一応は熱心な浄土真宗の信者である。
朝夕の読経や供物、供花は欠かしたことはない。
「一応は」などと書くと、表面だってはと誤解されそうであるが、そういう意味ではない。本当に熱心きわまりない信者なのである。
しかし、その信仰は一筋縄では行かない。いってみれば、それも含めてきわめて間口が広いのだ。
誰のことかというと、わが老母のことである。
前の日記にも書いたが、深刻な発作で倒れ、意識そのものがどのレベルであるかも定かではない。
余談だが、植物人間といういい方は何か抵抗がある。運動や意識の有無だけが人間なのか、今それが危うくなり横たわっている肉体に備わったその人の生きた痕跡、その周辺にある記憶等々も含めて人間ではないのだろうか。
彼女の信仰の話に戻るが、そうした仏への信仰を中核にしながら、先祖や、とりわけ先に他界した夫(私にとっては亡父)への信仰もある。彼女の理解では、亡父はその生前の善行が認められ、位は低いが仏の末席に位置し、彼女を守ってくれているのだという。
ここまではいい。み仏信仰に一応は一元化されている。
しかし、それと同時に彼女は汎神論者でもあるのだ。一木一草に仏性が宿るということならば仏教に一元化されるがそうばかりではない。
たとえば、お狸様を信じている。
信楽焼の狸の像に、やはり、供花、供物を欠かさない。
かくして、お狸様のキ○タ○のあたりに、饅頭が供えられていたりすることとなる。
その他、仏教と関わりのないものに関しても偶像崇拝的である。
当然、神道とはいわないが、神様も信仰している。
お天道様やお月様、その他崇高なる自然に対してもむろん信仰心を隠さない。
ただし、新興宗教のたぐいに関してはほぼ拒否反応を示す。
こうしてみてくると、宗教を一義的に解し、○○教の信者と分類する向きには至って不可解で無政府的かも知れない。
しかし、今年九五歳になる老母の同年配、あるいはその少し下の人たちにとって、こうした信仰の有り様はきわめて一般的ともいえる。
そればかりか、日本人の信心のあり方は、お狸様はともかくとして、ほとんど同様に曖昧なのではなかろうか。
それがいけないといっているのではない。
宗教や信仰が、おのれがどこから来てどこへ至るのかの物語であるとしたら、一神教の創造説と審判の日を信じない以上、そうした汎神論というか、名指す神が曖昧なまま、生かされてあるという思いのみが信仰を支えるのではないだろうか。
ちなみに、一神教は唯一神を名指すが故に、その外部の他者に対し偏狭な面を持つともいえる。
世界でもっとも争いに先鋭的なのは、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教のそれぞれの原理主義だという見方もある。
わが老母の信仰に戻ろう。
問題は母が、そうした御仏を中心にした諸霊に守られていたればこそ、これまで健康で(実際には幾多の病を克服してだが)いられるのだという思いを強くもっていたのと同様、それら諸霊のお力によって、死を迎える折には絶対にぽっくり行くのだと信じて疑わなかったことである。
「わしはお前たちに迷惑をかけることなく、絶対にすーっと死ぬからな。仏さんもお父さん(夫のこと)も、そうし向けてくれているのだ」というのがその口癖だった。
そこで私は、思い煩うのである。
母の意識がやがて次第に回復し、自分が置かれた状況が理解できるようになったら、どう思うだろうか。
ベッドから起き上がることも寝返りを打つことも出来ず、何本かのチューブで体中を固定され、麻痺したままの自分の姿を認識した折、どのように嘆くであろうか。
彼女の積年の信仰をどのように解釈し直すだろうか。
仏にも、亡父にも、お狸様にも、そして森羅万象に宿る諸霊にも、裏切られたと思ったりはしないだろうか。
いずれにしても、彼女の信仰を中心とした世界観に深い亀裂が入ることは否定できないであろう。
それが何となくかわいそうな気がするのである。
むろんこれは、そこまで彼女の意識レベルが回復したらという仮定の話ではある。
それにたいし、医師はやや否定的で、家族はひいき目に見るせいか少し良くなっていると感じている。
私自身としては、彼女が今置かれた状況を知っても、これまでの彼女の信仰体系へのルサンチマン(恨み、つらみ)ではなく、諸霊が、彼女と私たち家族との永訣の時をそうした形で幅のあるものとして準備してくれたのだとそんな風に理解してくれればと思っているのである。
