秋の気配を示すもののひとつに雲のありさまがあります。
ついこの間まで空を支配していた入道雲(積乱雲というのだそうです)の影が薄くなったかと思ったら、うろこ雲やいわし雲、ひつじ雲などが空を彩っています。
ところで、これらの雲の分類というか区分けがよく分からないのです。
うろこ雲やいわし雲は、いわゆる高積雲といわれ、文字通り高いところで形成されるというので、秋のことを別名「天高く」というのも頷けます。
私の居住する地域では聞いたことがないのですが、さば雲という言い方もあるそうで、やはりいわし雲がやや大きくなったのを示すようです。
イワシやサバがあるならハマチやカツオがあってもと思い検索したのですが、それらはありませんでした。ところが、一方、さんま雲というのがヒットし、それを記述したものがあるのです。映像も添付されていますが、それはやはり、うろこ雲やいわし雲が大きくなったもののようです。

これら魚類の名を付けられたものはどうやら高積雲らしいのですが、ひつじ雲になると微妙で高積雲の下の巻積雲に分類されたりします。他に、まだら雲は巻積雲、むら雲は層積雲とありました。
しかしここで思うのは、今まで述べてきた雲はほとんど連続したものの様なのですがどこで区切るのでしょう。漠然として連続したものに区切り目を入れ、ここからここまでは何々、ここから何々というのを「分節化」というようですが、雲の名前はまさにそれなのでしょう。
連続しているものにメスを入れ、ここからは何々、その向こうは何々、というのはとても面白くて、それが人間の言語の発祥だといわれています(by ソシュール)。そうして切り出されてきたものが言語化された私たちの日常だというのです。

虹は七色、というのはほとんど私たちの固定観念です。しかし、実際には、虹はくっきりと七つに区切られてはいません。ですから、世界各地の虹の受容には、最も少ない三色から三〇色以上まであるのです。
以前私が読んだ本で、アイヌ語では日本語でいう「雪」という言葉がないというのを知り驚いたことがあります。アイヌの人たちは私たちより遙かに雪に接した生活をしているのに・・・と思ったのです。ただしその謎は読み進むうちに解けました。
私たち温暖な土地に過ごすものは、雨と霰や雹のあいだにあるものが雪です。もちろん雪には形容する言葉もつき、細雪、粉雪、ぼたん雪などといわれますが、いずれも雪という同じものを形容するにとどまります。
一方、アイヌ語では、日本語の雪にドンピシャリのものはないのですが、その代わり、日本語の雪をあらわす言葉が複数あり、それぞれが別のものなのです。
さらさらした雪、軽い雪、横なぐりの雪、べたべたした雪、とっても重い雪、その他その他、それらは日本語でいう「雪」という大雑把な言葉では括れないものなのです。
なぜなのでしょうか。それは多分、アイヌの人たちの生活様式と関連していて、どの雪の時は狩りに出るかどうか、何の狩りに出るか、あるいは出ないか、どう過ごすのかなどなどを決定する要因で、日本語のように大雑把に雪と言い切れなかったのではないでしょうか。

かくして言葉は、過去において切り分けられ(分節化され)たものが私たちに提供され、私たちはそれを当たり前として、それを用い、それにしたがって思考しています。
私たちの思考がいかに自由であることを謳歌しても、それは過去に分節化された言葉に依拠するものであり、私たちの言語使用は自由とは言い切れないのです。
その事実を発見し、それを明らかにしながら ,ソシュールは言語のくびきから抜け出る方策を追求し続けました。
あ、私の叙述は度し難い脱線をきたしていますね。
問題の発端はこうでした。
うろこ雲、いわし雲、さば雲、さんま雲、ひつじ雲はどのようにして分類可能かでした。
皆さんのご教示を待っています。
ついこの間まで空を支配していた入道雲(積乱雲というのだそうです)の影が薄くなったかと思ったら、うろこ雲やいわし雲、ひつじ雲などが空を彩っています。
ところで、これらの雲の分類というか区分けがよく分からないのです。
うろこ雲やいわし雲は、いわゆる高積雲といわれ、文字通り高いところで形成されるというので、秋のことを別名「天高く」というのも頷けます。
私の居住する地域では聞いたことがないのですが、さば雲という言い方もあるそうで、やはりいわし雲がやや大きくなったのを示すようです。
イワシやサバがあるならハマチやカツオがあってもと思い検索したのですが、それらはありませんでした。ところが、一方、さんま雲というのがヒットし、それを記述したものがあるのです。映像も添付されていますが、それはやはり、うろこ雲やいわし雲が大きくなったもののようです。

これら魚類の名を付けられたものはどうやら高積雲らしいのですが、ひつじ雲になると微妙で高積雲の下の巻積雲に分類されたりします。他に、まだら雲は巻積雲、むら雲は層積雲とありました。
しかしここで思うのは、今まで述べてきた雲はほとんど連続したものの様なのですがどこで区切るのでしょう。漠然として連続したものに区切り目を入れ、ここからここまでは何々、ここから何々というのを「分節化」というようですが、雲の名前はまさにそれなのでしょう。
連続しているものにメスを入れ、ここからは何々、その向こうは何々、というのはとても面白くて、それが人間の言語の発祥だといわれています(by ソシュール)。そうして切り出されてきたものが言語化された私たちの日常だというのです。

虹は七色、というのはほとんど私たちの固定観念です。しかし、実際には、虹はくっきりと七つに区切られてはいません。ですから、世界各地の虹の受容には、最も少ない三色から三〇色以上まであるのです。
以前私が読んだ本で、アイヌ語では日本語でいう「雪」という言葉がないというのを知り驚いたことがあります。アイヌの人たちは私たちより遙かに雪に接した生活をしているのに・・・と思ったのです。ただしその謎は読み進むうちに解けました。
私たち温暖な土地に過ごすものは、雨と霰や雹のあいだにあるものが雪です。もちろん雪には形容する言葉もつき、細雪、粉雪、ぼたん雪などといわれますが、いずれも雪という同じものを形容するにとどまります。
一方、アイヌ語では、日本語の雪にドンピシャリのものはないのですが、その代わり、日本語の雪をあらわす言葉が複数あり、それぞれが別のものなのです。
さらさらした雪、軽い雪、横なぐりの雪、べたべたした雪、とっても重い雪、その他その他、それらは日本語でいう「雪」という大雑把な言葉では括れないものなのです。
なぜなのでしょうか。それは多分、アイヌの人たちの生活様式と関連していて、どの雪の時は狩りに出るかどうか、何の狩りに出るか、あるいは出ないか、どう過ごすのかなどなどを決定する要因で、日本語のように大雑把に雪と言い切れなかったのではないでしょうか。

かくして言葉は、過去において切り分けられ(分節化され)たものが私たちに提供され、私たちはそれを当たり前として、それを用い、それにしたがって思考しています。
私たちの思考がいかに自由であることを謳歌しても、それは過去に分節化された言葉に依拠するものであり、私たちの言語使用は自由とは言い切れないのです。
その事実を発見し、それを明らかにしながら ,ソシュールは言語のくびきから抜け出る方策を追求し続けました。
あ、私の叙述は度し難い脱線をきたしていますね。
問題の発端はこうでした。
うろこ雲、いわし雲、さば雲、さんま雲、ひつじ雲はどのようにして分類可能かでした。
皆さんのご教示を待っています。