生命には終わりがある。
とりわけ人間のそれは死という形で、周りの承認のもと、そして突然のものや事故でもない限り本人にとっても自覚的に迎えられることがある。
動物は死なない、ただその終わりを迎えるのみだといわれる所以であろう。
今日、人間の死には、医療をはじめとする人工的な手段が加えられ、各種の延命措置なども加えられるところとなっている。
そうすることによって人間の死は、先に見た突然死を除いては、本人ないしは周辺によるある種の判断によって決定されることなりつつある。曰く、延命措置をどの段階まで続けるか、あるいは、それらの装置をどの段階で外すかである。
尊厳死という、あらかじめの選択もあるという。
一ヶ月前の木賊(トクサ)の新芽
老母が倒れた。
四年前、心筋梗塞に脳梗塞のダブルパンチで、あわやと思われたのだが、彼女の強健な肉体はそこから見事立ち直り、自力歩行も、トイレへの行き来も可能になった。入浴のみが危険を伴うということで介助を要する段階へまで復活した。九十歳の折であった。
そして今年、あと十日で九十五歳を迎えるという日、再び脳梗塞に見舞われた。
今度は前ほど軽症ではない。
右半分が完全に麻痺し、言語能力も犯されている。視線を動かすし、動く方の左手で賢明に何かをつかもうとする仕草をするものの、その意識のありようなどは定かではない。
ようするに、ある種の意識はあるのだが、そのレベルは今のところ不明なのだ。
一ヶ月後の同じ場所、同じ木賊
四年前同様、集中治療室に入っている。
もう一度、その不屈の生命力を持って、なにがしかの回復を期待してはいるのだが・・。
医師の見通しは甘くない。
回復はむろん高望みで、最悪の事態を覚悟するようにと暗にほのめかされている。
加えて、いわゆる寝たきりになり、しかも植物化した場合の措置についても、親族側の意志を整えておくようにも示唆されている。
そうした事態が起こることは漠然と知ってはいた。
四年前にも多少は頭をよぎったはずだ。
しかし、こうしてきわめて切実な形で迫られると、ただ困惑するのみである。
「生命の尊さ」という言葉が、一般論として空疎に飛び交うのだが、その内実は何なのだろう。
生命とはただ単に生きてあることか。
ひとつの基準は意識の有無に求められるかも知れない。
人間と動物の差異を語る際にも持ち出されるものだ。
しかし、この意識というのは実に曖昧なもので、人に内在する能力ではあろうが、同時に、周辺との関わりの中で形成されるものでもある。
周辺との何らのコミュニケーションもない意識などというものは想定しうるだろうか。
一方そうした意味でのコミュニケーションとは何か。
目を見交わすときに表情がある。これは立派なコミュニケーションだろう。
全くの昏睡状態にあるのだが、手を握るとかすかに握り返すように思われる。
これもコミュニケーションだろうか。
あるいは単なる生命体の機械的反応なのだろうか。
色づき始めた桑(クワ)の実
少し前、母子の殺人を1.5人の命と表現して激しい批判を浴びた人がいたが、先ほど見た、意識の有無、意識の生育という観点から見れば、これはいささかドライな表現とはいえ、間違いではない。
要するに、十全な意識(それ自身何であるかは検討に値するのだが)を1とすれば、それ以下を小数点で表す他はない。
ただしそれを、今後の可能性がその時点で失われたものとして、将来からの逆算として評価とするならば、小数点以下はあり得ない。すべてが1として計算される。
これは中絶を批判する論拠にもなりうるものである。
これを逆に、今や意識ももうろうとして植物化しつつある事態に適用したらどうであろうか。
要するに、今や終わりつつあるから1から減算されるものとしてではなく、過去に果たしてきた彼ないし彼女の有り様の延長としての評価として1が維持されることにはならないだろうか。
こうした彼ないし彼女のありようを過去の行為や働きの集積として考えた場合、やはりそこに横たわる肉体は、たとえ物言わなくとも生命のありようとしてなお維持されるべきなのだろうか。
早晩、決断を迫られそうな気がする。
まるでいち早く裁判官制度へと動員されたかのようである。
現実には、周辺との関連、世間の一般常識、医師のアドヴァイスなどによるプラグマティックな結論たらざるを得ないような気がするが、それでも、決断に悔いが残らぬ程度には考えておきたい。
こちらは琵琶(ビワ)の赤ちゃん
私自身の体調が良くない。昨日は母を巡る早朝からの騒ぎと睡眠不足等もたたって、異常に血圧が上昇した。
ここ一、二ヶ月で始まった体重の減少も、消化器系のガンではなさそうだということはわかったが、依然として原因不明で、今一度、CTとかエコーとかの検査が必要らしい。
やせてきたせいもあって、何となく足取りに力が入らない。私の足下にほんとうに地球はあるのかしらぐらい、ふわふわっと歩いている。
この分では、老母と私の追っかけっこになってしまう。
その場合、私の生命については誰が考えてくれるのだろうか。
え? お前は「生命の尊厳」の端くれに値するようなことを何かしてきたかって?
これは手厳しい!
これから何かを一生懸命するということではもう遅いのだろうか?
