名古屋駅から桜通を桜通伏見まで歩いた。
若い人たちとの勉強会に出るためである。
かつて、名古屋が城下町だった折は、名古屋城から熱田神宮へと向かう今の本町筋がメインストリートだったという。
街が変わり、交通様式が変わった現在、名古屋のメインストリートは、駅を起点に東西に走る。
その一つは、商店などが軒を連ねる広小路通りであり、今ひとつは、片側三車線で車が行き交う桜通である(その間に錦通りという広小路通りに寄り添ったような通りがあるが、これは歴史が新しく1960年代に完成した)。

「昭和12年」に思わず足を止めた
この、後者の桜通を歩く。
広小路通りのような賑やかさとは無縁だが、いかにも都市の大動脈然としてゆったりとしている。
駅前から伏見通りに交差する辺りまでは、まだ若い葉をつけた銀杏並木が陽光にまぶしい。

橋の袂にある籠状モニュメント。中には灯りが
しばらく行くと、名古屋城の外堀を経由してきて、名古屋港へと至る堀川を渡る。
そこに架かるのが櫻橋(橋そのものの表記に従い旧字にした)である。
全長30メートルほどであろうか、どっしりして趣がある橋である。

橋の中央にある灯りの塔。その下にリリーフが
それもそのはず、取り付けられたプレートに依れば、昭和十二(1937)年の完成とある。
あれ、もうすぐ古稀になろうとする私よりも年上ではないか。もう四年もしたら、立派な後期高齢者である。

リリーフは、桜に川の流れをあしらったもの
かつてはここが清流であったことを思わせる
思えば、昭和もそろそろ雲行きが怪しくなった頃に架けられた橋で、もう少し後で戦時体制に突入してからだったら、これほどのものは出来なかったかも知れない。
戦時には幾多の兵士がその上を通り、その何人かは再び生きて帰らなかったことだろう。
名古屋大空襲の折には、多くの被災者が逃げまどったことであろう。中には、この橋の上で力尽きた者もいるかも知れない。

橋のネームプレート。「櫻」の旧字が郷愁をそそる
敗戦時にはアメリカ軍のジープが誇らしげに行き交ったたことだろう。
川添いに並ぶおんぼろのバラックが川面に映るのも、この橋から一望できたと思われる。
やがて、経済というものが始動し始め、この街も、地方の出身者を集め、産業を発展させ続けた。
その折、この橋にしばし佇み、故郷を偲んだ集団就職の若い人たちもいたのではないだろうか。

橋の全景
やがて、この街は、日本一元気のいい街と称されるようになり、この橋から西の方を振り返ると、その象徴たる高層ビル群がそびえ立つのが見える。
建造物としての橋そのものの重みに、こうした歴史の趣が加味され、橋はいや増しにその存在感を訴えてくる。私の足を留めさせたのもそうしたものであろう。
やはりここは写真を撮るっきゃないではないか。
余り光の条件は良くなかったが、そこで撮ったものを載せる。

日銀名古屋支店
そうこうするうちに、桜通伏見に着く。ここで特徴のある建造物は日銀の名古屋支店だ。
この建物も結構古い。もう半世紀近くになるのではないか。
これが建てられたとき、結構話題になったような記憶があるが、私は余りいい感じをもてなかった。
今もなおそうである。

同支店の西側面
なぜだろうと思う。
今回久しぶりに見て思った。
何となくひとを寄せ付けないとざされた建築なのだ。
ひとを拒む、いわば人間不信の建造物に見えるのだ。
これは日銀という機能を持った建造物に対する私の先入観だろうか。
そうかも知れない。が、やはり好きになれない。
若い人たちとの勉強会に出るためである。
かつて、名古屋が城下町だった折は、名古屋城から熱田神宮へと向かう今の本町筋がメインストリートだったという。
街が変わり、交通様式が変わった現在、名古屋のメインストリートは、駅を起点に東西に走る。
その一つは、商店などが軒を連ねる広小路通りであり、今ひとつは、片側三車線で車が行き交う桜通である(その間に錦通りという広小路通りに寄り添ったような通りがあるが、これは歴史が新しく1960年代に完成した)。

「昭和12年」に思わず足を止めた
この、後者の桜通を歩く。
広小路通りのような賑やかさとは無縁だが、いかにも都市の大動脈然としてゆったりとしている。
駅前から伏見通りに交差する辺りまでは、まだ若い葉をつけた銀杏並木が陽光にまぶしい。

橋の袂にある籠状モニュメント。中には灯りが
しばらく行くと、名古屋城の外堀を経由してきて、名古屋港へと至る堀川を渡る。
そこに架かるのが櫻橋(橋そのものの表記に従い旧字にした)である。
全長30メートルほどであろうか、どっしりして趣がある橋である。

橋の中央にある灯りの塔。その下にリリーフが
それもそのはず、取り付けられたプレートに依れば、昭和十二(1937)年の完成とある。
あれ、もうすぐ古稀になろうとする私よりも年上ではないか。もう四年もしたら、立派な後期高齢者である。

リリーフは、桜に川の流れをあしらったもの
かつてはここが清流であったことを思わせる
思えば、昭和もそろそろ雲行きが怪しくなった頃に架けられた橋で、もう少し後で戦時体制に突入してからだったら、これほどのものは出来なかったかも知れない。
戦時には幾多の兵士がその上を通り、その何人かは再び生きて帰らなかったことだろう。
名古屋大空襲の折には、多くの被災者が逃げまどったことであろう。中には、この橋の上で力尽きた者もいるかも知れない。

橋のネームプレート。「櫻」の旧字が郷愁をそそる
敗戦時にはアメリカ軍のジープが誇らしげに行き交ったたことだろう。
川添いに並ぶおんぼろのバラックが川面に映るのも、この橋から一望できたと思われる。
やがて、経済というものが始動し始め、この街も、地方の出身者を集め、産業を発展させ続けた。
その折、この橋にしばし佇み、故郷を偲んだ集団就職の若い人たちもいたのではないだろうか。

橋の全景
やがて、この街は、日本一元気のいい街と称されるようになり、この橋から西の方を振り返ると、その象徴たる高層ビル群がそびえ立つのが見える。
建造物としての橋そのものの重みに、こうした歴史の趣が加味され、橋はいや増しにその存在感を訴えてくる。私の足を留めさせたのもそうしたものであろう。
やはりここは写真を撮るっきゃないではないか。
余り光の条件は良くなかったが、そこで撮ったものを載せる。

日銀名古屋支店
そうこうするうちに、桜通伏見に着く。ここで特徴のある建造物は日銀の名古屋支店だ。
この建物も結構古い。もう半世紀近くになるのではないか。
これが建てられたとき、結構話題になったような記憶があるが、私は余りいい感じをもてなかった。
今もなおそうである。

同支店の西側面
なぜだろうと思う。
今回久しぶりに見て思った。
何となくひとを寄せ付けないとざされた建築なのだ。
ひとを拒む、いわば人間不信の建造物に見えるのだ。
これは日銀という機能を持った建造物に対する私の先入観だろうか。
そうかも知れない。が、やはり好きになれない。