴者はああ幸運が積み重ならなければ助からなかったと誤解してしまう。
これがいつどこで傷病者が発生しても、居合わせたひとが救命手当に参加して、すぐ手元にAEDが準備できているような大会システム作りにしなければならない。
これは美談ではなくシステム不備を糾弾しなければいけないのである。
ということでこのアンビリバボーの脚色はいけないのである。たまたま一人二人とランナーの中から看護師や医師や救命士が集合したというこの「奇跡」が、そして中々AEDが到着しないので白バイの警官に依頼してAEDを探し届けてもらったという「連携」が・・・これらがつながったからこそ救命できたと(事実なのであるが)強調されていた。
この救命されたという事実をたまたま幸運な出来事が積み重なったという奇跡にしてはいけない。それを脚色して強調してもいけない。視聴者はああ幸運が積み重ならなければ助からなかったと誤解してしまう。
これがいつどこで傷病者が発生しても、居合わせたひとが救命手当に参加して、すぐ手元にAEDが準備できているような大会システム作りにしなければならない。
これは美談ではなくシステム不備を糾弾しなければいけないのである。