たぶん、遅いのだろう。
私がその手を握っているのに、あらぬ方向を見ている母の視線が悲しかった。
この人は、今どこにいるのだろう。
とりわけ人間のそれは死という形で、周りの承認のもと、そして突然のものや事故でもない限り本人にとっても自覚的に迎えられることがある。
動物は死なない、ただその終わりを迎えるのみだといわれる所以であろう。
今日、人間の死には、医療をはじめとする人工的な手段が加えられ、各種の延命措置なども加えられるところとなっている。
そうすることによって人間の死は、先に見た突然死を除いては、本人ないしは周辺によるある種の判断によって決定されることなりつつある。曰く、延命措置をどの段階まで続けるか、あるいは、それらの装置をどの段階で外すかである。
尊厳死という、あらかじめの選択もあるという。
一ヶ月前の木賊(トクサ)の新芽
老母が倒れた。
四年前、心筋梗塞に脳梗塞のダブルパンチで、あわやと思われたのだが、彼女の強健な肉体はそこから見事立ち直り、自力歩行も、トイレへの行き来も可能になった。入浴のみが危険を伴うということで介助を要する段階へまで復活した。九十歳の折であった。
そして今年、あと十日で九十五歳を迎えるという日、再び脳梗塞に見舞われた。
今度は前ほど軽症ではない。
右半分が完全に麻痺し、言語能力も犯されている。視線を動かすし、動く方の左手で賢明に何かをつかもうとする仕草をするものの、その意識のありようなどは定かではない。
ようするに、ある種の意識はあるのだが、そのレベルは今のところ不明なのだ。
一ヶ月後の同じ場所、同じ木賊
四年前同様、集中治療室に入っている。
もう一度、その不屈の生命力を持って、なにがしかの回復を期待してはいるのだが・・。
医師の見通しは甘くない。
回復はむろん高望みで、最悪の事態を覚悟するようにと暗にほのめかされている。
加えて、いわゆる寝たきりになり、しかも植物化した場合の措置についても、親族側の意志を整えておくようにも示唆されている。
そうした事態が起こることは漠然と知ってはいた。
四年前にも多少は頭をよぎったはずだ。
しかし、こうしてきわめて切実な形で迫られると、ただ困惑するのみである。
「生命の尊さ」という言葉が、一般論として空疎に飛び交うのだが、その内実は何なのだろう。
生命とはただ単に生きてあることか。
ひとつの基準は意識の有無に求められるかも知れない。
人間と動物の差異を語る際にも持ち出されるものだ。
しかし、この意識というのは実に曖昧なもので、人に内在する能力ではあろうが、同時に、周辺との関わりの中で形成されるものでもある。
周辺との何らのコミュニケーションもない意識などというものは想定しうるだろうか。
一方そうした意味でのコミュニケーションとは何か。
目を見交わすときに表情がある。これは立派なコミュニケーションだろう。
全くの昏睡状態にあるのだが、手を握るとかすかに握り返すように思われる。
これもコミュニケーションだろうか。
あるいは単なる生命体の機械的反応なのだろうか。
色づき始めた桑(クワ)の実
少し前、母子の殺人を1.5人の命と表現して激しい批判を浴びた人がいたが、先ほど見た、意識の有無、意識の生育という観点から見れば、これはいささかドライな表現とはいえ、間違いではない。
要するに、十全な意識(それ自身何であるかは検討に値するのだが)を1とすれば、それ以下を小数点で表す他はない。
ただしそれを、今後の可能性がその時点で失われたものとして、将来からの逆算として評価とするならば、小数点以下はあり得ない。すべてが1として計算される。
これは中絶を批判する論拠にもなりうるものである。
これを逆に、今や意識ももうろうとして植物化しつつある事態に適用したらどうであろうか。
要するに、今や終わりつつあるから1から減算されるものとしてではなく、過去に果たしてきた彼ないし彼女の有り様の延長としての評価として1が維持されることにはならないだろうか。
こうした彼ないし彼女のありようを過去の行為や働きの集積として考えた場合、やはりそこに横たわる肉体は、たとえ物言わなくとも生命のありようとしてなお維持されるべきなのだろうか。
早晩、決断を迫られそうな気がする。
まるでいち早く裁判官制度へと動員されたかのようである。
現実には、周辺との関連、世間の一般常識、医師のアドヴァイスなどによるプラグマティックな結論たらざるを得ないような気がするが、それでも、決断に悔いが残らぬ程度には考えておきたい。
こちらは琵琶(ビワ)の赤ちゃん
私自身の体調が良くない。昨日は母を巡る早朝からの騒ぎと睡眠不足等もたたって、異常に血圧が上昇した。
ここ一、二ヶ月で始まった体重の減少も、消化器系のガンではなさそうだということはわかったが、依然として原因不明で、今一度、CTとかエコーとかの検査が必要らしい。
やせてきたせいもあって、何となく足取りに力が入らない。私の足下にほんとうに地球はあるのかしらぐらい、ふわふわっと歩いている。
この分では、老母と私の追っかけっこになってしまう。
その場合、私の生命については誰が考えてくれるのだろうか。
え? お前は「生命の尊厳」の端くれに値するようなことを何かしてきたかって?
これは手厳しい!
これから何かを一生懸命するということではもう遅いのだろうか?
たぶん、遅いのだろう。
私がその手を握っているのに、あらぬ方向を見ている母の視線が悲しかった。
この人は、今どこにいるのだろう。