朝夕の読経や供物、供花は欠かしたことはない。
「一応は」などと書くと、表面だってはと誤解されそうであるが、そういう意味ではない。本当に熱心きわまりない信者なのである。
しかし、その信仰は一筋縄では行かない。いってみれば、それも含めてきわめて間口が広いのだ。
誰のことかというと、わが老母のことである。
前の日記にも書いたが、深刻な発作で倒れ、意識そのものがどのレベルであるかも定かではない。
余談だが、植物人間といういい方は何か抵抗がある。運動や意識の有無だけが人間なのか、今それが危うくなり横たわっている肉体に備わったその人の生きた痕跡、その周辺にある記憶等々も含めて人間ではないのだろうか。
彼女の信仰の話に戻るが、そうした仏への信仰を中核にしながら、先祖や、とりわけ先に他界した夫(私にとっては亡父)への信仰もある。彼女の理解では、亡父はその生前の善行が認められ、位は低いが仏の末席に位置し、彼女を守ってくれているのだという。
ここまではいい。み仏信仰に一応は一元化されている。
しかし、それと同時に彼女は汎神論者でもあるのだ。一木一草に仏性が宿るということならば仏教に一元化されるがそうばかりではない。
たとえば、お狸様を信じている。
信楽焼の狸の像に、やはり、供花、供物を欠かさない。
かくして、お狸様のキ○タ○のあたりに、饅頭が供えられていたりすることとなる。
その他、仏教と関わりのないものに関しても偶像崇拝的である。
当然、神道とはいわないが、神様も信仰している。
お天道様やお月様、その他崇高なる自然に対してもむろん信仰心を隠さない。
ただし、新興宗教のたぐいに関してはほぼ拒否反応を示す。
こうしてみてくると、宗教を一義的に解し、○○教の信者と分類する向きには至って不可解で無政府的かも知れない。
しかし、今年九五歳になる老母の同年配、あるいはその少し下の人たちにとって、こうした信仰の有り様はきわめて一般的ともいえる。
そればかりか、日本人の信心のあり方は、お狸様はともかくとして、ほとんど同様に曖昧なのではなかろうか。
それがいけないといっているのではない。
宗教や信仰が、おのれがどこから来てどこへ至るのかの物語であるとしたら、一神教の創造説と審判の日を信じない以上、そうした汎神論というか、名指す神が曖昧なまま、生かされてあるという思いのみが信仰を支えるのではないだろうか。
ちなみに、一神教は唯一神を名指すが故に、その外部の他者に対し偏狭な面を持つともいえる。
世界でもっとも争いに先鋭的なのは、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教のそれぞれの原理主義だという見方もある。
わが老母の信仰に戻ろう。
問題は母が、そうした御仏を中心にした諸霊に守られていたればこそ、これまで健康で(実際には幾多の病を克服してだが)いられるのだという思いを強くもっていたのと同様、それら諸霊のお力によって、死を迎える折には絶対にぽっくり行くのだと信じて疑わなかったことである。
「わしはお前たちに迷惑をかけることなく、絶対にすーっと死ぬからな。仏さんもお父さん(夫のこと)も、そうし向けてくれているのだ」というのがその口癖だった。
そこで私は、思い煩うのである。
母の意識がやがて次第に回復し、自分が置かれた状況が理解できるようになったら、どう思うだろうか。
ベッドから起き上がることも寝返りを打つことも出来ず、何本かのチューブで体中を固定され、麻痺したままの自分の姿を認識した折、どのように嘆くであろうか。
彼女の積年の信仰をどのように解釈し直すだろうか。
仏にも、亡父にも、お狸様にも、そして森羅万象に宿る諸霊にも、裏切られたと思ったりはしないだろうか。
いずれにしても、彼女の信仰を中心とした世界観に深い亀裂が入ることは否定できないであろう。
それが何となくかわいそうな気がするのである。
むろんこれは、そこまで彼女の意識レベルが回復したらという仮定の話ではある。
それにたいし、医師はやや否定的で、家族はひいき目に見るせいか少し良くなっていると感じている。
私自身としては、彼女が今置かれた状況を知っても、これまでの彼女の信仰体系へのルサンチマン(恨み、つらみ)ではなく、諸霊が、彼女と私たち家族との永訣の時をそうした形で幅のあるものとして準備してくれたのだとそんな風に理解してくれればと思っているのである。